平成19年7月5日 〝公開〟
平成23年1月20日 〝更新〟



● 「土井ヶ浜遺跡」の〝発見・発掘史〟における〝なぜ?〟に答える



2 昭和六年(昭和五年?)に石を動かし、人骨を最初に発見した人物は「某氏」として、名前が伏せられているのに、連絡したという「河野英男」の名は、多くの「文献」に名が載せられている。「河野」の果たした役割は何か。 



▼2-[1] 土井ケ浜の人骨についての"言い伝え"
かなり昔から、現在の「土井ヶ浜遺跡」 (海岸線から相当離れた位置に、海岸線とほぼ直角の位置にある「砂丘」) 周辺では「人骨」が出土していたようです。
そして、それは、「土井ヶ浜弥生人」という「中世・近世」の人達のそれより「大柄な人骨」であったため、人々は、「元寇」の一支隊が上陸したという言い伝えのあることに結び付け、その時の「敵のもの」だと思い込み、忌み、避けていたのです。

〝角島に近い日本海に望んだ一漁村である"〝長門國豊浦郡 神玉村〃は、〝弘安の世元冠の時一支隊が同地に攻め入ったと云ふ伝説があり、鎌倉の森、鬼松等当時に縁ある土地 多く、「元」の戦死者を埋めたのが土井ケ濱と云はれてゐた。従来同濱には屡々人骨が風雨にさらされていたゐたのであるが、「元」の骨に触れると病気になると恐れられ、以前県庁の岩根又重氏も同所の人骨ならばくら掘っても良いと云はれてゐた所である。〟
と、三宅宗悦氏の報告文『長門國土井ケ濱古墳人骨に就いて』中に書かれていますし、
既に、『防長風土注進案』にも、『風土注進案十一神田上邑」の記述の中に、
"一古戦場〟"壱ケ 土井ケ濱に在〃として、"先年開作の時分蒙古人の頭と相見え、頭にの形有之候頭骨をニツ堀出し候由に御座候"
"角"があると記述しているほか、
「浜殿祭(浜出祭)」の起源にふれた
"蛭子社有之候、当社に八ケ年に壱度大祭御座候、此祭の儀は"という後、
蒙古退治の後、長府御領田耕村神田村の間大疫病流行仕、誠に人種を失ひ候程の儀にて村中の歎府大形、種々加持祈念等仕候へ共治り不申・…
のように、異変の原因を「元」の怨念のようなものに結びつけた例等が幾つか並べられています。


◆  『防長風土注進案』 について

『防長風土注進案』は、天保12年1月に、〝各宰判の代官を通じて、管下の各市町村島浦から「地理産業仕出」の名目で、一定の綱目を示して実態調査の上申を命じ〟、その「報告」がまとめられた、防長二州全域における、各村落の沿革、地理、産業、経済、社会、習俗等の実態を、綿密に調査した稀有の記録として、山口県のみならず、わが国の近世史研究上でもきわめて高く評価されている第一級の史料集とされるものです。
本文395冊、古文書45冊からなり、成稿時期は同一ではないが、統計数値は1842(天保13)年のものが多いとされますが、私は、「活字」になったものしか、見ていません。

三坂圭治氏の「監修」のモト、石川卓美・田村哲夫・広田暢久・利岡俊昭・森田良吉各氏ら(青字の方は、存じ上げている方です)の〝献身的〟な編修作業によって、「昭和35年」以後「全22冊」が〝順次〟刊行され、〝読みづらい〟「原書」ではなく、「活字」によって、〝一般〟の人々にも「利用」できるようになったのです。



『土井ヶ浜遺跡と弥生人』における中村徹也氏の記述への「疑問」

『土井ヶ浜遺跡と弥生人』(1993(平成5)年5月1日刊)という冊子の、〝冒頭〟の「弥生の砂丘墓地」なる一文を、
「山口県」においては〝権威者〟とされる「山口県埋蔵文化財センター所長」であった中村徹也氏が書いておられ、
・・・昭和の初め頃までは、土井ヶ浜遺跡をつつむ砂丘はもとのかたちをとどめていました。
「子供の頃は、勢いをつけて駆け上がって、よく遊んだものだ。」と土地の古老たちが語るように、東から西に次第に低くなりながらも砂の丘がまっすぐ続いていたようです。
遺跡の東側、国道一九一号線沿いに今も残る忠魂碑の丘が、かつての砂丘の姿をよくとどめています。
「骨は意外に頑丈だったから、砂の中から拾ってはチャンバラごっこをしたもんです。」というように、砂の中から人骨が顔をのぞかせていたのです。
このころから建設用として、砂の採取が始まりました。
・・・・・・
とあります。

