萩焼−佐藤進三氏の「萩焼」記述(『陶説』の場合)
平成19年8月26日 公開
『陶説』の本文
 

『陶 説』 昭和33年4月号掲載分
       <97頁-101頁>
 
        〈あきらかな誤り≠竍振り仮名≠フ「ひらがな・カタカナ」の混在を含め、原文にできるだけ忠実≠ノ記しています
が、罫線を伴う箇所については、縦線がどうにもならないため、変わった形になっています。〉
 
 萩焼            
                 佐藤進三
 
一、萩焼の創始  
 
 山口県萩市を中心にその附近に点在している萩焼は今から三百五、六十年前に創始され長い歴史を誇つて今も栄えている。しかし中央から遠く離れた本州の最西端の辺境なので茶の湯の世界等で萩焼はよく出て来るが、それは漠然たる認識に過ぎないのである。古くから「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれ、和陶の尤なものとされていながら、案外真相を知られていないと言うのが現状である。早い話が松本萩と言うものと深川萩との距離的、歴史的、又作風の相違と言つた事柄でさえ土地から出た人々以外には殆んど知られていないのである。いまだ本格的調査がなされていないので、筆者も分窯した窯、作風、釉薬、胎土等多くを語る自信はないのであるが、ごく一般的な概念を一通り述べてみることにする。
 
 征韓の第一回戦で引上げた毛利輝元は文禄二年李勺光、李敬をともなつて帰国し、この両名を拠城萩の城下松本村字中の倉に居住させたのが萩焼の起りと言われている。そして兄李勺光〈振り仮名=リジヤクコウ〉(一説にシヤムカンと呼ばれた)に対し輝元は城下の古窯跡の調査発見につとめさせ、それを復興せよと命じたので中の倉から城下各地を探査し、ついに長門深川の三〈ソウ〉の瀬に歿するのである。萩中の倉では弟の李敬が兄の遺子を育て、自分がかわつて中の倉の即ち松本萩焼の頭領となつて、ここに坂倉姓を名のり、後坂姓に改め、寛永二年高麗左衛門の判物をもらい自他共に許す高麗左衛門初代となるのである。一方坂に育てられた兄の遺児は同時に山村新兵衛作之允の判物を藩主から頂き萩に別に家屋敷を賜つて焼物を焼いたと伝わつているが、場所、その他は不明である。ところが寛永十八年十一月作之允は囲碁の争いから、渡辺某なる者を殺し、やがて渡辺某遺子は明暦四年二月法華寺門前で山村作之允を討ちとるのである。ここでその遺子及び李勺光の弟子の山崎平左衛門、蔵崎五郎左衛門達は願い出て萩の地を捨て祖父の死歿した深川三之瀬へ家屋敷を拝領して移住、ここに李勺光三代山村平四郎光俊を中心に深川萩焼が始まり、後山村家を改め坂倉と名のつたのである。
 土地の山本勉弥氏の努力によつて最近「大照院様御時代無給帳」なるものが発見され、この藩の分限帳に僅か七行であるが当時(慶応二年調べ)の細工人のことが出ており、その様子がよく分るのである。左に記すと 
 ヤキ物細工   市右衛門  
 三人米七石六斗    坂 助八 
 三人米石四      蔵崎五郎左衛門 
 三人米二石二斗    松本ノ助左衛門 
 五人銀二百五十目   山村松庵 
 二人切方無シ     松本ノ勘兵衛     
          同所  助右衛門
となっている。山村松庵とは山村作之允の事で家督を譲つて松庵と号したのであつて、その松庵在命中の調べであろう。慶応二年の調べとすると、彼は渡辺某をあやめて事件落着間もなく隠居した事と思われる。この記録で見ると山村家は坂家と比べて非常な違いがあり、如何に弟の李敬より李勺光が重く見られていたかが解る。だから山村作之允時代は松本窯の惣都合を仰せ付けられていたのではなかつたかと山本氏は論じている。
 どちらにしても深川三之瀬へ山村家三代平四郎光俊の時代に家屋敷を拝領してから氏を坂倉に改め、ここに始めて深川萩というものかず成立したと信じる。かくて松本中の倉は高麗左衛門が実権をにぎり、代々これを継ぎ、一方山村家の坂倉は代々新兵衛を名のり、ここに深川萩の基礎を築くに至つたのである。
 
