「防府市観光情報ポータル」=「たびたび防府」 |
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「野村望東尼」と私どもとのこと 我が家は、野村望東尼のみならず望東尼が身を寄せていた「荒瀬家」との直接の関係はありません。 父=河野英男は、「土井ヶ浜」において、しばしば出土する「人骨」が、それまでは「元寇」の時、攻め入ってきた「蒙古人の骨」とされてきたのを、「出土状態」からして、「日本人の骨」だと判断し、それが「京都帝大」の三宅宗悦氏によって、「日本人の人骨」とされたことで、「研究」及び「発表」の機会を与えていただき、それが「評価」されたことで、28歳の時、防府市の「松崎小学校」に招いていただいたのですが、母=ユリ子も、当時としては少なかった「女子師範学校卒」であったことで、「華浦小学校」に転任できました。 昭和13年のことです。 母の勤務校「華浦小学校」に近い方がよかろうとして、御世話していただいた「家」は、残念なことに=A住んでみると、「雨漏り」の激しい家だったと言います。 困っていた時、斜め前の「家」が空き、引っ越しました。 九月のことだったといいます。 この「借家」は、「台所」と「二部屋」が増築されてはいましたが、次姉と私がこの家で生まれ、決して広い家で はなく、更に、祖父=砂七が、昭和二一(1946)年6月21日に亡くなったことで、祖母も一緒に住むことになり、八人が住むには、狭かったのですが、適当な「借家」が見つからなかったことで、工夫して住んでいたのですが、 昭和二七年になって、所有者=林川長兵衛氏が、東京に移転するということで、「購入するか」、「すぐ出るか」とされたことで、年度途中であるし、昭和二三年から、父は「山口県教委」に勤めており、「三田尻駅」(現 防府駅)にも近く、さらには、「増築」可能な土地があったことで 、母が購入代金の負担(当然、「書類」にも、「所有者」としては母の名が記されています)をし、購入後、大工の方の都合がつくと、直ちに増築にかかるとともに、林川氏による増築箇所も、改造しました。 この「増築工事」は、「指定申請以前=vのことなのです。 この「岡村町の家」が、昭和二九年に、突然、「野村望東尼の終焉の宅だから、『野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓』として「一括申請したいので、同意してほしい」とされたことで、始めて「野村望東尼」に係わる「建物」だったことを知ったと言います。 「指定申請書」には、 (ニ)現状の 「b」として、 望東尼が起居していた「離れ」は、玄関二畳と居間六畳二間に茶の間三畳を使用していたと伝えられ、旧宅地に あるときは道具二階(四畳半)の屋根ガラス窓から三田尻湾を一望の中に収め・・・。 と明記されているのです。 しかし、「指定申請するという家」は、まず、林川氏が、「中塚町」から、「離れ」のみを「桑山東麓」の所有地に移築していることで、本来の位置にあることが「原則」の「史跡指定」は難しいハズで、さらに、「家の荒廃」を防ぐタメ、炊事場等の「増築」をして「借家」用にしていたことに加え、「我が家」が購入後、増築していて、当初の「三倍近く」になっていたのです。 従って、 「指定申請」しても、少なくとも「終焉の宅」は、「史跡指定」にはなるまいと思っていたとのことですが、父が「山口県教委」で、「文化財保護法」制定に伴い、「社会教育課」に新しく設けられた「文化財担当」の「係長」であったこととて、「防府市」の「指定申請」に同意するとともに、「当事者」ということで、「指定問題」には係わらなかったとのことですが、「移築」までして「保存」されているといった「受け止め」がされたらしく、「墓」・「宅跡」を含め、一括して「指定」されたのです。 この「史跡指定」から、我が家と野村望東尼との関わりができたのです。 |
望東尼の寄寓した旧「荒瀬家の離れ」は、「移築・保存」が検討されていたということ 林川氏が「家主」となり、林川氏の所有地のある「桑山の東麓」に「荒瀬邸」から、「離れ」が「移築」された「離れ」が、 「野村望東尼終焉の宅」の名称で「山口県指定史跡」になっていたのですが、所在不明になっていた春山育次郎氏の『野村望東尼傳』が「指定」以後に刊行され、 「山口県指定文化財保存顕彰規定」のみならず、「山口県条例」の時にも、「指定段階では候補にも入っていなかった」のに、権威≠ニされる春山氏が、「著者の十余年前曾て三田尻を往訪したる時」と、実地調査で確認したという文言があるがゆえに、春山氏の記した「荒瀬家の抱家」なるものが、流布しだし、「山口県の権威とされる人物」もそれをとれ入れたタメ、「指定された離れ」は、否定されたかのように≠ネってしまったのです。 のみならず、「市道の舗装工事」で「山水」が流れ込むようになって 「住めない家」である上に、あちこち、修理も必要になるのに、「修理」しようとすると、「望東 尼に関係のない箇所」にさえ、「申請」が必要で「許可」を待って「工事」、「完了報告」が必要で、「大規模な工事」でないこととて、「経費」は全額、「自己負担」なのです。 母は、九十歳になると、この「家」が、全くの「負の遺産」であり、それを私に「管理させる」こと、さらには、子々孫々にも負担が掛かることを心配し、私が、まだ、「県立高校」に勤務しており、「県に異を唱える」ようになることを避けさせようとしたのでしょう、 母と長姉が、「県教委の文化財担当」(「担当部署」は、何度か「名称」を変更しています)に「実情」を訴え、「指定解除」を申し入れたのですが、 「焼けて無くならない限り、『指定解除』はしないし、『寄贈』も受け付けない」と言い放たれていたのです。 (但し、この時の「担当者」に問題があったのであり、誠意ある「対応」をする「文化財担当」も、少なくないことが、後でわかりますが・・・) せめて、「望東尼終焉の宅」だということダケは、周知させようと・・・
