海棠のつぼみが膨らみ、まるでピンクのチェリーだった。
「花を開かなくても、そのままでOKだよ!」と声をかけて家を出た。
その日の午後は、姪のピアノ発表会でたっぷり2時間。
小学生から大学生まで、みんなの一生懸命さになんだか嬉しくなった。
私は、ビデオカメラで姪の指使いをアップで撮影をした。
これならアラン・ゴラゲールの「ゴーゴーズ・ゴグルズ」が弾けるんじゃないかと、
演奏が始まって5分も経たないうちに本気で思ってしまうオジバカになっていた。
ピアノの先生が結婚して遠くへ行かれるらしく、今回が最後の発表会となった。
みんなとお別れをしている時、先生や生徒共々目が潤んでいた。
ファインダーの中へ姪が現れた。
姪は気持ちの強い子だから、こういうシチュエーションでは多分泣かないだろうと思っていた。
ファインダーに涙をためた姪の目が入ってきて、なんだかホッとした。
全てが済んだのが、16時過ぎだった。
今日の芝生の手入れは、最後の行程だ。
エアリング(土に穴を開け、芝生の根っこを切ってやる作業)、目土と肥料。
それが終ったら、コットンパンツを、ジーンズのオーバーオールに替えようかな?
今のところ依頼原稿は、全てやっつけたし。あとは論文の仕上げだな。
この一ヶ月くらいは、の〜んびりしてみたいモンだと思った。
刈り取った芝生の重みを感じつつ、ビニール袋をベランダの隅っこに運んだ。
快適な汗は、美味しいビールを誘うモノと決まっている。
シャワーを浴びて、ジョッキ片手に雑誌に目をやった。
雑誌には、シェアウエアのメーラー(電子メールを管理するソフト)が掲載されていた。
これはわずかな料金で手に入るパソコンソフトの一つで、マニアが作っていることが多いモノだ。
添付ファイルによれば500円で正規ユーザーになることが出来て、
よほどのことがない限りバージョンアップは無料とのことであった。
アイコンがかわいいゴールデン・レトリバーで、病棟に忘れられた女性週刊誌にも紹介されていた。
通勤途中で見かける犬の「哲平君」とその姿が重なり合って、私はたちまち気に入ってしまった。
さっそく付録のCDから解凍してみると、ヘッダの部分にゴールデン・レトリバーのアニメーションが配置されていた。
メールが来ると、ワンワンと吠えるらしい。
到着したメールをくわえて座っている仕草が、世の女性には人気だったようだ。
名前は「アニメ・ポスト・メール」で、Apo-mailと略してあった。
− − − − − − − − −
私は詫間大学の大学院医学研究科4回生、幹終生。大学では、主に動脈硬化の研究をしている。
この分野ではアポトーシス研究が爆発的に進んでおり、各大学がしのぎを削っていた。
研究対する企業からの助成金も膨れあがっているから、少しでも先を越されることは研究者にとって致命傷なのだ。
ここで聞き慣れないアポトーシスについて、ちょっとだけ付け加えさせていただく。
1972年Kerrらはネクローシス(壊死)とは異なる形態の細胞死があることを発見し、これをアポトーシスと名づけた。
つまり、細胞一つ一つに死の機構が遺伝子として組み込まれているわけ。
どうやら、これにはDNAの断片化が関係しているようで。
細胞の形態は細胞膜が保たれ、クロマチンが凝集し、アポトーシス小体の形成を見るのが特徴だ。
東京理科大学の田沼教授によれば、”apoptosis”と言う言葉は、
”apo(off)”と”ptosis(falling)”を合わせた造語であり、
「枯れ葉や花びらが散る」様子を表すギリシャ語が語源なんだそうで。
日本語訳としては、「細胞自滅」とか「自死」がある。
ここにギリシャ人と日本人の感性の違いを感じると言ったら言いすぎだろうか?
1994年に虚血性心疾患におけるアポトーシスが報告されて以来、
最近の我々の分野では心臓においてもアポトーシスの分子メカニズムが研究されていた。
1994年以降、循環器領域にアポトーシス関連の論文が多数発表されている。
私の博士論文も「動脈硬化とアポトーシス」がテーマだった。
我が杉崎教授の教室では、アポトーシスの研究では先進的な業績が毎日と言って良いほどなされていた。
私がこの教室に入局した頃は、先々代の四施教授が怒るのを見ることはなかった。
先輩達の話を聞くと、「廊下の遥か前方に四施教授を見つけると、
通り過ぎるまで何処かの部屋に入るなりトイレに逃げ込んだもんだ」とか、
「教授回診のある前の日は、緊張して寝つきが悪くってイケナイ。
夢の中で、教授に何回も怒られた」とか。
挙げ句の果ては、「学会発表でヘマをしでかすと、頭を丸めたぐらいじゃ済まない」等など。
あれは、大学院1年生の夏だった。
彦田先輩は、「幹ちゃん、教授のところへ行って、今年はいつ招待があるのか、聞いて来いや」と言うのだ。
やっと笑っているのが分かる程度の猫目を、更に細くしているときは機嫌が良い証拠だ。
さらに口が少しとがってくると、とても良いわけで。そう言う意味で、今日は最高だった。
「招待って、教授がですか?教授を招待するんじゃなくてですか?」
「当り前よ。教授がわしらを招待するんよ」
「で、どうして僕が・・・」
「ええから、とにかく行ってこいや」
「でも・・・・」
「行け!」
言葉が鼻にかかってくると、問答無用を意味していた。
「ハア」と答えて、重い気持ちと足を引きずりながら医局を出て教授室へ向かった。
教授室をノック、
「ハイ」
「失礼します。あのー」
「何かね?」
「彦田先生が、今年の夏は、あのー。何時でしょうか?って、聞いてこいって」
私は緊張のあまり口が乾いて、これ以上は喋れなかった。
四施教授は笑いながら、
「ああ、それじゃ来週の土曜日にしよう」あっけなく決まった。
「ビールを持ってきなさい。去年と同じ樽でいい」と付け加えた。
「ハイ、そうします」
汗びっしょりになって研究室に戻ると、
「彦田先生、教授は来週の土曜日がよろしいと言われていましたヨ」
「オウ」
当日は、全員が打ち揃って2本のビールの樽を抱えて四施教授宅へ。
「おおう、よしよし。持ってきたか」
笑顔の教授ご夫妻が、我々をお出迎え。
ビール樽を開けて乾杯し、宴会は賑やかにスタートした。四施教授はビールをぐいぐい。
「貴方、ほどほどにしませんと」
「わかっとる、わかっとる」と、ビールをまたもやぐいぐい。
ちっともお分かりになっていないようだ。教授の健康を考え、奥様は精進料理風に作られている御様子。
今日だけは、肉魚がふんだんに登場する。だから教授は、とても機嫌が良い。
「塩気はええか?こしょうはええか?肉はどうじゃ?」と教授。
「どんどん飲みなさい」
みんなが満腹になる頃には、教授はすこぶるご機嫌で。
「君達は教養が、そうとう程度に不足している。助けてやるには、音楽でも一つ聴かせてやらねばならん。
常識のない君らには。んー、知っとるか?これこれ」
青松先輩は教授に聞こえるような声で、
「アイネクライネ・ナハトムジークやろ。出た出た。睡眠時間じゃ。
こういう時に気の利く後輩は、ウイスキーもって来るんよねー。気がきかんやっちゃのー」
「ど、何処にそんなものが?」
「あそこが格納庫や!一番高そうな奴を2,3本持って来い」
教授はそんな声は気にもとめず、
「まあ、聴きなさい。アイネクライネ・ナハトムジークじゃ」
皆の「やっぱし!」で、夜は更けてゆく。
「君らは、そろそろ御飯を食べんかね?」
で、おいしい漬物と白米。奥様の方針で、教授はふだん玄米を召し上がっていらっしゃるらしい。
今夜の教授は、力いっぱい白米を堪能していた。この風習は教授が退官されるまで続いた。
かつて体験したことのない試練が待ち受けているとはご存じなく、四施教授の後任として赴任された球磨川教授の初めての夏。
球磨川教授は、生態制御の分野ではトップクラスで国内より海外の方が有名なくらいだった。その分、世間をご存知ない訳で。
「ホオ〜、幹ちゃん。良く勉強するね〜」
うっ、これは何か有る!
彦田先輩の優しい言葉、後を聞かなくても絶対にヤバイのだ。
「はいっ。何か?」
「そろそろ、ええんやないの」
「はア。なんでしょ」
「教授の招待よ」うっ、やはり!
「コーヒー持っていって。いつですか?って、聞いてこいや」
「ボクがですか?」
本箱の裏から、無責任な援護射撃の桶屋間先輩。
「あたりまえやないか。あんたしかいないの」
「大学院の1年生は、ゴミじゃけんねー。ゴミは先輩に逆らっちゃいけんのよねー。
2年生は奴隷じゃし。3年生はやっと人間なんよ。まあ、ワシらみたいな4年生は神様っちゅうワケや。
あーあ、来年は院も卒業かア。マジメに仕事をする凡人に成り下がるとは、情けないのー。
幹、早く行っておいで。神様に逆らうと、大バチが天から降ってくるぞよ!」相変わらずの青松先輩であった。
球磨川教授は吟味した豆と水、そしてサイフォン。全てご自分でされるコーヒー通。
いい加減な豆、カルキぷんぷんの水道水。サイフォンだけが一緒。味はぜ〜んぜん違う。
かわいい(?)医局員が持ってくれば、最大限の優しさで口を付けざるを得ない可哀想な球磨川教授だった。
コンコン。
「失礼しまアす。幹です。あのー、コーヒー持ってきました」
教授は苦笑いで、「あ、有り難う。どうぞ」
コーヒーを置いてもなかなか出ていかない幹に、「何か?」
「ハイ。実は前の四施教授は・・・」
大学院生の分際で、教授に向かって自分達を家に招待しろとは言いにくい。
うつむいていると、
「遠慮しないで言いなさい」
「ハイ。大学院生は毎年夏にですね。あのー、招待していただくと言うことになっていまして・・・」
「招待って。私が、皆さんを招待するんですか?」
「いえ。あ、はいそうです。お宅の方へ」
「はははは、結構ですよ。どうぞ。じゃ、来週の土曜日。娘も帰っていますからちょうど良い」
「失礼しました。ビールは樽を用意しますので」これが精いっぱい。
「来週の土曜日だそうです」
「よ〜し。だいぶん度胸がついたやないか。これなら国際学会も楽勝じゃ」
<オイオイ。何を根拠に、無責任な>と突っ込みそうになった。
球磨川教授は実験用のアルコールの臭いをかいでも、気分が悪くなる程。全くの下戸なわけでして。
いちごショートケーキとビール樽を携えて、教授宅のドアをノック。
教授を先頭に、奥様と笑顔でお出迎え。
「今日はご招待いただきまして、有り難う御座います」いつもの癖が出て鼻の頭をポリポリ。
奥様は、「良くいらっしゃいました。初めてのことなのですが、どうぞどうぞ」
やはり普通は逆だとは思ったが、ひるむことなく侵入するとテーブルの上にはごちそうが山盛り。
「ビールを持ってきなさい」教授室では見たことのない笑顔だ。
「はい、あなたはこれ」教授の前にはオレンジジュース。
「オーディオ凄いですね!」
濃い茶のラックに、整然と並んだプリアンプとメインアンプやグラフィック・イコライザー。
真空管アンプもあった。直径が35cmは有ろうかと思われるJBLフルレンジ・スピーカーが威圧的だった。
全て雑誌で見たことはあったが、本物を見るのは初めてだった。
おそらく結構良い車が1台くらいなら、余裕を持って買えるほどだろう。ボクのコンポなんか、目じゃなかった。
「君は分かるの?」
「はあ、少し」
ボクは、大学入学まで全てのお年玉を貯金していた。
大学入学と同時に全額を引き出し、ステレオにつぎ込んだ。
とは言っても、たいした額ではなかった。吟味に吟味を重ねて、各パーツをやっと決めた。
80人の同級生で、ここまで凝ったヤツはいなかった。
まあ、この教授のステレオアンプ1台だけで、ボクのセットがいくつ買えるか想像すら出来ない機種であったが。
これに比べりゃボクのステレオは、「月とすっぽん」か「象と蟻」の違い。
同級生の板村が、「幹は、ホントにステレオに凝っているんですよ」と言ったとき、全身から冷や汗が流れた。
笑顔での説明は、アンプの出力や真空管の音の暖かさ。果ては、バスレフスピーカーに至るまで。
とっくに理解を超えていた我々は、箸だけが一心不乱に仕事をしているワケで。
全員の耳は、最初から休憩状態だった。
「そろそろ、ピアノでも」一瞬静寂。お嬢様登場!
