[おことわり] 年を取っていますので、「契約」が切れても、「ホームページ」なるものが存在する限り、引き続き、見ていただくことができるように、 無料で使用させていただける「Yahoo!ジオシティーズ」を平成25年1月23日から使用させていただき、・・・・。 と記して、「Yahoo!ジオシティーズ」を利用させていただいてきましたが、平成31(2019)年3月31日で、終了するそうです。 そこで、いくつかの「ページ」は、「ケーブル」にし、≠ノ変更しますが、 「写真」については、当面=A「空白」になる箇所が何カ所もあります。 さらに、この「ページ」のように、「ケーブル」の「ページ」に「リンク」させている ≠ナ示している「Yahoo!ジオシティーズ」は、 「Yahoo!ジオシティーズは終了しました。」という「メッセージ」が出るようになります。 私の「手元分」との「関係」で、このママにします。 それに、年を取っていますので、「ケーブル」による「ホームページ」も、止める時は、そう遠くはないと思いますので・・・。 お許しいただけたらと思います。 なお、Yahoo!ブログも、2019年12月15日で、終了するそうです。 ≠焉Aまもなく、「リンク」できなくなります。 |
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この「土井ヶ浜遺跡」の発見=E発掘史は、既に、そのエッセンス≠ヘ、 私の『山口県地方史研究』における「発表稿」、乗安和二三氏による『山口県史』、『豊北町史』において、「活字」となっており、 さらには、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」によって、 全「4冊」からなる詳細≠ゥつ、膨大≠ネ 『土井ヶ浜遺跡 第1次〜第12次 発掘調査報告書』 が刊行されました。 O 『第1分冊』の「本文編」 〈258頁・図版8頁〉
O 『第2分冊』=「人骨編」〈565頁〉 O 『第3分冊』=「特論・総括編」〈341頁〉 O 『第4分冊』=「図版編」〈317頁〉 O 「第13次調査から第19次調査の刊行済み報告書を PDFファイル化した付録」 からなり、これらを納めるケ ースの幅は11p≠烽る 膨大≠ネものです。 この『第1分冊』「本文編」には、松下孝幸氏によって、「発掘前史」という項目で、私の「調査」を踏まえて記してくださっています。 従って、私の「自費出版」なんて、いまさらという気もないわけではありませんが、多くの方々の協力をいただいており、 『山口県地方史研究』も「10頁以内」ということでしたのに、「14頁」と、便宜を図っていただきましたが、それでも、当然、調べたことの一部に過ぎません。 松下氏の「発掘前史」も、限られたスペースですので、省略≠ウれていることがあるのは当然のことです。 それに、『発掘調査報告書』には書かれていないことも、いくらかはありますので、「出版」することにします。 なお、松下氏が「発掘調査以前」なるものを執筆してくださるため、父=英男の「写真」を貸してほしいと言ってくださり、私がこの「本」の「出版原稿」がほぼできあがっていたのに、『発掘調査報告書』ができあがるのを待つことができたことは、結果的に、とてもありがたいことでした。 そのことで、重複が避けられたり、『発掘調査報告書』でわかったことを踏まえて、松下氏や「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」の大藪由美子氏に問い合わせ、 親切に「対応」していただいけたことも、踏まえていますので、その意味でも、「「土井ヶ浜遺跡」の「理解」にやくだてていただけるのではないかとも思っています。 [平成26年11月19日]に「出版」し、幾つかの「図書館」・「施設」に寄贈していますが、寄贈を受け入れる「図書館」は限られていることとて、 引き続き、「出版原稿」は、「次」の「ページ」で公開≠続けます。 クリック≠オて御覧いただきたいと思います。 |
1 発見・発掘史≠フなぜ?≠ニ「解明」 |
「土井ヶ浜遺跡」が「日本人の起源」にかかわる重要な「遺跡」として、注目されるに至る経過≠ノは、なぜ≠ニ思われることが少なくないハズです。 既に「江戸時代」には「出土」し、「元寇」の時の「蒙古人」のものとされていた「人骨」が、三宅宗悦氏、金関丈夫>氏によって、位置づけ≠轤黷驍ノ至った経過≠述べています。 |
