活動報告

私たち被爆二世も死ぬまで被爆二世です
− 被爆二世の体験を聞く会 −
 長崎県被爆二世の会では4月10日(土)14時から、長崎県勤労福祉会館において、「被爆二世の体験を聞く会」を開催し、当会会長、丸尾育朗(73歳)さんがZOOMで自らの体験や思いを語り(資料を含めて以下のとおりです)、約30人の市民が耳を傾けました。
 「私は、1947年10月18日、敗戦後2年目に、長崎市大浦川上町で生まれました。私の母は、爆心地より4.5km、24歳の時、大浦川上町で被爆した被爆者です。私が「被爆二世」という言葉を知ったのは、職場に入り、組合の役員になり、被爆者協議会という組織を知り、新聞などで被爆二世が亡くなっている事を知ってからです。その頃、初めて被爆二世にも影響があるのではないかと聞いたのですが、当時30代で、自分は大丈夫だとしか思っていませんでした。
 2000年12月に54歳の従姉(二世)がクモ膜下出血で、2001年4月に職場の同僚、51歳の女性(二世)がガンで、相次いで亡くなりました。また、胎内被爆の長女と二女(二世)をガンで亡くした母親にも聞き取りをしましたが、三女である同僚は1週間後の検査でガンと分かりすぐ入院、一年近くの闘病生活の末、亡くなりました。2012年8月には、私と高校と職場の同期で、二世の64歳の男性が膵臓ガンで亡くなりました。膵臓ガンでは被爆者である私の従兄と母が亡くなっています。ところが、私自身が、2018年6月に膵臓ガンの手術を受けることになりました。早期発見のため私は生き残ることが出来ました。しかし、2019年9月、胃ガンの後、脳腫瘍を発症し治療中の57歳の男性と、同年10月、心筋梗塞で57歳の男性と、二世で共に活動してきた仲間二人を失いました。現在身近に、自宅療養中の二世だけでも3人の友人がいます。更に、今年1月、高校の同級生で、二世の男性が肝細胞ガンで亡くなりました。私も、2年6か月目、昨年12月の定期健診でガンマーカーの数値が高く、今年1月、2月の検査で、ガンの転移が見つかり、治療不能、余命1年と宣告されました。そして、一日でも長く生きてほしいという妻の言葉で抗がん剤投与の道を選びました。
 原爆放射線の影響が被爆者だけでなく、被爆二世にも及ぶと考えざるを得ない状況は、被爆76年を迎えようとしている今日なお続いています。私は被爆二世集団訴訟の原告の一人として長崎地裁に提訴し、訴えを聞いてくださいとお願いしています。原爆は日本が起こした戦争の結果投下されました。戦争を起こした責任は日本国政府にあります。しかし自らの命と引き換えに戦争責任を負わされ続けています。「核も戦争もない世界」を訴えて来た被爆者の思いを引き継ぎ、自分自身の体験も踏まえて、核兵器が廃絶されるまで訴え続けて行かなければならないと思っています。私たち被爆二世も死ぬまで被爆二世です。」
 当会では、これを機に「被爆二世の体験を聞く会」を継続していきたいと考えています。
(長崎県被爆二世の会 事務局長 崎山昇)

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