活動報告

被爆二世も援護法を使って救ってほしい
− 第2回 被爆二世の体験を聞く会 −
 長崎県被爆二世の会では、10月9日(土)14時から長崎県勤労福祉会館で「第2回被爆二世の体験を聞く会」を開催しました。今回は、県二世の会副会長、長崎県被爆者手帳友の会二・三世部会代表の野口伸一さんの体験に、23人の参加者が耳を傾けました。
私は、1947年7月18日生まれ。母は20歳の時に長崎市戸町(爆心地から5km)で被爆した。自宅に居て、空襲警報が止んだので洗濯物を干していたら、突然飛ばされ、気がついたら防空壕に入れられていた。母はあまり被爆について話さなかった。父は特攻隊だったので、終戦になり、長崎へ帰って、母と結婚した。私には、3人の弟と1人の妹がいる。皆、被爆二世。一番下の弟は、市民病院で急性白血病の末期症状だといわれ、26歳で亡くなった。入院して1週間だった。きょうだいたちには話をしたが、母には最期まで言えなかった。母は90歳で亡くなったが、それまで大きな病気をすることはなかった。弟が死んだとき、「自分が殺したも同然だ」とふさぎ込んで部屋から出てこず、食事もとらない日々が続いた。私が結婚する時、妻は早岐だったので、母親から「長崎の人やったら被爆者や被爆二世が多かけんやめとかんね」と言われた。私には、3人の子どもがいる。娘2人と息子1人。長女は、初産は死産だった。二番目は生まれたが千グラムの未熟児だった。被爆三世というのが関係あるのかもしれないという気がしている。私は、今は元気だが弟のように突然病気になるのではないかといった、病気に対する不安をいつも抱えている。2つ下の弟は前立腺ガンで抗ガン剤治療中、妹は難病で病院通い、もう一人の弟も病院通いをしていた。私も何年か前に脳梗塞を発症し、治療した。その後、胃ガンにかかり手術したが、2か月に一度病院で検査をしている。医療費が月に1万3千円かかるので心配である。裁判所でも、「年金だけでやっていけるのか心配だ、援護法を使って救ってほしい」と裁判長へ訴えた。 



(文責:長崎県被爆二世の会事務局長 崎山昇)

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