[おことわり] 年を取っていますので、「契約」が切れても、「ホームページ」なるものが存在する限り、引き続き、見ていただくことができるように、 無料で使用させていただける「Yahoo!ジオシティーズ」を平成25年1月23日から使用させていただき、・・・・。 と記して、「Yahoo!ジオシティーズ」を利用させていただいてきましたが、平成31(2019)年3月31日で、終了するそうです。 そこで、いくつかの「ページ」は、「ケーブル」にし、≠ノ変更しますが、 この「ページ」のように、「ケーブル」の「ページ」に「リンク」させている ≠ナ示している「Yahoo!ジオシティーズ」は、 「ご指定のURLは、このサーバでは見つかりませんでした。」という「メッセージ」が出るようになります。 私の「手元分」との「関係」で、このママにします。 それに、年を取っていますので、「ケーブル」による「ホームページ」も、止める時は、そう遠くはないと思いますので・・・。 お許しいただけたらと思います。 なお、Yahoo!ブログも、2019年12月15日で、終了するそうです。 ≠焉Aまもなく、「リンク」できなくなります。 |
この「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史」 は、 平成26年11月19日に、「出版」しました。 この「ホームページ」よりも詳しい<^メ、できましたら、「本」で御覧いただきますよう、御願いします。 この「ページ」を通して、「一年余」、「注文」を受けつけていましたが、注文は、「1冊」のみでした。 残念ながら、「問題」のある『書籍』は所蔵しているのに、「寄贈申込み」をしても、「一地方に関する『書籍』だ」として引き受けてくれない「公立図書館」が多いことを前著=『萩焼・戸田焼』で体験しています。 「国立国会図書館」が「市販」されている『書籍』の「所蔵」を「原則」としていることとて、「定価」を付け、「ホームページ」で「注文」を受けていたのですが、「定価」は、「実費」の半額以下です。 ただ、多くの「印刷業者」が、最低発行部数を「50部」としていますが、私がお願いした「開成社」は、「何冊でもよい」ということでしたので経済的には助かりますが、それでも、「実費負担」はかなりの「額」になりますので、売れればそれだけ、負担が増すこととて、「平成26年11月10日」で打ち切り、 「25部」という限定出版(うち、「10部」は身内用)をし、 公≠フ「施設」に寄贈することで、できるダケ多くの方に見ていただくことにしました。 次に示す「施設」に「所蔵」していただいています。 ただ、ご覧のように、限られた「地域」の「図書館」ですが、「地元の図書館」を通じて、「所蔵図書館」に「借り出し」の手続きをすれば、利用できます(私は、何度も利用しています)ので、この「ページ」をこのママ≠ノしておきます。
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「京都大学図書館」・「九州大学図書館」・「山口大学図書館」、さらには、「東京国立博物館」にも、所蔵していただいています。
私の『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』は、わずかな部数の発行ですが、ありがたいことに、
「京都大学図書館」・「九州大学図書館」・「山口大学図書館」、さらには、「東京国立博物館」にも、所蔵していただくことで、
信じてもらえないような、超一流≠フ先生方の協力をいただいたことが、「今後の研究資料」として、皆さんに、活かされる可能性ができたことで、喜んでいます。
「山口大学図書館」
「土井ヶ浜遺跡」には、「山口大学」の「前身の一つ」である旧姓「山口高等学校」の生徒であった
小川五郎氏、三宅宗悦氏らが深く関わっておられますし、
金関丈夫氏は、「医学部」の前身「山口県立医科大学」の 教授でもありました。 さらには、「山口大学教授」であった三坂圭治氏、田中 晃氏、粟屋和彦氏 といった方々にも、協力していただいていることを記していますので、「山口大学」の学生さんに、見ていただければと思い、「寄贈」を申し入れてみたところ、 受け入れていただきました。 「京都大学図書館」にも、所蔵していただいています。 [「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘]には、
