山口市(やまぐちし)の史跡

@県庁周辺(けんちょうしゅうへん)
山口藩庁門
やまぐちはんちょうもん


1863年(文久3)藩主毛利敬親(たかちか)は、萩から山口へ拠点を移し、翌年御屋形とよばれる居館をここに築きました。この藩庁門は、その時の御屋形の正門です。
竜馬は、西郷との面談が失敗して怒って帰った桂を呼び出すために、また、敬親に拝謁するために、などなど、ここを幾度か訪れています。

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山口大神宮
やまぐちだいじんぐう


室町時代に大内義興(よしおき)が伊勢大神宮を勧請した神社です。都落ちをして来た東久世・四条・壬生・錦小路の四卿は、朝議挽回の祈念で山口大神宮に参拝しました。

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毛利敬親の墓
もうりたかちかのはか


長州藩の13代藩主毛利敬親(たかちか)のお墓です。1871年(明治4)に53歳で病死しました。お墓には「大江朝臣敬親卿御墓(おおえあそんたかちかきょうおんはか)」と刻んであります。毛利は、大江広元を祖とする一族です。香山園奥の毛利家墓所にあります。

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毛利元徳の墓
もうりもとのりのはか


長州藩の14代藩主毛利元徳のお墓です。毛利敬親と同じく香山園奥の毛利家墓所にあります。

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枕流亭
ちんりゅうてい


1867年(慶応3)、桂小五郎・広沢真臣・伊藤博文らは、山口に来訪した薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通らとここの2階で薩長討幕軍結成の討議をしました。当時は道場門前の安部氏宅の離れにありましたが、その後修理をされてここに移築されました。
竜馬もここで、桂小五郎らと密議をしています。

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露山堂
ろざんどう


露山堂は、現在の県庁の位置に藩庁を建てたときに、藩主毛利敬親が一露山のふもとに設けた茶室です。敬親は下級武士らとも親しく膝を突き合わせて、討幕の密議をしました。1891年(明治24)にここに移築されました。


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井上馨の墓
いのうえかおうるのはか


洞春寺の奥の墓地にあります。

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錦の御旗
にしきのみはた


ここは、もともと養蚕局があったところです。1867年(慶応3)10月14日、倒幕の密剌が薩長両藩に下ると、岩倉具視と大久保利通は、品川弥二郎に「錦旗」の製作を依頼しました。そして、京都西陣で材料を入手し、
諸隊会議所で製作を開始しました。しかし、秘密の漏洩を恐れ、ここにあった養蚕局に場所を移し、約30日間で仕上げました。

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野田神社
のだじんじゃ


毛利敬親(たかちか)・元徳(もとのり)父子を祀った神社です。敬親は晩年をここで過ごしました。

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菜香亭
さいこうてい


1863年(文久3)、長州藩の藩庁が萩から山口に移された際に、藩の料理人であった齊藤幸兵衛(さいとうこうべえ)も一緒に移り住み、山口に料亭を開業しました。井上馨や伊藤博文らがここで交遊しました。

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八幡隊屯所跡
はちまんたいとんしょあと


堀真五郎を初代総督として山口八幡馬場で八幡隊が結成されました。

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常栄寺
じょうえいじ


井上馨(かおる)を総督とする鴻城隊(こうじょうたい)は、本陣を長寿寺からここに移し佐々並みへ出戦して行きました。またここの門は、現在の山口地方裁判所にあった山口客館の本門を移築したものです。

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高杉・山形等寓居地
たかすぎ・やまがたとうぐうきょち


高杉晋作や山形有朋らは、山口を訪れた際に古見喜平宅を宿にしていました。現在は宗像建設が建っています。

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十朋亭
じっぽうてい


萬代(ばんだい)家の離れで、藩臣の宿泊所になったところです。
萬代家は志士たちの活動の援助をしていたので、竜馬・桂小五郎・高杉晋作・久坂玄端ら多くの志士がここを利用しています。また、長州ファイブの二人である井上馨と伊藤博文が、急遽イギリス留学から帰国し、協議にあたった場所でもあります。

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諸隊会議所跡
しょたいかいぎしょあと


奇兵隊、遊撃隊、八幡隊、御盾隊などの諸隊が集まる会議所が置かれました。

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中谷正亮の墓
なかたにしょうすけのはか


中谷正亮は、長州藩士中谷市左衛門の3男として生まれ、明倫館で学びました。また、吉田松陰が江戸を遊学した際には同行し、松陰の兵学門下生となりました。久坂玄端や高杉晋作を松下村塾に誘ったのは中谷といわれています。松陰の死後は松下村塾で監督・指導にあたりましたが、病気のために35歳で亡くなりました。お墓は法界寺にあります。