 
二、萩焼の窯
 
 この図示の通り深川萩の開祖李勺光は元松本萩の開祖でもあつたのである。ところが三代山村平四郎光俊の時代に祖父李勺光の歿した地に移つて焼き始めたのが深川萩で、松本萩は李敬が高麗左衛門の名をもらつてから後兄の子山村松庵を守つていたが、前記三代光俊の時に深川へ移つてからは坂家は二代助八忠孝が高麗左衛門を名のつて坂家の基礎を築くのである

坂倉古窯跡 さて三代光俊によつて始まつたと思われる坂倉古窯跡であるが、これは現在坂倉家の本家住宅と工場との中間約三十間に亘つて、あつたらしいが道路拡張の節、地ならしされて煙滅して了つた。
坂古窯跡 又、松本中の倉坂高麗左衛門の古窯と呼ばれている窯は先年調べた結果、坂家の上手の道の右にある丘から南の田畑にそつて三、四十間、唐人山に入ろうとする小路附近にある事を発見した。
古畑窯 深川系古畑窯は李勺光が再興した窯と云はれ、現在の中津江区古畑にあるが忠実な調査発掘はされて居ない。
惣の瀬窯 深川系惣之瀬〈そうのせ〉窯は李勺光の弟子山崎平左衛門が松庵没後他国へ移ろうとして許されず、唐人山の東麓に開窯したが、一代でほろんだと云われる。窯跡は不明である。
三輪窯 松本系三輪窯の窯跡は元前小畑の現在吉賀窯に接した東側にあつたが、昔日の面影は全くなく、そこから出土した陶片で知るのみである。現在は松本中の倉への入口椿東小学校の北側小丘の麓が窯場である。
佐伯窯 松本系佐伯林窯は二代佐伯義勝半六、一本立になるに及んで坂窯を借り御用を勤めていたが御銀子借用を許されて、唐人山東北麓大釜の畑端に窯を打ち立てて焼き出した。後古林と改姓、更に林姓を名のつた。窯跡は坂窯の上手旧道の途中から手水川に沿つて四、五丁登り、右折し渓間を一丁登つた竹藪の中にある。
大賀窯 松本系大賀窯は文政九年開窯、弘化三年一時中止、その後大賀幾介によつて再開、大正十四年七月廃止となつている。現在は大正時代新窯を県道沿、小丸山の南麓に築いている。旧窯は大賀窯であつたが新窯は吉賀窯と呼ばれ現在は大眉氏の代である。
蜂ケ坂窯 最後に松本系蜂ケ坂窯出あるが、この古窯は前小畑小字向山、石井氏所有の山中にある。この窯もその創始、廃窯、沿革等は不明でその作品から松本系統と判明するのみである。
 
 
  三、萩の作品について 
 
 萩焼は申す迄もなく朝鮮系の陶器であつて、従つてそれ迄朝鮮、李朝期に作られたあらゆる茶碗が出来ている。例えばよく作られた井戸茶碗にしても筆洗茶碗にしても朝鮮茶碗に共通のうまさを出している。所謂萩の七化けと言われている様に萩焼のそれらが全く本歌そのもので通る場合がある。唐人笛とか俵形茶碗と言つた場合でも朝鮮茶碗であると信じられたり、又箱書付に萩焼と書かれていない場合が多くある為、朝鮮茶碗として通つている事実がある。こうした所から七化けという言葉も生れたのだろうと思はれる。然し本来は朝鮮茶碗の写しを専らやつたのではない。萩焼の主目的である茶器の製作を藩主から命じられて、自然に生れたと考えるのが妥当であろう。それにしても、如何に朝鮮渡りの李勺光、李敬が名工であつたにしても、我国の茶道に何等関心の無い筈の人達であるから、その作陶には必ずや指導的立場の者が居たのではないかと思われる。今これについて少し勘考して見たが、直接指導にあたつたと思はれる茶人は出て来ない。が考えられる事は、家光の御噺衆として知られた毛利宰相秀元と古田織部の関係である。長府毛利家文書の内に数通の織部の書状があつて、それ等は伏見に於ける茶事に関する両者の関係のものばかりである。又寛永十七年秀元は品川で大茶会を催して、将軍家光外多数を招いて盛大を極めた事が「藩翰譜」にのせられている。こうして見ると、次の時代即ち秀元に及んで萩焼の基礎も磐石となつたのではなかろうか。然も織部によつて指導された秀元はその意を体してこれ等萩焼の向うべき指針がここに始めて確立したものと信ずるのである。かくて深川萩も、松本萩も名工続出して茶器としての萩焼がここに定まつたものと考える。
 
