活動報告
第40回戦争と原爆の遺構めぐり 「被爆体験者」は被爆者だ 最後までやる |
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長崎県被爆二世の会では、3月8日(土)15時から、長崎地区労働福祉会館5階講堂において、第40回戦争と原爆の遺構めぐりを開催。約20人が参加し、「被爆体験者」の山内武(多長被爆体験者協議会会長)さんのお話を伺いました。(爆心地から12km圏内でも旧長崎市でなかったところは被爆地域として認められていない。) 山内武さんのお話:私は「被爆体験者」。差別という言葉は使いたくないが、事業が始まった時、長崎市だけに援護があると感じていた。平成14年に手帳をもらったが、平成17年にスクリーニングがあり当時の状況を聞かれた。保健師から「3歳以下だから何も知ってないだろう」と言われた。2歳3カ月だったが、昭和20年8月9日の状況は克明に覚えていた。家の近くで水遊びをしていた時、昼間だったが、目がくらむようなすごい稲光を見た。一緒に泳いでいた人たちが、早くあがれというので、あがって逃げた。爆心地から10.2kmだった(伊木力村。現在の諫早市多良見町)ので、30秒ぐらいしてから、ものすごい音がして恐ろしかった。家に帰る時、近所の家のガラスがばらばらに散らばっていて、裸足だったので本当に恐ろしかった。 「被爆体験者」をなぜ差別するのか、どうしても納得いかなかった。伊木力地区の自治会長をしている時に、第1陣が裁判をしていることを聞いて、勉強しようと呼びかけたところ、約100人が集まり、賛同して、裁判にという流れになった。平成17年3月25日に教育文化会館で多長被爆体験者協議会を立ち上げた。岩永千代子さんや平野伸人さんと出会い、裁判をしないといけないということになり、3か月後に161人が提訴した。2陣として裁判をしてきたが、長崎地裁では、10人が勝訴した。25mSv被曝した人は被爆者と認められた。福島原発事故の後、被曝量が100mSvなければ被爆者ではないと過小評価の流れになり、腹立たしい思いをしてきた。最高裁で敗訴した。 小さいころ、降りそそいだ灰、降った雨、その畑で育った作物を食べている。誰も体に害があるとは教えてくれないから、それを食べてきた。国側の証人で、「洗って食べればいいよ」といった学者がいたが、怒りを覚えた。洗う水も汚染されていた。 原水禁の川野浩一さんに「最後までやる」と約束し、お願いした。それが、現在に至っている。 昨年9月、長崎地裁では15人が勝訴した。しかし、1人が亡くなった。国・県・市に働きかけたが、知事・市長は寄り添うと言いながら、口先だけだった。国も口先だけ。私たちは高齢化しているが、裁判は控訴という形になっている。控訴審第1回口頭弁論後の進行協議では、和解も受け付けてくれなかった。4月21日、6月25日が口頭弁論。リモートでと言っているが、何回続くかわからない。いじめに近い裁判が続いている。やるしかない。裁判を続けていく。 多長被爆体験者協議会からはほかに3人の方も参加していただき、思いを語っていただきました。また、山内さんは「二世も援護法の中に位置づけて援護してほしい」と話されました。今後も「被爆体験者」の皆さんを支援していきたいと思います。 |
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(文責:長崎県被爆二世の会事務局長 崎山昇) |
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