平成19年8月26日 公開
平成20年10月25日 更新


佐藤氏の「平凡社」の記述
▼ 『陶磁全集 江戸編 萩』・『陶説』と、内容的に=A違っていることを確認してください。
『陶磁全集 江戸編 萩』・『陶説』では、李勺光の子「山村作之允(松庵)」は、李敬に育てられながらも、藩から叔父李敬よりも重んじられていたが、敵討ちにあって討ち死にしたため、平史郎光俊の時代になって、深川に移る。その子孫が坂倉新兵衛家であると、「萩焼」開祖の正統な流れ≠新兵衛氏が受け継いでいるとしていたのに、この「平凡社」の中では、その系譜≠ヘ、坂倉新兵衛翁の作りごととしか考えられず、その意味において、坂倉文書は信用をおくことは危険といわねばならない≠ニ書いているのです。
  12代坂倉新兵衛氏の「後援会」の発起人の一人として列ねるほど親しかった%人の関係≠ェこじれた原因≠フ一つです。
佐藤氏の調査℃ゥ体は、当然、佐藤氏の自由≠ナあり、下に記す「文章」を見ていただければわかるように、それなりに説得力≠持つものですが、「調査」項目として、
テーマ3=萩窯の文献的研究内容萩焼に関する古文書、文献の調査研究担当者ママ大和文華館工芸部長 満岡忠成大阪市立美術館工芸部員 佐藤雅彦日本陶磁協会嘱託 長谷部楽爾
という研究班があるのですから、その結果≠ニして提示≠キればよい
のに、佐藤氏が「テーマ4=萩窯の技術的研究古窯出土品および伝世の萩焼の技術的研究」の担当者の一人≠ニして、仮とはいえ<mミネートされていたからでしょうか、発掘≠フ了承を得るための交渉段階≠ナ、佐藤氏の考えのママ$鞫魔チてしまい、その結果、新兵衛氏との間に、抜き差しならぬ♀ヨ係になってしまうのです。
小山先生が、自分で交渉すればよかったと「手紙」に書かれているのも、このことに関係しているのです。(「手紙」にもありますように、英男らは、佐藤氏が精神的な負担≠感じないで済むようにと配慮したのですが、佐藤氏から責任転嫁≠ウれてはやむをえません。)
二男の「14代新兵衛」氏が「父は評論家を信頼せず」と言ったと橋詰氏は書いていますが、もしそう言ったとすれば、当然、その評論家≠ヘ「佐藤」氏を指すのです。


陶器全集 21 『萩・上野・高取・薩摩』

    佐 藤  進 三
      平凡社刊 
    昭和36年11月30日 発行


<1頁-9頁> 但し、「本文」のみにつけられた「頁数」で、その前に、「萩焼」等の「グラビア写真」が「本文」よりもはるかに多い「頁」に印刷されています。




萩 焼 



山口県萩市を中心に、その付近に点在する萩焼は、今より三百五、六十年の長い歴史を誇って、今もなお、松本萩、深川〈ふかわ〉萩と呼ばれて栄えている。中央から遠く離れた本州の最西端の、辺境のこの萩焼については、中央の人士にもよく知られておらず、ただ茶の湯で漠然と知られているに過ぎない。古くから茶の湯では、「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれて、和物茶碗の尤なものとされていながら、案外世間でこの萩焼なるものの真相は知られていないのが現状である。早い話が、松本萩といい、深川萩というものの、距離的にも、歴史的にも、また作風の相違という点からも、ほとんど知られていない。その上、萩焼に関する著書も二、三を数えるに過ぎないので、一般の好事家も知る由がない。その点、萩焼の現窯元諸氏のPRが足りず、ただ萩焼第何代何々という歌い文句ばかりである。その点、案外第三者である筆者のような者でも、萩焼にとって役に立つのかもしれない。先年(昭和三十一年十二月)、筆者は『世界陶磁全集』5江戸篇中で、萩古窯についていささか記したのであったが、その後の研究と度々の現地調査によって、これらの記載をここに改めて訂正、その全貌を記したく思うのであるが、先年にも歌ったように、永年に渡って希望している発掘調査が、地元山口県の妨害によってはたし得ない今日、どこまで正確に語り得るか問題であると考えるので、その点、了解されたいのである。

