この時代劇細見も今回で十回目を迎えることになりました。
今回は元禄二大爺と題しましてお話を申し上げます。
二大爺というて、二人の爺様とは誰じゃ、と言うことでございますが、
まず一人目は皆様ご存知、水戸の黄門様でございます。
二人目は、こちらの爺様は悪人として名高い、高家筆頭・吉良上野介義央であります。
この同時期を生きた二人について、書いてまいります。
まずは水戸の黄門様です。
正式には「徳川光圀」。1628年生−1700年没です。
水戸光圀というのは、水戸の光圀さんということで、
私たちが親戚のことを言う時に、鹿児島の太郎さんだとか、千葉の重左衛門さんだとか言うのと同じですね。
その他の情報としましては、
徳川御三家末席の水戸徳川家の御老公です。徳川家系図で考えると家康の孫ですね。
時の将軍・綱吉から見ると、父親(家光)のいとこ、そう軽々には扱えない位置です。
官位を見ますと従三位・権中納言、この中納言のことを中国では「黄門」といったために
徳川光圀は「水戸黄門」と呼ばれているわけです。
裏を返せば、中納言なら誰だって「黄門」と呼ばれたわけでして、
かの伊達政宗も江戸期には「伊達黄門」と呼ばれていました。
で、この官位について注目して欲しいのですが、
黄門様は中納言は中納言でもただの中納言ではありません。
「権中納言」なのです。
この「権」の字が付くのはどういう事かといいますと、簡単に言えば定員外の中納言ということなのです。
つまり、官位の肩書きには定員がありまして
黄門様が中納言になるときは丁度定員が一杯だったのです。
ですから、頭に「権」の字をつけて、いわば「中納言扱い」にしたわけです。
ではなぜ、わざわざ「権」の字までつけて黄門様は中納言になったのでしょうか。
それは、現役の頃の徳川光圀が何をしていたかに大いに関係があります。
水戸家は御三家の中でも「常府」という役目を務めていました。
これは、いつも江戸にいて将軍に色々とアドバイスをする、
もっといえば、将軍が要らんことをしようとしたら文句を言う、そういうお役目です。
ちなみに、この事が「副将軍」という呼称につながっております。
そして、光圀さんも例外なくこの役目を果たしていたわけです。
この人は若い頃に遊郭で遊びまくった経験もあれば、
史記なんかを読んでどっぷりと儒教にはまった人間ですから、いろんな方面から言います。
気性も強いですから、遠慮なしに言う。
いわゆる「口うるさい爺さん」だったわけです。
それが、将軍だった綱吉には煙たかったんですね。
綱吉自身もインテリですから、人に口を挟まれるのは好きではない。
そこで、水戸の爺さんを隠居させようと画策したのです。
しかし、光圀もそうそう隠居はしたくありませんから、条件を出します。
それが、「父親も中納言だったのだから、ワシも中納言になってから出ないと隠居は出来ぬ。」
というものだったのです。
先ほど述べたように、中納言の席は埋まってましたから、すぐには出来ぬだろう。
これを言っておけば、しばらくは大丈夫だろうと思ったわけです。
されど、綱吉もよほど光圀が嫌だったのでしょう。
すぐに朝廷に掛け合って、「権」の字つきの中納言を光圀に与えたのです。
「権」の字つきだろうが中納言は中納言。
これで渋々隠居したというのが、水戸の御隠居の始まりなのです。光圀52歳の時であります。
ちなみに、これは隠居してからのことですが、綱吉に嫌われるようなこともやっています。
それは、生類憐みの令の無視です。
黄門様はこの例が出ても無視して、牛肉や豚肉、羊なんかを食べたそうです。
これが、綱吉に対する戒めなのか、隠居させられたことに対する反抗なのか、
それとも、お肉が好きで好きで我慢できなかったのか、それはわかりません。
ただこの例が示すことは、光圀は綱吉を軽んじていたということでしょうか。
食べ物の話が出ましたので、もう少し書いておきましょう。
黄門様は日本で最初にラーメンを食べた人物として有名ですが、
他にも色々と(当時としては)珍しいものを食べています。
列挙しますと、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、ワインといった具合です。
もっとも、牛乳あたりは平安時代あたりまでは日本でも飲んでいたようですが。
なぜこういった料理が黄門様の口に入るようになったのか。
明から亡命してきた朱瞬水という儒学者が作ったらしいのです。
中国がちょうど明から清へ移る時期でして、明の学者だった朱瞬水は日本へ逃げてきたのです。
そこへ儒学大好きの黄門様が目をつけまして、水戸家へ呼んだのです。
それでもって、儒学を学んだり、海の向こうの話を聞いたりするうちに、
料理まで習ってしまったということらしいです。
特にラーメンは黄門様手ずから作られたそうですから、よほど気に入っていたのでしょう。
そして、黄門様が最も好きだった食べ物は何であったか、
それは、「鮭の皮」であったそうです。
よほど好きだったようで、「厚さ一寸の鮭の皮を食べられれば、死んでもよい。」といったとか。
また食べ物と同じく、珍しもの好きですから、
足にはオランダ製の靴下をはいたり、インコを取り寄せて飼ったりもしていたようです。
もう一つ、黄門様で触れておきたいのが、その朝廷好きです。
黄門様はことのほか朝廷がお好きだったようで、正室も関白近衛家から迎えています。
また、実際の助さんや格さんが勤めていた、
学問所の彰考館で大日本史を編纂させていたわけですが、これも尊王論でかかれておりまして、
後の水戸学、尊王攘夷論につながっていきました。
桜田門外の変なんてのも、黄門様の趣味で起こったといっても過言ではないわけですね。
最後に水戸藩主としての徳川光圀について。
世間では、名君であったと言われておりますが、
実際は財政的に苦しい経営だったようです。
どこにそんなにお金を使ったかというと、それはひとえに、黄門様の旅費…
というわけではなくて、大日本史編纂への莫大な掛かりでありました。
そのために、年貢も高かったようで、光圀期には最大で八公二民
つまり、取れた米の80%はお上に持っていかれたそうです。
とてもとても悪代官を責められる人物ではなかったようですね。
本来はこのあとに、吉良上野介について書く予定でしたが、
予想より分量が増えてしまいましたので今回はここで終わりにします。
続きは「元禄二大爺(二)」に書く予定ですので今回はこの辺で。
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