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山口の御茶屋跡
やまぐちのおちゃやあと


山口市中河原駐車場(左)と浜屋餅舗(右)のあたり一帯に山口の御茶屋がありました。手前は御茶屋橋です。また、毛利敬親が萩から山口に藩庁を移す際、ここに仮の政治堂が置かれました。

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周防明倫館兵学寮跡
すおうめいりんかんへいがくりょうあと


1815年(文化12)、長州藩士上田鳳陽(ほうよう)は学問所として「山口講堂」を開設しました。その後「山口明倫館」と名前を変え、兵学寮と文学寮に分けられました。ここは、その兵学寮があったところです。また、大村益次郎が兵学寮の教授となり、洋式兵学の教育が行われました。

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周防明倫館文学寮跡
すおうめいりんかんぶんがくりょうあと


山口明倫館の文学寮には本学寮(国学・国体学)と漢学寮(漢文学・儒教)があり、尊王思想を中心とした教育が行われました。

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山口の本陣跡
やまぐちのほんじんあと


ここにあった山田家が山口の本陣を務めました。

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安部家本陣跡
あべけほんじんあと


安部半右衛門宅は山口の脇本陣として、毛利藩主一族の宿所にも使用されていました。また幕末には、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らが山口に来てここに泊まっています。

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長寿寺
ちょうじゅじ


井上馨(かおる)を総督とする鴻城隊(こうじょうたい)の屯所となりました。

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山口客館跡
やまぐちきゃくかんあと


長州藩が賓客に対する応接所として建てました。本門と東門は、雪舟邸のある常栄寺に移され残っています。

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永福寺
えいふくじ


奇兵隊、遊撃隊、八幡隊、御盾隊などの諸隊が山口に集まった際、永福寺に本部が置かれました。しかしその後、本部は諸隊会議所に移されました。

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山田右衛門の墓
やまだうえもんのはか


山田右衛門は長州藩士で政務座を務めました。また、兵学校教授、撫育方用掛などを歴任し、藩政の改革に尽力しました。享年55歳。

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六軒茶屋跡
ろっけんぢゃやあと


旅人の休息の場として設けられた萩往還の茶屋で、往還道最大の難所である「一の坂」にありました。

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普門寺
ふもんじ


幕府軍と戦うために、大村益次郎は江戸から帰ってここの観音堂で藩士に兵学を教えました。また、普門寺は剣槍に優れた人を集めた殺手隊の屯所にもなりました。

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普門寺観音堂
ふもんじかんのんどう


大村益次郎はこの観音堂で塾を開いていました。当時は、普門寺塾、三兵塾、または学科塾などと呼ばれていました。

木戸神社
きどじんじゃ


桂小五郎(木戸孝允)は、西南戦争の途中に病死しました。彼の功績をしのんで、旧居近くに神社が建立されました。

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木戸孝允旧邸跡
きどたかよしきゅうていあと


桂小五郎(木戸孝允)は、慶応年間にここに本邸を新築し山口藩庁政治堂に通っていました。そして明治になり東京に移って行きました。当時の家はかわらぶきの平屋で、粗末なものでした。広さは約80平方メートルで四間ぐらいありましたが、大正になって約100メートル東側に建て替えられました。当時を思い出させるものとして、石がきと南側にある裏門が残っています。

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高杉小忠太邸跡
たかすぎこちゅうたていあと


この屋敷から裏6軒ほどの広さに高杉晋作の父である高杉小忠太の山口での屋敷がありました。晋作の亡くなった後も、妻の雅子・長男の梅之進は高杉家の両親や兄弟と一緒に、ここの屋敷で暮らしていました。この屋敷は、高杉が亡くなる直前に両親のために建てたものです。その後1877年(明治10)、桂の死をきっかけに高杉家は上京して行きました。

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赤根武人の碑
あかねたけとのひ


赤根武人は松下村塾の門下生で、高杉晋作の後を受けて奇兵隊総督となり、下関で連合艦隊と戦いました。その後、反論統一について過激派と意見が合わず、上京して幕府に近づき長州藩の立場を説明しようとしました。しかし、これを幕府に寝返ったとして捕らえられ、ここから東へいった旧鰐石橋の辺りで処刑されました。享年28歳。

