そのご坂倉、坂田、田原が、画一的な寄合窯では思った通りの製品が出来ないと考えて、各個人窯を築くようになったのである。三家それぞれ時期は異なっているが、現在に至っている。
長門深川で没した李勺光の弟、李敬は、兄が深川で没したので、萩松本中の倉窯の事実上の主となったが、兄の遺児山村作之允を養っていた。作之允は寛永二年、藩主より扶持を賜って山村新兵衛光政を名のったのである。ところが寛永十八年十一月、囲碁の争いから渡辺某を殺害し、やがて渡辺某の遺子によって討ちとられてしまうことについては、この稿のはじめに記した通りである。作之允(松庵)の遺児山村平四郎光俊は、この地萩におれなくなったものか、ついに願い出て、深川三の瀬に家屋敷を拝領して移るのである。ここに、即ち、三代光俊によって、はじめて深川萩というものが確立するのである。
のである。慶長、元和、寛永と約四十年の歳月を、藩主御抱窯師としてはげみ、多くの作品を残している。現在、松本中の倉の、坂家に残る初代作品の茶碗には、少々疑問の点もあり、二代、三代の初期の作品と考えた方が正しいと思われるものがある。かくて寛永二十年二月、齡五十八歳で没している。
二代は通称助八忠孝と呼ばれて、父の遺業を忠実に受けつぎ、主として高麗物の写しを行っている。萩には高麗茶碗そっくりのものがあるといわれているが、この二代、及び三代によって作られたものの中に、井戸茶碗、粉引茶碗、三島茶碗、刷毛目茶碗などの写しがあって、往々、それらは本歌と間違われるものが多いことを注意する必要がある。
初代高麗左衛門から二代、三代、時には四代までは、この土地の土を使用していて、作風に高麗風の香りがあり、目方も一体に重いものが多い。また胎土が粗悪なため、茶碗全体をエンゴベーしたものが多く、受け台に貝殻を用いている。この松本の土は、石英粗面岩の陶土で耐火度も強く、鉄分も多い。従って初期の作品には、高麗ものそっくりのものがある。坂高麗左衛門の作品が一大変化したのは、なんといっても大道土が発見され、その土を主にして作り出した四代、五代からのことである。また高麗風が、大和風に変化をきたしたのもその頃からである。坂窯初期には、土灰釉で種々工夫をした点が、その発掘された陶片からもよく解る。これが、大道土が発見された以後になると、主として釉薬は佐波郡牟礼村り浮野石を使用するようになって、萩松本地方、及び長門深川地方の萩焼というものが一様の釉薬となり、独自性を失ってしまうのである。ことに萩焼は、土を見せているものが割りに少ないところから、萩のどこで焼いたものであるかが、判然としないことが多いのである。
次に通称「松本萩」と呼ばれて、手取りの重く、藁灰釉の掛かった、いわゆる「 斑唐津」風のものが割合に多い。よくこれを斑唐津の中に入れている好者が多いが、この手はいつ頃から出来たものだろうか。本格的に発掘をやっていない私にも、これという確答を申上げることは出来ないが、伝世されている二、三の茶碗から推定して、これは初期からあったものと信じている。(図2参照)。そしてその時期々々によって、量産の不同があったようである。これらの土をどこから掘り出したものか知る由もないが、これらの茶碗には、大道土を使用していないことは事実である。またこの「松本萩」と呼ばれる一連の焼物は、案外、深川萩にも作られているのである。それは時代がやや降ったもので、ことに天保ごろ御産物焼に生れたものが多いようである。
次に萩焼、ことに茶碗の高台造りについて述べておきたい。高麗風をうけついだ萩焼は、いうまでもなく高台は竹の節〈ふし〉高台である。しかし茶人がやかましくいう、畳付きで三日月高台になっているものは案外少ない。実際、唐津で三日月をやかましくいわれるが、発掘陶片から三日月高台をさがし出すことは、なかなか容易ではない。それと同様に、唐津では割高台というものが少ないのに反して、萩では割高台、切高台はわりに多いことである。これは唐津へ渡った陶工と、萩へ渡った陶工との出産地が、朝鮮で異なっている証拠にはならないだろうか。
萩焼で喜ばれるのは桜高台である。これは高台を真上から見た姿が、桜の花弁に似ているところからいわれ出したもので、とくに桜の花弁に造ったものではなく、偶然、やわらかな時に、指でつまんで出来たものを喜んだところから、次に意識的に造るようになったものである。また三島風の象嵌ものが、萩焼に以外に多いことである。その最たるものは俵形の茶碗、鉢であって、これは彫三島風のものが多い。主として人参の花、葉を描いたもので、中には細かなものもあり、模様化している。