しかし、私は、この中村氏のこの記述を疑問に思っています。
〝このころ〟がいつを指すのか、はっきりしませんが、昭和の初め〝以後〟だというのですから、
時代の変遷で、遺跡のある地域は、「又新(ゆうしん)小学校」の運動場」として使用されていたが、「又新小」が「神玉小学校」に合併され、廃校となってしばらく経った"昭和6年〝頃〟に、「人骨」が出土した
ということを、
衛藤氏及び、「父=英男」の〝同僚教師〟で、後に「豊北町長」になられた佃 三夫氏から、「証言」をしていただいていますから、私には〝おかしい〟としか思えません。
「統合・廃校」の「計画」が〝突然〟なされるハズはなく、〝数年後〟には、「廃校」がわかっているのに、「丘」を崩し、「運動場」を作るなんてことは、到底、考えられないからです。
いつからかは「確認」できていませんが、〝当然〟、〝かなり前〟から、「運動場」であったハズなのです。
なお、も、「随筆」=「土井ヶ浜遺跡と私」の中に、〝私は県の師範学校を昭和五年に卒業し、最初この地に奉職した。 当時、神玉村には夜珠、神玉、又新という三校があり、これを合併し中央に新しい学校が建てら れた直後の事である。 〟ということを書いています。
このようなワケで、私の「記述」の方が〝正しい〟と確信しています。
〝土地の古老たち〟が、どなたたちを指すのか、わかりませんが、私は、「遺跡周辺」にお住まいの、年を召しておられる方々を何人もお訪ねし、お聞きしましたが、私には、そんな「証言」をされた方はありませんでした。
さらに「問題」は、〝「骨は意外に頑丈だったから、砂の中かにら拾ってはチャンバラごっこをしたもんです。」〟とあることです。
これが〝本当〟なら、「人骨」は、三宅氏の「報告文」に〝従来同濱(註 土井ヶ濱)には屡々人骨が風雨にさらされてゐた〟とあるのを通り越して、〝それこそ頻繁に〟出土していたことになりますし、〝「元」の骨に触れると病気になると恐れられ〟ていたとあるのも、〝おかしなこと〟で、「人骨」に対する人々の〝恐れ〟などは考えられないことになるからです。
上記の『防長風土注進案』における「記述」 のように、異変の原因を「元」の怨念のようなものに結びつけた例等が幾つか並べられているのは、今日的には〝信じがたい〟ことであるとしても、 三宅氏の「報告文」だけでなく、「土井ヶ浜遺跡と私」に書いていることも、まったくの〝フィクション〟だということにしてしまうのです。
この「人骨」に対する人々の〝恐れ〟があったのか、なかったのかということは、〝大きな〟「問題」ですし、三宅氏の「記述」や父=英男の書いていることを否定するのなら、中村氏は、〝土地の古老たち〟といった言い方ではなく、誰々の「証言」か(〝土地の古老たち〟と書いておられますので)を明らかにされ、かつ、その「証言」の方が〝正しい〟とされた「根拠」は何かをはっきりさせられるベキだと思います。



▼2-[2] 昭和初期の人骨の出土と〝某氏〟〝河野〟
さて、時代の変遷で、遺跡のある地域は、「又新(ゆうしん)小学校」、の運動場として使用されていたそうですが、「又新小」が「夜珠小」、「神玉小」が〝合併〟され、新たに「神玉小学校」となったため、廃校となって、しばらく経過した"昭和六年三月"、砂地の運動場の隅にあたる"本道から約三十間余入つた道の北側で〟 (注 〝 〟は、三宅宗悦氏の「報告文」からの引用。なお、ここの〝約十間余〟は、父=英男が春成秀爾氏の求めに応じて「図示」したもの(⑨ 出土地点は、どんなところだったのか?参照)及び永井昌文氏、乗安和二三氏のお話により、十間余とあるべきところですので、誤植か、勘違いです。) 〝同村某氏水車場建築為"石を使おうとして、かなり大きい石を動かしたところ、六体の人骨が出土、騒ぎとなった。
当然のように、蒙古人の骨と思われてのことです。
某氏は、「神玉小学校」に、「連絡」にこられました。

「山口師範」を卒業、「短現」を終えて、〝実際〟に勤務を初めて半年の「河野英夫 (本名は「英男」ですが、三宅氏にお目に掛かった当時は、「英夫」を使っていました) 」は、「博物学」を専攻していたこともあって、「現場」に赴き、冷静にその石が「石棺」の一部であることを確認したのです。
「博愛主義」なるものを期待することが難しい「鎌倉期」にあって、大がかりな「石棺」を、「攻めいってきた〝憎い〟敵の人骨」を弔うのにわざわざ作り、しかも、後に掘り返し、再葬して、幾つもの頭骨を集め、「すべて東向き」に頭を並べるのは「不自然」だとして、従来からの言い伝えとしての「元冠」の時の蒙古人の骨ではなく、日本人のものと確信したのです。
ツマリ、「日本人の墳墓・人骨」ということに、〝最初〟に〝気づいた〟のが、河野英男だということになるかと思います。
(「人骨」〝そのもの〟は、以前から「出土」していたこととて、〝某氏〟の名前を〝あきらかにする〟ことは、〝必ずしも〟必要ないと、三宅氏も「父=英男」も判断したものと思います。)