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A湯田温泉(ゆだおんせん)
円龍寺
えんりゅうじ


俗論派の壮士の集団、先鋒隊の屯所となったお寺です。刺客はここに集合し、井上馨の帰路を待ち伏せして襲いました。刺客の中には、井上馨の従弟児玉愛次郎や、高杉晋作の親戚(妻・雅の姉の嫁ぎ先の叔父)周布藤吾、そして椋梨藤太の次男中井栄次郎がいました。

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井上馨避難の地
いのうえかおるひなんのち


1864年(元治元)9月、第一次長州征伐に関して、井上馨は俗論派にここで襲撃され重傷をおいました。このとき芋畑に倒れ、近くの家の人たちによって湯田の自宅まで運ばれました。そして、所郁太郎(ところいくたろう)の手当てで一命をとりとめました。

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龍泉寺
りゅうせんじ


七卿のひとり、錦小路瀬徳(にしきのこうじよりのり)の葬儀が行われたところです。藩主、毛利敬親が喪主を務めました。

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真木和泉寓居地
まきいずみぐうきょち


真木和泉は久留米の水天宮宮司でありながら尊攘運動に参加、1862年(文久2)に脱藩しました。翌1863年(文久3)の8月18日の政変で七卿と共に長州へ下り、湯田温泉では小野屋勝兵衛宅に滞在しました。その後、蛤御門の変に参加するも破れ、天王山で自刃しました。享年52歳。

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草刈藤太郎邸跡
くさかりとうたろうていあと


長州藩は、京都を追われた七卿を湯田に迎えるため、同両藩士である草刈藤太郎と井上次郎三郎(井上聞多の実兄)の二軒を借りました。草刈邸を三条実美にあて、他の五卿は一旦大内水上の真光院あて、その後井上邸に移しました。現在草刈邸の面影は全く残っていません。

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井上馨の旧邸地
いのうえかおるのきゅうていち


長州ファイブのひとり井上馨は、1835年(天保6)11月28日に、長州藩の上級武士である井上五郎光亨(みつゆき)の次男として山口市湯田温泉に生まれました。21歳の時には志道(しじ)家の養子になりましたが、イギリスに密航する際に志道家に迷惑がかからないようにと縁を切り、再び井上の姓に戻しました。

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何遠亭跡
かえんていあと


七卿落ちの際、草刈藤太郎家とここ井上次郎三郎家がも三条実美らの宿舎になりました。また、ここは字名が高田なので高田御殿とし、離れを増築して何遠亭としました。

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松田屋ホテル
まつだやほてる


山口市の湯田温泉を代表する創業330年の老舗ホテルです。
ホテルの中に「維新の湯」というのがあり、松田屋ホテルのHPには「維新の湯の浴槽は、徳川幕府末期1860年につくられたもので、当時長州、薩摩、土佐の勤皇の志士 高杉晋作・木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通・伊藤博文・大村益次郎・山県有朋・井上馨・坂本竜馬らや七卿落の公卿三条実美らが、しばしば松田屋で会合して、倒幕・皇政復古の密議をしたときに入浴使用したと云われる歴史的文化財です。」と紹介してあります。

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瓦屋跡
かわらやあと


幕末から明治初期にかけて、桂小五郎など維新の志士たちが利用した宿の跡です。松陰門下生の山田義顕(やまだあきよし)の妻は瓦屋の娘です。

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御茶屋臨野堂跡
おちゃやりんやどうあと


幕末の志士が密議の場としてしばしば利用した臨野堂の跡です。またこのあたり一帯は温泉地であり、幕末には多くの志士が錦川を舟に乗って訪れました。

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湯田の御茶屋跡
ゆだのおちゃやあと


野原湯は湯田温泉の泉源といわれる場所で、湯田の御茶屋がありました。毛利公も参勤交代の時、ここによって入浴し体を休めていました。また、当時は湯銭を取って一般にも開放していました。この野原湯を管理していた野原家は湯別当と呼ばれ、年間500匁を藩に上納していました。その野原家の湯と宿は、現在でも「湯別当野原」として営業しています。

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広沢真臣の旧宅跡
ひろさわさねおみのきゅうたくあと


萩の城下町で生まれ育った長州藩士広沢真臣は、藩庁が山口に移されると同時に山口に出て、現在の山水園の裏辺りに住みました。旧宅跡を示す石碑が残されています。山水園奥の「翠山の湯」と白い職員住宅用の建物の間の竹の藪道を歩き、すぐを左側に行くと石碑があります。ちなみに山水園とは全く関係がないそうです。クモの巣が多く大変です。