金関丈夫氏、三宅宗悦氏は言うまでもなく、 木下尚子氏が、『南島貝文化の研究─貝の道の考古学』 〈法政大学出版局刊 1996年3月29日発行〉(第6回「雄山閣考古学賞」受賞)の中で、 さながら土井ヶ浜遺跡からみた人類学小史である と書いてくださっているように、 間接的な♀ヨわりを含めると、 「日本近代考古学の父」と呼ばれる「京都大学」の濱田耕作氏が、根幹において、深く関わっておられます し、多くの「京都大学」関係の方々が係わっておられます。 なかでも、「金関発掘調査」当時の「文化財保護委員会」におられた齋藤 忠氏は、 「京都大学考古学講座」の「設立」まもない頃に、「副手」→「助手」として、濱田耕作氏のもとにおられたことがあり、 カフェ・アーケオロジーと呼ばれる「濱田研究室」における「文化的サロン」のことも教えていただいています。 さらには、濱田耕作氏のご子息で、「京都大学」の「国語学」の「教授」→「名誉教授」であった浜田 敦氏にも、 協力していただき、多くの=u資料」も、いただいています。 ただ、残念ながら、この『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史』出版以前の、 「1996(平成8)年9月21日」に、敦氏が、 「2013(平成25)年7月21日」に、齋藤氏が、 お亡くなりになりました。 私の「調査・研究」には、「京都大学」には、「事務」への「お尋ね」が、「教授」の方からの「手紙」での「回答」をいただけるといった、協力もしていただいています。 そこで、できることなら、「京都大学図書館」に、置いていただき、「京都大学」の方々の目に触れ、当初≠フ「日本考古学」の状況を知る「参考」にしていただけたらと、お願いしたら、受け入れていただけることになりました。 「九州大学図書館」にも、所蔵していただいています。
[「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘]は、言うまでなく、「九州大学教授」であった金関丈夫氏を中心になされたものですが、
一般的に、言われていた、
「土井ヶ浜」で「人骨」が見つかり、「九州大学」に連絡されると、すぐにも「発掘調査」がなされ、「弥生人骨」であることが「確認」され、「大きな 研究業績」となった。
と言ったことではなく、
衛藤和行氏、椿 惣一氏・・・ といった方々による「邂逅≠フ連続」に、 「九州大学の研究者」の方々 「考古学」の鏡山 猛氏、渡辺正気氏・・・ 「人類学」の永井昌文氏、原田忠昭氏、 中橋孝博氏、・・・ の「協力」による 地道な「調査・研究」による「確認」を経た上で、 大きな「業績」が上げられたということを、知っていただければ、ありがたいことです。 このように、僅かな発行部数ですが、「土井ヶ浜遺跡」に深く関わられた「京都大学図書館」・「九州大学図書館」・「山口大学図書館」に、所蔵していただいたことで、「研究資料」の一つとしていただける可能性が増しました。 それは、「大学図書館」に所蔵していただけたことで、「全国大学図書館の蔵書検索(CiNii)」という「蔵書検索」があることとて、「学者の方」にも、確認していていただける可能性ができたからです。 さらには、次に記すように、「簡易印刷」分の『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史』(「付 「百万一心」・野村望東尼」は、「印刷」していません)を、「中立的に広く収集し、閲覧に供することを基本」とされているという「東京国立博物館」にも、「二次的資料」として、所蔵していただくことができました。
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「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 」 には、かなり取り入れていますが、この 「ページ」では、割愛していることが多いタメ、時間が許せば、クリックし てみてください。 ◆@ [この「ページ」のモトとなっている「ページ」 (1) 「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史≠覗くと、「考古学史」が垣間見える? ↑「土井ヶ浜遺跡」が「日本人の起源」
