岩国市(いわくにし)の史跡 | |
@錦帯橋周辺(きんたいきょうしゅうへん) | |
岩国城 いわくにじょう 関が原の戦いの後、毛利氏の一族である吉川広家(ひろいえ)が出雲から移ってきて、長州藩の支藩である岩国藩をつくりました。1608年(慶長13)に城を完成させましたが、一国一城令により廃城となりました。現在の天守閣は、1962年(昭和37)に再建されたものです。 <地図> |
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天守台 てんしゅだい もともと天守閣は、現在の位置より約50m北にありました。 |
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大釣井 おおつるい 釣井とは深い竪井戸(たていど)のことで、ここに岩国城の井戸がありました。また、万一の際の脱出口を備えていたとも云われています。 <地図> |
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吉川家墓所 きっかわけぼしょ 岩国藩主吉川家代々の墓所で、6代藩主経永(つねなが)を除く歴代藩主と、夫人や子女の墓51基、石灯篭が95基、手水鉢9基があります。 <地図> |
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吉川広家の墓 きっかわひろいえのはか 吉川広家は岩国藩の初代藩主で、関が原の戦いの後、出雲から岩国に移って来ました。墓は吉川家墓所の一番奥にあります。 |
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吉香公園 きっこうこうえん 岩国城を取り壊すことになった吉川広家が居館を構えた場所で、ここで藩政が行われていました。現在は公園になっています。 <地図> |
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旧目家田家住宅 きゅうめかだけじゅうたく 目家田家は岩国藩の旧藩士です。高さが低く、木造一部二階建ての入母屋(いりもや)造りで、武家屋敷らしい住宅として貴重な建物となっています。 <地図> |
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藩校養老館 はんこうようろうかん 岩国高校の前進である岩国藩の藩校「養老館」があった場所です。現在も門の跡が残っています。 <地図> |
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香川家長屋門 かがわけながやもん 岩国藩五家老の一人、香川正恒(まさつね)の居宅の長屋門です。当時の武家屋敷長屋門の代表的なもので、県の文化財に指定されています。 <地図> |
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錦帯橋 きんたいきょう 居館や上級武士の屋敷がある横山地区と、中下級武士の屋敷や町屋がある錦見(にしみ)地区とを結ぶ城門橋です。3代藩主吉川広嘉(ひろよし)が1673年(延宝元)に完成させました。 <地図> |
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清泰院 せいたいいん 当時は竜護寺でした。蛤御門変の責任を負わされた長州藩の家老福原越後は、徳山藩主毛利広鎮(ひろしげ)の子であることから、徳山で切腹するのはしのびないと、同じ家老である益田親施(ますだちかすけ)・国司信濃(くにししなの)らとは別に岩国に送られ切腹をさせられました。 <地図> |
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西福寺 せいふくじ 四境戦争の際、岩国藩の西福寺で僧侶を中心とした電撃隊が結成されました。 <地図> |
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関戸の本陣跡 せきどのほんじんあと 関戸は山陽道の周防国(長州藩)への入口として要衝の地にある場所です。関戸には関所や宿馬が置かれ、参勤交代のための本陣や旅籠等も設けられました。 <地図> |
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村尾家 むらおけ 関戸宿の脇本陣を務めました。また、四境戦争の際は、戦傷兵の病舎になりました。 <地図> |
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A今津(いまづ) | |
蔵屋敷跡 くらやしきあと 長州藩は山代(やましろ)で生産した紙を大阪へ送るために、中継集積地として今津に蔵屋敷を設けました。 <地図> |
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B小瀬(おぜ) | |
籌勝院 ちゅうしょういん 四境戦争の際、長州軍の遊撃隊士が本陣を置いたところです。 <地図> |
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遊撃隊士の墓 ゆうげきたいしのはか 四境戦争で亡くなった遊撃隊士のお墓です。遊撃隊は、1863年(文久3)来嶋又兵衛によって創設され、蛤御門の変でも活躍しました。籌勝院(ちょうしゅういん)の境内左奥にあります。 |
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C由宇(ゆう) | |
村田家の屋敷 むらたけのやしき 村田家は由宇村の永代庄屋です。関が原の戦いの後、出雲から移ってきた岩国藩初代藩主吉川広家は、岩国城ができるまでの間の2年間ここに住んでいました。また、幕末には沿岸防備の指令所にもなりました。なお、母屋は昭和9年に立て替えられています。 <地図> |
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慈雲院 じうんいん 忠果団の屯営となったところです。 <地図> |
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浄専寺 じょうせんじ 忠果団の屯営となったところです。 <地図> |
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善行寺 ぜんこうじ 忠果団の屯営となったとこです。 <地図> |
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御米蔵跡 おこめぐらあと 岩国藩の米蔵があったところです。長年、地元の嶋谷酒場が醸造蔵として使用してきましたが、平成16年に老朽化のために解体されました。現在は「酒蔵まい夢」という喫茶店になっています。 <地図> |
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由宇代官所跡 ゆうだいかんしょあと 岩国藩の出先機関として1645年(正保2)に設置され、年貢などの徴税、藩からの通達、訴訟の取り扱いなどの業務を行いました。 <地図> |
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D周東(しゅうとう) | |
玖珂の御茶屋跡 くがのおちゃやあと 玖珂の御茶屋は、町の中心にある現在の玖珂小学校の校庭の中にありました。また、代官所も同じところにありました。 <地図> |
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高森の本陣跡 たかもりのほんじんあと 高森の本陣は、相川家が務めていたために相川本陣と呼ばれていました。また、四境戦争の際の、長州藩と幕府軍との休戦協定成立の場所にもなりました。 <地図> |
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受光寺 じゅこうじ 高森宿の脇本陣となったところです。遊撃隊は当初ここを本陣としましたが、その後通化寺に移って行きました。 <地図> |
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吉田松陰常宿の地 よしだしょういんじょうじゅくのち <地図> |
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吉田松陰宿泊の地 よしだしょういんしゅくはくのち 米国への密航に失敗した吉田松陰は、江戸から萩に護送される途中、亀屋市之助宅(現在よしもと米穀店)に泊まりました。 <地図> |
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通化寺 つうけじ 四境戦争の際、遊撃隊の本陣が置かれました。遊撃隊は来島又兵衛が創設しましたが、1865年(慶応元)3月、250人の遊撃軍がここに来た時の総督は高杉晋作でした。その後、石川小五郎が総督となって、ここから四境戦争芸州口の戦に出動して行きました。 <地図> |
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