「何か弾いてさしあげなさい。ショパンか何かを」
ショ、ショパンっすかア。演歌なんかが、お酒には良いんだけど。口が裂けても、そんなこと言えんなー。
「津軽海峡冬景色」が最高なんだけどなー。なんたら言う静かな曲が、部屋中を充満した。
ま、まずい!居眠りするのは、演歌好みの彦田先輩。
ピアニッシモになると、「ンゴー」が突然顔を出す。
慢性鼻炎があるので微妙に鼻腔で反響して、部屋中によく響くのだ。
幹の足はテーブルの下で空を舞い、もう一人の「ンゴー」桶屋間先輩の足に見事命中。
続いて彦田先輩の足を襲う。その瞬間、「ンゴー」合戦は休戦へ。
「やはり、良いですね。ショパンは」この教授の一言で、どうやら演奏が終わったらしいことを察知。
ボクはみんなの覚醒を誘う拍手。
うとうと組は、少しタイミングを外してパチョパチョと拍手。
「ビールがありませんね。洋酒で宜しければ、あちらに色々あると思いますよ。お好きなのをどうぞ」
もう少しで「そうなんですよ。その御言葉をお待ちしていました!」って、口走るところだった。
目覚ましとしても十分な効果があった。納戸の扉を開けると、棚の上には見たこともない洋酒が無造作に並んでいた。
両手と脇を使って、いかにも高そうな奴を4、5本。教授は延々とジュース。
ボクは、よくあれだけジュースが飲めるモノだと感心しつつ、酔いが回ってつい口が緩む。
「先生、ジュースよりこのウイスキー飲みませんか?凄くまろやかですよー」
「いや、ボクは」
夜中の2時にお開き。残った高級ウイスキーのうちの1本が、ドアを開けるときボクの脇から滑り落ちた。
玄関一杯のアルコール臭で、むせる教授。睨む彦田先輩。
「あれが一番高いんだぞ。アホ!」うつろな目で怒った。
教授の階下にお住まいの、病態生理学教室の山背助教授。
付属病院検査棟の廊下ですれ違いざまに、
「こないだの夜中、騒いどったんはあんたらやろ!」
「すんませ〜ん」
「教授の奥さん、楽しかった言うとったヨ。あんなに楽しかったのは、初めてとか言うとったぞ」
あんなことが頻回にあったら、苦痛だろうなと思った。
大学院生で1人だけ教授の家招待されないのが気になった。
招待されても行かなかったのかも知れなかった。それが、同級生の北村隷二だった。
同級生とは言っても、専門課程中に自転車一つでロシアから北欧へ渡って、2年間休学していたので年は2つ上だった。
文芸部の先輩だったが、彼の作品を読んだことは一度もなかった。
先輩に言わせると、柔な心の人が読むと身も心も切り裂かれるような文章を書くらしい。
まあその点、ボクの文章はお気楽そのものでは終始一貫していたけど。
我々の世界は、年ではなく卒業年度しか頭にない。5つ年上でも、学年が下なら呼び捨てになる。
だから2才年上の彼は、いつも「北村君」だった。ヤツが卒業してからは、先生をつけて呼ぶようになった。
教授から、「最近、親代わりだった兄が心筋症で亡くなった」ことを聞いた。
教授が福島循環器総合センター病院の院長に直接電話をしたから、何の問題も無く入院できた。
院長が直々に主治医となって、しばらくは小康状態が続いて生前兄に会えたらしい。教授にとても感謝していると言っていた。
でも結局、不整脈で突然死したらしい。福島に兄がいたことは知っていたが、小さいときに本家に養子に行ったと聞いた。
研究生活にもやっと慣れたボクは、なんとか大学院の4年生になった。
とは言っても、大学院で進級できなかった人がいることを聞いたことがなかった。
だから不自然さは全く感じずに、当たり前のように最終学年に突入した。
世界心臓学会が東京で開催されることになって、我々の教室は準備委員会の一員となった。
演題8つが、教室員への至上命令となった。
「急性心筋梗塞の発症に酸化ストレスは関与するか?」と言う私の発表内容もまとまった。
スライドは12枚で、英語の原稿もできた。
博士論文もなんとか完成して、球磨川教授に投稿先の学会雑誌も決めてもらった。
師匠である小和田助教授は、「幹くんはよく頑張ったから、ご褒美に1週間の休暇をやろう」。
あの厳しい助教授が休みをくれる気になっていたのは、どうやら新設の豊北医大の教授選に出馬することになったからだった。
しかも、最有力候補なのだ。彼の最近の研究は、ラットの心臓を取り出してポンプで特殊な液体を循環させる実験だった。
この装置は自作であり、彼の自慢でもあった。この装置を利用して、次々と論文を発表した。
その時の一番弟子が、ボクというわけだ。
循環させる液に酸化ストレスを引き起こす物質を混入し、冠血管(心臓を養っている血管)にけいれんを起こさせるわけだ。
酸化ストレスを起こしすぎると、実験中に不整脈を起こしてしまう。
ボクは不整脈を起こした心臓を見たとたん、循環液を作り直さなければいけない面倒な作業を思ってつい「チッ」などともらしてしまうのだ。
どじを踏んだのは自分であり、うねりあがるようにして止まってしまうラットの心臓には申し訳ないことをしたのも十分承知していた。
ぽっかり空いたラットの胸に、止まった心臓を戻した。
ボクはいつものことではあったが、体と心臓を別々に処理する気にはなれなかった。
静かすぎる実験室のステンレスの台に、ピンセットとハサミを投げ出した音が響き渡った。
大きな音を耳にして、誰かが入ってこないかとドアの方に目をやった。でも、もし入ってきたらボクの方が驚いただろう。
土曜日の午後は、研究室に誰もいないので実験がしやすかった。
稼げる土曜日のバイトも行かずに、ここにいるのだ。
「スマンことをしたナー」と呟きながら、イソジンで茶色く湿った皮膚を縫合してラットを処理した。
何もなかったように、ボクはすぐに循環液を作り始めた。
「大学院を卒業したら、幹はその若さで豊北医大の助教授か」と、誰もが言った。
病棟のナースまで、「豊北医大へ、幹先生について行こうかなー」とからかった。
彦田先生は「おっ、幹はもてるなー。わしが整理券を作ってやろう」などと冷やかした。
女性嫌いというわけではなかったが、女性の前では緊張して汗をびっしょりかくのが嫌だった。
三津居循環器病棟婦長などは、
「準夜で遅くなったら、2390に電話しなさい。幹先生が居たら送ってもらっていいわよ。あの先生なら、人畜無害だから。
とっても安全。太鼓判を3個ぐらい、いっぺんに押してもいいわよ。気に入ったら、押し倒してもいいけど。
あなた達が押し倒されることは絶対にないわ」がいつものせりふであった。
そう言う意味では、ボクは純情だったのかも知れない。
− − − − − − − − − − −
2002年8月3日
和歌山県紀伊田辺駅に降り立つと、黒塗りの車が目に入った。
小さな駅で、降り立つ人もそう多くないからそんな車が目立ったワケで。
恰幅のいい初老の男が、リュックを背負ったボクに近寄ってきた。
「ボートで沖に出た洋一は、エンジントラブルがあったらしいので代わりに迎えに来たんですわ。
じき戻るらしいから、先に家の方へ参りましょう」
2時間ほど待っていると、大林洋一は大きなクーラーを抱えて帰ってきた。
「幹、大漁じゃ!ほれ。しかし、参ったよ。沖でエンストじゃもんナー。
船の電話が使えたからよかったけど。そうじゃなかったら、遭難するところやったで」
額の汗を拭きながら、大げさな身振りで言い訳をした。
大きなクーラーの蓋を開けると、太刀魚が鋭く銀色に輝いていた。
夜は太刀魚づくしで、刺身、焼き物、酢の物、吸い物、どれも器の中できらきら輝いていた。
その後、しばらく太刀魚を食べる気がしなかった。
食事の後、腹ごなしに那智の滝へ行ってみようということになった。
ヤツの親父が経営しているドライブインが、南紀白浜の国道沿いにあった。
とりあえず、そこまで行こうと言うことになった。
学習塾に通う8才の武田健二は、気の優しい子だった。
いつも穏和な彼はあまり喧嘩をしたことがないのだが、何年ぶりかで土手の上で悪友と取っ組み合いの喧嘩をした。
二人は、土手をもつれながら転がり落ちた。
「俺は、絶対見てないゾ!」と何回も叫んでいた。
ひどい衝撃を頭に感じた瞬間、健二は音のない世界に入っていった。
喧嘩相手の高岡靖は、健二の肩を何度も揺さぶった。
ぬいぐるみのように何も言わないのを見て、慌てて近所の家へ駆け込んだ。
いつもは仲がよいのだが、今日は黙っている訳にはいかなかった。
「健二、おまえ見たやろ?」
「何を?」
「塾の階段を上がるとき、東城冴子のパンツを」
「そんなもん、知らん。絶対見とらん」
「顔を上向きにして、階段を上がったじゃろうが」
「でも、絶対見とらん」
確かにそうしているように見えたかも知れないが、そうする誘惑を抑えるのに冷や汗が出たくらいだったのも事実だ。
だから、ボクは動揺を隠しきれなかった。
「ウソをつくな!おまえ、冴子が好きなんじゃろ?」
靖は、そう言ったあとで動悸を打つのが分かった。
「あんな女、嫌いだよ!」靖の目をにらんで言った。
その時のボクは、 なんだか胸が熱くなった。
東城冴子を、いつもまぶしく見る二人であった。
救急車のサイレンが、べそをかいている靖に近づいてきた。
意識不明で救命センターへ運び込まれた健二は、まだ何も言わなかった。
「瞳孔不同無し、対光反射正常!」
眩しい光で、つむじのあたりの痛みがよみがえった。
「ああ、痛―ッ」
「ありゃ、頭に怪我をしているね。頭部CT!」
頭に切り傷があったが、頭部CTは異常なかった。
駆けつけた両親に頭部CTの説明をしているさなか、「胸が…苦しい!」と叫んで健二はこと切れた。
胸のレントゲンも異常なく、最終的に心臓死として処理された。
その日は、よほどニュースがなかったらしい。
ローカルTVが、夕方のニュースで武田健二の死を報じていた。
「へえー。8才のパソコンお宅小学生かア、心筋症かもね?マラソン中に、突然死をしたりするもんなー」
「8才か、死ぬには早すぎるネ。自分でプログラムを組む天才少年とは、凄いね。
生きていたら、第2のビルゲイツだね。日本国の大いなる損失かも知れんなー」
真昼のビールで目の周囲を赤くした幹が、つぶやいた。
「幹、風呂へ入ってこいや。オヤジの自慢の風呂なんじゃ」
「うん、そうしようか」
真新しい檜の風呂に入ったのは、幹にとって2回目であった。
1回目は、新宿で開業しているおじさんの家だった。
そのおじさんは、酒も飲まないし、たばこもやらない。
遊びが嫌いで、勉強大好き。ただ、凝り性であった。
畳敷きのトイレは、鍵を閉めると夏は小さな扇風機が回り出す。
風呂は自慢の檜で、小舟の形をしていた。
櫓があったら、今にも漕げそうであった。
湿った檜の臭いを楽しみながら、おじさんのちょびひげを思い出していた。
風呂上がりに洋一とビールを4,5本空けたら、急激に二人を睡気が誘った。
暑がりの二人は、飲み初めからはエアコンを強くしていた。
二人が布団に潜った時、シーツが鳥肌が立つくらい冷えていて心地よかった。
5分もたたないうちに、洋一はいびきをかき始めた。
ヤツの心はまだ漂う船の中かも知れなかったが、ボクの心は既に中山道を歩いていた。
8月4日
大林に別れを告げて、諏訪湖へ向かった。
諏訪市の町はずれに、椙田病院がある。
高校の同級生林誠がこの病院に勤務していることは、最近送られてきた同窓会名簿で知った。
文芸部の部室で、ヤツとよくコーラを飲んだものだ。
当時はラムネが廃りかけていて、流行の兆しを見せていたのがコーラであった。
黒っぽくて炭酸の刺激の強いコーラは瓶の形も斬新で、僕たちには胸がどきどきする飲み物だった。
ラムネが1本20円なのに対して、コーラは35円だった。
不良になりきれず、でも不良っぽいことにあこがれるボク達にはぴったりのモノだった。
裏門を出るとすぐ横に小さな店があって、二人で買いに出た。
顎をチョットだけ上に向けて一気に喉元へ流し込む、ゲップを我慢すると炭酸が鼻に抜けて刺激的だった。
この時、薬のような臭いがするのも新鮮だった。
コーラを飲むと、時々ヤツを思い出すことがある。
眉間にシワを寄せて、一気に飲む癖はまだ健在かな?などと思いながら電話をした。
ちょうど往診から帰ったところで、カルテ整理が済む1時間後に会うことにしたのが14:00だった。
ホテルにチェックインをすませ、シャワーを浴びたとき部屋の電話が鳴った。
ロビーに降りてゆくと、「オッス、元気や?なんか偉ろうなったらしいやないか」
白い歯を見せて、昔と変わらぬ笑顔があった。
「どうや。相変わらず、理想に燃えとるんやろうなー」
「そんなことはないさ。田舎の生活が染みついてしまったよ。ところで、今夜はヒマだろ?」
「ああ」
「じゃあ、7時にもう一度出直してこよう。まだ時間はあるから、白樺湖でも見に行くと良い。あとで迎えに来るから」
そう言って、病院へ帰っていった。ポケットに財布を確認すると、ボクは国道152号線のバス停に向かった。
真新しい停留所の看板には「西白樺湖」の青い字が輝いていた。
5分も待つと、ほどなく美ヶ原行きのバスが来た。
観光シーズンだったが、直にお盆を控えていたからなんとか座ることが出来た。
大門峠を左折し、ビーナスラインへと入っていった。
白樺湖が一望できる場所を通過した時、白樺湖温泉すずらんの湯の看板が目に入った。
「温泉かア、今夜はあそこへ行ってみようかな?」
そんなボクの呟きは、上り坂を苦しそうに噴かすバスのエンジンの音でかき消された。
その右手には、冬ならスキー客で賑わうであろう白樺湖ロイヤルヒルスキー場が見えた。
ここは、北アルプスが一望できるところで、観光雑誌では有名なところだった。
バスが右に流れると、先に車山高原スキー場が視界に入ってきた。
ビーナスラインを少し行くと、左手に霧ヶ峰であり美ヶ原はもうすぐだった。
ボクは、美ヶ原でバスを降りた。
白樺林を横目で見ながら少し歩くと、広大な草原がボクを待っていた。
何だか嬉しくなって、草の上に寝ころんだ。
眩しい太陽の光はつぶった眼瞼を通過し、目の前も頭の中も真っ白にした。
何もしない贅沢って、こんなモノかな?そう思いながら、ゆったりとした時の流れを満喫した。
こんな満足感は、久しぶりだった。
ヤツが連れて行ってくれたのが、田舎には珍しいライブハウス。
どうやら、ここのマスターが東京で演奏活動をしていたらしい。
諏訪市でコンサートをした時、ここが凄く気に入って居を移したとか。
「ゴールデン・イアリング」と名付けられた店だった。
7,8人が座れるカウンター。木製のイスやテーブルが5組と、トリオが演奏できるほどのスペースがあった。
全てが木造で、ラグタイムジャズが似合いそうだった。
JBLの大きな箱に直径40cmはあろうかと思える大きなフルレンジスピ−カー1本が、威圧的であり年期を感じさせた。
ボクがキョロキョロしていると、あごに髭をたくわえた男が林に近づいてきた。
「今夜は、10時からライブがありますよ。たまにはゆっくりしていって下さい」
「そうだね、じゃ遠慮無く。マスター、ボトル出してくれない」
「ハイ。あそこのテーブルが今夜はおすすめですよ。ボーカルの声が、一番綺麗に聞こえますから」
「じゃあ、そうさせてもらいましょうか」
「挨拶代わりに、こいつを廻しましょうか」
レイ・ブライアントが奏でる、店の名前と同じ曲だった。
「これって、歌謡曲に近いと思わないか?」
「うん、ボクもそう思うんだよね。こぶしが回ったら、歌謡曲みたい」
二人は、久しぶりの再会に酔った。
顔を赤らめた林が、ぼそぼそと話し始めた。
白樺湖までの中山道は彼の通学路であり、バスと行き交う時はスピードを落とさなければならないほど曲がりくねっていた。
カーブの度に体を揺らせていた彼にとって、今日は特別な日だった。
とにかく14歳中学2年生の中川治郎は、早く家に帰りたかった。
山の中の一軒家に住む69才の祖母中川タケから、憧れの最速CPUを持つノートパソコンを買ってもらったのだ。
メモリも512MBまで増設してあったから、何でも出来そうな気がした。
出来ることならずる休みをして一日中これをさわっていたい、そんな気持ちを抑えて登校した。
中川タケ夫妻は、椙田病院に月に一回通院していた。
「内科14番の中川熊彦さまア。どうぞお入りくださアい」
「あ、その前に。これこれ」
介護認定のための<かかりつけ医の意見書>があったのを思い出したのだ。
長谷川式痴呆スケール(HDS-R)をしている声が聞こえる。
「わしゃあ、おかしいんじゃ。ひらがなはエエけど、漢字はいっちょも思い出せんのじゃ。
ボケたわけではないんじゃが。え?野菜の名前?」
「ハイ、5つネ。畑に植えてあるモノでもエエよ」
「畑には、かぼちゃ、イカ。あ、イカは・・・、野菜じゃノ。後は…出てこん」
「あと3つ・・・」
「バア様、野菜じゃと。おお、そうじゃ。畑の横に、3本ほど植わっとるモンの。松!」
「ハア、そうなんですよ。エエ」
