◆ みなさんは、不思議・奇妙≠セと思われませんでしたか? ・「昭和6年」の「土井ヶ浜出土」の「人骨」を、なぜ=A「考古学者」である小川五郎氏が、「病理学教室」の三宅宗悦氏に「連絡」され、三宅氏が、「鑑定」されているのか? さらには、 ・「京都帝国大学」の先生によって、「古墳人骨」と「鑑定」されているのに、なぜ、衛藤和行氏は、「昭和28年」に「出土」したという「人骨」を、改めて「九州大学」の「解剖学教室」に「連絡」されたのか? ・なぜ、「連絡」を受けた「九州大学」の金関丈夫氏はすぐに「発掘」されたのか? のみならず、 ・情報≠ノよって、衛藤氏の金関氏に届けたとされるモノがマチマチだが、いったい、何が本当≠ネのか? その他、私が調べる前には、私に取っては、不思議・奇妙≠ニ思われることが少なからずありました。 「昭和6年」の「人骨」の「出土」の際に「関係」した父=河野英男は、既に亡くなっていましたが、父と親しく、そのため、私も親しくさせていただいていた衛藤氏をはじめ、父が、「金関発掘調査」の際には、「山口県教委社会教育課」の「担当者」という「立場」で、いささか≠フかかわりをもっていたこともさいわい≠オて、 「お前ごときが話を聞けるワケはないではないか」と思われるような「土井ヶ浜遺跡」に関係され、その後、超一流≠フ「学者」となられている先生方、 さらには、なんらのかかわり≠ヘないにもかかわらず、親身≠ノ「協力」をいただいた「考古学の父=vといわれる浜田耕作氏のご子息の浜田 敦氏(京都大学名誉教授・「国語学」)、 はたまた、三宅家の方々、渡辺家の方々、小川 信ご夫妻・・・・といった 方々の「協力」をいただいて、
[お断り] 文中、敬称はすべて「氏」に統一させていただきます。
|
1 「土井ヶ浜遺跡」は「昭和6年」に発見されていながら、「発掘調査」は、「昭和28年」までされず、思い出した≠ゥのように行われたようになっている。 金関丈夫氏らの「発掘調査」によってこそ、「弥生人骨」が大量に発見され、日本人起源の「渡来・混血」説の根拠となった遺跡であるのに、それでいいのか? (但し、最近はこの点だけは、是正されています。「人類学ミュージアム」開館に伴う、情報≠ェ理由でしょう。そして、また、私の『山口県地方史研究』への発表も、多少は影響しているようです。 ただ、私が調べだした当時の状況≠ヘ、こうだったのです。) 2 昭和六年(昭和五年?)に石を動かし、人骨を最初に発見した人物は「某氏」として、 名前が伏せられているのに、連絡したという「河野英男」の名は、多くの「文献」に名 が載せられている。 「河野」の果たした役割は何か。 3 なぜ、発見の時期が「昭和五年夏」と「昭和六年春」と違うのか? 4 「考古学者」の小川五郎氏に報告した河野の行為は自然だと思うがなぜ、考古学者の、小川氏が、「病理学教室」の三宅宗悦氏にさらに紹介したのか。 5 いったい、三宅氏は、「北浦」に来たのか来なかったのか? 6 なぜ、駒井和愛氏は、三宅氏の論文発表前に、「土井ヶ浜」に来たのか? 7 なぜ、駒井和愛氏は、三宅氏に「弥生式土器」を送ったのか? 8 駒井氏はある意味では、「弥生の可能性」を発見していたと言えると思う。「発見・ 発掘史」上での意義はないか? 9 出土地点は、どんなところだったのか? 10 なぜ「清野蒐集人骨」なのか? 11 なぜ三宅氏は「古墳人骨」としたのか? 12 @ 衛藤和行氏の金関丈夫氏に届けたとされるものが 人 骨
人骨と土器の破片 巻貝を加工した貝輪 のようにまちまちである。本当は何だったのか?
(ちなみに「土井ヶ浜人類学ミュージアム」のドームの中の解説は、『日本農耕文化の生成』中の「14 山口県土井浜遺跡」の記述とも違い、何を根拠にしたのか不明であるが、人骨や土器の破片が採集されたのがきっかけ≠ニしている。) A 「人骨を届けた」という説の通りだとすれば、なぜ、人骨を改めて、九州大学 に知らせたのか? B なぜ出土品を「考古学」関係でなく、「解剖学教室」に届けたのか? 13 なぜ、京都大学は動かず、九州大学は発掘に踏み切ったのか? 14 「金関発掘」に踏み切る一つの要素となったという『一地方誌』に載った3頁弱の報告文≠金関氏は二十年後≠ワでも覚えておられたのか? 15 なぜ「三宅報告文」が掲載されている「防長史学」の巻数が異なるのか? 16 なぜ、長い年月放置されていた≠フに、「発掘調査」が再開され、「人類学ミュージアム」ができることになったのか? |
これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、18021≠ナしたが、[平成23年2月18日午前9時]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。 従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります。 |