柳井市(やないし)の史跡 | |
@遠崎(とおざき) | |
妙円寺 みょうえんじ 四境戦争の際、当初大島は長州藩の防衛計画で放棄されていました。しかしその後、藩は第二奇兵隊に防備を命令しました。そして、軍監・林友幸は妙円寺を本陣にしました。 <地図> |
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月性の墓 げっしょうのはか 妙円寺(みょうえんじ)の住職であった月性は、梅田雲浜(うんぴん)や吉田松陰らと親交を深め、尊王攘夷、海防の必要性を唱えました。お墓は妙円寺境内にあります。 <地図> |
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清狂草堂 せいきょうそうどう 清狂草堂は1848年(嘉永元)に月性が妙円寺境内に開いた塾で、萩の松下村塾と並び称されました。主な門下生に、赤根武人(あかねたけと)、大洲鉄然(おおずてつねん)、世良修蔵(せらしゅうぞう)、大楽源太郎(だいらくげんたろう)らがいます。 <地図> |
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A大畠(おおばたけ) | |
長泉寺 ちょうせんじ 四境戦争の際、岩国藩の西福寺で僧侶を中心とした電撃隊が結成されました。その電撃隊が稽古場兼宿としたのがこのお寺です。 <地図> |
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B阿月(あつき) | |
浦屋敷の跡 うらやしきのあと 長州藩士であった浦靭負(うらゆきえ)は、藩の国家老や加判役をつとめた国務最高の執政者でした。屋敷は現在の阿月小学校にありました。四境戦争の動きが始まった際、薩長が和解する必要性を説きに、竜馬は浦に協力を求めにここに来ました。 <地図> |
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克己堂の門 こっきどうのもん 浦靭負は屋敷の中に学校を開設して「克己堂」と名づけました。これは克己堂の表門です。 <地図> |
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秋良貞温生誕地 あきらさだあつせいたんち 秋良は長州藩家老浦靭負の家臣で、1811年(文化8)9月4日に生まれました。 阿月保育所の敷地内に碑があります。 <地図> |
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赤根武人屋敷跡 あかねたけとやしきあと 奇兵隊の第4代総督、赤根武人の屋敷があったところです。赤根は、1838年(天保9)1月15日に、周防柱島の医師松崎三宅・光恵の長男として生まれました。15歳の時に島を離れ、妙円寺の僧月性の「時習館」の門下生となりました。そして、1854年(安政元)の16歳の時に、月性の指導で阿月にある浦靭負「克己堂」に入門し、ここにあった屋敷から通いました。 <地図> |
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世良修蔵宅跡 せらしゅうぞうたくあと 世良は、1835年(天保6)7月14日、大島郡椋野の庄屋である中野徳熹の3男して生まれました。そして、20歳の時に「時習館」の門下生となり、後、月性に推薦され、赤根武人らと共に浦靭負の克己堂に移りました。その後、長州藩の奇兵隊の総書記や、第二奇兵隊の軍監を務めましたが、戊辰戦争の際、福島で仙台藩志らに殺害されました。享年34歳。 <地図> |
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