萩市(はぎし)の史跡 | |
@堀内(ほりうち) | |
萩城跡 はぎじょうあと 長州藩(萩藩)の拠点だった萩城は、関が原の戦いに敗れ防長二州に移された長州藩主・毛利輝元(てるもと)が1604年(慶長9)に着工し、4年で完成させた城です。以後、藩政時代の260年間にわたり、毛利氏の居城であり政治の中心地になりました。 <地図> |
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毛利輝元の墓 もうりてるもとのはか 関が原の戦いで敗れた毛利輝元は、秀就(ひでなり)に家督を譲って隠居をしましたが、秀就が幼少だったために実際には引き続き政務をみることになりました。その後、山口移住を強く希望しましたが叶えられず、1625年(嘉永2)4月27日、萩城内四本松邸で亡くなりました。享年73歳でした。ここは、輝元の隠居場所である四本松邸のあったところで、天樹院が菩提寺として建てられましたが、1869年(明治2)に廃寺になり、現在は墓所のみが残っています。 <地図> |
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福原越後旧宅地 ふくはらえちごきゅうたくち この門は、長州藩の永代家老福原家の萩上屋敷の表門です。福原家の領地は宇部ですが、当主は代々毛利家の重臣として萩に住みました。福原越後は徳山藩主毛利広鎮(ひろしげ)の6男として生まれ、藩命により永代家老の福原家を継ぎました。現在、萩に残る重臣の門で、門番所のないものは珍しいそうです。 <地図> |
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旧明倫館跡 きゅうめいりんかんあと 藩校明倫館は、5代藩主吉元のときに堀内に開かれました。11歳の吉田松陰が、13代藩主毛利敬親(たかちか)の面前で「武教全書」戦法篇三戦の講義をしたのもここです。1849年(嘉永2)、江向に移転拡張しました。 <地図> |
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国司親相旧宅地 くにしちかすけきゅうたくち 萩西中学校の西側半分は、蛤御門の変で、福原越後、益田親施(ちかのぶ)らと責任を負った三家老のひとり、国司信濃親相の屋敷跡です。ちなみに東側半分は柳沢家の屋敷があったところで、いずれも建物は残っていません。北川角に石碑が建っています。 <地図> |
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益田親施旧宅地 ますだちかのぶきゅうたくち 永代家老益田家の長屋の一部で、高さ1.8mの石垣の上に建っています。また、旧三の丸北の総門近くにあり物見を兼ねていたので、物見矢倉と呼ばれていました。 <地図> |
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A古萩(ふるはぎ) | |
女台場 おなごだいば 長州藩は外国船の来襲に備えて菊ヶ浜に土塁の築造を住民に命じました。築造に当たって、特に武士の妻や奥女中の功績が大きかったので「女台場」と言われています。 <地図> |
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高杉晋作誕生地 たかすぎしんさくたんじょうち 高杉晋作は、長州藩士高杉小忠太の長男として1839年(天保10)8月20日に生まれました。幕末の高杉家の石高は200石で、家格は徳川幕府の旗本にあたる大組(長州藩では一門、永代家老、寄組につぐ階級)でした。現在も生家は保存されていますが、公開されているのは南側半分で、当時は倍以上の敷地を持つ広大な屋敷でした。また、通りに面した小さな門は当時のものではありませんが、敷地内には井戸や鎮守が残っています。 <地図> |
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木戸孝允誕生地 きどたかよしたんじょうち 桂小五郎(木戸孝允)は、1833年(天保4)藩医和田昌影の長男として生まれ、8歳の時に、隣の家の長州藩士桂九郎浜衛孝古(たかひさ)の養子となり、武士身分になりました。しかし、間もなく養父母が亡くなったために実家で育てられ、20歳の秋に剣術修行のために江戸に行きました。ここは、その桂が20歳まで過ごした木造桟瓦葺2階建の実家で、誕生した部屋や庭などが残っています。 <地図> |
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青木周弼・研藏・周藏旧宅地 あおきしゅうすけ・けんぞう・しゅうぞうきゅうたくち 青木周弼は周防大島町の医者の家に生まれ、江戸で蘭学を学びました。その後、長州藩の藩医として医学所の教官を務めました。研藏は周弼の弟で、長州藩に種痘をもたらせました。周藏は研藏の養子で外務大臣などを務めました。 <地図> |
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好生堂の跡 こうしょうどうのあと 好生堂は長州藩の医学所で、藩医青木周弼(しゅうすけ)すらのおかげで設立されました。好生館から好生堂と改称され、明倫館内に移されました。 <地図> |
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刑場跡 けいじょうあと 処刑場の相首(おくび)町屋敷の不浄の門です。山口県庁を襲撃しようとした前原一誠でしたが、戦況不利となり須佐へ脱出しました。しかし出雲宇竜浦で逮捕され、萩へ護送されました。斬首を宣告された前原ら七人はここで最後の酒宴を開き、前原が「ただいま冥土(めいど)へ行く。なににしても勤王が第一だぜ」と大声で別れを告げ首を打たれました。享年43歳。つづいて、奥平謙輔、横山謙太郎、佐世一清、有福恂允、小倉信一も首をはねられました。 <地図> |