かなり耳が遠いので、いつもニコニコの奥様。じいちゃんの言うがまま、というところらしい。
二人きりの家庭の雰囲気が、伝わってくるわけで。
「ダメよ、カンニングしちゃ。自分で!」ナースからイエローカード。
「ワカランなー。じゃ、布団と味噌。何の話じゃったかいノ」投げやりな熊彦じいちゃん。
で、長谷川式痴呆スケールは9点。脳血管性痴呆と言うことになった。
一通り診察が済んで。
「お薬はもう少しあるでしょ?」
「バア様、薬じゃと」
「ハア、そうなんですよ。エエ」いつものニコニコ。
「ほんに、聞こえちょらんノ。手間がかかるノー」
じっちゃんの手招きで、呼び寄せられるバア様。
「薬じゃと。どうかいノ?」これだけ大きい声で言われりゃOK!。
「あと3日分残ってますが、いただいて帰りましょう」さすがにボケちゃおらん。
ところが、
「ワシがボケとらんから、エエようなモンじゃが。耳が遠いバア様と、たしてやっと一人前じゃヶ」
「いやいや、立派なモンじゃ」苦し紛れに、誉めるしかなかった。
「ホレ。南センセも、立派って言うてくれたじゃろ」胸を反らす中川熊彦。
「ハア、そうなんですよ。エエ」と、相槌を打つニコニコ奥様。
南医師は「いや、立派って言うのはそう意味じゃなくて・・・・・立派な痴呆なんですけど・・・」と言いたかった。
力一杯の笑顔で中川熊彦夫婦を送り出す南センセだった。
さて、ご主人の方の「かかりつけ医の意見書」としては。
診断;多発性脳梗塞、脳血管性痴呆
身体の状態;右不全麻痺にて、歩行不安定で杖歩行
痴呆の状態;短期記憶障害(中等度)、時間に対する失見当識(軽度)
耳だけ遠いバア様と、足して半人前は考慮したくても書けなかった。
この二人だけの生活であれば、足して1人前かも知れないなと思った。
二人足して「要介護1」なんてのは無いもんかな?とも思った。
バアちゃんは凄く遠い耳以外に問題はなく、介護ランク「非該当」の元気であった。
「バアちゃん、ホントにインターネットするんか?設定は終わったし」耳元で怒鳴った。
「はア?ああ、コンピューターじゃろ。するする。キーボードたら言うもんは、村の公民館のパソコン教室で習ろうた。
あん時だけは、ちゃんと補聴器をつけて一言残らず聞いたから。そこいらの親父さんには負けんつもりじゃ。
電子メールとか言うヤツさえちゃんとしておいてくれりゃあ大丈夫!これでも、算数はずーっと5じゃったからノ」
「設定は済んどるし、あとで練習でボクにメールを送ってみて。メールは、可愛い評判のヤツなんよ。
バージョンアップも済んでるし。そんなことは、どうでも良いか。登録は、
バアちゃんの分と一緒にしておいたから。そのうち、あっちから返事が来るはずや」
「分かったような、ワカランような。まあ、あんたの言うとおりにしようかノー」
4日後の昼に、パソコンの前で倒れている中川タケを発見したのはじいちゃんだった。
「ばあさん、そんなところで寝ちゃあイケン。昼寝はこっちじゃ」
手を引いて起こそうとして、腕が冷たいのに気が付いた。
バアちゃんは、既にものを言わぬ人になっていた。
じっちゃんは、慌てて息子のところへ電話をしたが留守だった。
中川次郎の母は、仕事場に学校からの電話があり駆けつけた。
あらかじめ事情を聞いていたので、次郎の姿を見て「今朝はあんなに元気だったのに」と言って泣き崩れた。
マラソンの最中に、「胸が…」と言って、倒れ込んだらしい。
医師が到着したときには、瞳孔が完全に開いていたそうだ。
死因は、次郎は「特発性心筋症」。いつも元気な中川タケさんは、「急性心不全」だった。
「人間なんて、無力だねえ…」そう言ってヤツの話は終わった。
林は眠そうに、大きなあくびをした。
「明日は金沢へ行くんだ。もうライブも終わったみたいだし。じゃあ、そろそろ帰ろうか」
その時、オスカーピーターソンの「イパネマの娘」が店に流れ始めた。
静かにベースが呟き始めると、ピアノが合いの手を入れるように囁き始める。
パーカッションも、大人しい。やんちゃだった高校生時代とはうって変わって、二人ともお互いの「大人」を感じていた。
「ああ。今夜は楽しかったよ。また、何処かで飲みたいモンだ」
「また会おう!」
2台のタクシーは、正反対の方向へ走り出した。
8月5日
諏訪湖で一夜を過ごしたボクは、トロッコ列車みたいなヤツで日本列島を越えた。
乗り換えて金澤へ。「先ずは、兼六園」と言うことで、案内の矢印の通りにミニ金閣寺を感心しながら通り過ぎた。
そのとき、北側にある施設の看板が目に入った。
施設の名前は、出発前に買ったパソコンの雑誌に載っていたので知っていた。
介護老人保健施設「アクア」。
なんでも、痴呆棟に入所しているのおばあちゃんが介護士とホームページを作ったとか。
おばあちゃんの笑顔が、気持ち良いくらい素敵だった。
キオスクで買った新聞のローカル版の隅っこに、
この「アクア」で働く22才介護士山田静雄が急死したことを4,5行で伝えていた。
見出しに、「若者の過労死か?」とあった。
「山田君、おむつの交換時間だよ!」
「ハーイ、Bチームまわってきまーす」
「坂上さんは、胃瘻(いろう)を作ってから顔につやが出てきましたね。
でも、その分ずいぶん尿量が増えましたけど。いつもぐっしょり重いですもんね」
「そうなんよ、一日8回じゃきかないからね」
「でも言ってましたよ、施設長の高山先生が」
「へえ、何て?」
「口からモノが入らなくなったり、咀嚼できなくなった方がいるでしょ。
そう言うお年寄りに、鼻から管を入れたり胃瘻を作って管で胃の中へ栄養を入れるのはどうなんだろって」
「だって、仕方が無いじゃないノ」
「そうなんですけど。そう言うことって、お年寄りは望んでいることなんだろうかって言われてました。
人生の先輩に対し、してはいけないことを、私達はして居るんじゃないかって」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「イギリスでも北欧でも、日本のような長期の寝たきりのお年寄りはそれほど多くないんだそうですよ」
「へえ、どうして?」
「口へ食事を持っていっても食べようとしなくて、口に入れてあげてももぐもぐしない人はどうすると思います?」
「点滴するとか?胃瘻を作るとか…」
「いえ、なんにもしない。静かに見守っているんだそうです」
「そんなことしたら、死んじゃうじゃないの!」
「そう。静かに死ぬのを、見守りながら待つんだそうです」
「どっちが良いのか分からないわね」
それを聞きながら、山田はインターネットの記事を思い出していた。
北カナダのインディアンは、いつも自分の霊と会話をするらしい。
自分の体の具合が悪くなってくると、身内や知り合いを集めて感謝の言葉を述べるんだそうだ。
そして、何も食べずに静かに死を待つらしい。
子供の頃、「お隣のおばあちゃんが食べられなくなった」なんて言う話を聞いて、
4,5日したら葬式だったなんていうのはボクの田舎じゃざらだった。
自宅を訪ねた同僚が、ベッドの上で動かなくなった山田静雄を発見した。
それは熱帯夜の深夜勤務を終えた、昼過ぎだった。
外傷もなく、不審死として法医解剖になった。結局、死因は「急性心筋梗塞」であった。
22才の若さで心筋梗塞のために死ぬなんて、普通のことではなかった。
解剖の結果、心筋の病理組織所見からそう診断されたのだ。
8月6日
ボクは新潟から佐渡島へわたり、再び新潟を経て北上。
途中、わざわざ秋田駅で乗り換えて時間を調節した。
その日から行われる、竿灯が見たかったからだ。
ジャズ喫茶「かかし」は駅を出て100mほど歩いたところにあった。
ドアにつけた鈴がガランガランと鳴って、客の到来を告げた。
一番奥のテーブルは、大通りがよく見えた。
硬めのいすに座った時、注文をとりに店主が近寄ってきた。
その時、店に流れる曲がエロールガーナーの「スターダスト」に変わった。
「旅行ですか?」
「はア。弘前を回って、仙台へ」
「ちょうど、今なら東北の3大祭りがみられますね」
ここの店主が説明してくれた。
「220本、1万個におよぶちょうちんを操るのが差し手若衆でして。
お囃子の音と“どっこいしょ”のかけ声とともに、1本約50キロの竿燈を額、肩、腰へと軽々と移し変えていくんです。
竿燈は、豊作祈願と不浄を祓い悪霊から身を守る行事が結びついた禊ぎの行事なんですよ」
そう言った時、一人の男がドアの鈴を鳴らして入ってきた。
「あ、いらっしゃい!」
「ラヴ・ミー」の静かなメロディに邪魔にならないように、男は静かに入ってきてカウンターに座った。
「やあ、どうも」
よく響くバリトンの声に、聞き覚えがあった。
幹は、その男の顔にも見覚えがあった。
先月の日本循環動態学会で見た顔だ。
山形マリナ総合病院、畑中康樹の名前は有名になりつつあったからすぐに思い出した。
心筋虚血と酸化ストレスをテーマにしたパネルディスカッションで、彼のマイクを通した声は歌をうたうようだった。
37才、畑中康樹。連日の救急当番から解放されて、学生時代からなじみのコーヒーを飲みに来ていた。
昔からLPレコードでジャズを聴かせる店で、コーヒーは苦さも香りも体と心にしみこむ感じが好きだった。
つい先ほどまでの喧噪がウソのようだった。
「VPC(心室性期外収縮)連発!」
「畑中先生を、手術場へ!」
医局の電話が鳴って、走り込んできた畑中は心電図モニターを見るなり叫んだ。
「ショートラン(連続する心室性期外収縮で危険なモノ)!!」
「酸素を上げて!キシロカイン50mg、ツッカー20mlに溶いて静注!」
モニターの不整脈をのぞき込みながら、畑中は三方活栓よりゆっくりとキシロカインを注入した。
「カウンターショックを準備しといてね。使うかも知れないよ。設定は400だ」
5分後には危険な不整脈は消失した。
「まだ、単発でVPCが出ています。手術が終わるまで、キシロカインは持続点滴しておきます」
「はい、どうも」
一安心した山形医師は、ちょっとだけ声を荒げた。
「オイ、BGMを変えてくれ!誰がモーツアルトにしたんだ?俺のオペの時はジャズのはずだ。
特にお気に入りは、小曽根真だぜ!いい加減覚えてくれよ」
すぐさまBGMが変わった。
「ウウム、ジャズは良いね」
「メス。ガーゼ!」
「止血。電気メス!」
手際よく手術はすすんだ。
「よし、閉じるぞ。ドレーン。縫合」
「覚醒開始!フローセン中止。酸素だけでOKだ」
「バイタルチェック!」
「血圧120、脈74、不整なし!」
「OK、OK。いい子だ。不整脈は嫌だゼ。大人しくするんだよ」
「田石婦長!ナース・ステーションにもジャズだぞ。術後の回診には、あれが一番だ」
「早めに切り上げて、よく冷えた黒ビールでもどうですか?畑中先生」
「いや、山形先生。私はコーヒーで結構。尿酸が高いものでね。今日はこれから脱走して、コーヒーを飲んでこようかと」
「週末にライブを誘おうと思っているんだけど、予定はどうかな?」
「良いですね、喜んでお供をしますよ」
「店は、いつもの Morning Airで。詳しい時間は今夜、メールをしますよ」
「OK!」手術場用の帽子とマスクに手をやりながら、足音を小さくしていった。
手術場に流れる曲が、「テラ・ジ・アモール」に変わった。
「お、良いじゃないか。最新アルバムSo many colorsの中の、愛の大地と言う意味の曲だ。
仕上げは、この曲が終わるまでに…」
彼の研究テーマは、「急性心筋梗塞における酸化ストレス」だった。
急性心筋梗塞を発症すると、血液中に過酸化物質が増えるのに気付いた。
これが長期に上昇する症例では、予後が不良だと言う。
そのメカニズムははっきりしないが、心筋のダメージの引き金になるらしいと思い始めていた。
なぜなら、心筋が死ぬ前に血液中に増えだしていたから。
心臓に異変を生じて心筋逸脱酵素が上昇し始める頃には、役目を終えたかのように減少するのだ。
先日の学会でのポスターセッションで、1番賑わっていたのが確か彼のところだった記憶がある。
酸化ストレスに興味があった幹は、彼の顔に見覚えがあったのだ。
ふと、医局にある幹の机の辺りを思い出していた。
壁に掛かったカレンダーには、背中を丸めたビルエバンスがいた。
写真のサイズに比べ数字が遠慮がちに印刷されているから、ちょっと見るとポスターにしか見えない。
お気に入りのビルエバンスのCDをパソコンに放り込み、ヘッドフォンを装着すれば自分だけの世界だった。
机の前の本棚には、いつも4,5枚のジャズのCDが立てかけられていた。
自分の脇の壁には北村と同じカレンダーが掛けてあった。
そのカレンダーに、今回の旅行のスケジュールをピンで留めたのを思い出した。
出発前日に日程表を貼り付けていた時の、北川隷二の言葉を思い出す。
「良い旅になると良いね、じゃア」
滅多に笑わない彼が、ボクを見ながらニヤッと笑ったのが気にはなった。
だが、旅行に出たとたんにそんなことはすぐに忘れた。
8月7日
弘前行きに乗り換えて、到着した頃には21時を少しだけ回っていた。
畑中康樹が当直室で急死していたそうだ。
駅で買った夕刊の3面記事の隅っこに、それを見つけて驚いた。
あの時は顔色も良かったし、声にも張りがあった。
急死するようにも思わなかったので意外だった。
山川旅館は弘前駅を降り立つと目の前だった。
一風呂浴びて、遅い夕食になった。
料理を運んできた仲居さんは、私が弘前は初めてなのを知ってしゃべり始めた。
彼女は、うちわでボクをあおぐのも忘れなかった。
「青森ねぶた祭は、七夕様の灯籠流しの変形じゃないかって言われています。
今から約250年前のねぶたは、京都の祇園祭の山車に似ていたらしいんです。
現在のような歌舞伎などを題材にしたねぶたが登場したのは文化年間だとか」
ここまで一気にしゃべって、空いたグラスにビールを注いだ。
「青森ねぶた祭の特色の一つに、はねとの大乱舞があるんですよ。
青森ねぶたが、現在のように大型化したのは戦後なんですけどね。
私が子供の頃は、ねぶたくらいしか楽しみがなかったから、この季節が待ち遠しくて」
「いかがですか?」
ボクが差し出したグラスを遠慮がちに受け取って、
「じゃ、一つだけ」と言いながら、一気に飲み干した。
北の地方の夏を甘く見て、エアコンなんか無くても良いから古びた宿を探したのだ。
廊下はしっかりと黒光りして、宿の長い歴史を物語っていた。
窓の外を見ながら、グラスのビールを空けたとき布団を敷きに来た。
敷かれたシーツは糊がよく効いていて、宿の意気込みを感じた。
全ては予定通りだった、1つの誤算をのぞいては。
寝入りそうになると、布団に接している体の部分に汗がじっとりきた。
金属製の羽を持つ扇風機は自分の体を揺すりながら、なま暖かい風を送り続けていた。
一晩中寝返りを打って、とても寝るどころではなかった。
空が白んでくる少し前に、ぼんやりした頭で扇風機の風の温度が下がったのを感じた。
しかし、夜明けとともに容赦なく空気の温度は上昇し始めた。
フェーン現象のせいで38,5度の熱帯夜を過ごしたことを、翌朝のTVのニュースで知った。
8月8日
朝食は、海苔、あじの開き、生卵、香の物にみそ汁だった。
ごはんの真ん中に穴を開けて、垂らしたしょうゆで虎の縞模様のようになった生卵を注いだ。
あまりかき混ぜないで、白いご飯と卵としょうゆがまだらになっているのが好きだった。
そこへ、パリパリの海苔を乗せ、海苔が破れないように気をつけながら黄色いご飯をくるんだ。
ご飯は、それだけでも十分だった。
卵の黄身の生くさい甘さが好きで、遠足のゆで卵はわざわざ半熟にしてもらったくらいだった。
奥入瀬は、和田湖畔の子ノ口から焼山に至る約14、5kmの渓流が美しい。
変化溢れるの水の流れが生む躍動感を見せる景観が展開していた。
主な滝だけでも十四ヶ所もあるそうだ。
銚子大滝は巾20メートル、高さ7メートル、豊富な水量を誇るこの滝は、奥入瀬川本流にかかる唯一の滝である。
この滝は奥入瀬を遡上して十和田湖に入ろうとする魚を拒むと言う。
五両の滝は子の口から奥入瀬渓流を下った最初の滝である。
九段の滝は複雑な地層が、浸食されて生まれたそうである。
続く姉妹の滝と言う大きな岩を境に、二筋の滝が流れている。
不老の滝は、不老不死の仙薬にちなんだ名前の滝だそうだ。
双白髪の滝は冬に見事な氷柱をつくると言う。
これらの滝を逆行するように、幹を乗せたバスは、奥入瀬瀬を経由して十和田湖へと向かった。
窓から飛び込む風はさすがに心地よく、目をつぶると昨夜駅前で見たねぶたの画像が蘇った。
木々の合間から湖が見えだして、10分ほど走ると終点であった。
十和田湖畔の美しい砂浜、御前ヶ浜にたたずむブロンズ像、乙女の像が見えてきた。
これは高村光太郎の晩年の傑作で、十和田湖のシンボルとなっている。
そのすぐ横のレストラン「ブルー・ハート」は、4,50ほどのテーブルがあった。