征韓の第一回戦で引上げて来た毛利輝元は、文禄二年(一五九三)朝鮮の陶工、李勺光・李敬の兄弟二人をともなって帰国し、この両名を拠城萩の城下、松本村字中の倉に居住せしめたのが萩焼の興りだといわれている。そして兄李勺光〈りしやくこう〉(一説にシャムカンと呼ばれた)に対して、藩主は城下に点在する古窯址の調査、発見につとめさせ、それを復興せよと命じたので、萩中の倉から城下各地を探査し、古窯址を発見したのであるが、ついに長門の国深川三の瀬〈そうのせ〉で没するのである。一方、萩中の倉では弟の李敬が窯を開いていたが、兄の遺児をそだて、自分が兄にかわって中の倉、即ち松本萩焼の総支配となり、坂倉姓を名のったのである。そのご坂倉姓を、由あって改めて坂姓とかえたのであった。寛永二年(一六二五)には藩主より「高麗左衛門」の判物をいただき、ここに自他共にゆるす、坂高麗左衛門の初代となるのである。
一方坂高麗左衛門にそだてられた兄李勺光の遺子は、藩主より山村の姓と「作之允」の判物をいただき、別に萩に家屋を賜って焼物に精進していたのであるが、その場所その他のことは全く不明である。ところが寛永十八年十一月、山村作之允は囲碁の争いから渡辺某なる者を殺し、やがて渡辺某の遺子は明暦四年(一六五八)二月、萩法華寺門前で、山村作之允を討ちとるのである。こうして二代山村作之允は死亡したので、李勺光の弟子の山崎平左衛門、及び蔵崎五郎左衛門たちは、作之允の遺児を擁して萩の地を捨て、祖父李勺光の死没した長門深川三の瀬へ家屋敷を拝領して移住、ここに李勺光三代山村平四郎光俊と名のり、祖父の弟子たちと共に深川萩を創立するのである。寛文の頃と思われる。
これを要するに、李勺光の子は殺されて死没、その子、即ち三代山村作之允光俊が深川萩の祖となり、また一方、萩中の倉では弟の李敬は高麗左衛門の判物をいただき、ここに松本萩の祖となるのである。土地の山本勉弥氏の努力で、最近『大照院様御時代無給帳』なるものが発見された。これは毛利秀就時代の無給帳であって、やや時代が降るが、慶応二年(一六四九)調べとなっているので、まだ山村二代作之允(隠居名松庵)生存中のことである。この文書はわずか七行であるが、当時の細工人のことがよく解るのである。
   ヤキ物細工  市右衛門 
三人米七石六斗    坂 助八 
三人米四石      蔵崎五郎左衛門 
三人前二石二斗    松本ノ助左衛門 
五人銀二百五十目   山村松庵 
二人切方無シ    松本ノ勘兵衛
          同所助右衛門
となっている。これで見ると、山村松庵とは二代山村作之允のことで、事件以来、家督を子に譲って松庵と号したのである。慶応二年調べであるから、彼が渡辺某をあやめて事件落着まもなくの頃と思われる。この記録で見ると、坂家に対していかに山村家が重要視されたかが解ろう。これで見ても二代山村作之允(松庵)の時代には、深川萩はまだ興ってはおらず、松本萩の惣都合を仰せつかっていたのではなかろうか
それでは次に深川萩というものを記して、第二段で松本萩の高麗左衛門家に及ぶことにしよう。  


 深 川 萩 の 歴 史

歴史というものは近々百年位のことにしても、すでに茫々たる過去の波に没してしまって、不詳な事柄ばかりである。深川萩も、『風土註進案』(天保より弘化時代のもの)の出来た頃には、焼物屋が十二軒あったのであったが、今日残っているのは四窯にすぎない。この深川萩窯の歴史を調査してみると、古い記録というのが非常に少なく、また主とした墓碑にも乏しく、わずかに明和四年(一七六七)、命によって毛利藩庁に提出した、五代山村源次郎光長の記した家歴(山口県立図書館蔵『毛利家譜録』)、『風土注進案』、『大寧寺文書』(坂倉新家蔵)などにすぎず、それに墓碑銘などによって、やや正誌に近いと思惟されるものを記することにする。
 一 山村時代(古萩時代)