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河上弥市の墓 かわかみやいちのはか 奇兵隊の総督となった河上弥市(弥市郎)は、福岡藩士平野国臣らと七卿のひとり沢宣嘉(さわのぶよし)を擁して生野で挙兵しました。しかし、幕府の追討軍に敗れ自決しました。享年21歳。お墓は長寿寺本堂の左側にあります。 <地図> |
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入江九一の墓 いりえくいちのはか 入江九一は長州藩の武士で、蛤御門の変では参謀として戦いました。しかし、1864年(元治元)7月19日に重傷を負い自刃しました。享年28歳。お墓は長寿寺にあります。 <地図> |
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金子重輔旧宅地 かねこじゅうすけきゅうたくち 金子重輔は、染物商茂左衛門の長男としてここに生まれ吉田松陰に学びました。 <地図> |
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海潮寺 かいちょうじ 海潮寺の本堂は、藩校明倫館の聖廟(せいびょう)が移されたものです。聖廟とは、孔子の霊を祭った聖堂のことで、1874年(明治7)の火災で焼失した海潮寺は、明倫館の聖廟を買収して移築し、再建しました。 <地図> |
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長井雅楽の墓 ながいうたのはか 長州藩士長井雅楽は、1861年(文久元)公武合体、航海遠略策を主張しました。しかしその後藩論が転換し、公武合体の中心人物として弾劾され、1863年(文久3)に45歳で自刃しました。お墓は海潮寺にあります。 <地図> |
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渡辺内蔵太の墓 わたなべくらたのはか 蛤御門の変の後、俗論派に捕らえられ、1864年(元治元)に野山獄で刑死しました。お墓は海潮寺にあります。 <地図> |
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坪井九右衛門の墓 つぼいきゅうえもんのはか 長州藩士坪井九右衛門は、藩政改革で村田清風とともに活躍をしました。しかし、尊攘運動の激化により俗論派の頭目とみなされ、萩沖の羽島に流された後、1863年(文久3)野山獄で処刑されました。お墓は光源寺にあります。 <地図> |
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野山獄跡 のやまごくあと 藩政時代の獄屋跡で、野山獄は上士(じょうし)用、岩倉獄は下士(かし)用でした。獄舎は2棟6室、1室は3畳ほどでした。海外密航に失敗した吉田松陰は1年余りをここで過ごしました。また、高杉晋作も脱藩の罪で投獄されていました。 <地図> |
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岩倉獄跡 いわくらごくあと 松陰の弟子の金子重輔は岩倉獄に投ぜられ、1855年(安政2年)1月ここで病死しました。 <地図> |
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金子重輔の墓 かねこじゅうすけのはか 吉田松陰に従って下田から海外密航をはかった金子重輔は、捕らえられた後、萩に護送され、岩倉獄で亡くなりました。お墓は保福寺にあります。 <地図> |
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杉山松介の墓 すぎやままつすけのはか 杉山松介は長州藩士で、松下村塾に学びました。久坂玄端らと共に尊攘活動に参加し、池田屋事件では、桂小五郎のことを心配して現場に駆け付け、腕を斬り落とされて死亡しました。お墓は泉流寺にあります。 <地図> |
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中島治平旧宅地 なかしまじへいきゅうたくち 中島治平は長州藩士で科学者です。長崎に遊学し、パンや萩ガラスの研究も行ない、藩の舎密局総裁となりました。また萩城内で汽車の模型を試運転し、藩主に供覧しました。また、治平はここに塾を開き、語学を教えていました。明治時代に外務大臣になった青木周蔵はここの塾生でした。 <地図> |
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萩藩御船倉 はぎはんおふなぐら 藩主の御座舟を格納する倉で、1608年(慶長13)に建てられたと思われます。大きさは桁行26.9m、梁間8.8m、高さ8.8m、石壁の厚さは6mです。現在は明治以後の埋立のために河岸から100メートル余りも離れていますが、以前は松本川尻に面して船倉の中まで水が入り、船が自由に出入りすることができました。 <地図> |
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前原一誠の墓 まえばらいっせいのはか 1876年(明治9)10月、萩の乱を起こした長州藩士前原一誠は、11月5日に島根県宇龍港で捕らえられ、古萩の刑場で斬首されました。お墓は弘法寺にあります。 <地図> |
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B平安古(ひやこ) | |