にかかわる重要な「遺跡」として、注目されるに至る経過≠ノは、
なぜ≠ニ思われることが少なくないハズです。
既に「江戸時代」には「出土」し、「元寇」の時の「蒙古人」のものと されていた「人骨」が、三宅宗悦氏、金関丈夫氏によって、「日本人の 起源」にかかわる重要な「遺跡」として位置づけ≠轤黷驍ノ至った過程 を述べています。 (2)発見・発掘史≠フなぜ?≠ニ解答 ↑ この中に、(1)〜(16)の「疑問点
」を設定し、それそれについて、クリック≠キれば、私の調べによる「答
」が見られるようにしています。
なお、クリック≠キると、「疑問点」も記していますので、クリッ ク≠オた画面の手のマーク≠フ 「次へ」 をクリック≠キる と(16)まで、連続して見られます。 そのタメ、「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史」 には、多くの「頁数」を当てていますが、 この「ページ」には触れていません。 直接=A「ホームページ」で、御 覧いただきたいと思います。 (3) 邂逅>氓アの不 思議≠ネるもの(戦前編) (4) ↑ この(3)及び(4)のエッセンス
は、この『出版予定稿』の中に取り込んでいますが、
(3)には、三宅宗悦氏を中心に、邂逅 による結びつきが、「土井ヶ浜」出 土の「人骨」が、「古墳時代の日本人の人骨」と認定される経 過を、 (4)には、衛藤和行氏の異型貝製品に対する関心が、 「長府博物館」の椿 惣一氏を経由したことで、 金関丈夫氏に繋がり、さらには、その若き=u協力者」が、 今日の日本を代表する「考古学者」に結びついていった過程 を述べています。 (3)にも(4)にも、日本を代表するような方々 の 人間模様 が現れています。
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この「土井ヶ浜遺跡」の「発見・発掘史」 については、現在は、「私」の「調査」を受け入れていただいてい ますが、 当初は、間違った≠アとが流布していました 。 しかし、「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史は、『山 口県地方史研究 第67・75・78号』に、私の「投稿」として発表 、 その結果、 『山口県史』・『豊北町史』において、乗安和二三氏の執筆の中で、 さらには、『南島貝文化の研究−貝の道の考古 学』という「第6回雄山閣考古学賞」受 賞の木下尚子氏の大著 ≠フ中にまでも紹介していただいています。 また、松下孝幸氏に も、今後の「出版」においては、『日本人と 弥生人 その謎の関係を形質人類学が明かす』の 記述を「訂正」するということを言っていただいています。 しかし、「人類学者 三宅宗悦博士―″山 高郷土史研究会″・″土井ヶ浜遺跡″事始め― 」に書き添えた邂逅≠フ不思議 については、 「山口県地方史学会」を退会したため、 「ホームページ」を利用して、「紹介」するとい うことにして今日まで来ていますが、 「ホームページ」は、「資・史料」として扱われない傾向にあるということで、 野村望東尼の「終焉の場」、事実≠ニしての「萩焼」の歩みを、「自費出版」せざるを得ないタメ、 併せて=A「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノ見られる「邂 逅」の不思議も、「活字」にしようと思います。 ただ、膨大な=Eかつ重複♂モ所の多い、 「ホームページ」を編集するにしても、 一度$リりの「出版」のこととて、ギリギリ≠ワで 「推敲」しようと思います。 そこで、いずれは「活字」として残しますよという「予告」 をし、実質「初版本」ともいうべきものを、 ここに、こうした形で公開しようと思います。 「出版」という「手段」よりも、はるかに¢スくの方 々の目に触れるハズですので、そういった「効果」も期待しています。 |
構 成 ─ 下線部をクリック≠キると、該当箇所≠ノ 飛べます ─ |
