龍吟山 海禅寺の歴史

■もどる

  1. 「防長社寺由来」より
  2. 昭和三年発刊の山口県寺院名鑑より
  3. 阿東町制施行五十年史より
  4. 「龍吟山海禅寺記」より

最初に「防長社寺由来」の資料から紹介します。後述の寺院名鑑と読み比べてみてください。いろいろと疑問点が多々あります。これは記述から考えると地区の方からの聞き取りをもとにしています。なぜ、当時の住職に尋ねなかったのでしょう。それから堅田氏の館跡はどこに?墓所はなぜここに?2番目にある明細帳はどこにあるのでしょう。火災にあったそうですが、その証拠となるものはどこにあるのでしょうか。また、開基について現在の開基よりも前の方がいらっしゃるのに、それを変更するには何か大きな理由が必要ですが・・・なぜでしょうね。別ページに歴代住職の資料をまとめてみました。しかし一部不詳の時期があります。世代の記録も乱れています。何があったのでしょう。年代を参考にしてみてください。いつ頃何が?です。
 3番目は江戸時代の記録に日本地図を作成した伊能忠敬が測量の途中で海禅寺に宿泊した記録を見つけましたので抜粋して紹介します。
 4番目の資料「龍吟山海禅寺記」これは2015 7月に発見したもの。ですが・・私には字が読みにくいので、嘉年の竹林老師にお願いして読めるように書き直していただきましたので紹介します。竹林老子に感謝いたします。2015 8 正章
 

防長社寺由来
篠目村 海禅寺
 この寺は、前は龍吟庵といい、大内時代に建てられたものだと土地の老人達が伝えている。 その理由は、大内義弘が建立した香積寺の僧で、この庵を開いた高庵義(大和尚)という僧の年号等は不明だがその方の位牌がこの寺にあること、それから後に、亡くなった時期はわからないが屋敷などの跡が近くにある海禅寺殿慈天龍哲大居士(堅田大和・・堅田元慶(かただ もとよし、永禄11年(1568年) - 元和8年(1622年))の菩提を弔う廟所や石碑がこの寺にあることをあげている。
 その後に、全慶という僧が寺を建て直したが、それから特に名も知られない僧が何代か続くうちに位牌の年号とかもわからなくなってしまったそうだ。
 その後、ここに住んでいた不高(和尚)という僧が、真如十四世頭室長源(大和尚)という僧を招いて、新たに海禅寺として開いたそうだ。
1、当寺開山 頭室長源大和尚禅師 万治元年8月18日 遷化
  2代目  戒雲不高大和尚禅師 亨保十八葵丑 7月22日 遷化
  3代目  梅鉄雲嶺 現在の住職
(お寺の記録では、梅鉄雲嶺さんは、五代目)
1、本尊 十一面観音 作者 恵心僧都
1、脇立 普賢菩薩・文殊菩薩 作者 不明
1、観音堂(敷地内) 十一面観音 作者不明
1、観音堂(敷地外) 聖観音 作者不明
1、観音堂(敷地外) 聖観音 作者不明
1、文殊堂(敷地外) 文殊菩薩 作者不明 施主 吉賀十郎兵衛の先祖
  昔、深田から掘り出したもので、霊験があったので深田文殊と言い伝えてきている。
1、十王堂(敷地内) 十王 作者不明
1、本寺は山口の真如寺(現 妙喜寺)
1、釣り鐘 (銘なし)
1、その他に宝物や天皇家からの書き付けなど見あたらない。
1、寺  長さ37間、横16間
1、客殿 長さ6間半 横5間半 間数は6間
1、釣屋 3間に4間 間数は2間
1、庫裡 長さ6間横4間半 間数は6間
寛保元辛酉 9月27日    長州阿武郡篠目村龍吟山 海禅寺(印)
井上 武兵衛 殿
 参考資料 防長寺社由来(3巻)

防長寺社由来(全7巻)昭和57年(1982年山口県文書館)について
1841年頃にまとめられた「風土注進案」を元に昭和35年(1960年)山口県文書館により「防長風土注進案 全22巻」として再編集されて発行されたものの1つ。
<1840年頃の歴史>
1840年にアヘン戦争勃発(この結果は当時の日本の知識人に大事件として受け止められた。)
1841年伊藤博文誕生
 長州藩では、村田清風(出生1783年(天命3年)、長門国大津郡三隅村沢江に長州藩士(代官)・村田光賢の長男 1855年(安政2年)中風により死去。この頃に周布政之助・吉田松陰・高杉晋作などが歴史に登場する。)らのいわゆる天保の大改革(長州藩は当時借金に苦しんでいた。そこで、村田清風を筆頭に藩政に関わる役で37年をかけて借金を返済する方法を考案し実施した改革。)に関連して天保12年(1841)1月、各宰判の代官を通じて、管下の各市町村島浦から「地理産業仕出」の名目で、一定の綱目を示し実態調査を報告するように命じた。
地方においては庄屋が中心となって、公簿の記載、社寺や旧家の所伝、古老の伝承ほかさまざまな記録を調査し代官所へ注進。代官所で監修して藩へ差し出した。藩ではこれをまとめて『風土注進案』と名づけた。

