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有限会社 笹川畳店 山口県山口市三和町11番36号
 旧国道9号線沿いの山口済生会病院NHKの方へ曲がり、次の信号を右へ(この道を旧道と言っていますが・山口商店街からのこの道を湯田温泉方面へ)行くと [Daiiki ダイキ山口店]の駐車場のの字が見えてきます。
 笹川畳店の表示については山口済生会病院交差点、旧道側の店前、ダイキ駐車場側の電柱に広告をしています。
 ディックの建物の入口から工場をみるとササガワ]と[イメージキャラのレッサーパンダのサミィ君]の看板が見えます。

 
お近くにお越しの際は、お気軽にたたみについてご相談下さい。
  

ササガワッチャマンのご近所歴史散歩
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袖解橋(そでときばし)


 六百年前ころ(大内時代)秋穂渡瀬(あいわたせ)の渡し舟で来たは旅人がこの橋のたもとから水面に姿を映し、袖を解いて身支度を整えたという逸話から来ている。言わば、むかしの山口の玄関口なのかなあ?
 さて、もうひとつ裏の一説がある。むかし、姫山城という城があって城が戦で陥落した時に、お姫様が逃げる際、一生懸命逃げて来て、ここでやっと袖をと解いたというのである。この話は私の父が子供のころ聞かされたもので、これもまたありそうな・・・
2005年の道路拡幅工事でこの碑は道の反対に移動しています。


井上馨(聞太)遭難の地 の りっぱな碑


 一人の人間が難に遭ったというだけで碑まで立っているという、子供の頃は「なんなんだ」と思っていたところである。ちなみにわたしたちワルガキは、せみ取り、木登りは当たり前、石碑の中段を狭いながらも格好のリンクにし、ローラースケートでぐるぐる回ったいたのです。ローラーケームが流行っていましたから。ハハハ・・・
 さて、井上馨とは知る人ぞ知る明治維新に欠かせない人で、長州藩を武装恭順に説き伏せた人物である。まさにその帰り道に反対派の闇討ちにあった場所なのだ。井上聞太は数十ヶ所斬られ、溝の中を這っているところを農夫に見つかり、戸板で湯田の自宅(現・井上公園 別名・高田公園)へ運ばれた。たまたま訪れた美濃の浪士・所郁太郎(医者の心得がある)によって、(なんと畳針の小さいので)傷口を縫ってもらうことができた。その結果一命をとりとめ、明治時代には伊藤博文の下で顕職を歴任したのである。(なお、この話は平成8年の文芸春秋五月号臨時増刊、司馬遼太郎の世界の「死んでも死なぬ」に書かれている。)


旧町名は中讃井(なかさない) 

 旧町名は中讃井(なかさない)で、今でも町内会は中讃井である。な〜ぜ〜か、というと町内の中央に由緒正しいお寺があり、その寺の住職が讃井(さない)さんという方で、そのことからきているらしい。