光市(ひかりし)の史跡

@島田(しまた)
立石孫一郎の碑
たていしまごいちろうのひ


倉敷藩士立石孫一郎は第二奇兵隊に参加し軍監を務めました。彼は、櫛部坂太郎らと同隊参謀楢崎剛十郎を殺害し、その後倉敷代官所を襲いました。しかし、ここ千歳橋の橋上で襲われ命を落としました。

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清鏡寺
せいきょうじ


倉敷代官所を襲った罪で幕府に追われた立石孫一郎は、第二奇兵隊脱走等を謝罪するために清鏡寺に立ち寄りましたが、密告され千歳橋の橋上で狙撃されました。

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A室積(むろづみ)
如宝寺
にょほうじ


1871年(明治4)、如意寺と宝積院(ほうしゃくいん)が合併されて如宝寺となりました。幕末時代に如意寺(にょいじ)は天造隊の屯所になりました。

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高札場
こうさつば


室積に高札場が置かれていました。

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長州藩中熊毛宰判勘場跡
ちょうしゅうはんなかくまげさいはんかんばあと


1763年(宝暦13)、室積の港を商業港として整備し、以前からあった室積浦海上御勤方(かいじょうおんつとめがた)の御番所に勘場を新設しました。

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専光寺
せんこうじ


藩政時代は渉外館として利用され、幕末諸事件の処理裁判も行われました。また、この寺を本陣として第二奇兵隊の前進にあたる真武隊が結成されました。

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普賢寺
ふげんじ


専光寺が手狭になったために、真武隊の本陣は普賢寺に移されました。またその際、真武隊から南奇兵隊に改称されました。その後、本陣は如意寺(如法寺)へと移されました。

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長州藩撫育方室積会所跡
ちょうしゅうはんぶいくがたむろづみかいしょあと


長州藩は財政改革の一環で撫育方を新設し、その資金で室積港を整備しました。

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室積台場
むろづみだいば


1847年(弘下4)、長州藩は藩内の沿岸防備を厳しくするために室積に台場を造りました。

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B大和(やまと)
縮往舎跡
しゅくおうしゃあと


地元三輪の領主、井原図書が1863年(文久3)に創設した郷校で、浄国寺を借りました。1864年(元治元)に第二奇兵隊の分局となり、講習所、撃剣場、取調所等にあてられました。

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第二奇兵隊練兵場跡
だいにきへいたいれんぺいじょうあと


幕末に石城山(いわきさん)に駐屯していた第二奇兵隊の練兵場跡です。

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第二奇兵隊本陣跡
だいにきへいたいほんじんあと


神護寺(じんごじ)があったところで第二奇兵隊の本陣が置かれました。奇兵隊総督の山内梅三郎は、南奇兵隊の総督を兼務し、両隊は第二奇兵隊と呼ばれるようになりました。また、第二奇兵隊士立石孫一郎らが同隊参謀楢崎剛十郎を殺害したのもここ辺りです。現在、神護寺は平生町大野南に移転されています。

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