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朝倉八幡宮
あさくらはちまんぐう


湯田へ落ち延びてきた三条実美ら六卿は、同じく京都から逃げて来た真木和泉らと共に、尊王攘夷の祈願のためにたびたびここに参拝していました。三条・三条西・壬生・東久世の和歌の石碑が建っています。

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錦小路瀬徳の墓
にしきのこうじよりのりのはか


攘夷派の公家錦小路瀬徳は、七卿落ちで長州へ逃れて来ましたが、逃亡生活の疲れで吐血し、下関の白石正一郎宅で亡くなりました。享年30歳。13代藩主毛利敬親が喪主となって湯田の龍泉寺で葬儀が行われ、ここに葬られました。

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広沢真臣夫妻の墓
ひろさわさねおみふさいのはか


長州藩士広沢真臣は、藩内では外交官のような存在でした。四境戦争では、藩の代表として宮島に出向き、勝海舟と休戦交渉にあたりました。1863年(文久3)4月に藩庁が萩から山口に移った際、広沢も現在の山水園のところに居宅を構えました。明治になり参議も務めましたが、1870年(明治3)に東京麹町の私邸で暗殺されました。お墓は東京世田谷にありますが、山口にも分霊が祀られました。

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所郁太郎の墓
ところいくたろうのはか


所郁太郎は緒方洪庵にも学んだ美濃(岐阜県)出身の医師で、長州藩の京都藩邸医院総督を務めていました。しかし、蛤御門の変で京都を終われ長州に来ました。吉敷新町で開業。また、1864年(元治元)9月に井上馨が袖解橋で襲われた際には手術をして彼を助けました。その後高杉晋作の下関挙兵に従いますが、1865年(元治2)9月、病気のために円正寺の陣舎で亡くなりました。享年28歳。

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円正寺
えんしょうじ


宣徳隊の本陣となったところです。

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周布政之助の墓
すふまさのすけのはか


周布政之助は、1862年(文久2)11月、前の土佐藩主である山内容堂を誹謗したために謹慎させられました。その際に氏名を「麻田公輔」に改めています。墓碑にも「麻田公輔」と書かれています。また、長門市三隅にも周布のお墓があります。

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吉富簡一宅
よしどみかんいちたく


吉富簡一は山口の大庄屋で、衆議院議員、初代の県会議長などを務めました。長州藩の政務役である周布政之助は、藩の実権が俗論派に握られたことなどに責任を感じ、吉富簡一宅に身を寄せていました。しかし1864年(元治元)9月25日、ここの畑で自刃しました。享年42歳。

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B大内(おおうち)
福田屋
ふくだや


福田文吉郎が営んだ外郎屋で山口の外郎の元祖です。現在は営業を行っておりません。三条実美はここに立ち寄っております。

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上田鳳陽の墓
うえだほうようのはか


上田鳳陽は長州藩士で、後の山口明倫館となる山口講堂を開設しました。享年85歳。お墓は乗福寺境内にあります。

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福田侠平公明の墓
ふくだきょうへいこうめいのはか


福田侠平は山口市後河原(うしろがわら)の生まれで、山形有朋と供に奇兵隊の軍監を務めました。

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興隆寺
こうりゅうじ


真光院は、毛利家の前に山口地方を治めていた大内氏が建てた興隆寺の客殿です。長州へ都落ちした七卿のうち、四条、三条西、壬生、錦小路、東久世ら五卿は、1803年(文久3)10月26日、三田尻の御茶屋から真光院に移されました。ちなみに、一番年少の三条は湯田の井上次郎三郎家(井上馨の実兄)の離れを増築した何遠亭に移されました。また、星輝隊の屯所にもなりました。


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脱退諸士招魂碑
だったいしょししょうこんひ


1869年(明治2)、山口藩は諸隊を解体し、常備軍四個大隊を設けました。しかし、その選抜にもれた諸隊士約2,000人が「ご一新(明治維新)を実現するため、命をかけて戦った我々を切り捨てるのは許せない」ということで集結し、常備軍と戦いました。しかし鎮圧され、首謀者30数人が大内の柊刑場で処刑されました。1893年(明治26)、「脱退諸士招魂碑」が柊刑場跡に建てられました。


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大村益次郎医学記念碑
おおむらますじろういがくきねんひ


大村益次郎が女性の死体解剖を行った場所です。脱退兵士招魂碑の側にあります。

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禅昌寺
ぜんしょうじ


禅昌寺の僧侶を中心とした、亀峰隊の屯所となりました。

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天保大一揆発祥之地
てんぽうだいいっきはっしょうのち


農民たちはこの辺りに私設の皮番所を設けて皮の通行を警戒していました。1831年(天保2)7月26日、長州藩の御用達商人の一行がここを通りかかったのをきっかけに、一揆が起こりました。