坂家も、初代から五代ぐらいまでは順調に発展したが、六代、七代ごろは不況の時代であったらしい。前記深川萩の項で述べた、松本萩坂家に残る「演説」によって明らかなように、深川萩は山村家をなくしてからは、弟子たち一同によって「御蔵元家門に帰参被仰付被遣候はば身に余り難有御儀に奉存上候」と、歎願書を出して帰参を願っている。当時(文政二年)は深川萩も、いかに不況でなやんでいたかが解るが、これを坂ではききいれたかどうかは不明である。おそらくは坂家でも同じく不況であったろうと思われるので、これは断ったことと思われる。こうしたことが七代坂助八忠之の晩年にあったが、
八代高麗左衛門、翫土斎は、名工であったと同時に、この不況をのり越えた中興の祖と呼ばれている。八代翫土斎は長生で、晩年よくこの「翫土斎」の印を押している。萩では印銘は、幕末間ではほとんどない。韓峯とか韓岳、翫土斎という印銘を見るが、これらはみな、明治期に入ってからのものであることを注意されたい。
最後に記し忘れたことに、萩の茶碗に鬼萩と呼ばれるものがある。これは本来、雑器から転化したものと思われる。胎土中に小石が多く含まれ、従ってロクロの操作が不自由であるため、小石によってい肌がめくれ、ザラザラした、いかにも鬼でも使用する感じのものであるところから、この名称が生れたのであろう。一体に釉薬面の白上りのものが多い。
三輪休雪家
三輪家は、もと大和国三輪から出たといわれている。室町時代永正年間、将軍足利義植のころ大和三輪から出た源太左衛門が、萩前小畑小丸山に開窯したのがはじめだといわれているが、実際この小畑の、もと三輪のいた窯址と称される地点から出土する陶片を観察してみると、この室町説は大分割引して、約百年ほど下げねばならないことになる。しかし現在三輪家のある松本椿より以前には、前小畑にいたことは確かである。
寛文三年ごろ、この源太左衛門の曽孫の三輪十蔵の時、はじめて毛利藩にかかえられて、現在の松本椿に窯を開いたのである。
初代三輪休雪と呼ばれるのがこれである。この
初代休雪は、藩命によるものか京都に上り、楽焼について修行してきたことは、坂窯、山村窯その他と自ずから異なるところである。三輪家から藩に提出した「焼物師由来書」の第二項に、
一、休雪茶碗被焼成レ申儀自分と焼成候間と申伝由来は不相知候其后京都江御登被成内竃焼、焼稽古仕候様にとの御事にて罷登楽焼稽古仕罷下今以家伝有之焼調仕候事
とあることによって明らかである。なおまた坂家より提出の「焼物師由来書」のうちに、
三輪休雪家筋之儀も父新兵衛氏より弟子に被仰付御恵御扶持被下置是又代々弟子に被仰付今以焼物細工仕候事
とあって、坂家へ弟子として、一時的に修行に入っていたことが解るのである。こうして初代休雪は、京都にのぼって楽焼を研鑽してきたため、初代、二代ころには、楽焼風の香りが作品にあることは否めない。また楽が古くやった彫刻的の作品もあって、他の萩窯と異っていることが解る。しかし
代々、坂窯にある程度師事しており、また坂窯で使用の陶工、及び釉薬と同様のものを使用しているため、坂窯の作品と区別しにくいものもある。
初代休雪に次いで上手であったのは、五代勘七である。志野や織部を思わせるものがあって、
三輪家には、こうしたあらゆる作風を取りいれる妙手がいたように思われる。即ち京風、瀬戸風を取りいれていたが、三代ごろより坂に師事したため、全く坂窯風の萩焼となってしまったのは残念なことではあるが、これも御抱え焼物師であってみれば、仕方のないことといわねばならない。それらの作品については坂窯で述べたので、ここでは頁数もないし、大同小異であるので止めておくことにする。
萩焼の作品について
以上、長々と述べた萩焼については、まだまだ述べたいことが多いのであるが、ここでは
一括して写真の説明にかえ、萩焼の作品について述べておく。 萩焼というものは、昔からいわれているように七化〈ななばけ〉である。使用するに従って、釉調に大へん変化をおこすということと、高麗写しが多いため、高麗ものにばけて考えられてしまうという、両方の意味があるのである。しかし使用度による変化はさておき、高麗ものに化けるということは、見る人の眼力の弱さ、強さによってこれは判然ときまるので、見る眼の弱い人には、高麗ものと見える場合が多いのである。ことに萩焼の初期、とくに古萩と銘を打ったこの集の写真のごときは、高麗ものと見まちがえる人が多いのである。筆者はどの窯のものであっても、初代、二代の作という呼び名を用いないことをモットーとしている。それは間違いのもとであって完全な証明がない以上、そんなことはいえるものではない。で、いつも初期、中期、末期と呼び、それらの期の内の元禄時代、文化時代、明治中頃とかと呼ぶことにしている。この集でも大体この方針に従って時期を記したのであって、時期、及び窯の不明なものにはこれを記さなかった。これは上野、高取、薩摩も同様である。
