〜静かなる雨の響きは〜

 

 




――プリシラ! プリシラ!


低めの男性の声で、プリシラは目覚めた。




雨が細々と降っている。
夕方から続いていた雨は、夜になっても一向に止む気配はなかった。
プリシラは目を開けてゆっくりと体を起こし、その場から窓の外を見つめる。
まるで静かにさめざめと泣いているかのように感じられた雨の音は、プリシラの心に
直接響いた。
「…………」
自分はまだ、忘れられない。
必ず迎えに来るからと行って去っていった、男性の姿を。
「ヒース……さん」
その男性の名前を口にして、きゅっと胸が締め付けられるような思いがした。
ヒース。
それが、プリシラの想い人の名だ。
彼はベルン王国の竜騎士だった。ベルンが怪しい雰囲気に包まれる中、彼はベルン王
の放った命令に従うことが出来ず祖国を脱走する。
そこで、プリシラと出会った。
フェレ候公子エリウッドが率いていた軍に、ヒースが途中から加入してきたのである。
ヒースは初め、プリシラのことをエトルリアの貴族だとは知らずに話しかけてきた。
だがプリシラはそれが嬉しかった。貴族という垣根を越えて気さくに話しかけてくれ
た男性は、ヒースが初めてだった。
しかし、それは程なく発覚する。
ヒースはこれまでのことを自分が無礼だったとし、もう自分の前には現れないと言っ
た。だが、プリシラは涙で頬を濡らしながら引き止めた。
身分など関係ない、ただ自分のそばにいて欲しい。そして、自分も彼の側にいた
い――そんな思いが滲んだ涙だった。


しかし、やはり身分によって二人は引き裂かれてしまう――。


自分は心からヒースを愛していた。
彼も愛してくれていたと、はっきり感じ取れた。
でも、今はもういない。
あの幸せだった日々は、もうない。
戦が起こる前の平和な日々に戻ったものの、プリシラはその戦の中での日々が、一番
楽しかったと感じていた。
たくさんの仲間に囲まれ、幼い頃から憧れていた兄と再会し、そして、彼と出会った――。
あんなに楽しいと思ったのは、久しぶりだった。
そして、帰ってきた今の現実。
空虚で、何もない貴族の暮らし。
また家を出て、ベルンへ行こうかとさえ思ってしまう。
――いけないわ。またお義父様を心配させてしまう……。
ずっと自分を我が娘のように育ててくれた義父の顔を思い出し、プリシラはそっと首を横に振る。
そうだ、いけない。
これ以上自分が好き勝手な行動を取るわけにはいかない。
プリシラは眠ろうとした。
まだ深夜だ。こんな時間に起きてしまっては、どうすることもできない。
プリシラは静かに、掛け布団を被って目を閉じた。




――プリシラ、プリシラ!


また名を呼ぶ声が聞こえる。
プリシラは再度、目覚めてしまった。
「誰……?」
問うまでもなく、分かっていることだった。
声の主は、ヒース。
プリシラの想い人だ。
「ヒースさん……!」
雨が、静かに降っている。
打ち付けるという表現は全く適さないほど、静かに。
「私は……私は……」
あなたを愛していたんです。
その言葉を、プリシラは無理に飲み込んだ。
愛しているだなんて、これ以上に綺麗な言葉などあるのだろうか。
そんな言葉を、自分が口にしてはいけない。
プリシラは咄嗟に、そう思った。
自分は人に思われているほど、綺麗な心の持ち主ではない――。
そうとも、思った。
だから、言葉を飲み込んだ。
「私は、あなたを……未練がましく思っているような、どうしようもない……女です……」
自分で言って、涙が溢れた。
自分で言っている惨めさに、腹が立って悲しくて、どうしようもなかった。
綺麗な言葉なんて言えない。
ただ、あなたを想っている。
それだけでいい――。
「……違う……」
そう思った直後、プリシラは否定の言葉を口にした。
瞳を滲ませた涙は、言葉さえも滲ませてしまっていた。
――私は、彼を愛したい――
真実の心と偽りの言葉でぼやけた視界を、プリシラは外に移した。




雨は、プリシラの想いを代弁するかのように降り続けている。
後先も見えず降り続けてしまうような雨は、初恋に似ている。
いつ晴れるかも、いつまで降り続けるのかもわからなくて――。
遊びに行こうと思っていた子供たちは、空を眺めて口を尖らせる。
大人たちの慰めの言葉も、結局は気休めにしかならなくて。
子供たちはいつか晴れるというわずかな希望だけを胸に、今日も空を眺め続けるのだ。
恋もそう。
いつ自分を受け入れてくれるかも、いつまで自分一人で想いを抱えていかなければな
らないのかもわからなくて――。
恋する人々は、相手の思いを外からうかがうしかできない。
誰かの励ましの言葉も、結局は気休めにしかならなくて。
いつかきっと振り向いてくれるというわずかな希望だけを胸に、今日も想い続けるのだ。
――自分の好きな、あの人を。
  愛してやまない、あの人を。


――プリシラ、プリシラ!


「ヒースさん……!」
彼の顔は、今でもはっきりと覚えている。
はずだった。
だが、今思い出そうとすると、それがぼんやりと滲んで、誰なのか分からなくなるのだ。
「ヒースさん……っ!」
彼は、どんな表情で自分を見ていたのだろう。
彼は、どんな表情で自分を和ませてくれたのだろう。
彼は、どんな表情で別れを惜しんだのだろう――。
思い出せない。
思い出せない。
記憶と結びつかなくて、どうしても思い出せない。
「……っ……!」
悔しくて、悲しくて、また涙が溢れた。
それでも耳には、彼の声が残って響いている――。


――プリシラ、プリシラ……!


「……もう……」
プリシラは頬の涙を、自分ですくい取った。
「もう、呼ばないでください……」
思い出してしまうから。
醜い自分の心に囚われそうになってしまうから。
「もう、私の前に現れないでください……!」
未練が残ってしまうから。
心が痛めつけられたように苦しみ、どうにもならなくなるから。
自分勝手な願いだなんて、百も承知だった。
こんなことを言っておきながら、内心では彼を欲している――。
そんな、わがままな自分が嫌いだ。
だから、どうか、どうか――。


プリシラは夜中、涙で枕を濡らし続けた。
雨は結局、朝になっても止まなかった。
それは、初恋と全く同じ。
この苦しい気持ちは、自分だけで整理がつかないものだから――。