私は私の生まれた家が窯元であった関係か、私を成長させてくれた環境が陶磁器の製造元であった為か、とにかく趣味を持って現在に及んでいます。私の先代まで、土に生まれて土に帰ったような生活でした。ロクロ≠フ生活でした。
[私の付記] この「萩焼獅子」は、代々伝わってきたものの一つです。父の没後は、長兄が受けついでいます。 父は、この「獅子」は、四肢が締まっていてかつ、迫力がある。脚を細くしようとすると、迫力に欠けるので、相当の技量のある陶工の手になるものと思うと言っていました。 あの粘土から造られるつちやき(陶器)♀竦ホを砕いたものを主な材料とするいしやき(磁器)≠フいずれであっても陶磁器はともに激しい火熱の洗礼を受けて生まれてきます。土から形がつくられて釉がかけられ焼きあげられる原理はどんな名器であろうと日常雑器であろうと変わりません。私はその陶器のうちをなおせまく求めて話をすすめたらと思います。 |
三趣三感を具備した実にいいものです。三趣といえばご承知のように、品、侘、寂の三味で三感とは量、力、浄の三態であります。量感は深さ、広さ、高さの感で、それに力感、感清浄感のそなわったもの、割高台の姿も堂々とし、釉調すなわちうわぐすりの味が井戸に満ちています。非常におちつき品位のあるものです。
萩焼で最も嫌われていることは、「つけ時代」でしょう。新しい萩焼を古く見せるために茶の中につけるとか、又茶あかをつけるとかしている方をいまだに見受けますが、本当に萩焼についての邪道この上なしといっても過言ではありますまい。時代は時代によってできます。あの湯さましまで茶の洗礼を再度受けたと見せて古みせがされています。 窯から出されて、一度もつかわれずそのまま時代を持ったものを「くらさび」といっていますが、これまたいいもので、これこそ時代がもたらす美しさを味わうことができます。 最後に、ある陶匠から話された余韻のある茶碗ということについてふれておきましょう。 この話と申しますのは、陶工がロクロを蹴り一生懸命にロクロを挽き茶碗を作っていると、その側にいつ入って来たものか、師匠格の陶工がロクロを一心不乱で引いている陶工に「おい」と声をかける。陶工は手を離す。 |