長い冬はほとんど客の居ない季節で、真っ白な雪の中でこのレストランはひとりぼっちで過ごす風だった。
45才フリーライターの歌川一樹は、1年前に新聞社を辞めていた。
「あら、ウタさん。久しぶりね。お元気でした?」
「うん、会社を辞めたんでね。いろいろあって」
「あら、もったいない。将来を嘱望されたウタさんが。凄腕の記者だって、毎朝新聞の方が言ってらしたわよ。
あいつの記事は、切れが良いって」
「でも、最近はダメだネ。昔のような文章が書けなくなった。そろそろ潮時かな、なんてね」
「まあ、おビールでも」雰囲気が暗くなりそうなのをうち消すように、冷やしたグラスにビールを注ぐ。
「夏はビールに限るネ」唇の下に泡の髭を残して、一気に飲み干した。
「何かおもしろいことはないの?」
「今度の事件は、凄いモノになるかも知れないんだ。まだ、公表する段階じゃないけど」
「へえ。スクープ賞でもいただいたら、お祝いをしなきゃね」
「ママ、セロニアス・モンクは置いてなかったっけ。最近、たいていヤツのCDをまわしているんだ」
「えーと。あ、これはどうかしら?」
「お、Straight No Chaserのアルバムか。意味深だね、The Way You Look Tonightなんて。
しかも次が I want to be happyだもんな」
「あらそうなの?私には、よく分からないわ」
ウフッと笑った頬には右側だけえくぼが出来る。歌川は、そのえくぼが好きだった。
「ちょっと、旅に出てくるんだ。少々回り道になるけど、弘前に寄って友人に大事な話を聞く予定で。
それが済んだら十和田湖の写真を撮って、その足でおふくろにでも会って親孝行のまねごとでもしてこようかと思ってるんだよ」
「まあ、ウタさんには珍しく殊勝なことで」
「ママは、十和田湖の伝説を知っているかい?」
「あら、どんな?」
「十和田湖と八郎太郎の話だよ。奥羽山脈のふもとに住んでいた八郎太郎は、山へやってきたのさ。
三匹の岩魚をとって焼いたんだが、がまんができず友達の分も全部食べてしまった。
すると、八郎太郎の喉が凄く乾いて、清流に口をつけたままガブガブと飲んだ。
ふと顔をあげると、流れの水面に映る自分が蛇になっていたそうだ。
八郎太郎は沢をせきとめ、十和田湖の主になった。
その後、南祖坊という修行僧が十和田湖にやって来たんだ。
八つ頭をもつ大蛇が南祖坊に飛びかかったが、到底かなう相手ではなかったらしい。
八郎太郎も這々の体で逃げ去り、米代川を下って八郎潟にたどりついて主となったという話さ。」
「なんか、悲しいお話ネ」
そう言いながらナッツを出すと、すぐに歌川は手を出した。
「おふくろが心臓病らしくて。いつ…ってこともあるし。
こんな商売をしていると、たぶん親の死に目にあえないだろうから」
カリポリといい音を立てて、グラスを空けた。
そして続けてもっと何か言いたそうに、カウンターの中のママを見た。
もう少し酔っていたら、と思った。
こんな事件に頭をつっこんでいなければ、
「俺と一緒に、母親の面倒を見てくれないか」って言ったかも知れない。
資料に目を通したのがそれから3時間。
2時間半の睡眠をとり、バッグに着替えとモバイルパソコン、一眼レフタイプのデジカメを押し込んだ。
隣にいた男が、胸を押さえて鈍い音とともに床に倒れた。
私は条件反射的に、男に馬乗りになった。
「救急車を呼んでください!早く!」
何事が起こったのか最初は分からなかった店主も、我に返って電話機に飛びついた。
市内から20分はかかるとのことで、蘇生を行いつつ救急車をジリジリした気持ちで待った。
まだ瞳孔は散瞳していないし、頸動脈は弱いながらもかすかに触れる。
「私は医者だ。早く病院へ!」
心臓マッサージをしながら、救急車に乗り込んだ。男は、時々「うーん」と唸った。
病院の救急の入り口から、ストレッチャーで男は運び込まれた。
スリッパを鳴らしながら入ってきた医師に、状況を説明した。
そして、この男のポケットにあった名刺から、歌川一樹と言うフリーライターであることが分かった。
メモ代わりだったのか名刺の裏に、ボールペンで岩手市に住む母親の連絡先が書いてあった。
「所持していたのは、このバッグ一つです。中は見ていません」
「分かりました。出来ましたら、母親が来るまで付き添っていただけないでしょうか?」
申し訳なさそうに、医師が言った。
「今日は暇ですので、良いですよ」
「助かります」
彼の安堵の雰囲気が伝わってきた。
「先生はどう思われますか?」
「どうって、こうなった原因ですか?」
「はい」
「胸を押さえて、唸って倒れていましたけど」
「そうですね、やはり」
歌川はCCUにいた。意識はなく、モニターだけが生きている証だった。
時々、心室性期外収縮らしい不整脈を見せていた。
母親が病院に現れた時は、十和田湖で救急車に乗り込んで7時間が経過していた。
それから20分もしないうちに、ショートランを頻発して心臓の動きは完全に止まった。
「急性冠動脈症候群」の診断が、死亡診断書に書き込まれた。
「久しぶりに会えたら、こんなことに…」
そう言って、うつむいた。
「私は、幹と言います」名刺を渡した。
「あ、お医者さんでしたか」
「ハイ、旅行中に。十和田湖で偶然」
「息子に、ずっと付き添っていただいたそうで」
「いえ、大したことも出来ませんでした」
「いえ、本当にお世話になりました」
「ボクは、16時の汽車で仙台に行きます。お元気で」
それから、この老婆のことをすっかり忘れていた。
8月9日
幹は小学校の4年生から、中学2年生までを仙台で過ごした。
今回の旅行で、一番楽しみにしていたのはここだ。
子供の頃に何回も見た七夕ではあったが。東1番町は、特別だった。
単身赴任をしていた父親が久しぶりに家にいる。初めての七夕の夕暮れだった。
ここ東一番町にあるレストランと同じ名前の店が、東京の池袋にあった。
6の付く日曜日は、大塚の縁日で賑わった。
その帰り道、その店で初めて食べたハヤシライスは忘れられなかった。
香ばしい甘さが「おとな」を感じさせた。
煮込んだ肉のとろけるような柔らかさと、歯触りの良いタマネギは飲み込むのを一瞬ためらったほどだった。
「美味いか?」一言だけ聞いて、親父はビアグラスを一気に空けた。
その店の名前とハヤシライスは、そんな昔を彷彿とさせた。
茶髪の若者たちが、その店を笑いながら歩いていた。
彼らを見て、バイトの施設を思いだしていた。
夏休みが終わると、研修指導を任せられていたのだ。
近くの田の上を、すーっと渡る風。
その風に、青い稲の香りを感じるような気がした。
眼下の芝生は、昨日の雨で勢いを増している。
明日がお天気なら、大きめの袋に一杯の芝が刈り取られるだろう。
確か来月は、施設研修があって。我が施設に約10人の方が来られるような。
先ず一番最初が私の担当で、落語好きのボクはすぐに「つかみ」というか「枕」を考えてしまう。
いつものパターンからすると、
「君たちは、1流ですか?」
「え?マア、2流くらいかな・・・」
「じゃ、1流ってなんだろう?」
「・・・・・」
「言ったことが出来るのが3流で、言ったこと以上のことをするのが2流。
言う前に実行するのが1流。言う前に済んでいるのが超1流!じゃ、もう一度聞くけど、君たちは?」
恐らくそんな会話が交わされる予定だ。
今年は、「こだわり」−「アイデンティティ」−「ディベート」−「老人の不安」へ話を進めようかと思っている。
<若狭先生へ;山口は小雨です>
昨日、頑張った甲斐がありました。庭の手入れをし終えたところに、昨夜来のしっとりのお湿り。芝刈り機は異音を残して、世代交代をしましたけど。新しい刃は切れが良いから、8mmカットがとても美しいですヨ。庭に出るのをお休みして、今日は文化的な生活を過ごします。英語のヒアリングのCDを、手に入れようかと思っています。身だしなみ程度位はやっておかないと・・・。珈琲の香りがしてきました。のどを潤せるのも、もう少しですね。バックで、ビルエバンスの素敵な音が流れています。ピアノが軽快に飛び跳ね、ベースがお相手をしています。今朝の朝食はホットサンドらしいです。いま、妻が準備に入りましたから。
心理学の本は、思いのほか時間がかかったけど読破しました。古典落語(上)の続きに入ります。ここまで来て、太陽が目を覚ましたようです。陽が射して、明るくなってきました。ここでBGMもビルエバンスからケニードリューへ、気分を変えました。8月初旬に仙台に参ります。お会いできるとうれしいです。20年ぶりにみんなにも会いたいし。不出来な教え子よりーーーこのメールを送って、ボクは山口を後にした。
定年を目前にした59才、中学校教師若狭正。
彼は、教育委員会からの推薦で天文台勤務となった。
もともと、理科の教師で星が大好きだった。
ボクに会った若狭先生は、急遽、中華店で小さな同窓会を開いてくれた。
先生も、学校を辞めて天文台勤務になったことをみんなに知ってもらいたかったのかも知れない。
そこには、一卵性双生児の弟の伊藤君もいた。
仙台にいた頃に、ボクは昼休みに「銀の匙」をもう少しで読み終えようとしていたと記憶している。教室にボクが一人でいるのを見て、ひょうきん者の伊藤義正君(弟の方)は驚かせようとしたらしい。
「伊藤、なんか用事か?」背中を見せているのに気づかれた伊藤君は驚いて後ずさりをした。
「どうして分かったんや、足音をたてないように入ってきたのに」
彼の家は、駅前で小さな魚屋をしていた。
兄はテニス部のキャプテンだったので、親孝行な弟である義正君が家業を手伝っていた。
だから、魚の臭いが体に染みついていた。
僕の鼻は結構敏感だったので、2,3m離れていても、目隠しをしても、伊藤君を言い当てることができた。
ボクの空いたグラスにビールを注ぐヤツの顔を見ながら、そんなことを思い出していた。
酒にはあまり強くないらしい若狭先生は、
「君たちは、仙台の七夕を本当に知っているのかな?」
赤く染まった顔でフウーと一息吐いて話し始めた。
「七夕祭は、瑞穂国の日本民族とともに育ってきたものなんだ。
「たなばた」という日本古来の民俗信仰を母体として、
乞巧奠(きっこうてん)という星祭の行事が合体しているんだ。
伊達政宗公が七夕行事を奨励したともいわれているのを知っているかな?
仙台七夕まつりの特徴といえば、やはり本物の和紙と本物の竹を用いて飾りつけを行うことだろうね。
祭り前の8月4日早朝、各商店街では長さ10メートル以上の巨大な竹を山から切り出し、飾りつけの準備を行うわけで。
飾りは各個店の皆さんが数カ月前から手作りで準備し、一本の価格は数十万〜数百万円もするといわれているんだ。
8月6日の朝8時頃から飾り付けが行われ、その豪華さを競い合うと言うわけだ。
祭り期間中に大勢の人で賑わうのは、この辺り中央と東一番丁や駅前の通りだね。」
当時、市内を網羅するように路面電車が走っていた。
仙台市の南への終点から青葉山に向かうと、広瀬川が見えてくる。
電車を降りて青葉山と反対に進めば、八幡神社があった。
夏休みに入ったばかり、八幡小学校の5年生だったと思う。
宿題に、神社の模様をテーマに選んだのは何故だったのだろう。
真新しい小ぶりなスケッチブックと3Bの鉛筆を数本持って出かけた。
仙台の南に位置するこの八幡神社には、立派な枝をつけた木が茂っていた。
境内の面積の殆どに影を作っていたほどだった。
シャツ一枚では、涼しすぎた記憶だけが残っている。
石の階段を登って行くと、まぶしい日差しは一気に緩んだ。
「鳥肌が立つほどのひんやりさ」というヤツだった。
見上げた欄間に、八の字の造形はいまだに覚えている「かえる股」と呼ばれるモノだった。
いくつかをスケッチすると、誰もいない寂しさでつぶやいた「今日はこのくらいでおしまい」。
ボクの独り言は、夕暮れの薄暗くなった茂みに吸い込まれていった。
家に帰ると、もう晩ご飯の準備が出来ていた。その夜、無性に食べたかったモノがあった。
それは熱いご飯に溶いた生卵。醤油を垂らして、刻んだ海苔をふりかけて。何故なんだろう。
ただ、ただ、食べたかった。おかずなんか何にもいらなくて、玉子ご飯だけで良かった。
今なら、差詰めこれに細かく刻んだ小ネギかな?
スケッチブックがいっぱいになる頃、ボクの夏休みは終わった。
見上げた空には、たっぷりと赤トンボ。
スーイスイッと、真っ赤な空に赤トンボ。
壁に羽を休めて、ハネを折った赤トンボ。
こんな赤トンボを、ボクはあと何回見るのだろう?と思った。
小学生のボクらには、夏はいつも広瀬川が遊び場だった。
同級生が、おぼれて亡くなってから遊泳禁止になった。
ボクの家から青葉城へ登るには、かなり遠回りしなければならなかった。
広瀬川には小さな橋が架かっていて、渡りきって右手にそれると小さな動物園があった。
入場料が安いのは、動物の種類があまり多くなかったからだ。
この動物園になぜか大きなカバがいて、そいつのあくびすすのを見るといつまでも飽きなかった。
空に浮かんだ丸い雲を見上げたら、丸顔の左近亭しん馬師匠の顔と重なった。
そうだ明日は新宿末広亭だ、久しぶりに体一杯で笑ってみようと思った。
8月10日
数年前、山陽新幹線のトンネルでコンクリートの壁が崩れて車体の屋根を直撃したことがあった。
そのさなか、東京出張が決まった。相変わらずお気楽のボクは、新幹線の中でこんなエッセイを書いていた。
---<回想:トンデモ新幹線ただいま乗車中!>
で、一句。(え?特に理由は・・・。)
「山陽路 切符きりつつ メット売り」 by ドミ庵
いつコンクリが舞い降りてくるやら!。ネエそうでしょ?
しかも、座席は2階じゃしネ。コンクリがぶっ飛んできて、ゴツンなんてね。
強固さJR保証付で「コンクリで叩いても凹まない!山陽路、どんなときもOKメット!」
なんて、チョウ・ブラックじゃござんせんか?
久々の東京出張。買い込むブラックコーヒー&パソコン雑誌。
乗るやいなやの、イアフォン落語三昧。
福山の頃には、5代目柳家小さん師匠の「長者番付」と「提灯屋」からジャズ&ポップスへ。
しばしジェシカ・アンドリュースのカントリーっぽい歌を聴きながら、
おニューのモバイルPCをパショパショ。やっぱ、液晶はエエなア。目の付けどころが、ちゃうワ。
でも、MIHIセンセの指が太いわ!<じゃかあしいワイ・・・と、自分で突っ込む>
そうこう(走行にひっかけているワケ)していると、
アルトゥーロ・サンドヴァール・ラテン・ジャズ・オーケストラ。
2曲目の「リズム・オブ・アワ・ワールド」が始まったとき、
西郷輝彦の「星のフラメンコ」かと思っちゃったイ。
え!?コンクリ・メット?うっそ?、車内販売で?あ、岡山名物「マツリ・ベント」じゃったのネ。
<オイオイ、最後の文字しか合ってないやんか!寒ブー>
ここで、ちょっとおトイレ。
なんか細長い楽器のケースを持った外人トリオ。年のころなら、アバウト55ー60才。
なんせ、日本のジャズ発祥の地・神戸から乗り込んだんじゃ?。やつら、ジャズメンでしょうな?。
でっかいのが2人、通路におっ立ってたんですわ。
通れんから、「すいませーん」って言ったボク。
エクスキューズミーなんて、口が裂けてもいわねえヨ。ここは日本だいッ。
で、やつらの一人が「すいません」って言ったね。
ヨシヨシ、なかなか可愛い外人のオヤジじゃんか!
あーらら、もう新大阪。
つーことは、魔のコンクリ易落下・トンネル地帯はクリアか!10時15分。
お勉強しようっと。で、取り出す医療福祉論。200頁はあるなア。
あー、86頁も学習しちゃった。うつぶせ療法を実践してみようかな?と思う。
暑う!日当りいいし、ちょこっと缶ビールじゃし。暑いはずじゃ。
しかし、シャープの液晶はエエねエ。こいつを選んで正解じゃ。
んが、キーボードはモバイルギア2が上。
そんなことを考えていると、ぼつぼつ横浜か?15分で終点東京。
会議が終わると末広亭へ。タクシーに飛び乗ると「え、末広亭?名前は知ってるけど・・・」
寄席もマイナーになっちゃったのかな?厚生年金会館を過ぎて下車。開演の5時まで後10分。とりあえず、ソバ屋「更科」へ。
「ざるソバとお銚子1本!」
「お待ちどうさま」
「うん、うん。そうそう」
タモりさんも言ってたんよね。
<少し残ったお酒を、ソバにチョンチョンとかけていただくのが通だって>
そりゃあ、その通りしましたよ。ソバも、ソバ湯もすすって¥1280だったかな?
末広亭までの地図を書いてもらって、出発進行。
およそ5分、¥2700の木戸銭を払って演芸場内へ。
おっと、その前に。一度食べたかった、末広亭の「助六」。
¥500。かんぴょう巻き4,5cmが4本。ジューシーな稲荷が3ヶ、やや小ぶり。
5分でほおばって、トイレを済ませて最前列。
でも、なんですな。最近の若い噺家は、客が少ないから?