発見・発掘史≠フなぜ?≠フ一覧−≠フ箇所は、ここでも「リンク」設定してあります。− 1 「土井ヶ浜遺跡」は「昭和6年」に発見されていながら、「発掘調査」は、「昭和28年」までされず、思い出した≠ゥのように行われたようになっている。 金関丈夫氏らの「発掘調査」によってこそ、「弥生人骨」が大量に発見され、日本人起源の「渡来・混血」説の根拠となった遺跡であるのに、それでいいのか? 2 昭和六年(昭和五年?)に石を動かし、人骨を最初に発見した人物は「某氏」として、名前が伏せられているのに、連絡したという「河野英男」の名は、多くの「文献」に名が載せられている。 「河野」の果たした役割は何か。 3 なぜ、発見の時期が「昭和五年夏」と「昭和六年春」と違うのか? 4 「考古学者」の小川五郎氏に報告した河野の行為は自然だと思うがなぜ、考古学者の、小川氏が、「病理学教室」の三宅宗悦氏にさらに紹介したのか。 5 いったい、三宅氏は、「北浦」に来たのか来なかったのか? 6 なぜ、駒井和愛氏は、三宅氏の論文発表前に、「土井ヶ浜」に来たのか? 7 なぜ、駒井和愛氏は、三宅氏に「弥生式土器」を送ったのか? 8 駒井氏はある意味では、「弥生の可能性」を発見していたと言えると思う。「発見・発掘史」上での意義はないか? 9 出土地点は、どんなところだったのか? 10 なぜ「清野蒐集人骨」なのか? 11 なぜ三宅氏は「古墳人骨」としたのか? 12 @ 衛藤和行氏の金関丈夫氏に届けたとされるものが 人骨/人骨と土器の破片/巻貝を加工した貝輪 のようにまちまちである。本当は何だったのか? A 「人骨を届けた」という説の通りだとすれば、なぜ、人骨を改めて、九州大学に知らせたのか? B なぜ出土品を「考古学」関係でなく、「解剖学教室」に届けたのか? 13 @ なぜ、京都大学は動かず、九州大学は発掘に踏み切ったのか? 14 「金関発掘」に踏み切る一つの要素となったという『一地方誌』に載った3頁弱の報告文≠金関氏は二十年後≠ワでも覚えておられたのか? 15 なぜ「三宅報告文」が掲載されている「防長史学」の巻数が異なるのか? 16 なぜ、長い年月放置されていた≠フに、「発掘調査」が再開され、「人類学ミュージアム」ができることになったのか? |
「左」の写真は「山口師範学校」の「卒業アルバム」から取りました。
河野英男は、「昭和5(1930)年3月」に、「山口師範学校」を卒業して、「神玉小学校」に勤務。 しかし、実質的≠ネ「勤務」は、半年間の「短現」を終えてからで、「人骨との遭遇=vは、実際に=A勤務し始めてほぼ半年後=昭和6(1931)年春のことでした。 [明治43(1910)年11月19日生まれ]ですから、20歳でした。 「左下」は衛藤和行氏と担当しておられた「神玉中学校」の生徒たちとの写真であり、 「右下」は、この「写真」から衛藤氏を「スキャナ」でピックアップしたものです。 この「写真」の生徒達が、現在、「ドーム」がある場所に「青年研修所」建設工事に際し、大量の「人骨」が出土、道端に積んであったのを衛藤氏に伝えたことが、「金関発掘調査」のそもそものはじまりなのです。 [昭和27(1952)年6月頃]のことでした。 なお、衛藤氏は、『教職員録』によると、この時は、32歳の青年教師でした。 |
2 邂逅=|この不思議≠ネるもの |
亀井勝一郎氏の「邂逅、この不思議なるもの」という「言葉」そのものであることを立証≠キるかのような、「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史上にみられる偶然≠ニ必然≠フ織りなした「考古学」・「人類学」関係者のつながりを述べています。 木下尚子氏は、私の、ここにあるモト≠ニなった 山口県土井ヶ浜遺跡─再考「土井ヶ浜≠フ発見・発掘史」 を、大著『南島貝文化の研究─貝の道の考古学』〈法政大学出版局刊 1996年3月29日発行〉(第6回「雄山閣考古学賞」受賞)の中でふれてくださっており、さながら土井ヶ浜遺跡からみた人類学小史である≠ニ書いてくださっています。 |
邂逅=|この不思議≠ネるもの(戦前編)の一覧 背景(その1)=村の人・河野英男について 背景(その2)=小川五郎氏について 背景(その3)=三宅宗悦氏について〈「山口高校」への進学/柔子氏のこと〉 背景(その4)=浜田耕作氏について 背景(その5)=清野謙次氏について 背景(その6)=駒井和愛氏について 背景(その7)= 背景(その8)=藤島亥治郎氏と浜田耕作氏について |
邂逅=|この不思議≠ネるもの(戦後編)の一覧 ● 戦後の「土井ヶ浜」遺跡 〈女生徒の話から貝製品を採集した衛藤和行氏からの出発=r 背景(その1)=衛藤和行氏について 背景(その2)=「教室」総出で、可能性≠フ確認に 背景(その3)=「台湾」での金関氏と国分直一氏、坪井清足氏 背景(その4)=金関恕氏のこと 背景(その5)=小川五郎氏のこと 背景(その6)=斎藤忠氏のこと 参考(その1)=「山口県立医科大学」と渡辺剛二氏、水田信男氏のこと 参考(その2)=金関丈夫氏と「山口県立医科大学」 参考(その3)=三宅宗和氏(宗悦氏子息)とのこと 参考(その4)=「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の設立と坪井清足氏とのこと 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ニしては番外≠ニもいうべきことなれど ↑「資料館」→樹のぶ子氏→西村謙氏、それに河野英男が再び「土井ヶ浜」と関係を持つこと |