小噺に、 ニュートンは、リンゴが落ちるのを見て、「万有引力の法則」 を見つけたが、その時、青森県の人達は何をしていたのでしょう。 というのがあります。 思いますに、この小噺は、偶然ということの重要さと、その偶然を生かすには、それなりの必然が必要ということだと思いますが、「偶然」の積み重ねばかり のように紹介されきた「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」を調べてみ ると、実は、この「必然と偶然が織りなした」好例 だということがわかったのです。
邂逅=思いがけない出合いという偶然≠「人生 の重大事である」と亀井勝一郎氏は書いておられますが、まさ に、「土井ヶ浜遺跡」が人類学史上%チ筆される「遺跡」として注目され るに至るには、邂逅≠ニいう偶然をもとに、それを必然と した人と人とのつながり・人間関係≠ェあったということをここ では述べたいと思います。 ミスタージャイアンツ≠ニ呼ばれた長嶋茂雄氏に人気がある理由とし て、名前は忘れましたがある「漫画家」がテレビで、「私達漫画家でも書く ことをためらうような劇的≠ネことを長嶋はするんですね。」と言ってい たことを思い起こします。 まさに、事実≠ヘ「小説」よりも奇なりということでしょうか。
どうでもいいようなことながら、まず、私が、「土井ケ浜遺跡」を 巡る「発見・発掘史」を調べ始めたのが、偶然でした。 私の父「英男」は、昭和五年三月、「山口師範学校」を卒業してまもな く、この「土井ケ浜遺跡」と巡りあい、そのことが契機となって、その後の 人生がいささか非凡≠ネものとなっていました。 父は、昭和六二年六月二三日に亡くなったのですが、それからまもなく 、学校に勤めていた私が、「模擬試験」の監督のため、日曜に出勤する途中 、耳にした「ラジオ放送」によって、昭和初年抜き≠フ「土井ケ浜史 」があることを知ったのです。 私は、「ラジオ」を聞くのは車の中だけですので、まさに偶然≠ニい えます。
「土井ケ浜遺跡」に、今日の学術的価値を見出だされたのは、いうまで もなく、金関丈夫氏です。 そして、その「発表」は、『日本農耕文化の生成』における 金関 丈 夫・坪井 清足・ 金関 恕 共著の『山口県土井浜遺跡』に、「概報」と いう形でされています。 しかし、この「概報」の記述にスラ、少しばかり=E誤り≠轤オき ことがあるとわかったのです。 「ドーム」の建設がきっかけだったのでしょう、「中国新聞」を代表と して、各紙が「土井ケ浜」を特集していましたので、私は、複数≠フ「新 聞社」に、「もし、発見当時のことにふれられるなら、取材してほしい」と 依頼しましたが、取材はなく、新たな誤りを付け加えただけでした。 私は、やむなく、私の手で、「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」 を調べ、「豊北町」の「教育委員会」(現在は、「下関市」と合併し ています)に、「情報」を知らせていたのですが、私が「防府」からわ ざわざ=u豊北町教委」に何度となく、出かけることを気の毒≠ノ思った のでしょう、「私たちに言われてもしかたがない。執筆されるのは、権威 ≠る方に依頼するのだから、何かに発表して、それが権威≠る方に認 められることが必要だ」と言われたのです。 私は、正確な=u発見・発掘史」を記したものがなく、それでいて、 「何通りもの土井ケ浜前史=vが存在するという現実に突き当たっていた ため、『山口県地方史研究』に「入会」し、「投稿」したのです。 ありがたいことに、「活字」にしていてただきましたので、「抜き 刷り」を主に、百人以上の方々に、郵送し、その結果、私の「発表」は 、ありがたいことに、受け入れていただいくことができるようになりました 。