深川萩の開祖は三代山村光俊であるが、前記したように、祖父李勺光(初代)はこの地湯本で死没しているといわれる。その墓所というものが湯本に残っていて、小高い丘の上に、老松が二本に分れて茂っている。土地の人はこれを「俊寛」の墓と伝えているが、これは李の「勺光」、朝鮮読みの「シャムカン」が伝訛して、「シュンカン」となってしまったのである。この勺光については何ら調すべきものがないが、彼の指導は相当強いものがあったようで、現在ここに残る道具などに朝鮮語銘がある。例えば、切糸のことを「ノーイ」、土を起す棒を「カライ」、棚を「チリッパン」、かんなのことを「ホムクスイ」などと呼んでいて、いかに勺光が力のあった人であるかを思わせる。次の二代山村新兵衛光政(松庵)のことについては前記したが、法華寺事件以来、萩にはいづらくなったので、父勺光の頃より深いつながりのある、深川三の瀬へ移転の気持を抱いていたが、弟子中の長老蔵崎五郎左衛門、同勘兵衛を、承応の初めこの地に移らせて窯を造らせている(大寧寺文書)。
それから五、六年たって、渡辺某に打ち果されたのである。
三代平四郎光俊は、父が死没した時は十九歳であったが、藩主より御茶入外御好みの道具を仰せつけられている。この山村三代平四郎は、藩庁の取り計らいに寄るものか、四囲の関係により祖父李勺光の因縁の地、深川三の瀬へ行くことに決意したのである。そして三の瀬に家屋敷を拝領して引き移り、ここに深川焼物師の惣都合を命ぜられるのである。 このころ長老山崎平左衛門は、川上村惣之瀬へ窯を築くのである。そして萩では三輪家が召し抱えられ、寛文六年(一六六六)三輪窯が成立する。場所は萩前小畑である。 
そのころの深川萩の山村家の窯は、先に来た弟子の蔵崎親子の築いた窯で、現在、坂倉氏に残っている本窯の位置にあったものらしく思われる。現在、本窯址の上手に元祖松と称する松の大樹があり、毎年窯祭の節、標縄を張ったもので、その下に墓らしい一尺たらずの石が五六個あったが、先年、先代の坂倉新兵衛翁がこの松を中心に改修してしまって、全く昔の面影はなくなっている。そして現在、三代の陶祖碑として建てられているものは、萩地方より改修の節、新兵衛翁がはこばせたもので、実際の三代陶祖の碑ではない。
さて記録によると、毛利吉就公が俵山へ入湯された節、お茶屋(湯本温泉)へ平四郎を召し出され、お茶道具の調製を仰せつけられて金員を給ったことや、また次代吉広公御入湯の節に、細工を見たいとの仰せにより、平四郎、老齢により眼鏡を用うることを許されて上覧、おほめにあずかったということもあったようである。
また長府に召し出され御道具を拝見、その写しを作り、たいそうおほめにあずかったりしたが、宝永六年(一七〇九)七十二歳で三の瀬で死ぬまで、無事御奉公したのであった。
陶祖平四郎光俊に小左衛門という子があったが、不器用のためあとを継がせず、弟子の中の名工九郎左衛門を養子とする許しを乞うてゆるされ、孫兵衛光信として四代を継がせたのである。しかしこの四代目は、若死で享保九年(一七二四)三月二十九日、三十七歳で没している。 
五代目源次郎光長は十三歳で家督を相続した。藩主宗広公の時、大和守義知公より借りられた高麗茶碗を手本として、松本の坂新兵衛と共に写しを作るよう命ぜられた。度々の工夫によって手本通り出来上ったので、たいそうおほめにあずかり、面目をほどこしたと伝えられている。
さてこの頃(享保年間)、山陽道の三田尻の近く(吉敷郡小俣村)大道という所より土が発見され、これによって萩諸窯の作品は一変するのである。このことについては後記することにする。
第五代源次郎光長は晩年まで堅固に御用を勤めたが、宝暦四年(一七五四)萩春日神社の祭礼の日、城内(堀の内)で宍戸家の家来と喧嘩に及んで抜刀し、遂にその咎により家禄を没収され、ここで山村家は断絶してしまうのである。明和四年(一七六七)に藩庁の命により家歴を光長の名で提出しているので、家禄を没収されたのは、その後のことと思われる。李勺光開窯と思われる時より約百五十七年程にして、遂に山村家は断絶、ここに深川萩というものは一旦消えるのである。そして光長は菩提を弔うため、遍路となり出奔してしまったといわれている。家族については何ら言い伝えもないが、現在、坂田泥華氏の住む場所を山村屋敷と伝えている。
なお同氏宅の西北に当る墓所には、四代、及び五代の墓が見つからず、ただ「山村惣右衛門」の墓というものがただ一つ残っている。その右側に「山界万霊」とした陶製の墓石がある。この惣右衛門の墓誌には、「釈青山末了信士 天保十二年丑二月十八日」とあって、若年の死没と思われる。この惣右衛門という人物がいかなる人であるかは、今日のところ全く不明だが、おそらく山村家最後の人ではなかったろうか。五代光長が出奔してしまってからは、その遺族が約七十年間、細々とこの地に生計を保っていたが、この惣右衛門の時に、いよいよ山村家は絶えてしまったらしく思われる。そこでそのご弟子の赤川、坂倉たちによって山村家諸霊を弔うために、陶製の山界万霊の碑石を造って並べ建てたものと考える


