その代々の年譜及判物伝書については附属文献を見られたい。
三輪窯の作品については前に少しふれておいたが、初代二代三代位迄は全く坂窯と共通していて、その区別も普通では判然としかねるのである。然し萩固有胎土に対して藁白土灰を掛けたものが多く、又粉引風のもの及御本の手の様なものもある。代々休雪を名乗ったもの多く○印又は○印を三コ重ねたものがある。
松本系佐伯林窯
佐伯実清半六死去の際遺児子幼少であったため佐伯窯は三輪窯に変って了った。二代義勝半六一本立になるに及んで坂窯を借り御用を勤めていたが、御銀子借用を許されて唐人山東北麓大釜の畑端に窯を打ち立てて焼き出したのである。そして佐伯を古林とかえ後林姓を名のる様になっている。同地は坂窯の上手の旧道の途中から手水川に沿った道を登ること四五丁、その近くに田村某なる家から右折し、吉田の渓と呼ばれる渓間を一丁程登った所で、竹藪の中が窯跡である。
製品は萩固有の堅い胎土に土灰を塗って焼き上げて主として酸化焼成であってそのための変化で枇杷色及び青磁に近い青味をもつものもある様である。製品は茶器より雑記の皿類が多い。古文書、系図その他は文献を見られたい。
松本系大賀窯
前小畑流泉山大賀窯は文政九年開窯、弘化三年一時中止、その後大賀幾介によって再開、大正十四年七月廃止となっている。現在は大正時代新窯を県道沿、小丸山の南麓に築いている。旧窯は大賀窯であったが、新窯は吉賀窯と呼ばれている。現吉賀窯は大眉の代で
大眉氏は在来の萩と異った黒釉を用い日展等に出品して異彩を認められている。
松本系蜂ケ坂窯
この古窯は前小畑小字向山、石井氏所有の山中にあるが、その窯の関係者の歴史的事実も不明で誰がいつ頃創立していつ頃滅んだか等全く判っていない。只その作品から見ると松本坂系統に属することは判然として居る。そして作品には古格のものと比較的新しいものと混合している様である。 古格を帯びているものは紫海鼠、赤海鼠風のもので、これは古畑窯と似たものである。又比較的新しいものは萩固有の土に白釉がうすくかかるもの、それが枇杷色に変化したものがある。
萩の作品について
萩焼は申す迄もなく朝鮮系の陶器であって従ってそれ迄朝鮮李朝期に作られたあらゆる茶碗その他が出来ている。例えばよく作られた井戸茶碗にしても筆洗茶碗にしても朝鮮茶碗のそれに共通したうまさを出している。所謂萩の七化けと言われている様に萩焼のそれらが、全く本歌そのもので通る場合がある。唐人笛とか俵形茶碗と言った場合でも朝鮮茶碗であると信じられたり、又箱書附に萩焼と書かれてない場合が多くあるため朝鮮茶碗として通っている事実がある。こうした所から七化けの理由もないではない。然し本来は朝鮮茶碗の写しを専らやったのではない。萩焼の主目的に茶器の製作と言う一つの藩主からの命令から自然発生の形によって生れたものであると考えるのが普通であると考える。それにしても如何に朝鮮渡りの李勺光、李敬が名工であったとしても我が国茶道に関し何等のそれに関心のあった筈の人達でもなかったことで、これには必ずやそれの指導的立場の者がなければならなかったかと思われる。今これについて少し勘考して見たが、直接指導にあたったと思われる茶人は出て来ない。が、考えられることは家光の御噺衆として知られた毛利宰相秀元と古田織部の関係である。長府毛利家文書の内に数通の織部の書状があって、それ等は伏見に於ける茶事に関する両者の関係のものばかりである。又寛永十七年秀元は品川で大茶会を催して将軍家光外大勢を招いて盛大を極めた事が「藩翰譜」にのせられている。こうして見ると輝元によって萩指月城は基礎をきずいたが、次の時代、即ち秀元に及んで萩焼の基礎も磐石となったのではなかろうか。然も織部によって指導された秀元はその意を体してこれ等萩焼の向うべき指針がここに始めて確立したものと信ずるのである。かくて深川萩も松本萩も名工続出して茶器としての萩焼がここに定まったものと考えるのである。
萩焼の胎土と釉薬
山口県と北九州の地は地質学上より見て近似の地形をなしているときく。はたしてその粘土類は花崗岩、石英粗面岩、石英斑岩等の中にあって、山口県下は九州唐津方面と酷似している。そして萩焼に古くより使用されている陶土は左の四ヵ所と言われている。
阿武郡椿村小畑の内中ノ口台 豊浦郡阿川村の中原山
大津郡深川村湯本の内イバノ台 吉敷郡小俣村の内大道堂山