渡辺内蔵太旧宅地 わたなべくらたきゅうたくち 渡辺内蔵太は長州藩士で明倫館に学び、1862年(文久2)には高杉らと品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。また藩論を尊王攘夷にまとめるのに尽力しましたが、蛤御門の変で捕らえられ処刑されました。 <地図> |
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佐久間左兵衛旧宅地 さくまさべえきゅうたくち 長州藩士・佐久間左兵衛は藩校明倫館の助教の後、京都で尊攘派として活躍しました。しかし、福原越後と蛤御門の変に参加するも、敗れて藩に戻って来ました。その後俗論派に捕らえられ、1864年(元治元)11月12日に処刑されました。享年32歳でした。長州4参謀のひとりです。 <地図> |
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村田清風別宅跡 むらたせいふうべったくあと 村田清風は、1820年(文政3)、38歳の時に、長州藩士香川作兵衛からこの屋敷を買い入れ、藩政にたずさわった25年間ここに居住していました。 <地図> |
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毛利登人誕生地 もうりのぼるたんじょうち 毛利登人は長州藩士で、奥番頭を務めました。また、四か国連合艦隊との講和談判に当たりましたが、その後、俗論派により野山獄に投じられ処刑されました。享年44歳。 <地図> |
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久坂玄機誕生地 くさかげんきたんじょうち 久坂玄機は、藩医久坂良迪(りょうてき)の長男で久坂玄端の兄で、20歳年長です。長崎で蘭学を学び、大坂敵塾の塾生となりました。帰郷の後、青木周弼らと種痘 実施の主任を務めました。 <地図> |
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竹内正兵衛旧宅地 たけうちしょうべえきゅうたくち 竹内正兵衛は、長州藩士で4参謀のひとりです。福原越後らと上京した蛤御門の変で敗れ帰藩しました。その後、下関での四か国連合艦隊との戦いにも参加しましたが、佐久間左兵衛同様、俗論派に捕らえられ、1864年(元治元)11月12日に野山獄で処刑されました。享年32歳。 <地図> |
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久坂玄端誕生地 くさかげんずいたんじょうち 久坂玄端は藩医久坂良迪(りょうてき)の子です。松下村塾に学び、吉田松陰の妹と結婚しました。また、高杉晋作らと尊攘運動を進めましたが蛤御門の変で負傷し、1864年(元治元)7月19日に自害しました。享年25歳。 <地図> |
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宍戸左馬之助旧宅地 ししどさまのすけきゅうたくち 宍戸左馬之助は長州藩士で、大坂藩邸の留守居役などを務めました。蛤御門の変では、京都で攘夷派の藩士の説得にあたりましたが失敗し、帰国しました。そして、1864年(元治元)11月12日、野山獄で処刑されました。享年61歳。 <地図> |
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坪井九衛門旧宅 つぼいきゅうえもんきゅうたく 坪井九衛門は長州藩士で、村田清風の失脚後に藩の財政再建を担当しました。 <地図> |
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大楽源太郎誕生地 だいらくげんたろうたんじょうち 長州藩士大楽源太郎は、児玉若狭の家臣、山県信七郎重安の長男として、ここの長屋で生まれました。そして、大楽助兵衛の養子となり大楽家を継ぎました。松下村塾や月性の時習館等で学び、京都で梅田雲浜らと尊攘運動を行いました。その後、防府市台道で西山塾を開きましたが、大村益次郎暗殺事件の疑いをかけられ逃亡し、潜伏先の久留米で暗殺されました。享年40歳。 <地図> |
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C江向(えむかい) | |
明倫館 めいりんかん 1849年(嘉永2)、1万5184坪(50107u)の広大な敷地に移転した長州藩の藩校明倫館は、聖堂、講堂、書庫、書生寮、槍・剣・射術場、医学所、等々を完備した総合学園となりました。 <地図> |
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有備館 ゆうびかん 明倫館に設立された文武修行場で、木造平屋建入母屋造桟瓦葺(いりもやづくりさんかわらぶき)で、桁行37.8m・梁間10.8mの南北に長い建物です。また「他国修行者引請剣槍術場(たこくしゅぎょうしゃひきうけけんそうじゅつじょう」の看板が掲げてあり、萩に来た竜馬はここで長州藩士と剣術の試合をしました。この時、少年剣士と3本試合をして負け、「自分が弱いからだ」と言ったという話しが伝えられています。 <地図> |
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水練池 すいれんのいけ 東西19.5m、南北15.5m、深さ1.5mのプールで、水泳や水中騎馬の訓練が行われました。水練場を設けた藩校は、全国でも会津藩の日新館と明倫館だけで、今はここだけが残っています。 <地図> |
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敬身堂跡 けいしんどうあと 明倫館が再修された際に、下級武士や庶民のために設けられた学問所です。 <地図> |
