令和年11月5日 開始
令和6年12月1日  更新=@
令和6年12月7日  「検索可能」になったことを確認 



● 「山口県防府市」において「野村望東尼」が亡くなる寸前まで寄寓していた「荒瀬邸」の「一部」の「離れ」の公開のこと

─ 私 (河野俊乎) は、公開される「望東尼」が、防府滞在の「大半寄寓していた離れ=vの元の「所有者」です。 ─







「防府市観光情報ポータル」=「たびたび防府」

「たびたび防府」/野村望東尼-寄寓の家・関連の地
 ↑ 「防府市文化振興課」で作られたものです。「下線部」をクリック≠オてください。 








「公開されているという掲示」

「望東尼の命日」の「11月6日」、
「大楽寺」で「望東尼の法要」が催されることもあって、
「旧荒瀬家の『離れ』」は、「大楽寺」のすぐ近くですので、
「11月6日」に、
このように「掲示」され、「防府市文化振興課」の方が、案内してくださいます。

なお、「令和5年」には、『ほうふ日報』の方が「写真入り」の「記事」にしてくださっています。

以前は、この「離れ」が「野村望東尼終焉の宅」として「山口県指定史跡」になっていましたが、
私の「調査・研究」で、望東尼の体調の悪化のタメ、「荒瀬邸の主家の『南八畳の間』」に移され、そこで亡くなったということを突き止め、 「文化財指定候補」が「荒瀬邸の主家」と「離れ」が別にされており、「指定されなかった荒瀬邸の主家」が、「平成」の始めに、解体され、新しい家になっているいることとて、「指定」はともかく、「望東尼関係」、「江戸時代の瀟洒≠ネ建物」という点で、次に記しているような経過で「防府市が保存→公開」となったのです。









「野村望東尼」と私どもとのこと

 我が家は、野村望東尼のみならず望東尼が身を寄せていた「荒瀬家」との直接の関係はありません。
父=河野英男は、「土井ヶ浜」において、しばしば出土する「人骨」が、それまでは「元寇」の時、攻め入ってきた「蒙古人の骨」とされてきたのを、「出土状態」からして、「日本人の骨」だと判断し、それが「京都帝大」の三宅宗悦氏によって、「日本人の人骨」とされたことで、「研究」及び「発表」の機会を与えていただき、それが「評価」されたことで、28歳の時、防府市の「松崎小学校」に招いていただいたのですが、母=ユリ子も、当時としては少なかった「女子師範学校卒」であったことで、「華浦小学校」に転任できました。  
昭和13年のことです。  
母の勤務校「華浦小学校」に近い方がよかろうとして、御世話していただいた「家」は、残念なことに=A住んでみると、「雨漏り」の激しい家だったと言います。  
困っていた時、斜め前の「家」が空き、引っ越しました。  
九月のことだったといいます。  
この「借家」は、「台所」と「二部屋」が増築されてはいましたが、次姉と私がこの家で生まれ、決して広い家で はなく、更に、祖父=砂七が、昭和二一(1946)年6月21日に亡くなったことで、祖母も一緒に住むことになり、八人が住むには、狭かったのですが、適当な「借家」が見つからなかったことで、工夫して住んでいたのですが、
昭和二七年になって、所有者=林川長兵衛氏が、東京に移転するということで、「購入するか」、「すぐ出るか」とされたことで、年度途中であるし、昭和二三年から、父は「山口県教委」に勤めており、「三田尻駅」(現 防府駅)にも近く、さらには、「増築」可能な土地があったことで 、母が購入代金の負担(当然、「書類」にも、「所有者」としては母の名が記されています)をし、購入後、大工の方の都合がつくと、直ちに増築にかかるとともに、林川氏による増築箇所も、改造しました。