傍線を附した箇所を「修正」しています。 その「調査」のプロセスにおいて、「日本」を代表するような先生方の 協力をいただいてわかった=u土井ヶ浜遺跡」が今日≠フ「考古学界」 ・「人類学界」において、重要な=u遺跡」とされるに至るには、「邂逅 を織り込む」という偶然≠ェきっかけ≠ナも、必然%Iな「関係」が あったからだということについては、 『山口県地方史研究 第75号』 に「人類学者 三宅宗悦博士―″山高郷土史研究会″・″土井ヶ浜遺跡″事 始め― 」として、一部≠ヘ「発表」済みですが、 「野村望東尼の終焉の場」について、「萩焼」について 、事実≠無視したことが流布しているタメ、 「野村望東尼」は、「山口県指定」の「史跡」となって いる「終焉の宅」の「管理者」として「立場」から、 「萩焼」は、父=英男が「担当者」であったに も係わらず、後継者の「立場」にあった人物によって、事 実≠踏まえぬことが流布しているのみならず、「萩焼」 にとって、忘れてはならない12代 坂倉新兵衛氏を傷つけてい る≠アとから、 『自費出版』に踏み切らざるをえず、その中に、含めることに しました。 私の「調査」時点では、金関丈夫氏、椿 惣一氏以外は、健在でおられ ましたので、協力をいただき、わずかばかり≠ナすが、「修正」すること ができました。 まず、なによりもさいわい≠セったのは、「金関発掘調査」のきっ かけ≠作られた衛藤和行氏には、お宅を、父に連れられて訪れたことがあ り、それ以後も、父の依頼で衛藤氏に何度も会ったことがあって、何度も何 度もの電話や対面を許してくださったことがあります。 (私の住む防府から、特牛港近くの衛藤氏のご自宅に行くには、かなり な時間がかかります。あまりに度重なったからでしょう、衛藤氏は、私に配 慮してくださり、「あんたが定年になってからきんさい。わたしは死にゃあ せんから。」 とおっしゃったのですが、不幸なことに、私の定年前に、「下関駅」で の通り魔事件≠ナ、亡くなったしまわれました。) 更に、「金関発掘調査」の当時は、英男は「山口県教育庁社会教育課」 において、「文化係長→課長補佐」として、その「調査」に係わりを持って いて、関係された先生方と面識があったということです。 例えば、「発掘調査」当時は「文化財保護委員会」におられ、「土井ヶ 浜遺跡」の「国指定」のお世話になった斎藤忠氏は、その後、東大教授等を 歴任され、その後もお忙しい方だったのです。
しかし、3ヶ月後≠ネら、私のために、時間をとってく ださるとい うことで、東京のご自宅を訪問、「カセットテープ」をまわすことも許して くださり、そのお話の中で、浜田耕作氏は無論のこと、三宅宗悦氏、金関丈 夫氏と、京都帝大で一時期、一緒に勤めておられた方々の話を伺うことがで きたのです。 また、「豊北町(現 下関市)」は、父の勤務していた土地であるほか、 母の生まれた地であり、山口女子師範卒業後、北浦の地で勤務もしていたこ ととて、多くの知人がおられ、ユリコの子=A英男の子≠ニいうことで 、協力が得られたのです。 私がこの邂逅≠フ不思議さに思いをいたした最初≠ヘ 、 父=英男 が「考 古学者」の 小川五郎氏 に報告したのは自然だと思う のに、なぜ、その小川氏が、「病理学教室」の三宅 宗悦氏にさらに紹介し、その三宅氏が『防長史学』とい う地方誌≠ノは発表したのか。 という「疑問」を、小川五郎氏のご子息で、衆議院議員であっ た小川信氏の奥さんに、その「疑問」を投げかけ、その奥さんから、 「三宅宗悦先生は、旧制山口高校で義父と一緒に学んだ親友だったから ですが、三宅先生について、確か、先年、ツノダ≠ニいう方が発表された ものがあると思います。」 「宇部の渡辺さんにお尋ねになったら、いかがですか。」 と教えていただいたことで、宇部の渡辺♂ニ、つまり、現在の「宇部 興産」を興した渡辺祐策氏の孫にあたる、当時、「宇部興産病院」の院長で あった浩策氏のお宅に電話し、その奥さんから、親切に教えていただき、 ツノダ≠ニ言われる方=角田文衛氏の、「人類学者 三宅宗悦博士」という 論文の抜き刷り≠いただいたことからです。 つまり、三宅宗悦氏の姉にあたる方=柔子(なりこ)氏が、祐策氏の次男 =渡辺剛二氏に嫁いでおられたのが、宗悦氏が旧制「山高」に学ぶことにな られた「理由」の一つで、そこから「土井ヶ浜遺跡」の前史≠ェ始まって いたことを知ったのです。 剛二氏は、後に述べますが、「宇部興産」の会長を務められたり、山口 県医師会長、山口県議会の議長をなさったりした、祐策氏に匹敵するように 方でした。 その奥さんであった柔子氏のもとで、母を早く亡くし、父=宗悦氏の戦 死で、宗悦氏のご子息が、育たれたということも知り、そして、金関氏が宇 部市にある「山口大学医学部」の前身「山口県立医科大学」に一時期勤務さ れ、ご子息とも会われていたことも知ったのです。 