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C小郡(おごおり)
藩米津出倉庫跡
はんまいつだしそうこあと


江戸時代の倉庫で、長州藩は小郡・山口・美祢の年貢米をここに集め、船で大坂や萩に送っていました。当時は、海岸線がこの近くにあり大型船が出入りできました。

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厚母家
あつもけ


厚母家は毛利一族で、旅籠も務めていました。幕末には玉木文之進も訪れました。

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小郡の御茶屋跡
おごおりのおちゃやあと


1603年(慶長8)頃に御茶屋としての形が整ったものと思われています。また、御茶屋の手前には小郡勘場がありました。

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福田屋旅館跡
ふくだやあと


1863年(文久3)の三原屋事件で中根市之丞らを殺害した刺客3名が泊まっていたところです。

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小郡の本陣跡
おごおりのほんじんあと


現在の西中国信用金庫小郡支店の駐車場が、小郡の本陣である三原屋があったところです。また、長州藩の攘夷活動を中止させるために幕府から派遣された中根市之丞(なかねいちのじょう)ら3人が襲われたところでもあります。

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三原屋事件殉難者の墓
みはらやじけんじゅんなんしゃのはか


長州藩が下関で外国船を攻撃したため、幕府は中根市之丞(なかねいちのじょう)らを詰問使として長州藩に派遣しました。しかし、藩主に会う機会を待つ間、小郡の本陣三原屋で長州藩の奇兵隊士に暗殺されました。これは、その時に殺された鈴木八五郎、長谷川勇助、須原栄ら3人のお墓です。

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山口大神宮小郡遥拝所
やまぐちだいじんぐうおごおりようはいじょ


幕末になると、大神宮参拝と言って山口に入り込み城下の様子を探る者が出てきたために、山口小郡間の往来を禁止して小郡に山口大神宮の遥拝所を創りました。

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海善寺
かいぜんじ


幕末には野戦病院になりました。また、大田絵堂の戦いで重傷を負った御楯隊の玉木彦助はここで亡くなりました。

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玉木彦助の墓
たまきひこすけのはか


玉木彦助は吉田松陰を教えた玉木文之進(たまきぶんのしん)の子供です。お墓は海善寺にあります。享年25歳。


D鋳銭司(すぜんじ)
大村益次郎生誕宅跡
おおむらますじろうせいたんたくあと


大村益次郎は1825年(文政8)5月3日、周防国鋳銭司村で生まれました。父は村田考益、母は梅子。家は代々勘場付の医者でした。

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大村益次郎の墓
おおむらますじろうのはか


大村益次郎は、1869年(明治2)11月5日、大阪で亡くなりました。享年47歳でした。遺骸の入った棺は大阪八軒屋から船に乗せられ、同年11月15日防府市大道の旦浦に上陸し、鋳銭司の自宅に入りました。そして同月20日、自宅に近い円山という小山の中腹に墓所を定め神葬されました。

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大村琴子の墓
おおむらことこのはか


益次郎の死後は、小学校にオルガンを寄付したりするなど、村の育英事業に賛助しました。そして、1905年(明治38)4月21日、72歳で亡くなりました。現在、益次郎の側で永眠しています。

大村神社
おおむらじんじゃ


大村益次郎を祀った神社です。大村の死後そのお墓には、徳大寺実則(さねつね)や岩倉具視らが参拝をしました。このようなことに地元の人たちは大村神社の建立を決め、1871年(明治4)1月に神殿を建立しました。その後、1946年(昭和21)にここに再建されました。

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大村琴子の旧宅地
おおむらことこのきゅうたくち


琴子は、鋳銭司村の農業高樹半兵衛の長女として、1834年(天保5)11月12日生まれました。益次郎とは18歳の時に結婚しました。

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大村益次郎開業の場所
おおむらますじろうかいぎょうのばしょ


大村益次郎は、緒方洪庵の適塾に入門し塾頭になりました。しかし、1850年(嘉永3)に適塾を辞めて郷里に帰り、ここで医者を開業しました。そして、翌1851年(嘉永4)に妻琴子と結婚しました。またこの頃、宇和島藩主・伊達宗城は、大村の学識を知り蘭学兵学を教授してもらいたいと招き、大村は1853年(嘉永6)に医者を辞めて宇和島に行きました。