 
 四、萩焼の胎土と釉薬
 
 山口県と北九州の地は地質学上から見て、近似の地質をなしていると聞く。はたしてその粘土類は花崗岩、石英粗面岩、石英斑岩等の中にあつて、山口県下は九州唐津方面と酷似している。そして萩焼に中期頃から使用されている陶土は左の四ケ所と言われている。
  阿武郡椿村小畑の内中ノ口台。
  豊浦郡阿川村の中原山
  大津郡深川村湯本の内イバノ台
  吉敷郡小俣村の内大道堂山。
 ことに享保年代発見された大道土は今日に至る迄盛んに使用されて、現在萩焼を作らんとして焼物土を使用する時、この大道土を使用しない陶家は一軒もないと言われる位である。その他右の四ケ所の外、その土地、土地の地土を使用するが色の調子を強める意味で見島土(見島嶋嶼)を使用している所が多い。
 次ぎに釉薬であるが松本萩系の窯では、越ケ浜の祚〈イス〉灰を主体として使用しているが、その他栗皮灰、欅灰、つつじ灰等を使用して如何にもやわらかな萩らしい釉薬を表すのである。尤も、萩固有の白色の焼き上げには藁灰、芋の灰等を用いる場合が多い様である。どちらにしても萩の胎土は大道土を発見されない以前は土も固く唐津に似た土味であつたが、大道土の発見から胎土はやはらかくなり、釉薬も祚灰、栗皮灰等が使用されて肌合もやはらかとなつて、萩独得の味が出て来る様になるが、一方このやわらかさを、物足りなく言う人もある様である。
 
五、萩焼の作風
 
 萩焼は申すまでもなく朝鮮直系の蹴りロクロであり、又登り窯で焼いたもので、九州窯を代表している唐津窯と全く同様である。であるから出土陶片によつて解ることであるが出来上つた製品も又唐津に似ている事を知るのである。現在伝世している萩の多くがあまりにも初期萩焼と異つているのに驚かされる事がある。それは享保以後に発見された一見軽そうにさえ見えるやわらかな大道土が萩特有の持味の固い土にかわつて萩焼の胎土として登場してきたからである。第二は三輪窯の出現で、在来の井戸風、伊羅保風、あるいは呉器風にかわつて日本化された楽風のもの織部風のもの古伊賀、古備前風のものを出現させたのである。都会人士の多くが萩の窯元で見せられる初代、二代、三代の作と言われるものがあまりにも大道土の混入以後の作品、そして似て非なる高麗茶碗写である事に驚かざるを得ないのである。
とは云ふものの萩市及大阪東京の所蔵家のものの中には井戸写の萩茶碗、筆洗茶碗、唐人笛茶碗等々におどろくものがふる。それらは高麗茶碗ならぬ萩独得の持味を示してゐるものが多い。然し残念なことにそれらは数に於て少く、大抵は大道土の混入のもので時代を降るものが多い。この意味に於て一日も早く坂倉窯と坂高麗左衛門窯との本格的の調査をなされんことを希ふものである。
 世の中には萩茶碗として伝世して居るものが可なり多くあるが、この本格的の調査がなされた暁には意外なものが、古萩として我々の目をおどろかせることと思ふ。今よりそれが楽しみである。
 以上萩焼について述べて来たが、本格的調査のなされていない今日、読者の意に満たないものになつてまことに恐縮であるが、御容赦を願つてこの稿を終る事にする。尚筆者非常に多忙をきはめて居り、編集長の命により「萩焼」を記草せよとの事であつたが時間的に間に合はず、止むなく「世界陶磁全集」江戸編の筆者の記事を少しく訂正したに止つたことをお詫びする。  
                      (日本陶磁協会常務理事)
 
 〔参考=掲載写真〕  98頁=高麗左衛門茶碗    99頁=古萩井戸写茶碗 
           100頁=萩三輪作茶碗     101頁=萩三輪作茶碗