二 中葉(山村家没落より明治維新まで)

明和四年、山村光長が藩庁に家歴を提出してから、数年にして山村家は家禄を没収されてしまい、そのご天明六年(一七八六)に、新屋坂倉万助が御蔵元支配として御細工人を命ぜられている。
現在、坂倉家に古文書が残っているが、これは源次郎光長の提出した草稿と思われるもので、光長の没年が宝暦十年となっていて、家歴を光長が提出した明和四年から、七年前に彼は死んでいることになっている。こんな矛盾はあり得ないと思う。
また同文書によると、六代坂倉藤左衛門は山村家断絶によって、何らかの理由により六代を襲名せりと記されているが、藤左衛門の没年は明和七年で、光長が家歴を提出の日より三年後である。これもはなはだ矛盾したことであるし、伝えによると、藤左衛門は老年まで生存したともいわれている。また山村光長はその頃はまだ、深川三の瀬にいたのではなかったかと考えられるので、光長と藤左衛門とは親子と考えることは全く不合理である。光長の没年の宝暦十年記入以後は、おそらくは先代坂倉新兵衛翁の作りごととしか考えられず、その意味において、坂倉文書は信用をおくことは危険といわねばならないこのことは、先年『世界陶磁全集』発行の節、坂倉、坂、三輪三家の古文書を資料編として出した際に、これらの古文書をまる呑みしてはならぬと注意しておいたが、その一端をここに明らかにした次第である。
現在、坂倉家は李勺光より十四代と称しているが、これはおそらく藤左衛門は山村家の弟子であったのが、光長出奔まもなく、何らかの事情で、山村のあとをついだことにしてしまったのではなかろうか。松本萩の坂高麗左衛門家に、文政二年(一八一九)卯ノ八月吉日に深川萩より提出せる「演説」なるものが残っている。これは深川萩が困窮にたえかねて、松本萩の御蔵元家門に持参したい旨をうったえた歎願書である。これにはもはや山村家はなく、その弟子の蔵崎五郎左衛門、赤川助左衛門、坂倉九郎右衛門、赤川助右衛門と記入されている点を見ても、坂倉家は山村家の弟子筋であることは明らかである
で、ここでは坂倉初代を藤左衛門と私は仮定しておくが、このころ(明和、安永頃)、深川萩には前記坂倉のほか、蔵崎、赤川、濃美、木原、山下などがいて、ともに入合窯をしていたものと信ずるのである。古い墓地を調べてみると、坂倉家で最も古いものは、坂倉五郎左衛門で寛政四年銘、他の墓では宝暦七年の赤川佐々衛門、天明八年赤川某、助左衛門(明和五年蔵崎系か)、九郎左衛門(明和八年)、赤川九郎左衛門(寛政九年)といった風で、その他は野面石ばかりである。思うに、赤川家は家柄も古く経済力もあったが、そのご坂倉家が経済的に力を強めてきて、刻名の墓を作るようになったのではなかろうか。坂倉家も墓地を整理したらしく、野面石の刻名がないものを一ヵ所に積み重ねて、その上に先祖合葬というものを建てている。そしてそれには弘化二年(一八四五)十月二十日の刻名がある。大分後世といわねばならない。
七代坂倉五郎左衛門に三人の子があり、末子万助を非常に偏愛したらしく、長男半平、次男善兵衛にそれぞれ畑若干、山五百、家屋敷等を与え、長男を本家(坂倉新兵衛家)次男を分家させ(坂田家)末子の万助を伴い、大部分の財産を持って新屋坂倉を興して別家したのである。
天明六年、新屋万助は御蔵元支配としての御細工人を命ぜられ、そのご養子(坂田甚吉の弟)善右衛門、つづいて加助と、三代つづいて同家が御細工人を命ぜられている。坂田善兵衛の頃の記録(『風土註進案』)によると、御蔵元支配の焼物師は十二軒あって、左に記すと、
新屋坂倉、坂倉(本家)、坂田、坂倉(上隠居)、坂倉(下隠居)、倉崎、赤川、田原、新庄、河村、木原、山下である。年間、銀三十八貫の収入があったといわれている。窯は本窯、西の窯、東の窯と、入合の大窯が三基(現在この窯址は残っている)あり、各々持ち袋が定っており、大口(火起窯)と灰窯(第一の袋)は輪番となっていて、一定の日を定められて製品を持ちより、窯詰めをしたもので、毎月焼いたといわれている。山村家時代の総支配とは異なり、お細工人もお蔵元支配であって、藩主よりの御用は何よりも第一に焼いたのであったが、その他は、多くの焼物師も同様、毛利家御産物として日用雑器を主として焼いたのである。これが「御産物焼」の名称のいわれである。御産物の製品は、前記の通り日常雑器が主で、その釉薬は米山寺土(鉄分の多い土)を流した、いわゆる「とかげ」釉と呼ばれるもの、また天目釉に藁白(後には萩の小畑刷毛)をピラ掛けにしたもの、またはさめ釉(射の小野刷毛)〈河野注 さめ釉≠フさめ≠ノは、`≠ェつけられている〉を用いたりしたものである。
また藩主が湯本温泉に湯治の時には、御注文の細工を上覧にいれ滞在中に窯を開いてごらんにいれよとの御指図書が新屋に残っている。新屋坂倉への藩主の来駕もあったといわれている。新屋加助はことに名工のきこえがあり、御蔵元支配として二人扶持をもらっていたという。加〈河野注  加≠フ文字を○で囲んだもの〉の印を、はじめて加助が用いたのである。
当時、陶土としては黄般土、御所原土を主体とし、上の原の萩原某が山元で水漉したもので、これらの土に、四の瀬土、大道土を少量用いたようである。