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椋梨藤太の墓 むくなしとうたのはか 椋梨藤太は長州藩士で、藩の俗論派を代表し、周布政之助らの正義派と藩政の主導権を争いました。蛤御門の変の後に政権を握りましたが、高杉晋作らの挙兵に敗れ、野山獄で処刑されました。享年61歳。お墓は、徳隣寺の奥、北東の角にあります。 <地図> |
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前田孫右衛門旧宅跡 まえだまごえもんきゅうたくあと 前田孫右衛門は長州藩士で、用談役などの要職を務めました。吉田松陰と親交があり、高杉晋作ら尊攘派を支持しました。しかし、第一次長州征伐で俗論党に捕らえられ、1864年(元治元)12月19日、野山獄で処刑されました。享年47歳。 <地図> |
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南園跡 なんえんあと 「南園御殿」や「八丁御殿」と呼ばれた、7代目藩主毛利重就(しげなり)の別邸があったところです。13代藩主敬親(たかちか)は幼少時代を、また10代藩主斉熙(なりひろ)の娘、八重姫が1900年(明治3)に亡くなるまで余生を過ごしました。また幕末には、広い敷地を利用し「好生館」と呼ばれる藩の医学研究施設が造られました。 <地図> |
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D川島(かわしま) | |
山形有朋誕生地 やまがたありともたんじょうち 山形有朋は1838年(天保9)閏4月22日生まれの長州藩士で、松下村塾に学び奇兵隊軍艦となりました。維新後は、徴兵制・軍制を確立し、1889年(明治22)に内閣総理大臣に就任しました <地図> |
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山田宇右衛門旧宅跡 やまだうえもんきゅうたくあと 長州藩士山田宇右衛門は、増野茂左衛門吉の3男として生まれ、山田三郎右衛門の養子となりました。吉田大助に山鹿流兵学を学び、大助の死後は、松陰の後見人となりました。また、藩内では、兵学教授や参政首座などを務め、桂小五郎らと藩政改革にもあたりました。 <地図> |
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桂太郎旧宅 かつらたろうきゅうたく 桂太郎は、1846年(弘化4)11月生まれの軍人・政治家です。山形有朋を補佐して陸軍の軍制改革に着手しました。 <地図> |
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E土原(ひじわら) | |
長防臣民合議書印刷所跡 ちょうぼうごうぎしょいんさつしょあと 「長防臣民合議書」とは、四境戦争に際して、長州藩が自藩の正義を説いた木版刷13丁からなる小冊子のことで、これを藩内全戸に配布しました。ここは、その印刷が行われたところです。ちなみに桂小五郎は、竜馬の求めで「長防臣民合議書」を2部送っています。 <地図> |
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広沢兵助誕生地 ひろさわひょうすけたんじょうち 広沢真臣(兵助)は長州藩士です。四境戦争の際、藩を代表して宮島で勝海舟と休戦講和を結ぶなど、外交面を担当しました。維新後は桂とともに藩閥の代表となりましたが、1871年(明治4)1月9日、東京九段下の自宅で暗殺されました。享年39歳。 <地図> |
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奥平謙輔誕生地 おくだいらけんすけたんじょうち 長州藩士奥平謙輔は、藩校名明倫館で学び、戊辰戦争を経て、越後府権判事となり佐渡を治めました。この時、会津に敬意を表しのちに東大総長を務める山川健二郎を書生として預かり面倒を見ました。しかし、前原一誠らと萩の乱を起こしましたが敗れ、1876年(明治9)12月3日に斬首されました。享年36歳。 <地図> |
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長井雅楽旧宅地 ながいうたきゅうたくち 1819年(文政2)5月1日に生まれた長州藩士長井雅楽は、藩主毛利敬親の小姓役(世話人)や、直目付役(裁判に関わる職)や記録所役を務め、藩政を指導しました。 <地図> |
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入江九一 野村靖誕生地 いりえくいち のむらやすしたんじょうち 入江九一は長州藩士で、松下村塾の門下生です。高杉晋作を補佐して奇兵隊を結成しましたが、蛤御門の変で自刃しました。野村靖は入江九一の弟で、同じく松下村塾に学び、明治になってからは内務大臣、逓信大臣を務めました。 <地図> |
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周布政之助旧宅地 すふまさのすけきゅうたくち 周布政之助が、1859年(安政6)から住んだといわれる旧宅地跡です。建物は現在残っておりません。 <地図> |
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井上勝旧宅地 いのうえまさるきゅうたくち 長州ファイブのひとり井上勝は、長崎の長州藩邸に勤務していた父の影響もあって、子供のころから洋学への志が強く、16歳の時には藩命で洋式兵法を学ぶために長崎に派遣されました。また、函館の洋学塾である「武田塾」に入門したりと、藩内屈指の外国通でした。1863年(文久3)にはイギリスに密航し鉄道の技術を学び、帰国後は工部省鉄道頭(のち鉄道局長)となり、東京−神戸間を全通させました。 <地図> |
