引野遺跡について



   阿知須町教育委員会から昭和56年3月に発行された「引野遺跡」の「まとめ」から

 

 引野遺跡は標高82mばかりの丘陵上に立地する貝塚を伴う高地性遺跡である。この遺跡に対
する関心は、これまでもっぱら貝塚にのみ向けられてきたが、昭和51年に行った調査によっ

て初めて貝塚に伴う集落にスポットがあてられた。

 すなわち、昭和51年の調査は、貝塚を営んだヒトに係る遺構の存否の究明を目的として、貝
塚の東に接した地の試掘を行った。次いで翌52年もこの試掘は継続され、貝塚に伴うとみられ
る遺構の存在を確認することができた。しかし,この2度にわたる試掘は、貝塚と接した、極め
て狭い範囲に限られていたために,遺跡の範囲や性格を解明するには不明な点を多く残していた。

 昭和55年に行った、本書に係る第3次調査は、カイガラ山の丘項付近にひろがる平坦部全域
を対象にと、−挙に調査範囲を拡張して、第1に引野遺跡の範囲の確認を、併せて遺跡の時期や
性格を知ろうとしたものである。調査の結果については,本書の各章に報告したように、一応所
期の目的は達成できたが、細部についてみるならば未解決の問題も多い。以下、これまでの調査
結果を要約しつつ、引野遺跡の特質についてふれてみたい。


 

居住は短期で住居は仮設的

 調査によって検出した遺構は、袋状土拡と浅い窪地状の土拡、更に柱穴群と小規模な溝状遺構
であった。中でも、明確に竪穴住居跡と断定できる遺構のないことが周辺の同時期の遺跡との比
較においても注目される。

 ここで述べるまでもなく、この時期の遺跡においては貯蔵庫群と住居群とは明確にその位置を
別にする場合が多く、その意味から言うならば貯蔵庫群の発見されたこの遺跡において、住居跡
が発見されないことも一応うなずけることである。

 しかし、引野遺跡は貝塚を伴う遺跡であり、貝塚は丘頂の平坦部が西へ落ちかかる部分につく
られており、この貝塚以西は急峻な斜面である。従って、ここに投棄された貝殻の初源地を貝塚
以東の平坦部分、すなわち貯蔵庫群の存在する地区以外には常識的には考えられず、貝塚の存在
からみるならば居住区を貯蔵庫区と別に考えることは困難である。

 さきに述べたように当引野遺跡の調査では丘項の平坦部から袋状土拡に混じって性格が明らか
でない窪地状の遺構がいくつか検出されている。これらの窪地状遺構のあるものは小型であるが、
あるものなどはある程度の広さをもち、これを住居跡とみることもできなくはない。特にU102
は当地方におけるこの期の住居跡としては一般的な広さをもち、これを竪穴式住居跡とみるには、
形態上に若干の難はあるが、他と比べるときには言えないこともない。

 このほか、この遺跡からはいくつかの柱穴が検出されているが、U109を除く他のものは一

般的な組み合わせでは把えられない配置をみせ、2本あるいは3本の柱穴をもって1セットの建物
を考えることが妥当な分布さえみせる。

 本遺跡で検出した土器は極めて数が少なく、しかもそのほとんどが細片である。この土器の

状況と住居に該当する遺構の貧弱さとを勘案するとき、これらの資料はこの地の居住が極めて

短期間であり、しかもその住居は仮設的なものであったことを示すものであると考えることも

できる。このように考えるとき、U−4地区で検出した柱穴群も、2間1間のプランをもつ掘立

柱建物跡とみられなくはないが、断定は避けておきたい。

 3次にわたる本遺跡の発掘調査で出土した土器は、土師器と須恵器が例外的に混在したほか

は弥生土器であり、遺構を埋める上からの出土は弥生土器に限る。これらの弥生土器は幅を拡

げるものも若干含むが、中期の比較的短い期間を示すものが主体をなす。一方、検出した遺構が、

切り合い関係から先後閑係を明白に把え得たものもあるが、遺物との結びつきでそれが確認でき
たものは何もない。しかし、切り合い関係にある遺構の埋積土を鍵として本遺跡の遺構の時期を
大きく2群に分け得た。すなわち黒褐色土で埋まったU109をはじめとする柱穴群のあるもの
は下るものであり、先行するものは貯蔵庫などの竪穴群で、これらが中期を示す土器群を伴うも
のである。