 三 近代(明治維新前後)

明治維新は李勺光開窯以来二百五十二年に当る。この明治維新の大変革は、田舎の焼物師にも一大変化をもたらしたことはいうまでもない。御産物としての毛利藩の庇護もなくなり、個人の経営となると入合窯も不都合となり、不況で脱落する者や、他に転職するものも出て、経営も次第にできにくくなっていった。当時の本窯と西の窯の入合は左記の通りであったが、東の窯はすでに煙を止めてしまっていた。
本窯  坂田鈍作、田原謙次、新庄織江、坂倉新兵衛(代理森米吉)
    坂倉孝内、濃美    以上の六軒 
西窯  新屋坂倉新作、坂田鈍作、山下孫六    以上三軒 
そのご坂倉、坂田、田原が、画一的な寄合窯では思った通りの製品が出来ないと考えて、各個人窯を築くようになったのである。三家それぞれ時期は異なっているが、現在に至っている。
なお萩より移ってきた林泥平、また近代の名工武居武一らについても述べたいが、紙数に制限があるので割愛する。

坂高麗左衛門  

長門深川で没した李勺光の弟、李敬は、兄が深川で没したので、萩松本中の倉窯の事実上の主となったが、兄の遺児山村作之允を養っていた。作之允は寛永二年、藩主より扶持を賜って山村新兵衛光政を名のったのである。ところが寛永十八年十一月、囲碁の争いから渡辺某を殺害し、やがて渡辺某の遺子によって討ちとられてしまうことについては、この稿のはじめに記した通りである。作之允(松庵)の遺児山村平四郎光俊は、この地萩におれなくなったものか、ついに願い出て、深川三の瀬に家屋敷を拝領して移るのである。ここに、即ち、三代光俊によって、はじめて深川萩というものが確立するのである。
萩松本中の倉では、李勺光の弟李敬の坂新八が、兄李勺光の子、山村作之允こと新兵衛光政が討たれ、その遺児光俊が深川に移ってしまったので、ここに事実上、主となったのである。寛永二年十一月には、任高麗左衛門の判物を藩主より拝領、初代坂高麗左衛門となるのである。慶長、元和、寛永と約四十年の歳月を、藩主御抱窯師としてはげみ、多くの作品を残している。現在、松本中の倉の、坂家に残る初代作品の茶碗には、少々疑問の点もあり、二代、三代の初期の作品と考えた方が正しいと思われるものがある。かくて寛永二十年二月、齡五十八歳で没している。
二代は通称助八忠孝と呼ばれて、父の遺業を忠実に受けつぎ、主として高麗物の写しを行っている。萩には高麗茶碗そっくりのものがあるといわれているが、この二代、及び三代によって作られたものの中に、井戸茶碗、粉引茶碗、三島茶碗、刷毛目茶碗などの写しがあって、往々、それらは本歌と間違われるものが多いことを注意する必要がある。
初代高麗左衛門から二代、三代、時には四代までは、この土地の土を使用していて、作風に高麗風の香りがあり、目方も一体に重いものが多い。また胎土が粗悪なため、茶碗全体をエンゴベーしたものが多く、受け台に貝殻を用いている。この松本の土は、石英粗面岩の陶土で耐火度も強く、鉄分も多い。従って初期の作品には、高麗ものそっくりのものがある。坂高麗左衛門の作品が一大変化したのは、なんといっても大道土が発見され、その土を主にして作り出した四代、五代からのことである。また高麗風が、大和風に変化をきたしたのもその頃からである。坂窯初期には、土灰釉で種々工夫をした点が、その発掘された陶片からもよく解る。これが、大道土が発見された以後になると、主として釉薬は佐波郡牟礼村り浮野石を使用するようになって、萩松本地方、及び長門深川地方の萩焼というものが一様の釉薬となり、独自性を失ってしまうのである。ことに萩焼は、土を見せているものが割りに少ないところから、萩のどこで焼いたものであるかが、判然としないことが多いのである。