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楢崎弥八郎旧宅地 ならざきやはちろうきゅうたくち 長州藩士楢崎弥八郎は、江戸で安積艮斎(あさかごんさい)、大橋訥庵(とつあん)に学び、尊攘運動に参加しました。1863年(文久3)政務役となりましたが、蛤御門の変の後、俗論派に捕らえられ野山獄で処刑されました。 <地図> |
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前原一誠旧宅地 まえばらいっせいきゅうたくち 前原一誠が晩年を過ごした屋敷です。前原は、長州藩士で吉田松陰の門下生です。1863年(文久3)8月の政変により、三条実美らの七卿を護衛して三田尻にくだり、その御用掛を命ぜられました。その後、新政府では兵部大輔となり、陸海空軍の確立に尽力しましたが、萩の乱をおこし1876年(明治9)萩で処刑されました。小野田市に幼少期を過ごした旧宅跡があります。 <地図> |
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大和国之助誕生地 やまとくにのすけたんじょうち 実際には「誕生地」ではなく「旧宅地」だそうです。国之助は、長州藩士山県弥九郎の次男として生まれ、21歳で同藩士大和七兵衛の養子となり、山県武之進から大和国之助に名前を改めました。1860年(万延元)には江戸留守居役を務めました。また、1862年(文久2)には、高杉晋作・久坂玄端らと英国公使館の焼き討ちに参加しました。蛤御門の変の後、俗論党に捕らえられ、1864年(元治元)12月19日、野山獄で処刑されました。享年30歳。 <地図> |
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F椿東(ちんとう) | |
品川弥二郎誕生地 しながわやじろうたんじょうち 品川弥二郎は、1843年(天保14)閏9月29日、萩市松本に生まれました。父は長州藩軽卒の品川弥市右衛門、母は池田六左衛門の長女・満津(まつ)です。15歳になった1857年(安政4)年9月にに松下村塾に入塾しました。その後は江戸に上り、高杉らと尊王攘夷運動に参加し、蛤御門の変に加わりましたが敗れて帰国しました。また、維新後は、内務大臣などを務めました。 <地図> |
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郡司鋳造所跡 ぐんじちゅうぞうしょあと 郡司家はもともと防府市に住んでいた鋳物師で、江戸初期に萩に来ました。鋳造所跡には三男の喜平治が住んでおり、ペリーが来航した1853年(嘉永6)に藩の命令で銃砲鋳造所に充てられました。ここで造られた「長州砲」は、1863年(文久3)の関門海峡での攘夷戦に使われました。 <地図> |
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薩長土連合密議之所 さっちょうどれんごうみつぎのところ ここは鈴木勘蔵の旅人宿があったところです。1862年(文久2)1月14日に、竜馬が武市半平太の書簡を持って、松下村塾に寄宿していた久坂玄端を訪ねて来萩しました。たまたま薩摩藩士田上藤七も、同藩樺山三円が久坂玄端にあてた書簡を持って来宿していたので、久坂を中心にして偶然にも薩長土の三藩士がここに会しました。 <地図> |
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松下村塾 しょうかそんじゅく 松下村塾は、木造平屋建切妻造瓦葺50.90uの小舎で、当初からあった8畳の1室と、増築した10畳半の部分からなっています。初めは、松陰の叔父である玉木文之進が自宅で松下村塾という名の私塾を開き、続いて久保五郎左衛門がその名を継承し、1857年(安政4)11月5日、28歳の松陰が引き継ぎました。また教育期間は、松陰の野山獄出獄から再入獄までのわずか3年に満たない短い間でした。 <地図> |
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吉田松陰幽囚の旧宅 よしだしょういんゆうしゅうのきゅうたく 214uの住宅で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室のほか、板の間・物置・土間のあるかなり大きい建物です。また幽囚の室は、東側にある4畳半の室に神棚が作られ、3畳半の狭いものとなっています。海外渡航に失敗し、野山獄に入れられた松蔭は、1855年(安政2)に釈放となり、実家杉家の一室で謹慎し読書と著述に専念しました。 <地図> |
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吉田稔丸誕生地 よしだとしまろたんじょうち 吉田稔丸は長州藩士で松下村塾の門下生です。また、久坂玄端、高杉晋作、入江九一(くいち)を加えて松下村塾の四天王と呼ばれていました。池田屋事件で新撰組によって命を落としました。 <地図> |
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伊藤博文旧宅 いとうひろぶみきゅうたく 長州ファイブのひとり伊藤博文は、光市の農家に生まれ、少年時代に父母とともに萩の足軽伊藤家の養子となりました。当時は利助(りすけ)と名乗っていました。萱葺き屋根で27坪の質素な住宅で、伊藤は14歳から28歳までの15年間住みました。。建物が現存しています。 <地図> |
