活動報告

第34回戦争と原爆の遺構めぐり
 いを聞きながら,戦争と原爆の跡をたどる企画です。核や戦争を許さないとの決意を新たにし,被爆者の皆さんの思いを今後の継承活動に活かしていくために,被爆60年を機に「長崎県被爆二世の会」で継続して取り組んできました。34回目の今回は,長崎原爆遺族会会長の本田魂さんに長崎交通公園入口でお話を伺いました。
 私は,昭和19年1月19日生まれ。原爆が落ちたとき,1歳半だったので,その時の記憶はない。その後,昔の駒場町,松山の体育館があったところで生活をしてきた。祖父は,浦上川で投網をしていた。私も魚を入れるかごを持ってついて行っていたが,魚よりも骨があがってきていた。五右衛門風呂に骨を集めて,供養していたが,1年しないうちにいっぱいになった。それで,いまプールがあるところに4m四方の納骨堂をつくり,小さな寺もつくった。長崎市から立ち退きを求められ,納骨堂の骨は平和公園横の原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に移された。
 その後,被爆当時,本田さんがいた防空壕に案内していただきました。
 ここに4つか,5つ防空壕があった。駒場町の防空壕(爆心地から約800m)だった。空襲警報が鳴って,ここに避難したが,解除になり,昼近かったので,大人たちは昼食を作りに家に帰った。それで,子どもだけが残された。ここに避難すると古畳を敷いていたが,家に帰ったので,畳はたてかけられていて,私は小さくて中にいたが,爆風で畳が倒れて,その下敷きになっていた。母と祖母は爆心から約200mの自宅で被爆死した。
 そのほか,本田さんが記憶している当時の長崎の状況を伺いました。貴重なお話でした。

防空壕跡を背に語る本田さん

本田魂さんのお話を聞く参加者たち
(長崎県被爆二世の会 事務局長 崎山昇)

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