父が「文化財担当」であったことがあることから、「指定解除」されない限り、「未来永劫」、「住めない家」の「管理」をせざるを得ないこととて、「岡村の家」に、「野村望東尼の終焉の室」があることは、間違いないということをはっきりさせようとすることから「調査・研究」を始めました。
春山氏の「荒瀬家の抱家」説は、前後の記述からして、「誤り」であることがわかりましたが、 「県の『刊行物』や『ネット』」に、大きな問題がありました。 そこで、「まず、「県の担当者」に、「増築され三倍になっている家」、しかも、「増築部分しか写っていない写真」を掲載しているのに、『刊行物』は、ともかく、「ホームページ」は、簡単に「修正」できるハズなのに、何度も出向き、要請していたのに、放置されていた「本来≠フ望東尼関係」と「そうでない箇所」をきちんとすべきだ」ということを、はっきりさせようとしました。 「増築部分」を含めて「終焉の宅」とするなら、「江戸・明治・大正・昭和」の工事なので、素人目にも「疑問が出るハズ」ですから。 私は「県立高校」の教員を退職すると、改めて出向き、なんとしても、「本来≠フ望東尼関係箇所」と「そうでない箇所」をきちんとすべきだ」と、強力に主張し、「訂正」させようと意気込んでいたのですが、当時の「主幹」であった清水利宏氏には、私が力む必要もなく、誠実に対応してもらえたのです。 その後、私の「調査」で、 望東尼が亡くなったのは、病状の悪化で、「荒瀬邸の主家の南八畳の間」だという「有力な¥リ言」を知って、 「県指定の解除」をしてもらったのです。 「平成26年10月16日(「記録」としては「平成26年12月2日」になっているようです)に、「山口県指定文化財」の「指定解除」が実現したのですが、 皮肉≠ネことに、私の「ホームページ」は、 福岡県糸島市の野方春人氏の目に触れ、野方氏の『著書』(3冊)に、「写真」入りで紹介していただくようになったのを始め、「大河ドラマ=花燃ゆ」では出てきませんでしたが、間接的ながら「楫取素彦」(文(美和子)の2番目の夫)の「命の恩人」である「望東尼」を、私の「吉田松陰の妹 文(美和子)」についての「HOME PAGE」に記していたことで、想定外の「アクセス」があり、 一躍、注目≠ウれるようになったことで、「群馬県」の方も、訪ねて来られるといった)ように、 「指定解除」になって、ようやく$lに知られるようになったのです。 そこで、 「維新150年」にあたる 「平成30(2018)年」迄 は・・・
と「ホームページ」&『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』において、「宣言」して、「私の管理している家」のことですが、 「山口県」の「指定解除」を決めた「定例教育委員会会議の要旨」に 建造物として新たに指定して保護する価値も有していない
とあるものの、それは、「増築部分」が倍以上、それも、「大正・昭和」のもののある混合≠オた「建物」だからです。
「会議」なるものは、「肩書きのある人物」によってなされがちで、口幅ったい言い方になりますが、「指定解除」は、ほぼ=u私の調査」によっているのです。 既述しているように、「指定解除」の前に、「県教委 社会教育・文化財課」の主幹に、清水利宏氏が着かれたことで、「調査」に来てくださり、 「県教委」の「出版物」の「図面」が、望東尼に関係の無い、「増築部分」を含めた「全体」であるようになっていることの「訂正」を求めていた私の「要請」を、 受け入れてもらい、 「平成18年」当時、「建造物担当」の委員であった福田東亜氏(その後、「文化財保護審議会会長」)と共に、「確認調査」に来られ、福田氏が、詳細≠ノ「調査・確認」され、 江戸時代の商家の離れを感じさせる瀟洒な良い建物だと思う
と「評価」され、そのことを公≠ノすることの「許可」もいただいて、
私の『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』の427&ナに記していたこともあってでしょう、 福田氏が、「防府市」の「委員」でもあることとて、「副市長」の中村 隆氏が、福田氏の「意見」を聞かれ、「文化財課」とも相談され、 「望東尼の関係部分」のみを「移築保存」する方向で、進めてくださったのです。 清水氏が、福田氏と「確認調査」をしてくださったことが生きたのです。
「荒瀬家の主家」が、「平成」の始めに、解体され、新しい家になっているいることとて、「指定」はともかく、「望東尼関係」、「江戸時代の瀟洒≠ネ建物」という点で、「保存すべき」という流れ≠ノなりつつあります。 望東尼がどこで亡くなったかは、望東尼の「人柄」に直結≠キることです。
その後、「防府市議会」において審議され、「平成29年11月15日」、「全会一致」で可決されたのです。 |
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「説明です」
「前左」から、
@「洞春寺」の「柱」を利用した「火鉢」。
A「キジア台風」で流失した「錦帯橋」の「木材」を利用して作られた「茶托」。 B「周防国分寺」の「古材」を利用した「表札」 「後」 C 旧「長谷(泊瀬)観音堂」の「古材」。「毛利家」の「家紋」があります。 |
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「時間的に余裕があればクリック≠オてみてください」 「野村望東尼」に関心を持たれる方、尊敬される方は、「明治維新」関連と思いますので、 次に、少し、あげておきます。
野村望東尼=終焉の地「防府」を中心として
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