3 「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」の「ホームページ」及び館長の「著作」のこと |
「土井ヶ浜遺跡」に父=河野英男が、多少≠フ係わりを持ち、多くの方々の御協力をいただいて、事実を調べている私にとって、「問題点」を指摘してきました。 その効果≠ェあってでしょうか、松下館長から、「平成22年12月23日」に、丁寧な=uメール」をいただき、「訂正」等を考えておられること、 そして、当面≠ヘ、「ミュージアム」の「ホームページ」で、「加筆・訂正」されているということを知らせていただきました。 ただ、そのことに気づかれない方も多いと思いますので、私の「ページ」で気づいていただきたい≠ニ思います。 |
5 土井ヶ浜=普u土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」 |
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「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」と「モニュメント」 「金関発掘調査」のきっかけとなった「異型貝製品」は、この「モニュメント」に似ています。
しかしながら、松下孝幸氏に確認したところ、 「土井ヶ浜遺跡や人類学ミュージアムのシンボルとして、何がふさわしいか熟考した結果、『ゴホウラ貝輪』が琉球列島との交流・関連を知ってもらうためにも、また土井ヶ浜遺跡の象徴となり得ると考え」、
とのことでした。
「124号人骨が右腕に着装していた腕輪をモデルにして、ゴホウラをどのように切断して貝輪を作成したかがわかるように作成」した 「右上」は、金関丈夫氏の「協力者」→「後継者」である永井昌文氏が、今は周知の国の史跡「土井ケ浜遺跡」の初年度の発掘調査は昭和二八年夏に行なわれた。 実はその前年に発見され、本調査の端緒となった物の一つがここに論究する貝製品である。 として発表された「論文」=「土井ヶ浜出土の異型貝製品」において「紹介」されている「図」及び「写真」です。 |
日本でも代表的な美しい浜辺である「土井ヶ浜」と「人類学ミュージアム」の「位置関係」がわかる「航空写真」が、「資料」を整理していたら出てきました。(平成23年1月28日) 「人類学ミュージアム」の「開館」の頃に、作成・配布されていた「土井ヶ浜弥生パーク」という「パンフレット」にある「写真」です。 「人類学ミュージアム」の 松下館長 に、スキャナ≠ナ取り込むことで、「紹介」をさせていただきたいと御願いしたところ、「下関市教育委員会」への「許可申請」の方法を教示していただけたのみならず、「写真」そのものも貸していただけるように配慮してくださいました。 「右下」の「円筒形」の建物及びその周辺が「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」です。 「土井ヶ浜」は、「日本の海水浴場100選」に選ばれている、「約1kmにわたって続くロングビーチ」と、海水の色≠ナもわかると思いますが、「100m沖まで続く遠浅」からなる「浜」です。 金関丈夫氏によると、「土井ヶ浜」に眠る人々は、渡来人であり、更には、その後、地元≠フ住民との間に生まれた人々ということですから、 おそらく、「戦争・政変」のため、生命の危機に直面した一族郎党(昔は、「敗者」は、皆殺し≠ノされることも珍しくなかったといいます)が、「故国」を離れ、海に乗り出して辿り着いたであろう、異国≠フこの美しい=u浜辺」に、心癒され、そのまま¥Zみ着きながらも、望郷≠フ念 捨てがたく、語り継がれ、亡くなった時には、故国or祖先の地の方を向いて埋葬された (東枕=&カ化庁の「ホームページ」の「詳細解説」・石棺の中で頭を東にして=♂ヘ野英男の「土井ヶ浜遺跡とわたし」・頭蓋骨は全部東端にあつたと云ひ=℃O宅宗悦氏の「長門國土井ヶ濱古墳人骨に就いて」・顔が西側を向くように==uミュージアム」の「ホームページ」 は、いずれも 同じこと です) のが「土井ヶ浜遺跡」ではないかと、勝手に想像しています。 「大型」の「写真」ですので、「パソコン」の 「横」 or 「下」 にある 「バー」 をスクロール≠オて御覧下さい。
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これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、23067≠ナしたが、[平成23年2月18日午前7時]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。 従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります。 |