上関町(かみのせきちょう)の史跡 | |
@長島(ながしま) | |
旧砲台跡 きゅうほうだいあと 四境戦争の際に砲台が築かれたところです。現在は瀬戸内海を望む展望台となっています。 <地図> |
|
|
|
上関御船倉跡 かみのせきおふなぐらあと 上関にも長州藩の船倉が置かれました。 <地図> |
|
|
|
上関の御茶屋跡 かみのせきのおちゃやあと 長州藩の迎賓館として使用され、藩主をはじめ参勤交代の諸大名、幕府の使者、朝鮮通信使などが宿泊しました。当時、前面はすぐ海岸でした。現在は熊毛南高校上関分校が建っており、石垣がわずかに残るのみとなっています。 <地図> |
|
|
|
御茶屋の石垣 おちゃやのいしがき 御茶屋の石垣跡が残っています。 <地図> |
|
|
|
旧上関番所 きゅうかみのせきばんしょ 長州藩の出先機関で、港の警備や見張り・船舶の取り締まり・微税事務などを行いました。初めは四代に置かれていましたが、上関への連絡などが不便で建物も古くなったため、1711年(正徳元)12月、東町に新しく造られました。そしてその後、役目を終えた番所は、平成8年に現在の場所に移築・復元されました。 <地図> |
|
|
|
上関越荷会役所跡 かみのせきこしにかいやくしょあと 越荷とは北前船の積荷のことをいいます。当時下関が北前船の重要な寄港地であったので、長州藩は、入港した船の積荷を一時保管する倉庫業や、積荷の委託販売業、積荷を抵当とした金融業などを行う金融機関を設置しました。この越荷会役所は、上関・室津両浦の発展を支えてきました。 <地図> |
|
|
|
旧上関宰判御番所御勘場跡地 きゅうかみのせきさいはんしょごかんばあとち 上関宰判の勘場は、上関・戸津・蒲井・白井田の4つの村を支配する、4つの村の代わりという意味の四代(しだい)村に置かれました。建坪99坪の本館と書類を収納する勘場文庫や付属建造物とからなり、ちかくには高札場も置かれていました。 碑は、道路横の草むらの斜面の中にあります。 <地図> |
|
|
|
A室津(むろつ) | |
肥後屋跡 ひごやあと 肥後屋は室津の本陣として幕府公認の宿場でした。高杉晋作・久坂玄端など維新の志士や五卿も訪れ、当主であった吉崎家には桂小五郎からの手紙も残っています。土佐を脱藩した竜馬と沢村惣之丞は、長浜の冨屋金兵衛宅に泊まった後、上関に渡り、室津の肥後屋に泊まりました。。そして再び舟で三田尻に向かいました。 <地図> |
|
|
|
西方寺 さいほうじ 義勇隊は上関の農民で編成された諸隊で、佐々木亀之助が総督を務めました。西方寺は四境戦争の際、義勇隊の本陣となりました。 <地図> |
|
|
|
・戻る ・トップへ戻る |