次に通称「松本萩」と呼ばれて、手取りの重く、藁灰釉の掛かった、いわゆる「 斑唐津」風のものが割合に多い。よくこれを斑唐津の中に入れている好者が多いが、この手はいつ頃から出来たものだろうか。本格的に発掘をやっていない私にも、これという確答を申上げることは出来ないが、伝世されている二、三の茶碗から推定して、これは初期からあったものと信じている。(図2参照)。そしてその時期々々によって、量産の不同があったようである。これらの土をどこから掘り出したものか知る由もないが、これらの茶碗には、大道土を使用していないことは事実である。またこの「松本萩」と呼ばれる一連の焼物は、案外、深川萩にも作られているのである。それは時代がやや降ったもので、ことに天保ごろ御産物焼に生れたものが多いようである。
次に萩焼、ことに茶碗の高台造りについて述べておきたい。高麗風をうけついだ萩焼は、いうまでもなく高台は竹の節〈ふし〉高台である。しかし茶人がやかましくいう、畳付きで三日月高台になっているものは案外少ない。実際、唐津で三日月をやかましくいわれるが、発掘陶片から三日月高台をさがし出すことは、なかなか容易ではない。それと同様に、唐津では割高台というものが少ないのに反して、萩では割高台、切高台はわりに多いことである。これは唐津へ渡った陶工と、萩へ渡った陶工との出産地が、朝鮮で異なっている証拠にはならないだろうか。 
萩焼で喜ばれるのは桜高台である。これは高台を真上から見た姿が、桜の花弁に似ているところからいわれ出したもので、とくに桜の花弁に造ったものではなく、偶然、やわらかな時に、指でつまんで出来たものを喜んだところから、次に意識的に造るようになったものである。また三島風の象嵌ものが、萩焼に以外に多いことである。その最たるものは俵形の茶碗、鉢であって、これは彫三島風のものが多い。主として人参の花、葉を描いたもので、中には細かなものもあり、模様化している。
坂家も、初代から五代ぐらいまでは順調に発展したが、六代、七代ごろは不況の時代であったらしい。前記深川萩の項で述べた、松本萩坂家に残る「演説」によって明らかなように、深川萩は山村家をなくしてからは、弟子たち一同によって「御蔵元家門に帰参被仰付被遣候はば身に余り難有御儀に奉存上候」と、歎願書を出して帰参を願っている。当時(文政二年)は深川萩も、いかに不況でなやんでいたかが解るが、これを坂ではききいれたかどうかは不明である。おそらくは坂家でも同じく不況であったろうと思われるので、これは断ったことと思われる。こうしたことが七代坂助八忠之の晩年にあったが、八代高麗左衛門、翫土斎は、名工であったと同時に、この不況をのり越えた中興の祖と呼ばれている。八代翫土斎は長生で、晩年よくこの「翫土斎」の印を押している。萩では印銘は、幕末間ではほとんどない。韓峯とか韓岳、翫土斎という印銘を見るが、これらはみな、明治期に入ってからのものであることを注意されたい。
最後に記し忘れたことに、萩の茶碗に鬼萩と呼ばれるものがある。これは本来、雑器から転化したものと思われる。胎土中に小石が多く含まれ、従ってロクロの操作が不自由であるため、小石によってい肌がめくれ、ザラザラした、いかにも鬼でも使用する感じのものであるところから、この名称が生れたのであろう。一体に釉薬面の白上りのものが多い。