あんた、なめとんのかいな?
噺も下手じゃし(山口弁)、サービス拍手はしてあげないもんネー。
落語聴き暦30年のボクを舐めたらいかんぜよ!(高知弁)
早くさげ(=オチ)を言って、とっととけえんナ!ってことヨ。(江戸っ子風)
えろーつまらんでー、イカンわ(なぜ故に名古屋弁)
もう、あったまに来た!仲入りで脱走するワケで。
ウロウロしながらジャズスポット「J」へ突入じゃ。
いやー、ラッキイ。何せ、ジャズピアノ・Oのスーパー・トリオ!(インターネットで調査済み)
案内された席が、まるで前回と一緒じゃん。
「バーボン・ダボー(=ダブル)ロックで」
「他に、何か?」
「ミックス・ナッツ」
やっぱ、ピアノじゃねエ。エエワわ。でも?、なんかファンキーで。
ビル・エバンス、オスカーピーターソン、ましてや、ポール・ブレイとは・・・。
って言うかア、なんか違うんよねエ。アドリブで、先が読めちゃうとかア。
あの?、止めて欲しいドミの倒しみたいなやつとかア。
ほれ、指一本で、ハシッコ辺りから鍵盤をビロビロビロって順番にひく(?)やつ。
それも、1曲の間に何回も。あれだけなら、アタシでも・・・冗談ですウ。
Oさん、怒らないでね!どシロートの戯言です。
50分、¥4500(ミュージック・チャージが¥1500)ナリ。
ホテルまで徘徊しつつ、乗り込むエレベーター。
壁にひっつき虫の東洋人5人。そのど真ん中にボク。
訳のワカラン中国語のシャワーを浴びて12階。
9:30には、金曜ロードショー「夜逃げ屋2」を見る人になっちょった。
風呂上がりの缶ビールは最高だじぇい!!なんだか、夜は更けてZZzzz・・・
ちょっとだけ、中央線のラッシュを体験して「ホウホウ、ラッシュもどき?」で東京駅。
念願の「うなぎ弁当」&「ウイスキー(スコッチじゃなくってジャパッチ)&ワラー(=ウオーター)。
最新号のPC雑誌もついでに。なんせ、昨日買ったのに、今日は新刊が出ちゃってるモンネ。
ブツブツ言いながら「ひかり115号」10:07発に乗り込む。
と、お隣の席で待っていたのは(単に隣り合わせ)左手に包帯をしたおばあちゃん。横に立ってる、オヨメさん?
「いいですか、これが・・・で、こうして・・・」
バッチャンの一人旅らしい。行き先は神戸らしい。
「任せてください、ご安心を!」
のボクの言葉に、オヨメさんにっこり会釈。
名古屋の頃には、バッチャン熟睡。
ぼつぼつ、うなぎじゃね!うなぎを肴に、ウイスキーなんかいただいて。
京都にさしかかったら、バッチャン目を覚ます。あ、ごめんね!ご飯をいっぱい残して。
奈良付けで頑張ったんじゃけどネ。お百姓さん、ごめんなさいねエ。
<そんなに残して!ばちがあたるよ!>と、バッチャンの視線?
新大阪で、突然そわそわのバッチャン。
「あと15分はありますよ。大丈夫です」
「ああそうですねエ」
「失礼ですけど、おいくつですか?」と、話題づくりを試みる。
「いくつに見えますか?」と、定番のご質問。
「75,6かなア」と、リップサービスを怠らない。
「ウヒュウヒュ、じきに90です」
「え?見えませんねえエ」と、ダブルのリップサービス!
「そんなことございアせんよ」と、江戸っ子ですねエ。
「おわかい!」これでもか!とサービス。
「ウヒュウヒュ。そんなことは・・・」絶好調のバッチャン。
うれしそうにしながらも、荷物棚を見上げる。そこには、バッチャンのコートが鎮座している。
羽織るのをお手伝いしたら、お菓子をくれた。お返しに、趣味で作った自作の名刺だ。
「まあ、結構なご趣味で」
「いやそれほどでも・・」
「ホオ?、お医者さんですか。あら、会議で東京へ!」
「はあ、そのあとで落語を」
「そらまた、結構なご趣味で」
「いやそれほどでも・・」
「兄も研究会で、時々東京へ来るんですよ」
<この人の兄じゃから、オーバー90才で!?>なんか話が?まっ良いか。
89才でこれじゃから、あり得んことはないネ。
でも、「年をとると耳が遠くなって・・・」だと。
ときどき返答がおかしかったのは、ボクの話に適当に合わせていたワケ?
心配じゃから、ついでにデッキまで見送る私ですわ。
一番先に降りなきゃ気がすまないバッチャン。
席に戻ると、プラットホームから笑顔で見送ってくれた。
発車までの数十秒の長いこと長いこと。
絨毯につまずいて転んだとき、名誉の左手小指の骨折。
シーネ(添え木みたいなもの)付を、振りまくりの笑顔満面でお別れ。
いつまでも手を振っていた。今日はポートピアらしい。
出迎えのお孫さん(55,6才?)も、訳を聞いてこっちへ笑顔と何度もお辞儀の連発。
窓辺に残る、バッチャンからもらったキャンデイの小箱。
易落下コンクリ地帯へ突入じゃア!と言うことで。
弁当売りの娘に「丈夫なメット1ヶ!」って言いそうになっちゃったイ。
ホントはネ。今日は、アイスコーヒーが欲しいッ。
小郡到着で、あのバッチャンどうしてるかなア?
それにしても「東京へいらしたら、お寄りくださいね!」って言われたけど。
そう言えば、名前も住所も知らないバッチャンじゃった。
昨夜のトリは、左近亭しん馬師匠。
艶のある声、モチャモチャ言って言葉がはっきりしないんだけど聞き込んじゃう魅力。
今夜の噺は、ボクの一番好きな「火焔太鼓」。
この噺は、師匠が明治の末に前座だった頃に聞き覚えたモノ。
あまりやり手がいなかったこの噺を、初代三遊亭遊三が白梅亭でした時に楽屋で聞き覚えたらしい。
その後、桂文楽師匠が得意としていた。しん馬師匠の初演は昭和の初期だったそうで。
独自のくすぐりを入れて練りに練った結果、出来上がった噺だそうだ。
くすぐりはを連発して進むのが特徴で。
沢山食らうとへなちょこカウンターどころじゃなく、胸へぐぐっと効いてくるジャブのような感じを受けたモノだ。
いつもそう思って聴いていた。くすぐりはもちろん、サゲまで知っていても楽しく聴けたのもこの師匠の噺だ。
「以前はッてえと、夏んなると夏のような売り物が出てきまして。もう夏だなッてえのが分かりましたな。
ところてんを売るとかネ、エエ。虫売りなんてのもあったりして」
ポソポソとまくらが始まると、客は水を打ったようにシーンとしたモンです。
太鼓に往来でハタキをかけるところでは、埃が客席まで飛んでくるような錯覚さえ覚えたモノです。
「今度は俺ア、半鐘を買ってきて。たたき売って…」
「半鐘はいけないよウ、おじゃんになる」とサゲると、深々とお辞儀をして幕が下りる。
フウーっとため息をつく。急に意識が戻った病人のように、ボクは朦朧とした頭で拍手をするのが常だった。
また行こうかな?と思った。
---<回想終わり>
8月10日
末広亭を出たのが、9:45だった。大通りに出て、少し歩くとライブハウス「J」だった。
既にライブが始まっているのが、分厚いドアを開ける前から分かった。
ドアを開けた途端に、心地よいジャズピアノが耳をくすぐった。
「一人なんですけど…」
「あちらの席で宜しいですか?あのー。もしかして、お客様はMIHIさんでしょ?」
実はこの「J」のホームページに掲示板があって、出発前に書き込んでおいたのだ。
<今度、代野徹スーパートリオをエンジョイしに伺います。店長さんによろしく!>を似顔入りで。
「ハイ、そうです。席は、何処でも結構です」
「あの似顔絵そっくりですね。すぐ分かりました」
黒のロングスカートに、胸が開いた白いブラウスの女性が笑顔で案内してくれた。
その席は、三ヶ月前に来たときと同じ場所だった。
「バーボン・ダブルでロックとミックスナッツ」
その夜はインターネットで調べたとおり、「代野徹スーパートリオ」だった。
ボクの席とピアノまではおよそ5m、ベースの顔もドラマーの顔もちゃんと見える位置だ。
代野さんの背中はよく見えたが、手元は全く見えなかったのは仕方がないとして。
ただ、指でドミノ倒しみたいにダラダラーと弾くヤツが気に入らない。
気になり出すと、耳に付くわけで。40分ほどいたのに、これ以上耐えられなくて脱走してしまった。
ロックを3杯いただいて靖国通りに出ると、タクシーを拾いホテルへ直行した。
このホテルは、アジア系の外国人家族が多い。
あいているエレベーターに入ったとき、5人の人が壁にへばりついていた。
ドアに向かうと、ぐるりを取り囲まれたカンジだった。
ドアが閉まった瞬間に、初老の男が口を開く。
それに呼応して、2人の初老の夫婦が応じる。
ボクは、12階まで中国語のシャワーを浴びながら上昇し続けた。
背中にドアの閉まる音を聞いても、頭の中は異国の言葉が行き交っていた。
TVのリモコンに手を伸ばした。
電源が入り少し間をおいて映し出された画面を見て、ボクは「あっ」と声を上げた。
左近亭しん馬師匠が末広亭の帰り道にタクシーの中で意識を失い、救急病院に担ぎ込まれたことを報じていたのだ。
数人の若手と共に、「インターネット寄席」の旗揚げに向かう途中だったとか。
師匠は年を取っても頭は柔軟で、弟子との連絡は全てEメールで行っていたらしい。
何かの雑誌に、太い指でモバイルパソコンのちっちゃなキーボードを打っている写真を見たことがあった。
信号で運転手が振り向いたら亡くなっていたので、不審死と言うことになったらしい。
師匠の友人の手で、法医解剖が行われたそうだ。
後に、心筋梗塞によるショック死と伝えられた。
左近亭しん馬落語の時代がとうとう終わったな、ボクはそう思った。
8月11日
大学入学試験がすべて終わって、門を出るとボクは大きく背伸びをした。
山陽本線の鈍行に乗ったのが、確か16時過ぎ。
岡山駅まで5つの列車を乗り継いで、高松に朝6時到着の予定であった。
夜明けまでまだ随分ありそうなほどに、暗闇だった。
連絡船が宇野と高松の中間あたりをすぎた頃、高松の方面を見ると海がきらきら光っていた。
高松の街灯りではなかった。2度目に見た、夜光虫の輝きだった。
その光は薄黄色で、冷え切っていて弱々しく悲しい。
これをモチーフに、高校生時代に童話を書いたのを思い出した。
東京の喫茶店ではソバは出ないし、大阪の喫茶店にたこ焼きは無い。
高松だけでなく香川県のほとんどの町にある喫茶店には、うどんがメニューにある。
たっぷりの鰹といりこだしで薄味醤油が定番の香り。
コーヒーの香りとが同居しても少しも不思議ではない。
店主の道楽で、ちょっとしたうどん屋より数段美味いうどんを食べさせてくれる店を知っていた。
讃岐うどんの美味さは、ゆでてから10分と言われている。
だから、通と言われる人は店でうどんを食べない。
製麺所で、ゆでたてを買い生醤油をかけて食べるのだ。安くて、美味い。
製麺所直営の店というのもあった。
うどん玉を竹で編んだかご状のモノに入れて貰い、自分で気に入った時間だけ湯がくのだ。
このかごは、高校3年生の時に、金属のモノに変わった。
暖めてあるどんぶりに、湯気を上げているうどん玉をささっと入れる。
続いて、ガスで暖めてある大きな容器の蛇口から、つゆをたっぷり注ぐ。
どんぶりを手で持ったまま、つゆを注ぐと散った汁でやけどをすることがある。
真ん中のテーブルに置いてある、刻みネギと天カスは入れ放題。
野菜とエビの天ぷらがそれぞれ10円と15円。
うどん玉が1ヶ20円だったから、フルコースを入れても45円で済んだ。
自己申告で、45円を支払った。
たいていの高校の裏門から歩いて10分で、そんな店があったと記憶している。
我が家の庭は結構広くて、ミニ公園風にしてある。
時々だが、スタッフを集めてガーデンパーティを開く。
今日はいつになく力が入っている。
香川県の城亀庵から取り寄せたうどんが、メインでお出ましの予定だ。
メニューは「ぶっかけうどん」っていうやつで。
湯がいたうどんに大根下ろしとネギをかけ、味は生醤油で。
大根下ろしはちょっぴり辛かったけど、昔食べたことがあるようなカンジだった。
うー、懐かしい!!城亀庵は、丸亀市のお城の西側にあった。我が母校は東側。
我が母校の校歌は「亀城のほとり、(讃岐)富士のもと・・・・・。」で始まる。
箸でつまんでもしなることはしなるが弾力があって、けしてプツッと切れない。
歯の間で、ゴムを噛むカンジがするのが分かるわけでして。この弾力が讃岐うどんの命。
まあ。うどんはあまり噛まずに、喉ごしが一番だネ、ってなことを講釈しながら啜り込んだものだ。
座が静かになると、「うどんをよく食べる地方の女性は、昔はうどんのゆで汁で洗髪したんだ。
シャンプー代わりになったそうだ。」とか、「落語には、うどん屋と言う噺があって。
小さん師匠の噺があまりにも上手かったので、ほかに演り手があまり居なかったそうだ。
ただ、三笑亭可楽師匠がやったことがあるらしい。」
なんてなことをしゃべったりして、かえって座を白けさせたものだ。
ガーデンパーティのために、城亀庵にインターネットで注文しようとホームページをアクセスした。
1週間ほど、喪中のためにお休みをするとのことだった。
すぐさま、讃岐日報のホームページを開いたら、城亀庵の店主が急死したことを載せていた。
しかし、死因についてははっきりせず、「急性心不全」となっていた。
私は医局へ帰って休暇予定表をはがす時に、気付いた。
自分の予定表通りの場所で、心臓死が起こっている!