三宅宗悦氏は、「報告文」の中で
〝筆者調査の際には既に破壊せるも、花南岩の自然石二尺位のものを以て作られ、長軸を東西にとる長方形長さ約七尺幅二三尺の組合式石棺の存在を知り、同人骨が「元」のものに非ざるを知つたのである。〟
と書かれていますが、三宅氏の来村(=10月20日)の1ヶ月後の〝状態〟を示す「写真」を掲載した地元新聞」があります。
『関門日々新聞』昭和6年11月18日分がそれです。
この「写真」で見る限り、私には、〝破壊〟とまではいえないと思います。
なお、三宅氏は、今日と違い、記者会見などはされなかったようで、「記事」ではまったく触れられていないのみならず、「報告文」の発表も当然まだであるため、依然として〝元寇〟の関連で記されています。

三宅氏の「報告文」は、〝文脈〟からして、
筆者(註 三宅氏)調査の際には既に破壊せるも、(そのとき、河野は)花南岩の自然石二尺位のものを以て作られ、長軸を東西にとる長方形長さ約七尺幅二三尺の組合式石棺の存在を知り、同人骨が「元」のものに非ざるを知つたのである。
となるハズで、「知り」・「知つた」の主語は当然、「河野」のハズなのです。
河野は、頭骨を採集し、
〝風雨に朽ちずに遭っていながらも人の足下にされ、弔いもされずにいる。顕すことこそまことに過去を葬る道である"と、保存を貫こうと決めました。
〝「小学校」の理科教室に置くこにするが、その日は「下宿」に持ち帰り香を焚いた。〟(「古墳」からの「出土人骨」を「小学校」で保存するのは、他に公的施設がない田舎の場合、普通のことであり、他に幾つも例がある。) ことは、人々の非難をあびることになったというのです。


▼ 2-[3] 河野から小川氏へ、小川氏〝古墳人骨〟と推定
英男の行為が、人々に奇異に映り、非難を浴びていた時、京都帝国大学の考古学教室の第一回の卒業生であり、母校「旧制山口高等学校」の講師として勤務されていた小川五郎氏が北浦に調査に来られたのです。
その機会を利用して、小川氏を訪ね、その「人骨」が「日本人のものと思う」ということを訴えたのです。
小川氏は出土状態からして「古墳人骨」であろうと推定されたうえに、〝親友〟である三宅宗悦氏に連絡を取ってくださったのです。
(三宅氏が「報告文」=「長門國土井ケ濱古墳人骨に就いて」に、「京都帝國大学医学部 病理学教室」としておられるため、〝奇異〟な感じがすると思いますが、〝当時〟は、「教授」の意向で、〝異質〟な感じのする「教室」の「助手・副手」を採用されることは、「京都帝国大学」に限らず、めずらしいことではなかったということで、「病理学」において、〝傑出〟した「業績」を挙げられていたダケでなく、「人類学者」としても〝著名〟な清野謙次(「病理学」=生体染色法の応用によって組織球性細胞系を発見し、「帝国学士院賞」を受賞//「人類学」=「現代アイヌ人も現代日本人も元々日本原人なるものがあり、それが進化して、南北における隣接人種との混血によって成ったものだ」と主張し、多くの学者に支持される)の「人類学」の「助手」であったのですが、「教室」としては、〝あくまでも〟「病理学教室」なのです。
むろん、「病理学」の面においても、〝無関係〟というワケではありません。
清野氏との関係で、〝兄弟子〟にあたる金関丈夫氏の「解剖」の「助手」などもされていました。)   

三宅氏は、「調査」のため、「来村」され、「人骨」を持ち帰られ、京都帝大の「清野研究室」にある、膨大な「出土人骨」と比較研究されて、統計的に「古墳人骨」に含まれるとされたのです。

なぜ三宅氏は「古墳人骨」としたのか
 ↑「縄文人骨」の出土はあっても、それより時代の降る「弥生人骨」が、〝なかった〟(金関 恕氏は、〝なかった〟とは言い切れないにしても、〝わからなかった〟ハズだとおっしゃつています。
なお、「弥生人骨」が「縄文人骨」より「出土」しにくかった「理由」は、ここに記しています。


しかし、この三宅氏の「古墳人骨」という「鑑定」は、
戦後、[女生徒→衛藤和行氏→椿惣一氏→鏡山猛氏・渡辺正気氏→金関丈夫氏・永井昌文・坪井清足氏・金関恕氏等]という〝流れ〟
のモトに、
「弥生人骨」と「訂正」され、「弥生人骨」であるがゆえに、金関丈夫氏の〝貴重な〟「研究発表」がなされ、「土井ヶ浜遺跡」は、〝きわめて重要な〟「遺跡」となるワケで、〝一見〟、三宅氏の「研究」は、〝無〟に帰したかのように思われるかも知れませんが、三宅氏は、〝当時〟の「研究」としては〝当然〟の「鑑定」をされたワケですし、〝実は〟金関丈夫氏が、「発掘調査」に、〝踏み切られる〟「理由」の〝一つ〟になっているのです。