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玉木文之進旧宅 たまきぶんのしんきゅうたく 建物は木造茅葺の平屋建で、41.76u、8畳の座敷、4畳の畳部屋、3畳半の玄関、4畳半の板の間、土間の台所、湯殿、便所があります。玉木文之進は吉田松陰の父杉百合之助の末弟で、1842年(天保13)から自宅に付近の子供を集めて私塾を開き松下村塾と名付けました。また、吉田松陰も文之進の講義を受け、のちに塾の名を継承しています。 <地図> |
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吉田松陰誕生地 よしだしょういんたんじょうち 吉田松陰は、1830年(文政13)8月4日、長州藩の下級武士杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として生まれました。杉家の旧宅になる以前は、長州藩士八谷聴雨の山荘で「樹々亭」と呼ばれていました。当時の家の間取り(6畳が2間、3畳が3間、台所、納屋)を示す敷石が復元されています。 <地図> |
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高杉晋作草庵跡 たかすぎしんさくそうあんあと 晋作が東行と称して隠棲した場所を示す碑ですが、実際の草庵は、向かいの田床山登山道を300メートルぐらい進んだところにありました。登山道に「草庵入口」と書かれた小さい道しるべがありますが、建物等は残っていません。 <地図> |
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東光寺 とうこうじ 東光寺は、1691年(元禄4)3代藩主毛利吉就(よしなり)が萩出身の名僧慧極(えごく)を開山として建てた、黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺です。吉就は、宇治市の本山黄檗万福寺を手本に建築し、吉就の死後はここに墓所を造り菩提寺としました。 <地図> |
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元治甲子殉難烈士墓所 げんじきのえねじゅんなんじゅういちれっしぼしょ 東光寺の毛利家墓所の入口付近に、益田・国司・福原の三家老を含めた、第一次長州征伐で自決・処刑された殉難者15人のお墓があります。 <地図> |
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東光寺毛利家墓所 とうこうじもうりけぼしょ ここには、3代から11代までの奇数代の藩主のお墓があります。ちなみに、初代秀就(ひでなり)のほか、2代から12代まで偶数代のお墓は大照院にあります。墓前には、家臣たちが献納した494基の石灯籠があります。 <地図> |
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山田顕義誕生地 やまだあきよしたんじょうち 長州藩士山田顕義は松下村塾の門下生で、蛤御門の変や四境戦争などに参加しました。その後、初代司法大臣を務め、日本大学や國學院大學を創立しました。 <地図> |
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楫取素彦旧宅地 かとりもとひこきゅうたくち 旧姓は、小田村素太郎(そたろう)です。萩藩医の次男として生まれ、小田村家の養子となりました。明倫館で学んだ後は、助教授となりました。妻は、松陰の妹寿(ひさ)を妻で、松下村塾での指導にもあたりました。四境戦争では、宍戸タマキと広島で幕府との交渉にあたりました。また、竜馬が薩長同盟のために山口に来た際に、一緒に奔走しました。維新後は群馬県知事等を務めました。 <地図> |
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松島剛蔵誕生地 まつしまごうぞうたんじょうち 松島剛蔵は長州藩士です。江戸で坪井信長に医学を学んだ後、長崎で航海術を学び、1860年(万延元)、長州藩最初の洋式船・丙辰丸(へいしんまる)の艦長になりました。しかし、第一次長州征伐で俗論党に捕らえられ、1864年(元治元)12月19日、野山獄で処刑されました。享年40歳。 <地図> |
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G護国山(ごこくやま) | |
吉田松陰の墓 よしだしょういんのはか 当初、松陰の遺骸は江戸に葬られました。しかし、松陰の実家杉家と門人らが協力をして、処刑後百か日に当たる1860年(万延元)2月7日、ここに遺髪を埋葬しました。 <地図> |
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久坂玄端の墓 くさかげんずいのはか 楫取素彦が1924年(明治27)に吉田松陰の墓のそばに建てた遺髪墓です。 |
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久坂玄機の墓 くさかげんきのはか 久坂玄端の兄玄機は、藩から海防策を依頼され病中をおして対策を上申しました。しかしこのことが原因で、1854年(安政元)2月27日に35歳で亡くなりました。 |
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高杉晋作の墓 たかすぎしんさくのはか 高杉晋作の遺骸は1867年(慶応3)4月16日夜、吉田村清水山に土葬され、神式の葬儀の後に「東行墓」と刻まれたお墓が建てられました。また13日後の4月29日には、遺族により萩で仏式の葬儀が行われ「東行暢夫之墓」と刻まれたお墓が建てられ、遺髪とへその緒が埋められました。 |