何かの偶然と言うより、必然と言った方が適切な感じがした。だが、8月の7日と9日は誰も死んでいないのだ。
それが、妙に心にひっかっかた。
「良い旅だったかい?旅先で何か楽しいことはなかったかな」
旅なんて言う言葉は、滅多に使わない彼だった。
珍しいこともあるモンだという気持ちがよぎりつつ、先月二人で出かけた旅を思い出していた。
「教授からなんだけど、マニラの学会に明日から3日間ほど行ってこいって」
「えー、そんな急にか?で、何の学会だったっけ?」
「アジア太平洋循環器学会だよ。教授の代理で君とボクが行けって。
既に出席者変更の手続きはしてあるらしいから行かなきゃならんようだぞ」
「外堀を埋められたんじゃ、逃げるわけにも行かないしな。しようがないけど、二人で行って来ようか」
「一日だけ、オプショナルツアーもあるらしい」
「へエー。じゃあ、宜しくお付き合いを!」
フィリピン・エアラインの往復チケットを渡されたボクは、まるで当直のバイトにでも行くような気分で出発した。
歓迎レセプションの翌日、教授の代理で午前中の会議に出席した北村。
ボクは何をしにここまで来たのかな?などと思いながら、明日のオプショナルツアーのパンフレットを見ていた。
ボクはパグサハンの滝を見に行くヤツで、北国育ちの北村は泳げないから火山を見に行くバスツアーらしい。
昼食後、13:00きっかりにツアーバスが玄関に横付けされた。
バスに張られた「パグサハン川昇りツアー」を確認して乗り込んだ。
13:30出発ぎりぎりになって、北村が同じバスに乗り込んできた。
「北村は、なんとかボルケーノって言う火山を見るツアーだろ。あっちのバスだよ」
「え、そうだっけ?」
「泳げないからって、わざわざツアーを変更したのは君じゃないか」
「ああ、そうだったね。じゃあ、あっちのバスか。いやいや、失礼失礼」
彼は几帳面で物忘れをするようなヤツじゃなかったから、意外だったので良く覚えていた。
「でも、最近あった事件を知ってるかい?」
「ああ、あれだろ。観光バスの運転手が言うんだろ。あそこに見えてる友達を乗せても良いかって。
友達だっていったヤツが乗り込んでくると、実は強盗だったわけで。
客は、身ぐるみはがされてしまうって言うのは有名な話しだよね。それに、カヌーに乗る時の話を知ってるかい?」
「え、知らないよ」
「そうそう、それ!。何だいそれは?」
「普通は、1艘に3人の客なんだけど。太った客は重いから2人で、支払いが3人分なんだとか。
痩せた船頭しかいなくて、ヤツらは太ったヤツが来ると『チャンピオンは2人だけ。3人は乗れない』って言うらしい」
「本当か?」
「ああ、中部大学の中山先生と東谷先生が文句を言って2人分しか払わなかったら、川の真ん中でカヌーがひっくり返ったそうだ。
あんなひどい目にあった旅行は初めてだって。なんせ、東谷先生は金槌だから、死ぬかと思ったらしい。
手足をバタバタしていたら、すぐ後ろのカヌーの日本人から『そこは浅瀬だから立てますよ』って言われて恥をかいたって」
「冥土への三途の川旅なんてイヤだよ。そんな旅はごめんだね。楽しくなきゃ旅じゃあないよね」
北村が「旅」を強調して3回も言っていたのが印象に残った。
フィリピンでの出来事を思い出したボクは笑いをこらえて、「旅かア、旅ねエ」と言った。
「それで、どうだったんだい?」
日焼けしたボクに向かって、珍しく北村の方からしつこく話しかけてきた。
「ああ。不思議と言うより、不気味なことが次々に起こったよ」
「ふーん、やっぱり」
「ホントに不思議なことばかり起こったよ」
「でも、ちっとも不思議じゃないさ」、後ろ向きのヤツがカレンダーを見ながら小さな声で呟いたのを聞き逃さなかった。
それから少し後のことである。
医局掲示板の北村隷二が発表するアメリカ心臓学会演題タイトルが張り出されているのを見て、すべてを悟った。
「視覚刺激に惹起された血管内皮細胞分泌p33MAPKは心臓アポトーシスを誘導するか?」
詫間大学分子循環病態内科 北村隷二、杉崎孝夫
この研究は、殺人兵器になりうるナと思った。
この視覚刺激は、電子メールを使っても可能らしい。
インターネットは国境を超えることが簡単だ!エンサロンが入手すれば、証拠を残さずに誰でも殺すことが出来る。
それをかぎつけた歌川一樹。彼は組織にとって邪魔な存在だから、当然始末しなければならないであろう。
歌川だけを殺ったのでは不自然であり、いずれ足がつく可能性が高い。
心臓アポトーシスの実験とリスク管理を同時に行ったのではないか?
その日は、北村だけでなく医局員のほとんどが、福岡の学会に出席していた。
研究室では、ボクだけが留守番だった。
ヤツのは自作のパソコンで、二重にパスワードを使ってガードは硬かったが難無く開くことが出来た。
ヤツの学生時代のペンネーム、憧れの女性のあだ名、ヤツが良く聴くミュージシャン、お気に入りの作家と作品タイトル。
知っている限りの言葉を打ち込んだ。そこまで行ってようやく開いたと思ったら、もう一つパスワ−ドを要求された。
彼がむかし飼っていた犬の名前を打ち込んだ時、軽やかな音色と友に7つのアイコンが出現した。
メーラーはボクと同じApo-mailだ。
「ワンワン」と吠えると、郵便ポストに「リターン・メール!」と、メールの誤配を知らせていた。
「to:ensaron。アポトシースの実験は成功した。年齢制限も無し。Uを消すことにも成功。山本隷一。美酒に乾杯!」
どうやら、彼は実験の成功と酒に酔いしれて1文字のキーを打ち間違ってしまったらしい。
日付を見ると、ヤツが福岡に出張した日だ。
夜遅く、メールを送ったに違いない。朝が早かったのでメールチェックをしていないんだ!今日の夜に帰ってくるはず。
私はMOにすべてのメールを記録したが、冷汗で指先が滑ったようでパソコンの蓋を十分に閉じていなかったようだ。
歌川一樹の母親から荷物が届くと、手紙とノートパソコンがあった。
手紙には、息子が世話になったこと。
そして、自分に何かがあったらノートパソコンを私に送って欲しいと言われたことを記されていた。
バッテリが切れかかっていたらしく、充電を催促していた。
急ぐワケでもあるまいと思い、ボクは充電を始めて街へ出かけた。
先日コンサートに行ったジャズピアニストのCDを買い込んだ。
部屋へ戻ると買ったばかりのCDを回しながら電気で腹一杯にしたノートパソコンのスイッチを入れた。
亡くなる前日に届いた歌川一樹へのメールを発見した。
相手はシェアウエアの作者から。この名前に見覚えがある。
北村隷二の亡くなった兄の名前、養子に行ったので苗字は山本だったが見覚えのある隷一。
そう言えば、亡くなった人は全員インターネットをしていた。メーラーも同じ。
単なる偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
あれ、バージョンアップのパスワードなんて、普通は送らないけど…。
MeNoZo-2001って聞いたことがあるぞ!
そうだ、介護老人保健施設全国研究大会の時。
金沢の「アクア」の施設長と、新宿で飲んだ時だ。
「先生のホームページは、うちのスタッフの間でも有名ですよ。
でも、最近、可哀想なことをしましてネ。優秀なスタッフが、若くして亡くなったんですよ。」
「ほう、事故か病気で?」
「いつも元気な子だったんですが。急死ってやつで。」
「それはまた…。」
「友人と、電子メールをやり取りしていたらしいんです。最後のメールが、亡くなる前日でして。
私はあまり詳しくないけど。なんでもバージョンなんとかで、MeNoZo-2001がどうしたとか…。」
諏訪市の新聞社に電話をして、中川タケと孫である次郎の家の電話番号を聞いた。
早速電話をすると、次郎の母親が出た。
パソコンなんて触ったことがなかったようだ。
スイッチの入れ方、メーラーの立ち上げ方。受信メールの開き方。
全ては、たどたどしく進んだ。
「え?もう一度お願いします。」
「MeNoZo-2001って、書いてあります。」
そこまで聞けば十分だった。
「分かりました。スイッチを切ってください。お元気で」と言って、受話器を置いた。
後は、城亀庵だ。何度か注文していたのでボクの名前を覚えていたらしく、息子の店主は気安く応じてくれた。
「ハイ。脳卒中で、親父は…。いえ、心臓は元気でした」
亡くなった親父さんには申し訳ないが、ボクはがっかりした。
てっきり、“心筋梗塞”と言うと思っていたからだ。
偶然にしては、パスワードが気になるところだ。
亡くなる前日の届いたメールには、MeNoZo-2002 と言う言葉があったそうだ。
そう思いながら、雑誌「循環と脳」をパラパラ走り読みしていた。あれ?手が止まった。
「虚血性神経細胞死とアポトーシス」のタイトルが目に飛び込んできたのだ。
実験の段階だが、神経細胞に、低酸素というシグナルを入れた実験の論文が載っていた。
細胞が十分にATPを持っていればアポトーシスに至る。
ATPが枯渇していればネクローシス(壊死)になるという報告がある。
これだ、ヤツは、次の実験に取りかかっていたのだ。
幸いにして、心筋細胞は典型的なアポトーシス形態を示さない。
だから、司法解剖をされても「心筋梗塞」としか診断がつかないはずだ。
そして、心臓の次のターゲットは脳だったのか!
既にアポトーシスの実験は、第2段階に入っていたのだ。
それは、パスワードがMeNoZo-2002と2001から1つ増えていることで容易に想像がつく。
アポトーシスと心臓死研究。そして、人体実験の実行。
それをかぎつけた歌川一樹を狙った巧妙な殺人では?
メールを受け取って23時間後に亡くなった人に共通していることと言えば、
「インターネットを利用していて、Apo−mailというシェアウエアを使っていたこと。同じパスワードで、無料のバージョンアップを知らせるメールが来たこと。そして、急死したこと。」だ。
北村に来たメールを開こうとすると、電話が鳴った。
電話に目をやった時、パソコンから「ワンワン」と犬の声がした。
鏡に目をやると、パソコンのディスプレイのアニメーションが小さく輝いたような気がした。
あれ、ボクのApo-mailは光らないんだけどナと思ったとき、
ある宗教の教祖がサブリミナル効果で多くの若者を洗脳しようとしたのを思い出した。
清涼飲料のTVのCMに同じようなことを利用して、批判を浴びたのも記憶に新しい。
このメールに添付されているアニメーションが、メールを開けたとたんに何かの仕掛けが動き出すんじゃないのか。
このアニメーションの何処かに、サブリミナル効果を持たせる細工があるのではないか。
心臓や脳の細胞のある部分にアポト−シスを起す物質(例えば、血管内皮細胞分泌p33MAPKなど)を分泌させるのではないか?
もしも私に何も起こらなかったら、アニメーションを鏡で裏返して見たからかもしれない。
本当は危ないところだったのか?とにかくあと23時間何も起こらなければ、ボクは助かるはずだ。
静かに時が過ぎ去るのを待った。まるまる1日をじっとして過ごしてなどいられなかったから、ただひたすら町中を彷徨った。一人でいることが怖かった。
その夜11:00。何も起こらなかった。と言うことは、ボクは助かったらしい。
「これは、弔いのリベンジだ!」そう言いながら、歌川一樹に来た最後のメールに文章を1行つけて返送した。
<このメールのトリックは解けた。私は君の近くにいる、明日の朝会おう!…・・歌川一樹より。>
アニメーションの添付を忘れなかった。
北村隷二がこの1行を読むのと、ヘッドラインにあるアニメーションの小さな輝きは同時だった。
「参ったネ、これで全てが終わっちゃったナ。そう言えば、きちっと蓋を閉じたはずなのに」
蛍光灯の光を斜めから当てると、「Home」キーにうっすらと汗の結晶が見えた。
「とうとう知ってしまったようだナ。ボクの「Home」キーを使う癖を知っているのは、あいつしかいないはずだし。
2番目のキーワードを知っているのも、ヤツだけしかいない」
翌朝の外来が終わる頃、北村隷二が医局に姿を現した。
顔色は、以前にも増して青白かった。
「北村先生、ご気分でも悪いんですか?」
私の声をうつろな目で聞きながら、諦めたようにニヤリと笑った。
薬のシートをゴミ箱に放り投げながら、
「君にはいろいろ世話になったね、今夜旅行に出ようと思うんだ。
兄が住んでいた福島の家を、もう一度見ておこうと思ってね。
兄の命日に、チケットがとれなくて墓参りが出来なかったから」
「それは急な話ですね。ところで、お兄さんが亡くなったのは確か…」
「8月9日だよ、あのときも暑い日だったな。さて動物舎の諸君にも、お別れをしなきゃ」
踵をひるがえして歩き始めていた彼は、丸めた背中を見せていた。
そして、後ろ手にひとさし指を立てて振った。
多分、気付いているはずだ。だって、ヤツが飼っていた犬の名前を知っているのはボクだけだから。
ゴミ箱の中に、使いかけの喘息の吸入薬の空箱があった。ヤツが喘息だったなんて初耳だ。
そう思ったとき、昨日届いた医学雑誌の記事のタイトルがよみがえった。
「心筋細胞にイソプロテレノールを添加すると、アポトーシス誘導が著しく抑制される」
これかな?、だからヤツは喘息の薬を吸入していたんだ。
北村隷二が自宅のベッドの上で、死体で発見されたことを夜遅く知った。
馴染みの飲み屋を2軒回り、帰り道の屋台で冷や酒を注いでもらっているときだった。
ローカルニュースは、大学病院の若い医者が謎の死を遂げたかのように伝えていた。
翌朝の新聞には、死因は「心筋梗塞に伴う急性心不全」となっていた。
北村の記事は単なる過労死として、小さく扱われていた。
一般の人々は、医者の急死を同情するより不摂生が原因だろう程度にしか思っていないことが多い。
医者の仕事は頭脳労働ではなく、完全な肉体労働だとボクは思っている。
今時ジャズが流れる喫茶は少なくなったが、ここ「エバンス」もその一つだ。
カウンターの奥の椅子に座ると、マスターが声をかけてきた。
「亡くなった北村先生って、幹先生のとこの?」
「うん、同じ医局なんだ」
「2,3回お見えになりましたね。顔色が悪かったような。」
「へえ、そうですか。ヤツは元々北国育ちだから」
「かなり不摂生をしているのかと思っちゃった。あ、そうそう。利根先生とご一緒でしたネ」
「利根先輩かア。彼は開業医だし、しかも僕らとは人種が違うね」
「そうですね、そう言う感じでしたね」
「私は彼に言われたことがありますよ。私の患者を診ないでください!って。
思わず、患者さんが私に見て欲しいって言ってんだよ!あんたがオカシイから。
そう言いたかったけど、ぐっと我慢しましたネ。意見が違うのもあるし、基本的な考え方が違う。
でも、今でもボクの方が正しいと思っている。理論的に説明したけど、ノーレスポンス。
悲しいね、ああいう医者がいること自体が。」
「そうなんですか。あたしらのような凡人には、さっぱり」
「正しいと思い込んでいることが、年を取った医者の年輪になってしまっている。
年輪は刻まれてそのまま修正が効かないんですよ。
それと、『患者さん』に対する感じ方がすでに違うんですよ。
若い医者は、カリスマ性を主張しないけど。多くの年を取った医者は違いますよね。
『自分』が前にどんどん出てくるわけで。『私の患者』って言うヤツほど、ろくな医者はいない。
やっぱ、『私が関わらせて貰っている患者さん』ですよね。
患者さんが、『あんたはもう良いヨ』って言われるまで良い仕事をするのがフツーの医者。
若い医者でも、そのオヤジが医者だと同じようになっちゃうのがフツーですネ。
悲しいくらいの傲慢さだけ、なぜか遺伝しちゃうわけ。だから、後輩を指導する時はいつも言います。
『わしら、散髪屋と一緒や。刈るのはマアマアでも、次に来て貰えなかったらオ・ワ・リ。』
そいでもって、
『ワシらの代わりはなんぼでもいることを忘れるな!甘えんじゃねえぞ。いかにも俺は医者だなんて、偉そうに言うんじゃねえぞ』。
この辺りは、危ない人とあんまり変わらない感じですね。」
「さすが先生ですね。私が尊敬させていただいているのはこういうところの先生の考え方が好きです。
私は喫茶店のしがないマスターですから、大きなことは言えませんが。
53歳の私が本当に頭を下げられる先生は、年だからとか若いからとか関係ないんですよ。
医師として患者さんのことを『本気』で気にかけて、行動する方だからこそ心から頭を下げられると思います。
医師にあってはならないものは、『おごり』ではないでしょうか?別にお医者さんだけではなさそうですねヘッヘッ。
ジャズ喫茶をやっていると、ヘンにオーディオの凝るマスターがいるんですよ。
このアンプで、あのスピーカーでないと音じゃないなんてね。
挙げ句の果てに、CDの音は偽物だ!なんて言ったりして。
案外そう言うところのコーヒーなんて、飲める代物じゃないんですよ」
「へえ、さすがマスターだね」
「先生が言われるようなお医者さんが、案外おられるんですよね。私は相手にしませんが・・・」
「さて、盛り上がったところで撤収かな?」
「お忙しいんでしょ?」
「うん、これから医局に帰って学会の準備なんです。じゃあまた」
医局のヤツの机から、治験薬のカスパーゼ阻害薬のカラが出てきた。
カスパーゼと言う酵素が活性化されて、細胞内の重要な物質である多くのタンパクを切断する。
最終的には、DNAの断片化を引き起こしアポトーシスへと誘う。
カスパーゼは、Executioner’s scissors(死刑執行人の鋏)とも呼ばれている。
しかし、これは既に細胞死が決まった状態で投与することになり細胞死は抑制しない。
それを承知で、服用したのだろう。全ての実験結果を見届けるまでは、死にたくなかったのだ。
研究室の北村隷二の実験テーブルは、何もなかったように綺麗に片付いていた。
その日の午後。北村隷二が扱っていた実験動物が、訳もなく17匹すべて急死した。
飼育係によれば、死因はウイルス感染と言うことだった。そんなはず無いさ、君の実験は大成功だ!
