周南市(しゅうなんし)の史跡

@徳山(とくやま)
徳山藩の館邸跡
とくやまはんのかんていあと


現在の周南市文化会館の場所に徳山藩の館邸がありました。毛利輝元は次男就隆(なりたか)に分知し、長州藩の支藩である徳山藩が誕生しました。館邸は城の構えではなく、堀も濠もなかったので「御館(おやかた)」と呼ばれていました。

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旧藩学館跡
きゅうはんがっかんあと


徳山藩の藩校・興譲館(こうじょうかん)は、当初1785年(天明5)に藩主の館邸近くに鳴鳳館(めいほうかん)として創立されました。しかし敷地が狭かったために、1831年(天保2)に徳山城下の中央部に移転新築されました。現在は徳山小学校になっています。

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益田親施幽閉賜剣之地
ますだちかのぶゆうへいしけんのち


蛤御門の変の責任者として、長州藩は国司信濃・益田親施・福原越後の三家老の身柄を徳山藩に預けました。この時、益田は惣持院(そうじいん)に幽閉されました。しかし三家老を奪い取ろうとする動きがあったので、長州藩は1864年(元治元)11月12日の処刑の予定を変更して、11日夜に国司と益田に自刃を命じました。享年32歳。お墓は萩市須佐町の笠松山の益田家墓所内にあります。

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福原元|幽閉之地
ふくはらもとたけゆうへいのち


福原元|は長州藩の家老、福原越後のことです。蛤御門の変では長州藩の総大将を務めました。しかし責任を負わされ、1864年(元治元)8月7日にこの付近にあった衣笠伊織宅に幽閉されました。そして同年11月11日に岩国に護送され、清泰院で自刃させられました。享年50歳。お墓は宇部の宗隣寺にあります。

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徳山の御茶屋跡
とくやまのおちゃやあと


徳山駅前の有楽ホテル付近に徳山の御茶屋がありました。

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国司親相幽閉賜剣之地
くにしちかすけゆうへいしけんのち


長州藩の家老・国司信濃(しなの)も、益田親施(ますだちかのぶ)と同じく、蛤御門の変の責任者として徳山藩の澄泉寺に幽閉されました。益田親施の切腹後、同日夜に自刃させられました。享年23歳。お墓は楠木町の天龍寺にあります。

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毛利就隆の墓
もうりなりたかのはか


毛利就隆は、長州藩の支藩である徳山藩の初代藩主です。方形造りの唐破風(からはふ)付きの本瓦葺き屋根の覆屋で囲まれたりっぱな墓で、古くから「徳山藩に過ぎたるものが三つある」といわれたものの中のひとつです。大成寺(だいじょうじ)墓所にあります。

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五卿登陸碑
ごきょうとうりくひ


1863年(文久3)の8月18日の政変で京都を追われた公家7人は、3隻の船に分乗して同年8月22日に兵庫を出発して長州に向かいました。1番船には三条、2番船には三条西・壬生・四条・錦小路、3番船には東久世・沢が乗り込みました。3隻とも上関から三田尻まで直行する予定でしたが、嵐のために、3番船は三田尻に到着するも1番船と2番船は徳山の東浜崎に上陸して、陸路三田尻に向かいました。その5卿が東浜崎に上陸したことを記念して石碑が建てられました。

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A新南陽(しんなんよう)
山崎隊士の墓
やまざきたいしのはか


山崎隊は徳山藩の諸隊のひとつで、1865年(慶応元)4月14日に富田村の庄屋・岩崎庄左衛門を中心にして創設されました。陣営には富田新町の浄真寺があてられました。3年後には隊の人数は230名になり、徳山藩の正規軍とされました。四境戦争では一中隊が芸州口の亀尾川に出陣し、また、占領した小倉城の警備も担当しました。鳥羽伏見の戦いや函館戦争にも参加しており、徳山藩の主力として戦いました。お墓は永源山公園内の護国神社裏にあります。

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福川の本陣跡
ふくがわのほんじんあと


福川の本陣は、地元の豪商福田屋が勤めました。表口17間・奥行14間で門構えのある大規模な屋敷でした。始めは藩主の領内巡視や参勤交代などの休憩所でしたが、1721年(享保6)に幕府から参勤交代における随行員制限令が発せられると、山陽道の通行が激増し、福川本陣は幕府の要人や西国大名の宿泊施設として重要な役割を果たしました。現在の門は1973年(昭和48)に修復されたものです。平成21年1月10日付けの中国新聞に、篤姫が福川本陣に宿泊したのを地元の郷土史家らが突き止めた、と伝えてありました。

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B熊毛(くまげ)
西善寺
さいぜんじ


呼坂宿の脇本陣を勤めました。

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吉田松陰・寺島忠三郎決別の地
よしだしょういん、てらじまちゅうざぶろうけつべつのち


1859年(安政6)5月25日、捕らえられた吉田松陰は、6月3日に呼坂の宿に到着しました。このとき寺嶋忠三郎は帰郷中で、久坂玄端から松陰の通過を知らされました。寺嶋は松陰を見送るため呼坂橋の袂まで出向きましたが、ただ人垣の中から師を見送るだけでした。

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呼坂の本陣跡
よびさかのほんじんあと


河内家が本陣を勤めました。諸大名は参勤交代の際、小休で呼坂宿の本陣を利用し、宿泊は東の高森宿の本陣を利用しました。

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寺嶋忠三郎誕生の地
てらじまちゅうざぶろうたんじょうのち


寺島忠三郎は、1843年(天保14)近習寺嶋太三郎の三男として生まれ、吉田松陰の門下生となり、京都で久坂玄端らと尊攘運動に参加しました。1864年(元治元)7月19日、蛤御門の変で自刃しました。享年22歳。

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徳修館
とくしゅうかん


徳修館は、毛利氏の一門である、宍戸就年(ししどなりとし)が1809年(文化6)に士民教育のために創立した学校です。現在の建物は、萩の明倫館にならって1846年(弘化3)に聖廟(せいびょう)として建てられました。また、講堂・道場・寄宿舎大小10棟、槍圏(そうけん)・調馬埒(ちょうばらち)・練兵場などがあり、1.5ヘクタールの敷地に50平方メートルの建物がありました。

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正覚寺
しょうかくじ


西善寺同様、ここも 呼坂宿の脇本陣を勤めました。

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