ことに享保年代発見された大道土は今日に至る迄盛んに使用されて、現在萩焼を作らんとして焼物土を使用する時この大道土を使用しない陶家は一軒もないと言われる位である。その他右の四ヵ所の外その土地々々の地土を使用するが、色の調子を強める意味で見島土(見島嶋嶼)を使用している所が多い。次に釉薬であるが、松本萩系の窯では、越ケ浜の柞〈いす〉灰を主体として使用しているが、その他、栗皮灰、欅灰、つつじ灰等を使用して如何にもやわらかな萩らしい釉薬を表すのである。尤も萩固有の白色の焼き上げには藁灰、芋の灰等を用うる場合が多い様である。
どちらにしても萩の胎土は大道土を発見されない以前は土も固く唐津に似た土味であったが、大道土の発見から胎土はやわらかくなり、釉薬も柞灰、栗皮灰等が使用されて肌合もやわらかとなって、萩独得の味が出て来る様になるが、一方このやわらかさを物足りなく言う人もある様である。
萩焼の作風
事新しくここで又述べる迄でもないが、萩焼は申す迄もなく朝鮮直系の蹴りロクロであり、又登り窯で焼いた事も言うまでもなくそれ等は九州窯を代表している唐津窯と全く同様である。だからその手法によって出来上った品も自から同様のものが出来るのがあたり前である。我々は萩の古窯を調査して、そこから出土する陶片を見てその事を判然と認識する。所が伝世している萩の多くがあまりにも初期萩焼と異っているものに出会うことが多いのに驚ろくのである。それは何故か。その答に二つあると思うのである。一つは享保以後発見された大道土が萩焼の主体たる胎土となって了ったからである。本来萩特有の持味の固い、いい土味が、ごく柔らかな一見軽そうにさえ見える大道土によってそれ以来萩焼特有の持味が一変したのである。第二は三輪窯の出現である。在来朝鮮系の萩焼は朝鮮本来の持味のものであった。即ち井戸風であり伊羅保であり呉器であり唐人笛であったのである。三輪の出現はそこへ日本化された楽風のもの、織部風のもの、古伊賀、古備前風のものを出現させたのである。
都会人士の多くが萩の窯元でみせられる初代、二代、三代の作と言われるものがあまりにも大道土の混入以後の作品、そして似て非なる高麗茶碗写であることに驚ろかざるを得ないのである。これ等の不一致は徹底的な調査発掘の完了の暁にはすべて明らかとなることを特筆してこの稿を終るとしよう。〈萩焼古窯文献は二六〇−二六六頁を参照のこと〉 (佐藤進三)
「萩焼本文」中の「写真・図」類
248頁=「萩古窯分布図」+「萩深川古窯分布図」
249頁=「写真2枚」
深川本窯坂倉新兵衛氏工房(上手に陶祖松あり)+「深川本窯跡」
250頁=茶碗の「写真」 4枚
「萩焼(坂窯)伝初代茶碗(窯元伝来)銘 李華」
「萩焼(坂窯)伝初代茶碗 銘 翁」
「萩焼(坂窯)伝初代俵茶碗 銘 豊年」
「萩焼(深川三代平四郎)三島写茶碗(窯元伝来)」
251頁=茶碗の「写真」 4枚
「萩焼(初代休雪)茶碗」
「萩焼(二代休雪)茶碗」
「萩焼(三代休雪)熊川写茶碗」
「萩焼 井戸写茶碗」
252頁=茶碗の「写真」のみ 8枚
「写真」8枚が、「萩焼茶碗高台各種」という題で載せられている。
「深川二代伊羅保写茶碗」
「深川三代平四郎斗々屋写茶碗〈窯元伝来〉」
「坂窯伝初代李華茶碗〈窯元伝来〉」
「坂窯伝二代茶碗〈窯元伝来〉」
「萩焼井戸写茶碗」
「萩焼茶碗 銘 大名 根津美術館蔵」
「二代休雪茶碗」
「萩焼割高台茶碗」
253頁=茶碗の「写真」 3枚+扁壷1枚
「萩焼 茶碗」
「萩焼 井戸写茶碗」
「深川御産物焼 敷茶碗」
「深川御産物焼 扁壷」
254頁=「中国地方諸窯分布図
まえがき%Iな一文〈佐藤進三氏による〉
坂倉・坂家古文献に就て
坂倉(山村家)坂(高麗左衛門家)両家の古文献は古くより伝えたものであって、これ等を無視しては萩焼の正統は解せない。それと共にこの古文献をまる飲みにする事も又非常な危険性があることを注意されたい。両家の文献は今度その古文書からこの稿の為めに寫書されて送附してもらったのであるが時間と原稿の枚数に制限されて十分にそれを生かし得なかったので、この古文献の大部分をまとめて文献として発表した次第である。頁数の関係で全部をのせ得なかさった事を両家及読者に深くお詫びする。又佐伯家及三輪家の文献も坂倉、坂二家に次で大切であるのでこれも加えることにした。今後萩焼を研究する人々がこの四つの文献を十二分に検討されて利用、真に萩焼の究明に努力されんことを希って一言附け加えた次第である。
↓ 以下、「文献」が並んでいます。