角田文衛氏には、電話でお話を伺い、いろいろと教えてい ただくと共 に、「もし、ミスがあれば遠慮せずに訂正してほしい」とまで言っていただ いたのです。 地元=山口県≠ノ住んでいることがさいわい≠オ、角田氏の「論文 」の中に、ほんの部分的な間違い≠少しばかり見つけたのですが、それ よりも、この「論文」がもと≠ニなり、お話を伺った方々の温かい対応で 、ここに記すようなことがわかったのです。 ここでは、ごく概略的≠ノ、邂逅の不思議≠述べておきましょう 。 それも、偶然≠ニいう「縦糸」に、必然≠ニいう「横糸」が絡まっ た、まさに、不思議≠ニしかいいようのないありよう≠述べたいと思 います。 「考古学」が今日の開発?考古学 ≠ニ違い、まだ「考古学」が、 偶然≠ノ左右され、一般人≠フ関与が意味を持っていた頃の一つの例とし て、発見・発掘≠フありよう≠語ることもそれなりに∴モ味を持つ と思います。
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(1) 「地元」の出身の母との結婚、 それが私の「調査」にも関係 父=英男は、同じ学 校に勤務していた山中ユリ子と、縁あって結婚しました。 ユリ子の12歳の時 に、母=サナが亡くなり 、主婦代わり・母代わりをしてきたユリ子 は、「近所」に住んでおられ、後に、「文化財」 関係の仕事をなさり、「俳人」でもあったことで、親しくさせていただくこ とになった井上十六氏が 、私に「あなたのお母さんは、この田舎から、家事一切を引き受けなが女子 師範に合格されており、お父さん以上の人でしたよ。」とおっしゃってくだ さっていますが、「田舎」では当時、珍しかった「女子師範学校」 に、父=熊吉の配慮で進 学させてもらい、卒業時、椿 惣一氏(「土井ヶ浜遺跡」にも関係されてい ます)から、下関市の中心部の大規模校への誘いがあったのをお断りし て、「実家」に近い「神玉小学校」に着任していました。 当時の「交通事情」からして、[防府市〜神田村]はとても往き来しや すい距離ではなく、 防府への「移住」は、母としては、決 して、気の進むものではなかったのですが、熱心な英男へのお誘いを受け て移住、 そのタメ、毎年、長期休暇の度に「実家」を訪ね、「墓参」 を繰り返していたワケで、同行させられていた私は、父と個人的に親しかった、 「特牛港」近くに住んでおられた衛藤和行 氏の家に、何度も、連れられて行ったことがあり ます。 「土井ヶ浜遺跡」そのものにも、何度か、立ち寄っていま した。 当時≠ヘ、「考古館」という小さな=u資料館」こそあっ たものの、側にあった「松濤苑」という「養老院」で、「鍵」を借 りて入り、「鍵」を戻すという「システム」で、その周囲に、「石棺」 が幾つかあったのですが、夏には、坪 井清足氏を驚かせた「海水浴客」の「駐車場 」と化しているのも、見かけています。 衛藤氏には、父が亡くなってからも、親しく させていただき、 「土井ヶ浜遺跡」の発見=E発掘史≠再調 査≠キるに際し、親切にしていただけた のです。 おそらく=A私でなければ、衛藤 氏から、新たな「疑問」、「矛盾点」が 出てくる度に、何度も、何度も、問い直すということはできなかった と思います。 昭和六年の出土以後も、何度か人骨が出土した のに、なぜ衛藤氏は「人骨」を改めて「金関」氏に届けられたのか? ─ このことが「疑問」の中心≠ナした。 「先生、なして人骨を改めて九大に送っちゃったんですか?」 「なんで古墳人骨というのはおかしいと判断しちゃったんね?」 「なして、解剖学教室なんね?」 私は、親しさにまかせて、こんな失礼な言い方を衛藤氏としていました。 衛藤氏は、 「あんたは、記憶を呼び戻してくれるのぉ」 と言われたものです。 その結果、金関丈夫氏の後継者である永井昌文 氏のご親切もあって、『日本農耕文化の生成』中の「14 山口県土井浜遺跡」 という『原典』をも、一部=u修正 」する事実が見いだせたのです。 つまり、ささいなこと≠ネがら、地元の人間との「結婚」 ということも、邂逅の一つではあるのです。 (2) 長兄=頼人 ・長姉=浅田計子 の誕生の地 この「豊北」で、私の長兄・長姉が生まれています が、長兄は、「国文 学者」であると共に、「俳人」です。 