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杉百合之助の墓 すぎゆりのすけのはか 吉田松陰の実父です。 |
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杉民治の墓 すぎみんじのはか 杉民治は、吉田松陰の兄梅太郎です。松陰が亡くなった後の松下村塾は、1872年(明治5)正月、玉木文之進が玉木家で再び開きました。しかし、1876年(明治9)、前原一誠ら塾生が萩の乱を起こしたとして文之進は自刃し、塾も閉鎖されました。その後、1880年(明治13)、民治が最後の教師となって塾を継ぎましたが、塾生は40名余りで、1892年(明治25)に閉鎖されました。 |
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玉木文之進の墓 たまきぶんのしんのはか 玉木文之進は藩校明倫館の塾頭や代官、郡奉行などを務めましたが、萩の乱の責任をとり自刃しました。 |
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吉田稔麿の墓 よしだとしまろのはか 吉田稔麿は長州藩士で、松下村塾で学びました。松陰の死後は、脱藩して京都・江戸で尊王攘夷運動に加わりましたが、1864年(元治元)6月6日池田屋事件で重傷をおい、自刃しました。 享年24歳。 |
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H中津江(なかつえ) | |
中津江火薬製造所跡 なかつえかやくせいぞうしょあと 火薬製錬所のあったところです。四境戦争の最中の、1866年(慶応2)6月27日に爆発事故が起き、焼失しました。山根建設作業場の脇にあります。 <地図> |
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I小畑(おばた) | |
萩反射炉 はぎはんしゃろ 長州藩は海防の必要から、1858年(安政5)に鉄砲の鋳造を目的に試験炉として反射炉を築きました。反射炉は、たき口で熱せられた熱と天井や壁の熱反射を利用して原料を溶かす溶解炉で、佐賀藩で初めて建設され、幕府や薩摩藩、水戸藩などがこれに続きました。現在は、ここと静岡県韮山町しか残っておらず、貴重な史跡となっています。萩湾を見下ろす、椿東前小畑上ノ原の丘陵上に建っています。 <地図> |
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恵美須ヶ鼻造船所跡 えびすがはなぞうせんじょあと 長州藩は1856年(安政3)に、船大工の棟梁らを江戸に派遣して、幕府が建造した西洋式帆船の製造法と運転技術の習得を命じるとともに、ここに造船所を開設しました。さっそく「丙辰丸(へいしんまる)」の建造に着手して、同年12月に進水式を行いました。また、同規模の「庚申丸(こうしんまる)」もここで建造されました。第一号館「丙辰丸」には、当時、藩の海軍教授所に入り明倫館舎長になった高杉晋作も乗船し江戸に行っています。 <地図> |
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J金谷・椿(かなや・つばき) | |
河上弥市旧宅地 かわかみやいちきゅうたくち 河上弥市(弥一郎)は長州藩士で、1863年(文久3)高杉晋作の組織した奇兵隊の総督になりました。 <地図> |
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大照院毛利家墓所 だいしょういんもうりけぼしょ 大照院は、初代藩主毛利秀就(ひでなり)の菩堤を弔うために1656年(明暦2)に2代藩主綱広(つなひろ)によって建てられた臨済宗のお寺です。ここに、歴代藩主初代、2代、4代、6代、8代、10代、12代および婦人のお墓があります。 <地図> |
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奥平謙輔の墓 おくだいらけんすけのはか 萩の乱では参謀長として前原一誠を助け、処刑されました。お墓は毛利家墓所と同じ、大照院墓地の中段南側にあります。目印がないので見つけにくいと思います。ちなみに私は、ご住職の奥様に快く案内していただきました。 <地図> |
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鋳造方跡 ちゅうぞうほうあと 郡司千左衛門により、1860年(万延元)に鋳造方が開設され、荒地清蔵らはここでゲベール銃を製造しました <地図> |
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前原騒動の慰霊碑 まえばらそうどうのいれいひ 兵部大輔前原一誠は、1870年(明治3)の長州藩の脱退騒動の処分をめぐって木戸孝允(桂小五郎)と対立して辞職し帰郷しました。そして、1876年(明治9)10月28日、同藩出身で越後府権判事を務めた奥平謙輔ら同士百数十人とともに挙兵しました。この辺りはその萩の乱の激戦地となりました。 <地図> |
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涙松 なみだまつ 涙松は、萩から山口へ通じる萩往還道の萩駅から約2キロの大千坊師にありました。しかし現在は枯れて、1914年(大正3)に地元の椿青年会が建てた石碑があります。1859年(安政6)5月25日、吉田松陰は野山獄から江戸送りになるとき、しばしカゴを止めて萩に決別の涙をこぼしました。石碑には「帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな」と刻まれています。 <地図> |