この「増築工事」は、「指定申請以前=vのことなのです。
この「岡村町の家」が、昭和二九年に、突然、「野村望東尼の終焉の宅だから、『野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓』として「一括申請したいので、同意してほしい」とされたことで、始めて「野村望東尼」に係わる「建物」だったことを知ったと言います。
「指定申請書」には、
 (ニ)現状の 「b」として、
  望東尼が起居していた「離れ」は、玄関二畳と居間六畳二間に茶の間三畳を使用していたと伝えられ、旧宅地に あるときは道具二階(四畳半)の屋根ガラス窓から三田尻湾を一望の中に収め・・・。
と明記されているのです。
 しかし、「指定申請するという家」は、まず、林川氏が、「中塚町」から、「離れ」のみを「桑山東麓」の所有地に移築していることで、本来の位置にあることが「原則」の「史跡指定」は難しいハズで、さらに、「家の荒廃」を防ぐタメ、炊事場等の「増築」をして「借家」用にしていたことに加え、「我が家」が購入後、増築していて、当初の「三倍近く」になっていたのです。
 従って、 「指定申請」しても、少なくとも「終焉の宅」は、「史跡指定」にはなるまいと思っていたとのことですが、父が「山口県教委」で、「文化財保護法」制定に伴い、「社会教育課」に新しく設けられた「文化財担当」の「係長」であったこととて、「防府市」の「指定申請」に同意するとともに、「当事者」ということで、「指定問題」には係わらなかったとのことですが、「移築」までして「保存」されているといった「受け止め」がされたらしく、「墓」・「宅跡」を含め、一括して「指定」されたのです。
この「史跡指定」から、我が家と野村望東尼との関わりができたのです。








望東尼の寄寓した旧「荒瀬家の離れ」は、「移築・保存」が検討されていたということ   

 林川氏が「家主」となり、林川氏の所有地のある「桑山の東麓」に「荒瀬邸」から、「離れ」が「移築」された「離れ」が、 「野村望東尼終焉の宅」の名称で「山口県指定史跡」になっていたのですが、所在不明になっていた春山育次郎氏の『野村望東尼傳』が「指定」以後に刊行され、
「山口県指定文化財保存顕彰規定」のみならず、「山口県条例」の時にも、「指定段階では候補にも入っていなかった」のに、権威≠ニされる春山氏が、「著者の十余年前曾て三田尻を往訪したる時」と、実地調査で確認したという文言があるがゆえに、春山氏の記した「荒瀬家の抱家」なるものが、流布しだし、「山口県の権威とされる人物」もそれをとれ入れたタメ、「指定された離れ」は、否定されたかのように≠ネってしまったのです。
 のみならず、「市道の舗装工事」で「山水」が流れ込むようになって 「住めない家」である上に、あちこち、修理も必要になるのに、「修理」しようとすると、「望東 尼に関係のない箇所」にさえ、「申請」が必要で「許可」を待って「工事」、「完了報告」が必要で、「大規模な工事」でないこととて、「経費」は全額、「自己負担」なのです。
  母は、九十歳になると、この「家」が、全くの「負の遺産」であり、それを私に「管理させる」こと、さらには、子々孫々にも負担が掛かることを心配し、私が、まだ、「県立高校」に勤務しており、「県に異を唱える」ようになることを避けさせようとしたのでしょう、
母と長姉が、「県教委の文化財担当」(「担当部署」は、何度か「名称」を変更しています)に「実情」を訴え、「指定解除」を申し入れたのですが、
「焼けて無くならない限り、『指定解除』はしないし、『寄贈』も受け付けない」と言い放たれていたのです。  (但し、この時の「担当者」に問題があったのであり、誠意ある「対応」をする「文化財担当」も、少なくないことが、後でわかりますが・・・)

せめて、「望東尼終焉の宅」だということダケは、周知させようと・・・
 父が「文化財担当」であったことがあることから、「指定解除」されない限り、「未来永劫」、「住めない家」の「管理」をせざるを得ないこととて、「岡村の家」に、「野村望東尼の終焉の室」があることは、間違いないということをはっきりさせようとすることから「調査・研究」を始めました。
春山氏の「荒瀬家の抱家」説は、前後の記述からして、「誤り」であることがわかりましたが、
「県の『刊行物』や『ネット』」に、大きな問題がありました。
そこで、「まず、「県の担当者」に、「増築され三倍になっている家」、しかも、「増築部分しか写っていない写真」を掲載しているのに、『刊行物』は、ともかく、「ホームページ」は、簡単に「修正」できるハズなのに、何度も出向き、要請していたのに、放置されていた「本来≠フ望東尼関係」と「そうでない箇所」をきちんとすべきだ」ということを、はっきりさせようとしました。
「増築部分」を含めて「終焉の宅」とするなら、「江戸・明治・大正・昭和」の工事なので、素人目にも「疑問が出るハズ」ですから。

私は「県立高校」の教員を退職すると、改めて出向き、なんとしても、「本来≠フ望東尼関係箇所」と「そうでない箇所」をきちんとすべきだ」と、強力に主張し、「訂正」させようと意気込んでいたのですが、当時の「主幹」であった清水利宏氏には、私が力む必要もなく、誠実に対応してもらえたのです。  

