活動報告

平和、核兵器廃絶に向けて運動を強めていくことが大事
− 第35回戦争と原爆の遺構めぐり −
  「戦争と原爆の遺構めぐり」は、核や戦争を許さないとの決意を新たにし、被爆者の皆さんの思いを今後の継承活動に活かしていくために、被爆60年を機に長崎県被爆二世の会で継続して取り組んできました。35回目の今回は、4月10日(日)14時から、長崎原爆被災者協議会(被災協)の地下会議室で、被爆者や被爆二世など7人が被災協会長の田中重光さんからお話を伺いました。

  「私は、4歳の時に爆心地から約6kmの時津村野田郷で被爆した3号被爆者、1940年10月生まれです。原爆の威力は、熱線、爆風、放射線。放射線はあびても痛くもかゆくもないが、即死することもある。入市した人、怪我をしていない人も歯ぐきから血が出たり、髪が抜ける急性症状が出た。紫斑が出て、全身へ広がり、死んでいく。ずっと苦しみ続ける。子・孫にも影響が出る。体験を聞いたり、見たりしている。放影研では影響がないと言われているが。時津で、看護に参加した女性が妊娠したが、死産だったり、赤ちゃんが乳を飲まなくなって死んだ。5〜6年経って妊娠したが、生まれて半年経って乳を飲まなくなり死んだ。高校生が白血病になって輸血をしたが、亡くなった。
 1945年春、伊良林の若宮神社近くに住んでいて、国鉄で働いていた44歳の父に赤紙が来た。相浦海兵団に入隊した。その後、母(40歳代)、兄(14歳)、私(4歳)、弟(2歳)は、父の故郷だった時津村の祖父の家に疎開した。8月9日、B29の爆音が聞こえたので、探していたら、長崎の方向に閃光が見えた。数秒後、爆発音がして、数十秒後、爆風が襲った。窓が割れ、襖や障子は飛んでしまった。キノコ雲が立ち上がり、家の上空まで届いた。爆心地の東側では黒い雨が降ったと聞いている。
 負傷者が1時間位後に時津へ、歩いたり、リヤカーや大八車で運ばれてきた。たちまち病院はいっぱいになり、お寺を借りたり、国民学校に収容した。国防婦人会だった母も看護を手伝った。一部屋に20数名〜30数名収容された。母は、蛆虫取りやガラス取りをした。毎日何十人と死んだが、土葬にした。8月18日、諫早や大村、川棚の病院に移すことになり、手分けして3日間かけて道ノ尾駅へ運んだ。時津では1780人くらいが収容され、約380人が亡くなったと言われている。父は相浦から10日にやってきて救護活動をした。黒焦げの死体、半焦げの人、目の玉がぶら下がり半焼けになった人がいたり、防火用水には裸同然の人が頭を突っ込んで7〜8人死んでいた。浦上川は死体でいっぱいだった。
 今回のロシアのウクライナ侵攻を機会に、核共有すべき、非核3原則の見直しを、憲法を「改正」して戦争をできる国へ、との動きが顕著になっているが、今私たちは、気持ちを引き締めて、平和、核兵器廃絶に向けて運動を強めていくことが大事だと思う。」
文責 長崎県被爆二世の会 事務局長 崎山昇

 長崎県二世の会の
トップページに戻る
 二世協の
トップページに戻る