福岡のライブハウス・ラグタイムは、今夜はジミースミスだった。
3週間前に予約してあったから、前に近い席が取れた。
間近に見るヤツの顔は、深いしわが刻まれていた。
キーボードを弾きながら、体を揺すり小さく、大きく「ウーンム、ハッ」とか言った。
別に歌っているわけではないし、唸っているわけでもない。
自然に口からはき出される音と言った風だった。ヤツはかなりの年だが、その分味がある。
2時間ほど、美味いバーボンとジャズオルガンを堪能した。
帰宅すると、馴染んでいたAPo−mailをパソコンからアンインストールした。
翌朝の外来が終わる頃、北村隷二が医局に姿を現した。
顔色は、以前にも増して青白かった。
「北村先生、ご気分でも悪いんですか?」
私の声をうつろな目で聞きながら、諦めたようにニヤリと笑った。
薬のシートをゴミ箱に放り投げながら、
「君にはいろいろ世話になったね、今夜旅行に出ようと思うんだ。
兄が住んでいた福島の家を、もう一度見ておこうと思ってね。
兄の命日に、チケットがとれなくて墓参りが出来なかったから」
「それは急な話ですね。ところで、お兄さんが亡くなったのは確か…」
「8月9日だよ、あのときも暑い日だったな。さて動物舎の諸君にも、お別れをしなきゃ」
踵をひるがえして歩き始めていた彼は、丸めた背中を見せていた。
そして、後ろ手にひとさし指を立てて振った。
多分、気付いているはずだ。だって、ヤツが飼っていた犬の名前を知っているのはボクだけだから。
ゴミ箱の中に、使いかけの喘息の吸入薬の空箱があった。ヤツが喘息だったなんて初耳だ。
そう思ったとき、昨日届いた医学雑誌の記事のタイトルがよみがえった。
「心筋細胞にイソプロテレノールを添加すると、アポトーシス誘導が著しく抑制される」
これかな?、だからヤツは喘息の薬を吸入していたんだ。
北村隷二が自宅のベッドの上で、死体で発見されたことを夜遅く知った。
馴染みの飲み屋を2軒回り、帰り道の屋台で冷や酒を注いでもらっているときだった。
ローカルニュースは、大学病院の若い医者が謎の死を遂げたかのように伝えていた。
翌朝の新聞には、死因は「心筋梗塞に伴う急性心不全」となっていた。
北村の記事は単なる過労死として、小さく扱われていた。
一般の人々は、医者の急死を同情するより不摂生が原因だろう程度にしか思っていないことが多い。
医者の仕事は頭脳労働ではなく、完全な肉体労働だとボクは思っている。
今時ジャズが流れる喫茶は少なくなったが、ここ「エバンス」もその一つだ。
カウンターの奥の椅子に座ると、マスターが声をかけてきた。
「亡くなった北村先生って、幹先生のとこの?」
「うん、同じ医局なんだ」
「2,3回お見えになりましたね。顔色が悪かったような。」
「へえ、そうですか。ヤツは元々北国育ちだから」
「かなり不摂生をしているのかと思っちゃった。あ、そうそう。利根先生とご一緒でしたネ」
「利根先輩かア。彼は開業医だし、しかも僕らとは人種が違うね」
「そうですね、そう言う感じでしたね」
「私は彼に言われたことがありますよ。私の患者を診ないでください!って。
思わず、患者さんが私に見て欲しいって言ってんだよ!あんたがオカシイから。
そう言いたかったけど、ぐっと我慢しましたネ。意見が違うのもあるし、基本的な考え方が違う。
でも、今でもボクの方が正しいと思っている。理論的に説明したけど、ノーレスポンス。
悲しいね、ああいう医者がいること自体が。」
「そうなんですか。あたしらのような凡人には、さっぱり」
「正しいと思い込んでいることが、年を取った医者の年輪になってしまっている。
年輪は刻まれてそのまま修正が効かないんですよ。
それと、『患者さん』に対する感じ方がすでに違うんですよ。
若い医者は、カリスマ性を主張しないけど。多くの年を取った医者は違いますよね。
『自分』が前にどんどん出てくるわけで。『私の患者』って言うヤツほど、ろくな医者はいない。
やっぱ、『私が関わらせて貰っている患者さん』ですよね。
患者さんが、『あんたはもう良いヨ』って言われるまで良い仕事をするのがフツーの医者。
若い医者でも、そのオヤジが医者だと同じようになっちゃうのがフツーですネ。
悲しいくらいの傲慢さだけ、なぜか遺伝しちゃうわけ。だから、後輩を指導する時はいつも言います。
『わしら、散髪屋と一緒や。刈るのはマアマアでも、次に来て貰えなかったらオ・ワ・リ。』
そいでもって、
『ワシらの代わりはなんぼでもいることを忘れるな!甘えんじゃねえぞ。いかにも俺は医者だなんて、偉そうに言うんじゃねえぞ』。
この辺りは、危ない人とあんまり変わらない感じですね。」
「さすが先生ですね。私が尊敬させていただいているのはこういうところの先生の考え方が好きです。
私は喫茶店のしがないマスターですから、大きなことは言えませんが。
53歳の私が本当に頭を下げられる先生は、年だからとか若いからとか関係ないんですよ。
医師として患者さんのことを『本気』で気にかけて、行動する方だからこそ心から頭を下げられると思います。
医師にあってはならないものは、『おごり』ではないでしょうか?別にお医者さんだけではなさそうですねヘッヘッ。
ジャズ喫茶をやっていると、ヘンにオーディオの凝るマスターがいるんですよ。
このアンプで、あのスピーカーでないと音じゃないなんてね。
挙げ句の果てに、CDの音は偽物だ!なんて言ったりして。
案外そう言うところのコーヒーなんて、飲める代物じゃないんですよ」
「へえ、さすがマスターだね」
「先生が言われるようなお医者さんが、案外おられるんですよね。私は相手にしませんが・・・」
「さて、盛り上がったところで撤収かな?」
「お忙しいんでしょ?」
「うん、これから医局に帰って学会の準備なんです。じゃあまた」
医局のヤツの机から、治験薬のカスパーゼ阻害薬のカラが出てきた。
カスパーゼと言う酵素が活性化されて、細胞内の重要な物質である多くのタンパクを切断する。
最終的には、DNAの断片化を引き起こしアポトーシスへと誘う。
カスパーゼは、Executioner’s scissors(死刑執行人の鋏)とも呼ばれている。
しかし、これは既に細胞死が決まった状態で投与することになり細胞死は抑制しない。
それを承知で、服用したのだろう。全ての実験結果を見届けるまでは、死にたくなかったのだ。
研究室の北村隷二の実験テーブルは、何もなかったように綺麗に片付いていた。
その日の午後。北村隷二が扱っていた実験動物が、訳もなく17匹すべて急死した。
飼育係によれば、死因はウイルス感染と言うことだった。そんなはず無いさ、君の実験は大成功だ!
福岡のライブハウス・ラグタイムは、今夜はジミースミスだった。
3週間前に予約してあったから、前に近い席が取れた。
間近に見るヤツの顔は、深いしわが刻まれていた。
キーボードを弾きながら、体を揺すり小さく、大きく「ウーンム、ハッ」とか言った。
別に歌っているわけではないし、唸っているわけでもない。
自然に口からはき出される音と言った風だった。ヤツはかなりの年だが、その分味がある。
2時間ほど、美味いバーボンとジャズオルガンを堪能した。
帰宅すると、馴染んでいたAPo−mailをパソコンからアンインストールした。
翌朝の外来が終わる頃、北村隷二が医局に姿を現した。
顔色は、以前にも増して青白かった。
「北村先生、ご気分でも悪いんですか?」
私の声をうつろな目で聞きながら、諦めたようにニヤリと笑った。
薬のシートをゴミ箱に放り投げながら、
「君にはいろいろ世話になったね、今夜旅行に出ようと思うんだ。
兄が住んでいた福島の家を、もう一度見ておこうと思ってね。
兄の命日に、チケットがとれなくて墓参りが出来なかったから」
「それは急な話ですね。ところで、お兄さんが亡くなったのは確か…」
「8月9日だよ、あのときも暑い日だったな。さて動物舎の諸君にも、お別れをしなきゃ」
踵をひるがえして歩き始めていた彼は、丸めた背中を見せていた。
そして、後ろ手にひとさし指を立てて振った。
多分、気付いているはずだ。だって、ヤツが飼っていた犬の名前を知っているのはボクだけだから。
ゴミ箱の中に、使いかけの喘息の吸入薬の空箱があった。ヤツが喘息だったなんて初耳だ。
そう思ったとき、昨日届いた医学雑誌の記事のタイトルがよみがえった。
「心筋細胞にイソプロテレノールを添加すると、アポトーシス誘導が著しく抑制される」
これかな?、だからヤツは喘息の薬を吸入していたんだ。
北村隷二が自宅のベッドの上で、死体で発見されたことを夜遅く知った。
馴染みの飲み屋を2軒回り、帰り道の屋台で冷や酒を注いでもらっているときだった。
ローカルニュースは、大学病院の若い医者が謎の死を遂げたかのように伝えていた。
翌朝の新聞には、死因は「心筋梗塞に伴う急性心不全」となっていた。
北村の記事は単なる過労死として、小さく扱われていた。
一般の人々は、医者の急死を同情するより不摂生が原因だろう程度にしか思っていないことが多い。
医者の仕事は頭脳労働ではなく、完全な肉体労働だとボクは思っている。
今時ジャズが流れる喫茶は少なくなったが、ここ「エバンス」もその一つだ。
カウンターの奥の椅子に座ると、マスターが声をかけてきた。
「亡くなった北村先生って、幹先生のとこの?」
「うん、同じ医局なんだ」
「2,3回お見えになりましたね。顔色が悪かったような。」
「へえ、そうですか。ヤツは元々北国育ちだから」
「かなり不摂生をしているのかと思っちゃった。あ、そうそう。利根先生とご一緒でしたネ」
「利根先輩かア。彼は開業医だし、しかも僕らとは人種が違うね」
「そうですね、そう言う感じでしたね」
「私は彼に言われたことがありますよ。私の患者を診ないでください!って。
思わず、患者さんが私に見て欲しいって言ってんだよ!あんたがオカシイから。
そう言いたかったけど、ぐっと我慢しましたネ。意見が違うのもあるし、基本的な考え方が違う。
でも、今でもボクの方が正しいと思っている。理論的に説明したけど、ノーレスポンス。
悲しいね、ああいう医者がいること自体が。」
「そうなんですか。あたしらのような凡人には、さっぱり」
「正しいと思い込んでいることが、年を取った医者の年輪になってしまっている。
年輪は刻まれてそのまま修正が効かないんですよ。
それと、『患者さん』に対する感じ方がすでに違うんですよ。
若い医者は、カリスマ性を主張しないけど。多くの年を取った医者は違いますよね。
『自分』が前にどんどん出てくるわけで。『私の患者』って言うヤツほど、ろくな医者はいない。
やっぱ、『私が関わらせて貰っている患者さん』ですよね。
患者さんが、『あんたはもう良いヨ』って言われるまで良い仕事をするのがフツーの医者。
若い医者でも、そのオヤジが医者だと同じようになっちゃうのがフツーですネ。
悲しいくらいの傲慢さだけ、なぜか遺伝しちゃうわけ。だから、後輩を指導する時はいつも言います。
『わしら、散髪屋と一緒や。刈るのはマアマアでも、次に来て貰えなかったらオ・ワ・リ。』
そいでもって、
『ワシらの代わりはなんぼでもいることを忘れるな!甘えんじゃねえぞ。いかにも俺は医者だなんて、偉そうに言うんじゃねえぞ』。
この辺りは、危ない人とあんまり変わらない感じですね。」
「さすが先生ですね。私が尊敬させていただいているのはこういうところの先生の考え方が好きです。
私は喫茶店のしがないマスターですから、大きなことは言えませんが。
53歳の私が本当に頭を下げられる先生は、年だからとか若いからとか関係ないんですよ。
医師として患者さんのことを『本気』で気にかけて、行動する方だからこそ心から頭を下げられると思います。
医師にあってはならないものは、『おごり』ではないでしょうか?別にお医者さんだけではなさそうですねヘッヘッ。
ジャズ喫茶をやっていると、ヘンにオーディオの凝るマスターがいるんですよ。
このアンプで、あのスピーカーでないと音じゃないなんてね。
挙げ句の果てに、CDの音は偽物だ!なんて言ったりして。
案外そう言うところのコーヒーなんて、飲める代物じゃないんですよ」
「へえ、さすがマスターだね」
「先生が言われるようなお医者さんが、案外おられるんですよね。私は相手にしませんが・・・」
「さて、盛り上がったところで撤収かな?」
「お忙しいんでしょ?」
「うん、これから医局に帰って学会の準備なんです。じゃあまた」
医局のヤツの机から、治験薬のカスパーゼ阻害薬のカラが出てきた。
カスパーゼと言う酵素が活性化されて、細胞内の重要な物質である多くのタンパクを切断する。
最終的には、DNAの断片化を引き起こしアポトーシスへと誘う。
カスパーゼは、Executioner’s scissors(死刑執行人の鋏)とも呼ばれている。
しかし、これは既に細胞死が決まった状態で投与することになり細胞死は抑制しない。
それを承知で、服用したのだろう。全ての実験結果を見届けるまでは、死にたくなかったのだ。
研究室の北村隷二の実験テーブルは、何もなかったように綺麗に片付いていた。
その日の午後。北村隷二が扱っていた実験動物が、訳もなく17匹すべて急死した。
飼育係によれば、死因はウイルス感染と言うことだった。そんなはず無いさ、君の実験は大成功だ!
福岡のライブハウス・ラグタイムは、今夜はジミースミスだった。
3週間前に予約してあったから、前に近い席が取れた。
間近に見るヤツの顔は、深いしわが刻まれていた。
キーボードを弾きながら、体を揺すり小さく、大きく「ウーンム、ハッ」とか言った。
別に歌っているわけではないし、唸っているわけでもない。
自然に口からはき出される音と言った風だった。ヤツはかなりの年だが、その分味がある。
2時間ほど、美味いバーボンとジャズオルガンを堪能した。
帰宅すると、馴染んでいたAPo−mailをパソコンからアンインストールした。
その日の午後は、学会の発表練習をしていた。
私はせっかちで早口だから、出来るだけゆっくり読む練習は欠かせない。
小会議室で、時計片手にうじゃうじゃ言っていたら。
「あ、幹センセでしたか。使ってない会議室から声が聞こえるので・・・。」事務の方とか。
「あ、何しとるん。え?学会の練習。へー、頑張りや!」同級生とか。
「あら、センセでしたか。誰かと思った。え?ああ。学会。へー」
看護副部長とか。ドアを開けては、いちいち声がかかるワケで。
その度に、計っていた時間がわからなくなっちゃう。
3回続けてやられて、気が楽になった。
もう良いんだモン!時間なんてどうでもイイや、てなカンジになって。
同級生なんか、「少々のことは気にしなくてエエんじゃろ?」。
「昔、10分オーバーした人がいて。議長の指示で、マイクのスイッチ切られたのを見たけど」
「へー、根性あるなー。」
「どっちが?」
「うーん、両方!」
なんて言う会話を同級生と交わしたり。
さて、明日は岡山市だ。帰りは、ビールだぞ!っと。
お土産は・・・明後日は、市民公開講座だし。
11:00に打ち合わせ。15:30集合して、最後のセッションに参加の予定。
客は疲れて帰っちゃうんじゃないのかな?Macで、スライドショーを使います。
フリーズしても良いように、3台用意しているらしい。どうなることやら。
月曜日は、介護審査会。その週の、祝日は当直で。
次の週は、有休を取って由布院の予定だった。
あ、その前にクラシックコンサートもあった!
最近やっとい色々と余裕が出てきたわけで。
その勢いで、 ホームページが2MBを越えてしまった。
手続きを取って6MBまでOKに。これで少々のファイルも大丈夫だ。
安心して、写真にイラストに・・・。もっと、コンテンツを充実させようかな?
ガーデンテーブルが1ヶとチェアが4ヶのペンキを塗っただけで全身の筋肉痛!