その後、私の「調査」で、
望東尼が亡くなったのは、病状の悪化で、「荒瀬邸の主家の南八畳の間」だという「有力な¥リ言」を知って、
「県指定の解除」をしてもらったのです。

「平成26年10月16日(「記録」としては「平成26年12月2日」になっているようです)に、「山口県指定文化財」の「指定解除」が実現したのですが、
皮肉≠ネことに私の「ホームページ」は、
福岡県糸島市野方春人氏の目に触れ、野方氏の『著書』(3冊)に、「写真」入りで紹介していただくようになったのを始め、「大河ドラマ=花燃ゆ」
では出てきませんでしたが、間接的ながら「楫取素彦」(文(美和子)の2番目の夫)の「命の恩人」である「望東尼」を、私の「吉田松陰の妹 文(美和子)」についての「HOME PAGE」に記していたことで、想定外の「アクセス」があり

一躍、注目≠ウれるようになったことで、「群馬県」の方も、訪ねて来られるといった)ように、 「指定解除」になって、ようやく$lに知られるようになったのです。

そこで、

「維新150年」にあたる 「平成30(2018)年」迄 は・・・

「ホームページ」&『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』において、「宣言」して、「私の管理している家」のことですが、
「山口県」の「指定解除」を決めた「定例教育委員会会議の要旨」
建造物として新たに指定して保護する価値も有していない
とあるものの、それは、「増築部分」が倍以上、それも、「大正・昭和」のもののある混合≠オた「建物」だからです。
「会議」なるものは、「肩書きのある人物」によってなされがちで、口幅ったい言い方になりますが、「指定解除」は、ほぼ=u私の調査」によっているのです。
既述しているように、「指定解除」の前に、「県教委 社会教育・文化財課」の主幹に、清水利宏氏が着かれたことで、「調査」に来てくださり、
「県教委」の「出版物」の「図面」が、望東尼に関係の無い、「増築部分」を含めた「全体」であるようになっていることの「訂正」を求めていた私の「要請」を、 受け入れてもらい
「平成18年」当時、「建造物担当」の委員であった福田東亜氏(その後、「文化財保護審議会会長」)と共に、「確認調査」に来られ、福田氏が、詳細≠ノ「調査・確認」され、
江戸時代の商家の離れを感じさせる瀟洒な良い建物だと思う
と「評価」され、そのことを公≠ノすることの「許可」もいただいて、
私の『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』の427&ナに記していたこともあってでしょう、
福田氏が、「防府市」の「委員」でもあることとて、「副市長」中村 隆氏が、福田氏の「意見」を聞かれ、「文化財課」とも相談され、 「望東尼の関係部分」のみを「移築保存」する方向で、進めてくださったのです。
清水氏が、福田氏と「確認調査」をしてくださったことが生きたのです。








「左」の「平面図」赤枠&舶ェが本来≠フ望東尼寄寓していた「離れ」です。
この「確認」をされたのが福田氏です。

「右の写真」は、「調査」に出向いてくださった、
左から、

  原田光朗 文化財課 課長補佐
  中村 隆 副 市 長
  藤本尚志 文化財課課長



「荒瀬家の主家」が、「平成」の始めに、解体され、新しい家になっているいることとて、「指定」はともかく、「望東尼関係」、「江戸時代の瀟洒≠ネ建物」という点で、「保存すべき」という流れ≠ノなりつつあります


望東尼どこで亡くなったかは、望東尼の「人柄」に直結≠キることです。

▼@ 「土井栄作旧宅」=肺結核のタメ「空き家」になっていた「土井栄作旧宅」に移ることになり、ほとんど放置され、不平をもらしたりしていたが、
     誰にも看取られることなく、気がついたら亡くなっていた。


▼A 「荒瀬家の抱家=v謙虚で、慎ましやかな望東尼は、望んで、到底、立派とはいえない、「抱家」に移り、そこで、亡くなった。

▼B 「荒瀬家」多くの見舞客・看護人によって、大切にされ、望東尼素直にその好意を受け、感謝しつつ亡くなった。
             (「藤四郎告訃状」=御自分にも難有涙を被流、御厚慮之程を拝謝相成候程之次第に御座候。≠ネど)



   その後、「防府市議会」において審議され、「平成29年11月15日」、「全会一致」で可決されたのです。








詳しくは『この本』をみていただけたら


『本』の「表紙」に、
「基本的事項」の「再検討」の「提言」
と記しているように、こと「防府における 野村望東尼」 に関しては、残念ながら=A「公的資料・、「一流≠ニされる方々の『著作』」には、 「疑問点」が少なくありません。
私は『この本』を「自費出版」し、「山口県内の図書館」を中心に、寄贈していますので、時間的にゆとりがある時に、『この本』をみていただけると幸せます。