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悴坂駕篭建場 かせがざかかごたてば 藩主の一行が萩往還を通る際に、駕籠をおろして休息した場所です。現在は古図をもとに駕籠建場が復元されています。 <地図> |
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K玉江(たまえ) | |
時山直八誕生地 ときやまなおはちたんじょうち 三十人通時山茂作の長男として、1838年(天保9)1月1日に誕生しました。幼名は松太郎。松下村塾の門下生として松陰に学び、後、江戸へ遊学して、藤森天山や安井息軒らにも学びました。また、京都の長州藩邸では、諸藩応接掛などを務めました。 <地図> |
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時山直八の墓 ときやまなおはちのはか 1864年(元治元)、時山直八は蛤御門の変に敗れ帰国し、奇兵隊に入隊しました。そして、大田絵堂の戦い、四境戦争などに参加しました。しかし、1868年(明治元)5月13日、北陸道鎮撫総督の軍監として、越後長岡藩兵との戦い(戊辰戦争)に出征して戦死しました。享年31歳。お墓は、楞厳寺(りょうごんじ)の墓地の中段、西端にあります。 <地図> |
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L須佐(すさ) | |
益田親施の墓 ますだちかのぶのはか 須佐初代領主益田家第20代元祥(もとよし)以下代々のお墓があり、地・水・火・風・空と刻まれた形の異なった墓石が並んでいます。33代親施は、「蛤御門の変」の責任を取らされ徳山で自刃させられました。享年32歳でした。辞世の句は「今更に何怪しまむ空蝉の よしも悪しきも名の変わる世に」。 <地図> |
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笠松神社 かさまつじんじゃ 益田親施を祀る神社です。32歳で生涯を閉じた親施は、1888年(明治21)、靖国神社に合祀され、1891年(明治24)に正四位を贈られました。一方、須佐では、旧臣らによって、1865年(慶応元)2月8日に笠松神社を建てられ、親施の霊を高正大明神としてまつられました。 <地図> |
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笠松神社の石灯篭 かさまつじんじゃのせきとうとう 灯篭に刻まれている元治四年(元治年号は2年しかない)は、徳川に応ずる、を想わせる「慶応」の年号を認めないという意味があるそうです。美祢市の金麗社にも同じものがあります。 |
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育英館跡 いくえいかんあと 育英館は、益田家27代元道(もとみち)が子弟教育のために創立した学校です。33代親施(ちかのぶ)の時には、吉田松陰と親交のあった小国融蔵(おぐにゆうぞう)を学頭として松下村塾と塾生交換が行われ、久坂玄端や伊藤博文らも訪れました。須佐小学校に門が残っています。 <地図> |
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心光寺 しんこうじ 幕末には、久坂玄端や僧月性らが訪れ勤皇倒幕を論じたこともあり、益田親施が自刃した後は、大谷樸助や河上範三らが回天軍を組織してこもり、反俗論党の拠点にもなりました。また、前原一誠も、育英館長阪上忠介らとここで密談をし、萩の乱の時にはこもったこともあります。 <地図> |
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M福栄(ふくえ) | |
大板山たたら製鉄所跡 おおいたやまたたらせいてつしょあと 江戸時代の製鉄所の跡で、元小屋・高殿・砂鉄掛取場・鉄池・鍛冶屋等の主要施設の遺構がよく保存されており、県内最大です。長州藩はここの原料鉄で軍艦庚申丸を造りました。 <地図> |
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Nむつみ | |
奥阿武宰判勘場跡 おくあぶさいはんかんばあと 長州藩は領内を宰判と呼ばれる区画に分け、その宰判に藩の出先機関を置きました。この出先機関を勘場と呼びます。奥阿武宰判勘場は、現在の萩市むつみ・須佐・田万川、阿武郡阿武町・阿東町の村々を管轄地域としていました。勘場の敷地は、面積が約1,300u(約390坪)で、南面には高さ5mを超える石垣や井戸、貯水池も残っています。 <地図> |
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O明木(あきらぎ) | |
三島屋 みしまや 江戸時代の旅籠(はたご)です。 <地図> |
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P佐々並(ささなみ) | |
佐々並の御茶屋跡 ささなみのおちゃやあと 149坪の本館、28坪の御長屋門、3坪の御蔵、9坪の御供中腰掛、一間に八間の仮御馬立が2か所、32坪の御番所が1か所、の建物がありました。一般に、大名・公家・幕府役人等が宿泊する施設を本陣といいますが、長州藩では、その中の藩営のものをお茶屋といいます。 <地図> |
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佐々並の一里塚跡 ささなみのいちりづかあと 萩から4里、三田尻から8里を示しています。 <地図> |
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