あ、剪定が2本あったけどギブアップ。昼食に、「行列の出来るうどん屋」へ直行。
汁は薄口醤油で、揚げは少しだけ甘く。ちゃんと、いりこだしも良い。
ネギは入れ放題で、天ぷら1ヶ¥100。野菜の天ぷら、¥80。
麺は細身が気に入らなかったけど、へっぴり腰は結構あった。
田舎で食べ慣れた讃岐うどんの半分の太さが気になった。
たっぷりネギを入れて、一味を振って。
久しぶりに美味しいキツネうどんが、¥250。
今度は、ゆでた醤油に生醤油で行こうかな?これで¥200。
嬉しい安さは最高!美味しいモノをいただくと、読書のスピードが少しだけ帰ってきた。
で、「圓生の(下)」、「サンタクロースの謎」、「江戸前で笑いたい」。
そして、なかなか進まない「マーケットリサーチ」で4冊。
ウクレレはとん死しました。どうも、ああいったモノは才能というか、肌が合わないと言うヤツか。
はたまた、指の形が似合わないと言うか。復刊された「ジャズ・ライフ」と同じ。
ちょっとだけなら良いけど、フルにお相手するのは・・・疲れる。
ハーモニカもやってみたいしオヤジのジャズピアノコースにも通ってみたい。
最近は色んなものが気になっている。
そんな浮気心を取り払いながら残りの夏休みを返上し、医局でカルテ整理をしていた。
ドアが開いて、球磨川教授が部屋に入ってきた。
「幹君だけですか?」
「あ、教授。ハイ、ボクだけです。みんなは、夏休みをとっていますので。
それに今日は敗戦記念日ですし」
「そうですか」
「何か御用事でしょうか?」
「いや、良いんだ」
「あのー、教授。お話したいことがあるんですが…」
「何だね?」
北村の犯した罪の一部始終を、教授に話した。
しばらく黙っていた教授が、口を開いた。
「このことを知っているのは?」
「ボクだけです」
「そうか。こんなことが公になったら、うちの教室は終わりだ」
「そうですね。秘密が漏れないようにしなければ…。小和田助教授には?」
「いや、知らせなくて良い」
「そうですね。ボクだけのモノにしておいた方が、良いかも知れませんね」
「そうだな、頼んだぞ!」
「ハイ、分かりました」
「小和田助教授は、豊北医大に決まりそうだヨ。君は、ついて行くんだろ?」
「ハイ、そのつもりですけど」
「明後日の夜には、大筋が決まるはずだ。連絡が入り次第、君にメールをしよう」
「ハイ、分かりました」
猫背の球磨川教授は、2,3度頷きながら出ていった。
朝寝をして「難病日記」を読んでいたら、
「一度もだまされたことのない人は、良いことをしたことのない人にちがいない」
(リュベルト・マイエル)って言う文章が載っていた。
ここまで速読できて、ピタッと止まってしまった。
「え?うーん・・・。マイッタ!」って言うカンジで。
著者の、三浦綾子はパーキンソン病だそうだ。
病状は進行しながら、薬の副作用(?)で幻覚を見たらしい。
すくみ足はしょっちゅうあるし、寝汗が凄い。
ご主人が昼と言わず夜と言わず、介護をして。本人は、口述で原稿を書く日々。
どうして日々の生活があんなに淡々としていて、感謝の気持ちに溢れているんだろう。
クリスチャンである三浦夫婦で私は無宗教だからなのか、その辺りが良く分からなかった。
個人的には、「人をだますぐらいなら、だまされた方がマシ」とは思っているが。
時計は10時を少し過ぎていた。よっこらしょ!のかけ声で郵便受けへ向かった。
ボクは、眠い目をこすりながら新聞を開いた。
3面記事の下の欄に、死亡記事が載っていた。
帝都大学医学部長で、循環動態学会の次期理事長と目されていた村雨教授の死を知らせていた。
教授会の後、新宿の「K」と言うライブハウスでジャズを聴いているうちに亡くなったらしい。
「これで、球磨川教授の理事長は間違い無しだな」そう思いながら、ボクは再び眠りについた。
次に目が覚めた時は、とっくに昼をまわっていた。
「今日は休みだし、ビルエバンスでも聴きながらコーヒーでも…。」
3曲目が部屋を充満する頃には、珈琲の香りが漂っていた。
「メールでもチェックしようかな。」
パソコンのスイッチが入り、インストールしたばかりの新しいメーラーでメールのチェックをしていた。
「あ、1日早く教授からメールだ。」
豊北医大の件が、決まったことを告げていた。
「あれ?何か添付ファイルがあるようだけど…。メーラーを変えたから、見られないな。
設定しなおさないと。一体、何を教授は…。メールの返事をして、ついでに聞いてみよう。」
教授から来たメールを使って、返信を書いた。
<メーラーを変えたので、設定が不十分で添付ファイルが読めません。何が書いてあったのでしょうか?>
もちろん添付ファイルをつけて。
「来月は、俺も助教授か!仲間内じゃ、最年少だな。」
ニンマリしながら、2枚目のCDをチックコリアに変えた。
最新のジャズの雑誌に、彼がじきにおじいちゃんになることが載っていたのを思い出した。
「こんな格好いいおじいちゃんになりたいモンだね。」、ボクはつくづくそう思った。
翌日は、球磨川教授の回診日だった。
少ない医局員7,8人を引き連れての病棟行脚だ。
ボクは実験の途中だったが、北村君の患者さんを引き継いだので少し送れて病棟に向かった。
カンファレンスが早めに終わったらしかった。
ボクがナース・ステーションから出てきた時、カンファレンスルームから現れた教授と出くわした。
ボクの顔を見て、球磨川教授は顔色が変わった。
「君、どうしたんだ!」
「あ、スイマセン。実験をしていたモノで、遅くなりました」
驚いたボクをのぞき込むように見て言った。
「いや、良いんだ。」
普段なら2,3人のドクターが文句を言われるのだが、珍しく静かに回診は終わった。
ケースカンファレンスも、患者さんのプレゼンテーションの時でも、教授は上の空のように思えた。
心臓の聴診でも、メンブレン(聴診器の膜)が浮きかけていることもあった。
いつもなら医局員の聴診器の扱いには特に厳しい教授であったから、ボクには不思議でならなかった。
手を洗っている姿は、いつもの猫背を更に丸くさせていて小さくしぼんで見えた。
手を洗い終えた教授は、ボクに振り返って言った。
「君は、元気か?」
まさかこんな言葉を教授からかけられるとは思っていなかったので、どぎまぎしてしまった。
「ハイ、元気です」
「それは良かった。うん、良かった」
その夜は同窓会で、4次会がお開きになったのが夜明けだった。
3:30に店を出て、みんなを送って最後がボクの家だった。
ふらつきながらドアを開けようとして、郵便受けの新聞に気付いた。
「もう新聞が来る時間なんだ、ウップ」
新聞をぶらぶらさせながら部屋に入ると、もどかしく服を脱ぎ捨てて眠りについた。
球磨川教授が急死したのを知ったのは、二日酔いが覚め始めた午後2時過ぎだった。
新聞の「循環器専門医、有名教授の心臓死!」のタイトルが、ボクには眩しかった。
死亡推定時刻は、ボクが教授にメールを返信してから23時間が経過していた。
球磨川教授が亡くなったので、小和田助教授は同窓の教授達に推されて当然のように教授になった。
おかげでボクはそのまま助教授になってしまったから、アパートを引っ越す手間が省けた。
相変わらず自分の部屋は、ジャズで一色であった。
引っ越しを機会に、ジャズからカントリーに乗り換えようと思っていたのだがそれは止めになった。
2,3日前に買ったエミリーハリスのCDを廻しながら、コーヒーの豆をひいていた。
コーヒーのほろ苦い香りと、エミリーの透き通った声が程良くミックスされた頃に電話が鳴った。
「あ、幹くん。私だ。すぐに教授室に来て欲しいんだが」小和田教授であった。
「ハイ。すぐに」
アンプのスイッチを切ると、ひきかけたコーヒー豆を放り出した。
いつもの駐車場に止めてあるおんぼろジープに飛び乗った。
エンジンキーを差し込むと、グルルと鈍い音を立てて動き始めた。
「失礼します」
返事を待たずに、ノックと同時に教授室へ進入した。
「おお、済まないね」
「いえ、で、どうされたんですか?」
「この「apo」って言うラベルの付いたMOを見て欲しいんだ。一体何が入っているんだろうね。
球磨川教授の机の引き出しを整理していたら、こいつが1枚奥の方に残っていたんだ」
助教授室は隣だった。
640MBのMOを手にして、自作デスクトップパソコンのスイッチを入れた。
MOが内蔵してあったから、すぐに中が見ることが出来ると思った。
ロックがかけられているらしく、パスワードを要求された。
インターネットで手に入れた「パスワード・キラー」を使った。
あっという間にパスワードが分かってしまった。
MOを開いてみると、球磨川教授と北村の2人だけのデータが並んでいた。
最後に、「投稿原稿」というファイルがあった。
論文のタイトルは
「視覚刺激に惹起された血管内皮細胞分泌p33MAPKは心臓アポトーシスを誘導する:詫間大学分子循環病態内科 北村隷二、杉崎孝夫」だった。
8月7日と8月9日を除いて、8月4日から11日までの日付の付いたファイルがあった。
8月7,9日を除いて、毎日一人ずつ殺されたこととファイルの数が一致する。
恐らく双子である兄の誕生日である7日と亡くなった8月9日に、殺人をしたくなかったのだろう。
その位のセンチメンタルな気持ちがまだ北村にあったらしいなと思うと、何だか可笑しくもあり悲しかった。
「教授!たいしたファイルは入っていませんけど。処分しておきましょうか?」
開け放たれたドアを通して、大きな声を掛けた。
「ああ、頼む。君に任せよう」予想通りの返事だった。
教室の裏に、読まなくなった「アポトーシス」の文献をひとつかみ持って出た。
うつむいたボクのうなじを、夏の日差しがじりじりと容赦なく照りつけた。
辺りに誰もいないのを確認して、くしゃくしゃにした文献束の上にMOを置いた。
シュバッ、マッチが勢いよく炎を上げた。
紙が炎の中でうねりながら、MOを変形させていった。
MOから青白い炎が出始め、紙の煙と混じった。
熱気でボクがめまいを感じた時、青白い炎の中に北村の苦笑いをしている顔を見たような気がした。
小和田教授の手元に、「apo.bkp」とラベルしているもう一枚のMOがあったのを知らなかった。
それから間もなくのことである。
小和田教授は「視覚刺激に惹起された血管内皮細胞分泌p33MAPKは、心臓アポトーシスを誘導する」
と題して学会で発表し、この分野で第一人者となった。
それを機に、ボクは故郷に近い島の診療所に勤めると言い残して大学を去った。
「ありゃ。起動しない!」
買って4ヶ月もしないノートパソコンは、スイッチを入れてもウンともスンとも。
久しぶりに、諏訪市椙田病院の林誠君にメールを送ろうと思っていたのに。
昨日メールを受け取った時、
「10月の九州の学会に出席するから、博多あたりで落ち合って飲もうや!」
とあったのだ。
その後で、OS(オペレーティング・システム)を発売されたばかりのWindows3000に
バージョンアップしたのがいけなかったのかも知れない。
帰宅して起動しようと思ったらこのざまだ。
「なんでも新しい物好きってえのは、イケナイね」
ボクはぶつぶつ言いながら、ほこりをかぶった大学時代のノートパソコンを出すしかなかった。
後になって、これが間違いの元であったことを知ったのだが。
「Brugada症候群」をインターネットで調べようとしたら、メール到着のサインがあった。
「へえ、何だろう?」
受け取ったメールの送り主に記憶はないし、真っ白なメールであったからすぐに削除した。
こんなメールは初めてだね。
きっとあわてん坊の誰かがメールを書く前にアドレスを間違えて送って、偶然ボクに届いたのだろうくらいにしか思っていなかった。
メールアドレスは大学を去ると決めた時に全て削除したはずだから、林君の宛先を改めて打ち込んだ。
中身は<博多が10月11日らしいね。あの日はブルー・ノートに「チック・コリア」が来るはずだ。
良かったら、6:30の第一ステージのチケットを2枚押さえておこうか?>だけだったが。
その夜、林君から返事が来た。
<11日5時からヒマですので、ブルーノートに付き合わせてください。
ところで、君のパソコンはウイルスに感染していますヨ。
先月猛威をふるったウイルス「スカベンジャー」というのをご存じですか?
あれは悪質ではないけど、いたずら好きで。
メーラーの全てのアドレスに、今まで送ったメールをもう一度送るだけなんですけどね。
スカベンジャーとは掃除夫って言う意味でしょ。
メーラーはいつも掃除をして綺麗にしておかないと、大変なことになるぞ!なんて、余計なお世話だよね>
その2日後の朝、診療所の新聞を見て驚いた。
第一面に「日本のホープ、北村隷二教授急死!」の記事を見つけたのだ。
学長選挙の投票が行われている教授会の最中に、突然胸を押さえて倒れ込んだらしい。
そのまま、息を引き取ったと書いてあった。
何故なんだろう?例のことは彼とボクしか知らないはずだから。
誰が、何故、どうやって?疑問が次々と湧いてきたが、どれ一つとして解決の糸口を見つけることが出来なかった。
それから5ヶ月の時が流れ、北村隷二の名前を忘れかけていた。
診療所に届いたパソコンの雑誌にウイルス特集があった。
その中に、「スカベンジャー」を作ったのはRei.Kitaと言う人物らしいとあった。
その人物が、北村隷二だったら?と思った。そんなことはないさ、と自分に言い聞かせた。
「あじゃ!またスイッチが入らん。調子の悪いマシンだねエ」
「日本化学療法学会、肺炎の重症度」スコアを調べるためにインターネットに繋ぐ必要があったのだ。
仕方なく古いマシンを使うと、メール到着のサイン。
取りあえず調べものをして、メーラーを立ち上げた。
日本の誇るジャズピアニスト小曽根真。
彼のフォーラムの立て役者シベ姫からだった。
<今度、山口で小曽根さんと伊藤君子さんとのコンサートがありますよね。行かれますか?>
すぐ返事を送った。
<ハイ、予定しています。実は、この度、縁があって結婚することになりました。
そのフィアンセと一緒にコンサートに行くつもりでチケットを2枚手に入れました。
最近ボクの影響か、彼女もジャズが好きになったみたいです。子供が出来たら、カルテットでも構成しちゃおうかな?>
送信し終わってアドレス帳の最後に小さな文字が見えた。
「あれ、アドレス帳にこんなのがあったっけ」
「個人」や「公用」などのメールグループと一緒に削除したはず。
そう思っていたら「secret」グループを見つけた。
たった1つだけアドレスが残っていたのは、北村隷二のものだった。
ある仮説が、ボクの胸の鼓動を速くさせた。
おそるおそるメール送付ボックスを開いた。
ボクがメーラーを変えてしまい、添付ファイルを読むことが出来なかった球磨川教授からのメールが一つ残っていた。
その彼への返信メールには、例の殺人添付ファイルもついていたはずだ。
ウイルス「スカベンジャー」が、メール送付ボックスにたった一つ残っていた危険なメールを北村隷二に送ってしまったのだ。
兄の遺作でもあったから捨てるわけにもゆかず、メーラーApo-mailを大切に使っていたのだ。
もしかすると、自分で作ったウイルスが自分自身をアポトーシスしたのでは。
「皮肉な話だね」ボクはそう呟いて、古いノートパソコンを初期化した。
初期化の最中、ボクは思った。ヤツの人生も、初期化できたら良かったのに。
その年の秋、ボク達は和歌山経由で東北地方一周のハネムーンに向かった。
今度は安心して秋田、十和田湖、仙台を回ることが出来そうだった。
十和田湖では勿論、南祖坊と八郎太郎の伝説を彼女に披露しようと思った。
仙台では若狭先生が同級生を集めて、ボク達の歓迎会を準備しているはずだ。
その後は、東京で寄席とジャズライブの予定になっている。
新婚旅行から帰ったら、すぐに家探しだ。
詫間大学心身内科教授坂上良三先生から「幹先生に、大学に返ってきて欲しい」と打診があったのだ。
僻地医療も捨てがたいが、研究生活も忘れられずにいた。結局、ボクは大学に帰ることにしたのだ。
弘前駅前の山川旅館は観光シーズンだと言うのに、静まりかえっていた。夕食をすませると、窓を開けた。
ビールでほてった頬を、ひんやりした風が心地よく撫でていった。
「星に願いを、って言う曲を知ってるだろ。ピノキオの。あの元の題名は『When you wish upon a star』って言うんだ。
英語の方が曲の雰囲気を出していて、好きなんだ」
彼女の肩にボクの手を回した時、ピクッと震えたのを手のひらで感じた。
ボク達は夜空にちりばめられた宝石を、手のひらと肩でお互いの温もりを感じながらいつまでも見ていた。
この時、ボクが星に何を願ったかは内緒だ。