山口県寺院名鑑より
 
阿武郡篠生村篠目中郷
曹洞宗 三等法地
龍吟山 海禅寺
第二十一世 勲八等大和尚 安村常満(明治5年八月十六日生)代
沿革
 往年火災にて悉く焼失し不明なるも山號(号)を龍吟山と稱(称)し、明細帳によれば村内中郷邑岡の臺とあり周防國(国)吉城郡宮野村眞(真)如寺(今 妙喜寺)末庵なり本尊観世音にて後土御門天皇の御宇明應(応)葵丑二年創立(防長國主は大内周防権守政弘御代)元は眞言宗にて龍吟庵と稱(称)せり、慶安庚(かのえ)寅(とら)三年改宗し龍吟山海禅寺と稱(称)し曹洞宗に更め開山は前香積高庵義大とす。元和八年九月二十七日領主堅田大和守元慶卒去す。その香花所として其法諡(ほうし)を以て寺號を改む後年全慶という僧中興せしが何時の頃か平僧地となり居たるを宮野村(防州)眞如寺第十四世頭室長源を勧請開山とせり依而仝大和尚を當寺開山とす萬治元年八月十八日示寂、現本堂は建立年代不詳六間に五間あり。庫裡(くり)は元治年間十九世大覚悦道の代造営にして八間に六間外塀及石門は昭和五年四月現在第二十一世常満造営す其工費三百余円を要せり、境内二百坪あり
住職
 師は佐波郡牟礼村の出身にて明治十六年六月十日生地の極楽寺第二十五世河野鳴道師に付得度し、明治二十一年山口専門支校を卒へ引き続き簷葡中学に学び後適齢にて近衛歩兵第四聯隊に服務し日清の戦役に出征し其功に依り勲八等に叙せられ明治三十年十二月九日當山住職を拝命し明治三十三年結制修了現在まで法臘四十五年なり
事業
観音講明治四十年現在の創立にて講員四十名あり
檀家
篠生村・川上村に百五戸
総代 兒玉正一(村会議員)・柴崎品蔵・谷口米蔵・久野磯吉・河合久太郎 各氏

伊能忠敬測量の途中、海禅寺に宿泊のこと(測量日記 伊能忠敬)
文化八年二月六日
朝より晴天、五時後山口出立。防州吉城郡宮野村枝七房村よりはじめ二十四日別手越印仕り、枝杖坂村字大峠人家一軒それより長州阿武郡篠目村痛堂(板見堂)、本村止宿前迄測二里十四丁二十四間、駅法山口より三里十二時後篠目村着、止宿曹洞宗海禅寺、山口出立、町際り迄町年寄り町田忠兵衛、湯浅三郎兵衛、大年寄山田夷助、町役人藤井清衛門送る。篠目村到着後、阿武郡代手付竹中伝治、大庄屋阿川市郎治来る。此夜測量。
 
当時、山口から仁保経由ではなく、宮野、杖坂を経由して木戸山を超えて篠目に至る街道が整備されていたことになります。板見堂の地名が見られることからここに何か休憩地のような設備があったのかもしれません。
参照 阿東町制施行五十年史 第二章 阿東町の歴史 110頁

龍吟山海禅寺記
資料写真
(冒頭に一首の俳句)
 鶴のく松よりの渡りけり
予は当村住人なり。ことに篠目のむらは、その事跡の成るにもかかわらず、往々時勢の変遷と共にその事蹟はまさに煙滅に帰せんとす。うれうるや。ここに年久し。よってきんぜんこの一誌を編纂成ることを得る。
 後世これ参考ならんことを希望□(□は旧漢字 上が正下は与)
  昭和四年参月二十三日
   山口西白石の里
     双樹庵 玉泉 □(□は印)
(二首の俳句あり)
 静かなるみ寺の庭の花見れば うかれ心はおこしざりけり 大江 房□ (□は継か? 竹林老師の注)
 寺の鐘心ありげにひびくなり 今日を盛りの花のひまより 大江 琴女
海禅寺記
 長門の国阿武郡篠目村海禅寺は山号を龍吟山と称す。旧明細帳に篠目村字中郷邑(村)岡の台とあり。周防国吉敷郡宮野村真如寺末庵なり。本尊観世音にて後土御門天皇御宇明応葵丑二年創立 防長国主は大内周防権正弘卿代 元は真言宗にて龍吟庵と称す。
 慶安康(?)寅三年改宗し改寺す。龍吟山海禅寺と称し曹洞宗禅宗派に属す。開山前香積高庵義大を以てす。
 元和八壬戌九月二十七日領主堅田大和守元慶卒去す。その香花所としてその法しい(注:追号 おくりな)を以て寺号を改む。後に全慶という僧中興せしが、いつの程か平僧地となり居りたるを、防州宮野村真如寺第十四世頭室長源を勧請開山とせり。よってその頭室長大和尚(注:長源 略す場合もままあり 注:竹林老子)を当寺の開山と称す。
 
 歴代住職表
 (ここから第一世から現住職として第二十一世の記述があります。二十五世が記述したものがありますので略します 正章)
 
 当寺第十六世万原了松大和尚元治二年正月晦日(注:三十一日)永眠とあれども、元治二年はうるう四年七月に慶応元年に改元ありしにつき慶応元年に改め記す。なおまた永眠年月日記入あらざるものは、不明にり記入せず。
 
 堅田大和守元慶は毛利氏の臣なり。文禄慶長年中朝鮮征伐の時、毛利氏に随従し戦功あり。関ケ原役後毛利氏防長二州へ御引越のみぎり長州へ下向す。妻は益田玄蕃頭元祥の長女なり。子孫今に連綿現今の主堅田愛次郎氏は山口町に住す。堅田大和守元慶の墓は中郷村にあり。
 昭和四年春海禅寺の堅田大和守元慶旧跡を尋ねて
 君住みし跡をほのかに尋ねれば 松にたえなる音ぞのこれる 双樹
 
(昭和3年には第一回普通選挙が実施。昭和天皇の大礼即位があって、それから関東軍による張作霖爆殺事件。共産党員の大量検挙。昭和4年の10月にはニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し世界大恐慌がはじまりました。激動の時代か・・・。正章)

2015 (C)海禅寺