活動報告

私の歩んだ平和活動の道のり(平野伸人さん)
 長崎県被爆二世の会では、10月20日(日)14時から長崎地区労働福祉会館において、第4回被爆二世の体験を聞く会を開催し、全国被爆二世団体連絡協議会特別顧問の平野伸人さん(77歳)からお話を伺いました。被爆二世などおよそ20人が参加し、思いを共有しました。
 平野さんの略歴:1985年(被爆40周年)に全国被爆二世教職員の会を結成し初代会長となり被爆二世の運動を始める。1987年に訪韓し、在韓被爆者の存在を知り支援活動に力を注ぐ。退職後は「平和活動支援センター」を開き、在外被爆者や被爆体験者、高校生の平和活動の支援や中国人強制連行問題に取り組む。

 平野さんのお話
 私は、1946年12月生まれの被爆二世。母が爆心地から4.6kmの中華街のところにあった自宅で祖母や姉とともに被爆。母は105歳、恵の丘長崎原爆ホームで暮らしている。高校2年生の時に被爆二世である幼なじみの友人・Y君が白血病で亡くなるという経験をした。それは被爆二世ということを意識させる強烈な体験だった。
 1985年を迎え、被爆者に被爆50年はない、被爆体験の継承を真剣に考えないといけないと、長崎県被爆二世教職員の会を結成し本格的に被爆二世として活動するようになった。そして、母の被爆体験を初めて聞き、『語り継ぐ父母の被爆体験』を発行。被爆二世の使命の一つは被爆者と次の世代の橋渡しをすること。
 被爆二世問題とは何か。誰もが病気になるのではないか、白血病は大丈夫ね、と言われた。一番大事なことは差別をなくすこと。必要な援護を求めて、国に要請も行ってきた。二世問題や被爆体験者問題、核廃絶の問題を広島、長崎の課題にするのではなく国民的課題にする必要がある。地道に取り組んでいくことが必要である。
 そして、在外被爆者問題と出会う。韓国の被爆者問題は自分でやろうと始めた。韓国、ブラジル、オランダの被爆者は今でこそ日本の被爆者と同様の援護が受けられるようになったが、当時は日本人だけ。40回在外被爆者裁判を闘ってきた。弁護士の皆さんにはよくやっていただいた。二世問題も裁判を闘っている。私でできないときは、次の世代、そしてその次の世代で頑張ってほしい。二世問題はまだとっかかりもできていない。なぜ裁判か。そうしなければ国は何もしない。切り拓けないからだ。
 高校生の活動をなぜ作り出したか。私の次の世代はいいが、その次の世代がいない。それで高校生平和大使の活動をスタートした。平和大使は450人。6000人の高校生が活動にかかわった(うち3000人は長崎)。せっかく芽を出した活動を育てていかなければならない。
 被爆者が高齢化して、被爆体験や戦争体験を語る人がいなくなる日もそう遠くない。私たちは、被爆二世としてこの世に生を受けた。そのことをどう受け止めるかは自分自身の問題。被爆二世だから何かをしなければならないということではない。ただ、何かやれることがあれば、被爆二世であることがきっかけになる。広島、長崎の役割を考えて、何かできないか、その一つのキーワードが被爆二世。戦争の状態になっていて、核兵器が使われなければいいということではない。平和のために被爆二世という仲間意識を感じてやっていければよいと思う。

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