三輪休雪家

三輪家は、もと大和国三輪から出たといわれている。室町時代永正年間、将軍足利義植のころ大和三輪から出た源太左衛門が、萩前小畑小丸山に開窯したのがはじめだといわれているが、実際この小畑の、もと三輪のいた窯址と称される地点から出土する陶片を観察してみると、この室町説は大分割引して、約百年ほど下げねばならないことになる。しかし現在三輪家のある松本椿より以前には、前小畑にいたことは確かである。
寛文三年ごろ、この源太左衛門の曽孫の三輪十蔵の時、はじめて毛利藩にかかえられて、現在の松本椿に窯を開いたのである。初代三輪休雪と呼ばれるのがこれである。この初代休雪は、藩命によるものか京都に上り、楽焼について修行してきたことは、坂窯、山村窯その他と自ずから異なるところである。三輪家から藩に提出した「焼物師由来書」の第二項に、
一、休雪茶碗被焼成レ申儀自分と焼成候間と申伝由来は不相知候其后京都江御登被成内竃焼、焼稽古仕候様にとの御事にて罷登楽焼稽古仕罷下今以家伝有之焼調仕候事
とあることによって明らかである。なおまた坂家より提出の「焼物師由来書」のうちに、
三輪休雪家筋之儀も父新兵衛氏より弟子に被仰付御恵御扶持被下置是又代々弟子に被仰付今以焼物細工仕候事
とあって、坂家へ弟子として、一時的に修行に入っていたことが解るのである。こうして初代休雪は、京都にのぼって楽焼を研鑽してきたため、初代、二代ころには、楽焼風の香りが作品にあることは否めない。また楽が古くやった彫刻的の作品もあって、他の萩窯と異っていることが解る。しかし代々、坂窯にある程度師事しており、また坂窯で使用の陶工、及び釉薬と同様のものを使用しているため、坂窯の作品と区別しにくいものもある。
初代休雪に次いで上手であったのは、五代勘七である。志野や織部を思わせるものがあって、三輪家には、こうしたあらゆる作風を取りいれる妙手がいたように思われる。即ち京風、瀬戸風を取りいれていたが、三代ごろより坂に師事したため、全く坂窯風の萩焼となってしまったのは残念なことではあるが、これも御抱え焼物師であってみれば、仕方のないことといわねばならない。それらの作品については坂窯で述べたので、ここでは頁数もないし、大同小異であるので止めておくことにする。  


