活動報告

核廃絶をめざして―記憶のない世代の被爆者として―
 11月30日(土)14時〜長崎地区労会館において、長崎県被爆二世の会主催で第38回戦争と原爆の遺構めぐりとして、川副忠子さん(長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会事務局長)による上記の講演会が行われた。

 【以下は講演の要旨】
 長崎に原爆が落とされた時、私は1歳半でその時の記憶は全くない。ただ母親と母の妹である叔母(当時16歳)が私に話してくれたり、書き残したりしていることからその時のことがわかる。私の家は西山にあり、爆心地から2.5kmであったが、金毘羅山にさえぎられて大きな被害はなかった。昼過ぎに祖父が来て私たちの無事を確認した後、自宅のある城山の様子を見に行ったが、火の海で入れなかったらしい。翌日祖父と叔母、母親と母に背負われた私の4人は三重に疎開することにした。西山から下り浦上、本原に出て、線路沿いを歩き、道ノ尾駅に向かった。途中はすべてが焼き尽くされていて、炎を上げて燃える浦上天主堂が見えたという。黒こげの人や馬の死体、服が破れ皮膚がただれ、幽霊の行列のような人々が歩いていたとのこと。途中のどが渇き、井戸水をもらって飲んだが、今思えば放射能に汚染されていただろうにその時の私たちには知る由もなかった。夕方やっとの思いで三重に着いた。その夜私は嘔吐と下痢で苦しんだ。翌日祖父と叔母は城山の家で、叔母の母、姉、弟2人の白い骨の固まりを見つけた。叔母にはその他に妹2人もいて、その8か月前に疎開先から帰省する途中船が沈没して亡くなっていた。叔母は戦争末期1年近くの間に家族6人失ったと言っていた。
 なぜ広島や長崎の原爆被害が広く知られなかったのか?GHQの占領下でプレスコードによる報道制限があり、それは1952年のサンフランシスコ講和条約まで続いた。54年ビキニ水爆実験により日本の漁船数百隻が死の灰を浴びた。これを機に55年第1回原水禁大会が広島で開かれた。同年長崎市は平和祈念像を市民からの募金で建てたが、被爆者の福田須磨子さんはこれを批判する詩を新聞に投稿。56年第2回原水禁大会が長崎で開催された時、原爆で下半身不随となった渡辺千恵子さんが母親に抱きかかえられて参加した。そのような被爆者たちの訴えがあり、被爆者援護法は制定されていった。
 長崎・広島の被爆者だけがヒバクシャではない。ヒバクシャは世界中にいる。核実験もウラン採掘もほとんどが先住民の土地だったところ。Nuclear Racism(核が生み出す人種差別)と言われる。1970年に核保有国を含むNPT(核拡散防止条約)が成立したが、なかなか合意が得られず最終文書を出せないでいる。2017年に非保有国を中心に核兵器禁止条約が採択されたが、日本政府は参加も署名もしていない。
 長い教職の間、1970年に設立された被爆教職員の会に参加して、ナガサキ原爆読本の刊行や平和カレンダーの発行に携わってきた。被爆者にはまだ解決されていない課題がある。被爆体験者、在外被爆者、被爆二世の問題だ。これからも証言活動をはじめできることを続けていきたい。 

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