先行するこれらの土拡群の埋積土の状況をみると、すべてが併行するものとは言い切れない

状態を示し、それぞれの間に若干の時間差が考えられるようである。このほか、丘頂の平坦部に

分布する遺構の数もさして多くなく、引野のカイガラ山の上には、多少の幅はあるものの、中

期にピークを置いた、最小単位の集団の、何回かにわたる、短期間の平和的な居住が営まれた

ことを想定することができる。そして、時間的に若干の空白をおいた後に、U109で代表さ
れるような最小単位の集団の短期間の居住がなされたことを知ることができる。このような短
期間

のヒトの痕跡は、弥生のそれと性格が同じかどうかは別として、更に時代の下った、須恵器や
土師器を用いる時代にもみることができそうである。

 しかし、弥生中期において掘られた土拡、すなわち袋状に深く掘り込まれた、いわゆる貯蔵
穴が、極めて短期間の、しかも仮設的な居住に伴うものかどうかについは問題があり、これに
ついては、今後更に資料を重ねた検討が必要であろう。このほか袋状土拡についてもU−1地区
やU−3地区あるいは第T地区にみられるような深く掘り込まれたものと、U−2地区で検出
された、前者と比べると極端に浅いものとの比較検討など、他の遺跡でも多くみられるこのよ
うな資料と併せた検討を要することなど、今後の課題は多い。


 
焼野の農民

 今次の調査では、丘項から検出した土拡底の土について花粉化石の分析を試み成果をあげる

ことができた。それによると往時は、乾燥した丘陵上にはアカマツや広葉樹が、また谷間の湿
潤な
地にはスギが、そして木蔭にはシダ類がみられるなどの、今日と大差のない植生を推定す
ることができたが、このあたりの地質などからみて、昭和30年代前半にみられたような疎林
程度のものであったのであろう。

 これまでにも述べたように、井関川が刻んだ低地とは比高67〜68mばかりの急崖でもっ
てへ
だてられた引野遺跡の足下には小規模ながらも沖積低地が存在し、この低地を舞台とする
水田
耕作が弥生中期にも可能であったと考えられる。そしてその両岸には比高5mばかりの段
丘が
認められ、井関川上流の低湿地を生産の場とする水田耕作を行うならば、この段丘は居住
場としては最適の条件をそなえている。しかし、それにもかかわらず「最小単位の集団の、
回かの、短期間の、平和的な居住」が推定される引野の丘の遺跡の性格をどのように考える
については、これまでの調査では明確に解明するまでにはいたらなかった。

 引野遺跡周辺の弥生遺跡をみると、引野遺跡が立地する丘陵の西に隣接する、六畳岩と呼ば

れる丘陵から、かつて弥生土器の発見が伝えられているほか、そこから北に延びる尾根あたり

から石剣(第45図)も採取されている。またカイガラ山の丘項から北へ200mばかりはな
れた
東から入り込んだ谷頭の斜面からも後期の土器を含む土器群がかつて発見されている。