「目 次」

は じ め に
一. 野村望東尼と私どものこと     
二.なぜ私が「野村望東尼」語り、「楫取素彦」を語るのかということ・・・   
1.「県指定」のハズなのに、無視≠ウれたかのように≠ネった「望東尼終焉の宅」
(1)「県条例」に昇格後の「県」の「ホームページ」・『刊行物』にも「問題」が
(2)「指定」以後に刊行された権威≠ニされる春山育次郎の『野村望東尼』
2.「市道の舗装工事」で「山水」が流れ込むようになって
3. 末っ子の「私」が「野村望東尼終焉の宅」なるものを受け継ぐのは
4.母と長姉が、「指定解除」を申し入れるも・・・
5.せめて、「望東尼終焉の宅」だということダケは、周知させようと・・・
(1)「望東尼に関係する部分」をはつきりさせることから
(2)「望東尼は防府滞在の大半は『離れ』に寄寓していたが、亡くなったのは『離れ』ではなく、『主家の南八畳の間』だ。」という「有力な¥リ言」を知って
三.「離れ」と「主家」を「別の家」としていることとて「指定解除」を求めることに
四.「指定解除」の「話し合い」
五.「指定解除」を求める過程でわかった権威あるもの≠ヨの「疑問」と「資料となる可能性のある私なりの「研究結果」のこと
六.「防府市」によって、「保存」されることになった「望東尼の寄寓していた荒瀬家の『離れ』」について

第一章「大河ドラマ 花燃ゆ」で感じた公的=E準公的≠ネ「資料」には強い=u信頼」があるということ

第二章 野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネるものの問題点について
一.『 福岡県史』にもある「問題点」
二.三冊の『防府市史』の野村望東尼関係箇所

第三章 「公的=E準公的≠ネ資料」の「問題点」の「誠意≠る対応」

第四章 『防州日記』の検討による野村望東尼の最期の様子について

第五章 楫取素彦について

第六章 望東尼の寄寓した旧「荒瀬家の離れ」が「防府市」によって、「保存」されることになったことについて

第七章 吉田松陰の「菩提寺」について

「付 録」

あ と が き











「文化財の修復工事の際の古材」を廃棄するのではなく、「許可」を得て、「展示」

父(河野英男)は、「太平洋戦争後]に制定された「文化財保護法」に伴い、「山口県」にも設けられた「文化財担当」の初代「文化係長」に していただき、「戦争で荒廃した文化財」の「修復工事」を担当し、多くの歳月、立派に保存され、独特の味をみせている「木材」が、「工事」に伴って廃棄されるのは忍びないとして、 「他の県」にもあった「担当者」が「古材」を加工して、「保存」し、可能ならば、関心のある方々に、見ていただこうとしたといいます。
「写真」はその一部ですが、「この家」が「野村望東尼終焉の宅」として「山口県文化財指定史跡」となっており、変な=w出版物』によって、「疑問」が流布する迄は、訪れられる方も少なくなく、
その方々は、この「古材」に興味を持たれていました。
「公開される家」に、「寄贈」していますので、いつかは「公開」されると思います。
なお、「寄贈」している物は、『私の本』の「付録」をご覧いただきたいと思います。




「説明です」
「前左」から、
@「洞春寺」の「柱」を利用した「火鉢」。
A「キジア台風」で流失した「錦帯橋」の「木材」を利用して作られた「茶托」。
B「周防国分寺」の「古材」を利用した「表札」

「後」
 C 旧「長谷(泊瀬)観音堂」の「古材」。「毛利家」の「家紋」があります。








松田鶴信氏の「望東尼の歌の短冊」

「書家」の松田鶴信氏にお願いし、「望東尼の歌」を書いていただき、「古材」に掲示しています。
「望東尼自筆」の「短冊」・「手紙」(荒瀬百合子宛)も「寄贈」しており、「展示」されることもあると思いますが、
著名な「書家」による「望東尼の歌」も、鑑賞していただけたらと思います。

(次の2番目の [「修正」された公的・準公的≠ネ「野村望東尼」の「解説」のこと]をクリック≠ウれると、
 松田氏の「書」が はっきりしますし、寄贈してある「望東尼自筆」の「短冊」の「写真」もあります。)








「時間的に余裕があればクリック≠オてみてください」

「野村望東尼」に関心を持たれる方、尊敬される方は、「明治維新」関連と思いますので、
  次に、少し、あげておきます。