 萩焼の作品について

以上、長々と述べた萩焼については、まだまだ述べたいことが多いのであるが、ここでは一括して写真の説明にかえ、萩焼の作品について述べておく。 萩焼というものは、昔からいわれているように七化〈ななばけ〉である。使用するに従って、釉調に大へん変化をおこすということと、高麗写しが多いため、高麗ものにばけて考えられてしまうという、両方の意味があるのである。しかし使用度による変化はさておき、高麗ものに化けるということは、見る人の眼力の弱さ、強さによってこれは判然ときまるので、見る眼の弱い人には、高麗ものと見える場合が多いのである。ことに萩焼の初期、とくに古萩と銘を打ったこの集の写真のごときは、高麗ものと見まちがえる人が多いのである。筆者はどの窯のものであっても、初代、二代の作という呼び名を用いないことをモットーとしている。それは間違いのもとであって完全な証明がない以上、そんなことはいえるものではない。で、いつも初期、中期、末期と呼び、それらの期の内の元禄時代、文化時代、明治中頃とかと呼ぶことにしている。この集でも大体この方針に従って時期を記したのであって、時期、及び窯の不明なものにはこれを記さなかった。これは上野、高取、薩摩も同様である。 
萩焼は前記した通り、坂窯にしても、山村窯、三輪窯、その他の窯にしても、大概の窯が御用窯であって、藩より多かれ少なかれ俸禄をもらっていたのである。このことは、とりもなおさず、一様に茶器を焼いたことであって、民窯のような日常雑器は、ごくわずかであったのである。また土地がせまかった(窯と窯との距離)ためと、享保以後には、同じく大道土をどの窯でも使用したため、ほとんどが同様の作品を生んだのであって、わずかにその窯々に、ほんのすこし手くせ〈河野注 手くせ≠ノは、`≠ェつけられている〉の相違があるにすぎない。従ってここに掲げた写真も、どの窯の作品といい切ることは大半が無理であるので、ここではふれるのをわざとさけたことを了承されたい。あとは見られる読者の力によって、判断していただきたいと思う。        


[参考]
  付録の〈系図〉= 坂倉新兵衛=「12代」が健在であり、戦死した長男=
           光太郎には、「新兵衛」としての「作品」はないが、
            「13代」として扱われている。
  「萩焼」関係の「表紙写真」=裏表紙として
     萩 俵形大鉢  初期  〈カラー〉
  「萩焼」関係の「グラビア写真」
     古萩 呉器形茶碗 〈カラー〉
     古萩 雨漏手茶碗 銘 苫屋  〈カラー〉
        −以上の2作品は、1作品のみを表面に印刷し裏面は白紙−
     萩 茶碗 銘 無双 初期   〈白黒〉
     古萩 茶碗 松本窯 初期  〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     古萩 茶碗 松本窯 初期  〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     萩 茶碗 銘 鴎 中期  〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     萩 井戸写し茶碗 初期末  〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     萩 茶碗 銘 山居   〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     萩 胴紐茶碗 中期  〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     萩 茶碗 中期   〈白黒〉
     萩 茶碗 銘 紅梅 + 萩 茶碗 中期 
               〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
     萩 茶碗 銘 梨華  初期   〈白黒〉
     萩 筆洗茶碗 中期   〈白黒〉
     萩 俵形茶碗 銘 福の神 初期 + 萩 俵形茶碗 初期 
               〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
     萩 俵形茶碗 銘 豊年  初期  〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     萩 彫三島茶碗  江岑判  初期   〈白黒〉
     古萩 茶碗  初期 + 萩 茶碗  初期 
               〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
     萩 井戸写し茶碗  初期末  〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     萩 四方茶碗  銘 曙  初期  〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
     萩 茶碗 中期 藤田美術館 + 萩 割高台茶碗 銘 末広 中期
〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉

     松本萩 茶碗 中期 + 萩 とじめ茶碗  中期 〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
     萩 とじめ水指  中期   〈白黒〉
     萩 耳つき水指  中期   〈白黒〉
     萩 粉引徳利  中期 + 萩 俵形小鉢  中期 〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
     萩 粉引徳利  後期 + 萩 編笠鉢  銘 滝津瀬  中期  〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
     萩 大鉢   初期   〈白黒〉
     萩 手鉢  深川窯  後期   〈白黒〉
  「萩焼本文」中の「写真・図」類
    1頁=萩焼分布図
    2頁=李勺光の松と墓(計2枚)
    3頁=深川萩古窯址分布図+深川萩の東窯址+深川萩の西窯址
    5頁=赤川家の墓+坂倉万助の墓+加助の墓
    6頁=毛利秀就公の判物 寛永二年(1625)
    7頁=坂窯址と出土破片(計2枚)
    9頁=「グラビア写真」の高台4枚