 このほか、引野遺跡の北方600mばかりにある標高50mぱかりの、通称「南山」におい
ても
かつてゴルフ場の造成中に、海生の貝殻や弥生土器(第43図,44図)が発見され、貝
塚を伴う
弥生遺跡一南山遺跡−があったことを知ることができるし、この南山遺跡の
東南200m余の、
標高76mばかりの高尾山と呼ばれる丘陵においても、かつて多量の土器と
1点の石包丁が出土
したこと、未確認ではあるが南山遺跡の西北西方800mばかりの果樹園に
おいても弥生土器が
出土したことがあるなど、低地から離れた周辺の丘陵上に、弥生中期ないし
後期と推定される遺跡が点在する。
 これらの遺跡と引野遺跡との比較検討は今後の課題では
あるが、これらの一群の遺跡を引野遺跡と同様に、短期間の平和的な仮の居住と仮定するならば、
その立場から、焼畑農耕との係りで把えるということも仮説として立てることもできるのではな
かろうか。

 このことは、更に時代的な飛躍はあるものの、これらの遺跡の所在する周辺の地名「焼野」
または山間の谷間に今日残る地名「青畑」の地名の検討へと考察の幅を拡げることも今後の課題
のひとつであろう。



 

東西土器文化の交接地帯

 引野遺跡の調査によって弥生中期を主とする土器群が検出された。山口県域の中期の土器に

ついては、これまで大きく二つの系譜が指摘されて来た。すなわち、そのうちの一つは九州須

玖式の持ち込み、あるいはこれに強い影響を受けた土器であり、この系譜のものは山口県域の

西部を中心としたひろがりをみせ、その分布は今日に言う長門部を主とする。これに対して他
の一つは山口県東南部を中心に分布する華やかな土器であり、これは島田川流域を中心に、一部
は長門部の東辺にまで及んでいる。

引野遺跡の周辺で、これまでに調査がなされた中期の遺跡を探すとき、引野遺跡の
南西4.5kmにある、引野遺跡と極めて共通した立地を示す丘陵上の遺跡・宇部市北迫遺跡を
代表的なもの
のひとつとしてあげることができる。

 北迫遺跡は貝塚と竪穴住居跡群が発見されているが引野遺跡のような、いわゆる貯蔵庫は発

見されていない。この北迫遺跡では須玖式と山口県東部の系譜をひく土器が検出されて両者の
交錯が認められるほか、このあたりのこの時期の遺跡においてもこれとほぼ同様なことがみら
れ、中野一人はこれらから中期における西部と東部の土器文化の交錯地帯を厚東川から椹野川
あたりに求めている。


 引野遺跡で出土した土器をみると、ここでも須玖式あるいはこれの影響を強く受けた土器と
山口県東部地区の系譜をひく土器が混在する。

 さきの北迫遺跡における両者の土器については、貝塚出土の土器は須玖式に限り、住居跡で
は東部のそれが検出され、この遺跡における両者の交錯が時間差で把えられる事を示している。

 このほか、この両者の関係を、山本一朗は引野遺跡あたりを中間地帯とし、引野遺跡では、

出土土器の形式分類によって、長門型の土器が先行しこれに周防型が次ぐとし、中野一人と同

様に両者を時間差で把えるとともにこの両者の交錯する、中間地帯と長門型の地帯の境界をこ
の引野遺跡あたりとみなしている。

引野遺跡における土器の出土状況をみるとこの両者が混在し、出土状況からこの両者を明確

に時間差で把えることはできないが、その傾向としては時間差が言えなくはない。しかも、こ

れらの土器は投入された埋積土に含まれる細片であり、出土の状況で両系譜土器の時間差を論

じるには資料不足であり過ぎ、今後資料を重ねての検討に待たなくてはならないだろう。

 このほか.引野遺跡出土土器のうち、口辺の先端の外側こ紐帯を貼り付けた2片の土器があ

る。すなわち、このうちの1片は貝塚から(第41図4)、他の1片はU−4地区のT−2層出
土の小片である。

 この2片は本地においては特異をものであり、外部からの持ち込みの可能性がある。そのた

め本遺跡の他の土器とともに前者の1片を、京都大学埋蔵文化財研究センターに胎土分析を依

頼しているので、その結果などについては今後機会を得て報告したい。


 


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