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E秋穂(あいお)
栄泰寺
えいたいじ


泉蔵坊(せんぞうぼう)と万徳院(まんとくいん)を合併して栄泰寺になりました。1863年(文久3)9月、奇兵隊の先発隊として富永有隣らが下関から秋穂に上陸し、泉蔵坊を本部としました。

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朝日山真照院
あさひやましんしょういん


真善坊(しんぜんぼう)と遍照寺(へんじょうじ)を合併して朝日山真照院になりました。泉蔵坊、万徳院、真善坊、遍照寺の四つの寺が、先発隊の宿泊施設になりました。

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入江九一・久坂玄端・吉田稔麿の墓
いりえくいち・くさかげんずい・よしだとしまろのはか


朝日山真照院から北側へ向かう山道の先に朝日神社(招魂社)があり、そこに入江九一・久坂玄端・吉田稔麿・寺島忠三郎ら、65柱の英霊が合祀されています。車を下に停めて急な坂道を歩いて行くので大変ですが、15分もかからなっかったと思います。

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寺島忠三郎の墓
てらじまちゅうざぶろうのはか


寺島忠三郎だけは、上記の3人とは別のところにあります。


正八幡宮
しょうはちまんぐう


本殿・拝殿・幣殿・楼門と廻廊が軒を接して並び立つ、大内時代の代表的な建物です。たびたび火災にあいましたが、1501年(文亀元)に大内義興(よしひろ)が現在地に再建し、1740年(元文5)に毛利宗広が重興しました。現在、国の重要文化財に指定されています。幕末には、泉蔵坊、万徳院、真善坊、遍照寺の四つの寺に宿陣した先発隊が、ここの境内に集まって訓練をしました。

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大村益次郎の両親の墓
おおむらますじろうのりょうしんのはか


大村の父孝益は、1795年(寛政7)の生まれで、農業のかたわら医者をしていました。また近所の子供たちを集めて寺小屋も営んでいました。一方、母梅子は1800年(寛政12)の生まれで、当時の女性としては字も上手で、教養のあった人でした。お墓は、門弟が建てた追善供養碑です。

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遍明院
へんみょういん


八幡隊の屯所は山口からここに移されました。

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山尾庸三の旧宅
やまおようぞうのきゅうたく


山尾庸三は長州ファイブのひとりです。高杉晋作らと横浜・品川の外国公館の襲撃に加わり、翌年伊藤俊輔、井上聞多らとイギリスに留学しました。帰国後、工部大学校(現東京大学工学部)を設立し、また、日本で最初の聾唖学校もつくりました。享年81歳。

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F嘉川(かがわ)
明正寺
みょうしょうじ


8月18日の政変後、全国の諸大名は尊攘派の弾圧にかかりました。このため、尊攘派は脱藩し続々と長州藩に逃れて来ました。真木和泉は彼らを集め忠勇隊を結成し蛤御門の変に参戦しました。その後、長州藩は残っていた浪士10数人をここに集め浪士隊と呼ばれる「外人部隊」を結成し屯所としました。

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G佐山(さやま)
山田鵬輔の墓
やまだほうすけのはか


奇兵隊小隊司令士山田鵬輔のお墓です。1993年(平成5)、佐山地区史研究会発行の「佐山 第3号」には、「佐山の山田鵬輔のお墓について思うに、佐山の地にお墓があり、この墓と関係のある方が見当たらないのはなぜだろう」との記載があります。お墓には、ヴィッツ・フィットクラスの車まであれば、近くにまで行くことが可能で旋回場所もあります。それ以上となると、佐山区公会堂に車を停めて歩いて行った方がいいです。
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H徳地(とくぢ)
正慶院
しょうけいいん


奇兵隊の本陣が、防府市三田尻から正慶院に移されました。1984年(元治元)10月27日、高杉晋作は山口の井上馨を見舞った後に、ここに立てこもる奇兵隊の軍艦山県有朋に会いに来ました。しかし、慎重居士の山県は奇兵隊を動かそうとしませんでした。「灯火の影ほそく見る今宵かな」。一句を行灯に書き残し、富海より回路下関の白石邸に向かいました。

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昌福寺
しょうふくじ


奇兵隊の本陣が正慶院に移された際、昌福寺は稽古場となりました。

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I阿東(あとう)
萩の乱の弾痕跡
はぎのらんのだんこんあと


三谷の長向寺に、萩の乱で前原軍が撃ち込んだ弾丸の跡が残っています。

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