ありがたいことに、「瑞宝中綬章」をいただき、句誌『木の実』の五代 目主宰であったこととて、その双方に「著書 」がありますが、その「奥付」において、 いずれにおいても、「山口県に生まれる」としています。 昭和7年9月25日生まれですが、昭和13年3月末に は、「防府」に移り、以後、昭和41年、「北九州大学」に勤務するよう になるまで、「防府」が「本籍」でした。 従って、実質=A「防府」出身ということで、敢えて、 山口県生まれとしているワケです。 ただ、六歳近くまで住んでいた地とて、どれほどの記憶が残 っているのかはわかりませんが、2歳違いの妹同様に、懐かしい £nであるハズであり、「土井ヶ浜」に関す る句を、幾つも詠んでいるようです。
(「装丁」は、前の『
紙魚の宿』・『アカシヤの大連』に続き、文部大臣賞・総理大臣賞
等々を受賞されている福岡芳忠氏に御願いし、協力をいただいています。)
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◆参考(その4)=「土井ヶ浜人類
学ミュージアム」の設立と坪井清足氏とのこと
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「土井ヶ浜遺跡」は、金関丈夫氏を中心に、金関氏
の教室の永井昌文氏を始め、坪井清足氏・小川五郎
氏・国分直一氏・金関 恕氏・水野正好氏、更には
、杉原荘介氏といった、「考古学界」をリードされ
る、多くの方々によって、発掘調査がなされ、大きな成果をあげて、
昭和31年9月27日の「山口県指定文化財保存顕彰規程」のもと での「県指定」を経て、 昭和37年6月21日に「国指定史跡」 となります。 「考古館」が建てられ、史跡の傍らにあった養老院「松濤苑 」の職員が鍵をあずかっていて、申し出によって、見せてもらうという 「システム」で、「土井ヶ浜」という美しい=u海水浴場」 近くで、多くの海水浴客はあるのですが、残念ながら、いつのころか、 「考古館」には、来訪者はほとんど≠ネくなっていきました。 私は、母の実家があることとて、何度も行っていますが、残 念ながら=A一度も、私たち以外の「見学者」に会ったことはありませんで した。 時が経過して、「京都大学の大学院生」であった坪井 氏は、「考古学」の指導者として、活躍されるようになっておられまし た。 その坪井氏が、ある年の夏=A「土井ヶ浜遺跡」を訪れられた時のこ とです。 「山口県」の関係者の案内で「土井ヶ浜」に立寄ったところ、小 さな「資料館」はほこりにまみれ、海水浴客の車が遺跡の中に、無造作に数 多く乗り入れていたのです。
坪井氏がこうした文を書かれる以前に、私はこのことを既に活字にして います。 (『山口県地方史研究第七5号』の中の「人類学者三宅宗悦博士 ―山高郷土史研究会=E土井ヶ浜遺跡℃鮪nめ―」) そして、「土井ヶ浜」について、既に何度か話をしたことのある「 県教委」の乗安和二三氏が防府市文化福祉センターで講演された後 に乗安氏に出会い、その乗安氏に「昭和6年の出土」の「写真」が載ってい る「新聞」があるということを話すとともに、 私が当時≠フ「県教委」におられた方に教えてもらった坪井氏の迫 力ある注意≠ェ、再び、「土井ヶ浜」の発掘がされるきっかけ≠ノなった ようだということを話していると、この坪井氏の「土井ヶ浜遺跡」訪問のす ぐ後に、坪井氏とあったという「防府市教委」の吉瀬勝康氏がたま たまおられ、 その「背景」を、解説してもらいました。 「次」は、改めて「メール」で確認したことに対しての「回答」からの 引用です。
さて、この坪井氏の迫力ある注意がきっかけとなり、とり あえず、どこからどこまでが「遺跡」かの「範囲確認」の調査を始 めたところ、その調査で新たな出土が次々とあり、「調査」が続いていくこ とになったのです。 そして、それが、「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の建設へと続い たのです。 従って、「土井ヶ浜遺跡」が新たな歩み≠大きく踏み出すこと になったのも、金関丈夫氏と坪井氏の邂逅≠ニ無縁ではないので す。 |