活動報告

遺伝的影響が未来世代まで続くことは絶対に許されない
− 第3回被爆二世の体験を聞く会 −
  長崎県被爆二世の会では、5月15日(日)、長崎県勤労福祉会館において、「第3回被爆二世の体験を聞く会」を開催し、長崎でも早い段階から被爆二世運動に関わり、全国被爆二世団体連絡協議会の会長も務めた開彰人さんからお話を伺いました。丸尾会長も含め約20人が参加しました。
 はじめに、開さんから紹介いただいた職場の後輩、秀島暢一さん(母親が被爆者である二世)の息子さん(三世)が作った歌「世界中の人の心へ」(CD)を聴き、その後、お話を伺いました。主な内容は以下のとおりでした。
「年齢は72歳、生まれたのは、長与町の高田郷、道ノ尾駅に割と近いところ。原爆投下の8月9日の家族構成は、父は国鉄からビルマの鉄道建設のため派兵されていたので、祖母、母、長男、次男の4人暮らしで、農業を営んでいた。長男は、セミを捕るために、稲佐山付近がよく見えるビワの木に登っていて、原爆投下の瞬間を目撃している。「原爆投下の瞬間を見た人は少ないと思う」と普段から話していた。母は、夕食後、夜なべの毎日で、小学校時代はほとんど祖母と一緒に寝ていた。祖母は戦争の話などをしてくれた。母が早めに寝るときには母と一緒に寝ることにしていたが、原爆の話をよくしてくれた。私の家は、爆心地から約5kmで、家具や建具が壊れたり、窓ガラスが全部壊れメチャクチャになった。当初は、母だけが入市被爆者として認定されていたが、被爆地拡大により祖母、長男、次男の4人全員が被爆者として認定された。母は、8月10日、集落の一軒の家族の一人が浦上周辺で働いていて、1日捜し回っても帰ってこないので、女ばかり5〜6人で、浦上川周辺を捜し回り続けた。そこでは、人間の遺体が重なり、膨れ上がった馬の死体等が転がっており、見るに堪えない光景と遭遇した。1974年国労被爆者対策協議会に被爆二世部会を設置することが決定され、1975年広島、翌年長崎に被爆二世の会が発足し、長崎は当初、約60人で、会長には私が選出された。全国被爆二世協や県被爆二世の会の役員も務めさせていただいた。私自身も結核、心臓病、不整脈、大腸ガン等様々な病気をした。4月には大腸ポリープ4つを切除した。私が一番心配したのは、長女の小学校入学前のころのこと。食事をするとき、茶碗の持ち方が不自然なことに気づいた。長崎大学で検査を受けたところ腕の骨が癒着している珍しい奇形だと診断された。三世であることから、原爆の遺伝的影響ではないかと不安を抱き、質問したが、医者からは原爆との関係はわからないとの答えだった。親の被爆による遺伝的影響を懸念しつつもそれを否定したい気持ち、遺伝的影響の結果を明らかにしてほしい気持ちと明らかにしてほしくない気持ちが同居している。遺伝的影響が未来世代まで続くことは絶対に許されないことだと思う。病気で苦しむ二世の救済に向けて、皆さんと一緒に奮闘したい、皆さんと一緒に平和運動に頑張っていきたいと思う。」
文責 長崎県被爆二世の会 事務局長 崎山昇

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