萩焼は前記した通り、坂窯にしても、山村窯、三輪窯、その他の窯にしても、大概の窯が御用窯であって、藩より多かれ少なかれ俸禄をもらっていたのである。このことは、とりもなおさず、一様に茶器を焼いたことであって、民窯のような日常雑器は、ごくわずかであったのである。また土地がせまかった(窯と窯との距離)ためと、享保以後には、同じく大道土をどの窯でも使用したため、ほとんどが同様の作品を生んだのであって、わずかにその窯々に、ほんのすこし手くせ〈河野注 手くせ≠ノは、`≠ェつけられている〉の相違があるにすぎない。従ってここに掲げた写真も、どの窯の作品といい切ることは大半が無理であるので、ここではふれるのをわざとさけたことを了承されたい。あとは見られる読者の力によって、判断していただきたいと思う。
[参考]
付録の〈系図〉= 坂倉新兵衛=「12代」が健在であり、戦死した長男=
光太郎には、「新兵衛」としての「作品」はないが、
「13代」として扱われている。
「萩焼」関係の「表紙写真」=裏表紙として
萩 俵形大鉢 初期 〈カラー〉
「萩焼」関係の「グラビア写真」
古萩 呉器形茶碗
〈カラー〉
古萩 雨漏手茶碗 銘 苫屋 〈カラー〉
−以上の2作品は、1作品のみを表面に印刷し裏面は白紙−
萩 茶碗 銘 無双 初期 〈白黒〉
古萩 茶碗 松本窯 初期 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
古萩 茶碗 松本窯 初期 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
萩 茶碗 銘 鴎 中期 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
萩 井戸写し茶碗 初期末 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
萩 茶碗 銘 山居 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
萩 胴紐茶碗 中期 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
萩 茶碗 中期 〈白黒〉
萩 茶碗 銘 紅梅 + 萩 茶碗 中期
〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
萩 茶碗 銘 梨華 初期 〈白黒〉
萩 筆洗茶碗 中期 〈白黒〉
萩 俵形茶碗 銘 福の神 初期 + 萩 俵形茶碗 初期
〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
萩 俵形茶碗 銘 豊年 初期 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
萩 彫三島茶碗 江岑判 初期 〈白黒〉
古萩 茶碗 初期 + 萩 茶碗 初期
〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
萩 井戸写し茶碗 初期末 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
萩 四方茶碗 銘 曙 初期 〈白黒・1作品を2枚組で印刷〉
萩 茶碗 中期 藤田美術館 + 萩 割高台茶碗 銘 末広 中期
〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
松本萩 茶碗 中期 + 萩 とじめ茶碗 中期 〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
萩 とじめ水指 中期 〈白黒〉
萩 耳つき水指 中期 〈白黒〉
萩 粉引徳利 中期 + 萩 俵形小鉢 中期 〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
萩 粉引徳利 後期 + 萩 編笠鉢 銘 滝津瀬 中期 〈白黒で、2作品を同じ頁に印刷〉
萩 大鉢 初期 〈白黒〉
萩 手鉢 深川窯 後期 〈白黒〉
「萩焼本文」中の「写真・図」類
1頁=萩焼分布図
2頁=李勺光の松と墓(計2枚)
3頁=深川萩古窯址分布図+深川萩の東窯址+深川萩の西窯址
5頁=赤川家の墓+坂倉万助の墓+加助の墓
6頁=毛利秀就公の判物 寛永二年(1625)
7頁=坂窯址と出土破片(計2枚)
9頁=「グラビア写真」の高台4枚