西日本一長い苺へのラブレター(当社比)

イチゴと忍者こと、俺の出会いは、俺がご生誕した頃までさかのぼる。
俺の母親の実家は農家で、そこでビニルハウス栽培をしていたアイテム。
それがイチゴであったのだ。
1970年代の話だ。
当時の俺の父親は、母親の実家のそばに勤務先があった。
3月になるとイチゴをもらってきてくれていた。
当時はトヨノカとか、サチノカなんていう品種ではなかった。
こぶりのイチゴがお菓子かなんかの空き箱に詰められて
50ccのカブで運搬されてわが家に。
結果。
既にシェイクされたがごとしの苺の登場である。
傷んじゃっているわけだ。
苺ってそういうものだと永らく思っていた。
なお、今後も触れていくことになることなので白状する。
俺の兄弟は多い。
と、いうことで食料配給時の紛争は俺の好みに多大な影響を及ぼした。
取って置いた苺が食われるという悲劇。
キャラメルコーンを1個単位で分配する辛酸。
結婚式などで折り詰めがあった場合はじゃんけんで勝ったヤツから
良い物を取る競争。
すき焼きの卵は一人1個という統制。
そんなご幼少のみぎりだったの! 俺は!
さて3月だから、春休みの時期でもある。
たまに、母親に連れられてお泊まりなんかした。
ビニルハウス栽培の苦労を知るようになる。
朝は、外気を取り入れるため、ビニルハウス側面のビニルをめくる。
それから取り入れ。
それから、出荷用の箱詰め。
夕方は朝、開けたビニルを閉めるのだ。
規則正しい日本農家の営み。
晴耕雨読。
今思うに「おもひでぽろぽろ」の世界だ。
そんなわけでイチゴと俺の縁は深い。
1980年代に入り、拳骨ほどの大きさになるイチゴが登場した。
一口で食べられない苺の登場はショックであった。
しかし1980年代末。
母親の父親の死去により苺栽培はその幕を閉じた。
苺って高いんだなあ、と思ったのは大学生になり、一人暮らしをしてからだ。
そして、それが俺の苺への偏愛の度を高めた。
時として、洒落のつもりで、ぱふぇ、なるものも食す。
これは男連れでないと行われない。
男どもが「ぱふぇ」にかぶりつく。
それを周囲がどう見ているのかを愉しむのだ。
家ではどうか?
オプション(俗名・嫁)がたまに買ってくる。
「ああ苺があるんだな」と安心する。
その日は安心。
次の日も安心している。
気が付くと、奴等(俗名・嫁・娘)に食われている。
だから、アジトで苺を見ることはあっても俺は食ったことがない。
なんで?