構 成〈傍線部をクリックすると、そこに飛べます〉 @所謂「萩焼」とは(特徴・起源)//A 「萩焼」の範囲 B「萩焼」の今後≠ニ12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏の こと [参考]「萩市制50周年記念展 萩焼展 目 録」に名前の見える「萩焼」の陶工・陶芸家 |
所謂「萩焼」という焼物は、 「文禄・慶 長の役」が終わった時、毛利輝元に従って来朝した李敬によって起こされたもの をいう、 とするのが一般的≠ナ、 さらに、その流れ≠ノあるものもさすといえますが、 後に記すように異説もあります。 |
実は、今日言う「萩焼」以前にも、これらの地方で焼物が発 達していたことがわかっています。 長門はわが国でも非常に古くから焼物の発達した地方の一つで須恵器の 窯跡が相当たくさんあります。 殊に、『延喜式』には、長門と尾張、この二つの国だけから瓷器(しのうつわ)を奉っ たという記録があり、 平安初期には、尾張と共に、最も良い焼物を焼いたということが記録の上か ら推察されます。 この瓷器についてはいろいろ意見がありますが、小山先生の(昭和18年当時の) 解釈としては、今日のような陶器ではなく、「須恵器」の上手なもので、 これに人工的な釉薬のかかったものであろうとされています。 長門でもこれが発見された所があります。 これについては小川五郎氏が 精細な調べをされており、山口県小野田町の字楢原というところに須恵器の窯址があ り、ここから釉薬のかかったごく上等な須恵器が発見されているとされています。 しかし、防長地方には備前、信楽、丹波等に並行するような吉野朝・足利時 代の窯はどうもないようです。 本来の=u萩焼」は、これを大別して「松本萩」と 「深川萩」に区別していますが、 「松本萩」は更にこれを焼いた家によって、「坂」、「三輪」 、「林」の三つの窯に分けています。 「深川萩」も、焼いた家によって 「坂倉」、「倉崎」、「赤川」の三つの窯に分けています。 しかし、これ以外にも、周防、長門でいわゆる萩焼風の陶器を焼いた窯 はずいぶん多いようで、小川氏の調べによると、泉流山、東光寺、指月、総瀬、 須佐、深川、俵山、山口、八幡、宮野、堂道、浅地、原河内、大原、旦、岩淵、西浦 、鞠生、三田尻、玉祖、戸田等の窯はすべて松本・深川の萩焼の影響で起こった窯 となっています。 (但し、この中の「戸田焼」は、我が家の関係
する「窯」ですが、「磁器」を主体≠ノしていましたので、疑問がありま
す。)
これら以外にも、徳川中期頃から「京焼の風」も山口県下に興こってい ます。 また九州の有田焼の流れをくんだ「磁器の窯」もあります。 それから三島刷毛目(はけめ)等朝鮮風のものを焼いた窯もあるようです。 中には、こんなものが山口県で焼けたかと思うような物があります。 しかし山口県の焼物の主流をなすものはやはり「萩焼」です。 小川氏の調べによると、山口県下には「萩焼系の窯」が三十四あり、これに 対し、「京焼系のもの」は十、「磁器」は九つ、「それ以外のもの」が十七とい うわけで、断然、萩焼系統の窯が多いということのようです 。 また、発達史的に見ても、「萩焼系のもの」が最も古く、「京焼」、「有田焼風 」のものは江戸中期以降、多くは幕末の窯のようだということです。 この萩焼系の窯の宗本をなすものは「松本萩 」、その中でも「坂家の窯」で、「萩焼」は坂高麗左衛門が始めたとするの が一般的ですが、「萩焼の起源」については次の「三 つの説」があります。 「第一の説」は、坂家 四代の新兵衛という人の「上申書」に、『焼物師由来書』というものが あり、この中に自分の曽祖父の高麗左衛門が、朝鮮から毛 利輝元に連れられて来て、松本の唐人山という所に屋敷を建て、ここで初めたのが坂 焼、「松本焼」の起こりだということを言っています。 これに対し第二の説は、防長 郷土史の権威者である近藤清石が 書いた『霜堤雑草』という本の中にある説で、 松本の萩焼の起こりというものは、
李敬、すなわち高麗左衛門が開い
たように一般には言われているが、実は間違いである。
「松本萩」を起こしたのは、李敬の兄の勺光(シヤムカン)で、この勺光という者が 、文禄の役にわが国の捕虜になって大阪に連れられてきていた。 秀吉はこの者を、輝元にお預けになった。 慶長六年(一六〇一年)、輝元が長門に居を移して後、屋敷を唐人山に賜って、 勺光が起こしたのが深川焼 (ママ 「松本焼」 の誤りと思われます。この後の深川焼 ≠ニ矛盾しますので。)であって、その後に勺光が弟の李敬を本国から呼 んで李敬も焼くようになった。 李敬は初めは坂助八といったが、寛永二年(一六二五年) に高麗左衛門という名前をいただ いて、それから後、坂家は代々高麗左衛門と呼んでいる。 勺光が死んだ事は分らないが、その子の山村作之進 という者が初めは高麗左衛門 に養われていたが、後に「深川焼」を起こし、こ れが「深川焼」の起源である。 すなわち、 第一は、坂高 麗左衛門が始めたという説、 第二は、高麗左衛門の兄の勺光という人が始め、高麗左衛門は後に兄 に呼ばれて日本へ来たのだという説。 さらに、 第三の説というのは、深川の窯元 に言い伝えとしてい残っている説で、これは二つの説を折衷したような話 で、 勺光も弟の李敬も一緒に朝鮮から来て、兄の 勺光の方は「深川焼」を始め、弟の李敬の方が「松本焼 」を始め、「松本萩」も「深川萩 」も同時に起こったという説です。 このうちどれが正しいかということは小川氏もはっきりとは述べておられな いし、小山先生も調べたことがないと記された上で、
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────『週刊朝日百科
人間国宝22 陶芸4』における「萩焼」解説にも疑問 ─────
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東京国立近代美術館工芸課長という肩書≠フ、いわば、今日の代表≠ニもい
える方の「萩焼」解説すら、次のよう
になっています。「一楽二萩三唐津」という言葉が あるように、萩焼と唐津焼は楽焼とともに茶陶として珍重され、大事にされてきた。 これはまた「一井戸二楽三唐津」ともいう。 一見萩が落ちているように見えるが、萩はそもそも朝鮮陶磁をベースにした陶磁器産 地であり、その主体はいわゆる高麗茶碗である。 その中心はいうまでもなく井戸茶碗であり、萩焼は井戸風茶碗を中心に生産され てきた。この二つの言葉は順序が違うだけでほとんど同じことをいっているのである 。 いかに萩焼、唐津焼が茶陶として特別な位置にあったかがわかる。 萩焼は豊臣秀吉の文禄・慶長の役(一五九二〜九八年)の際に渡来した 朝鮮の陶工、李勺光とその弟(初代坂高麗左衛門)が毛利藩の御用窯を築いたことに始 まる。 江戸時代に長門、明治には山口市にも窯ができ、現在では山口県全域に 広がっている。 大道土に金峰(山)土、見島土を精製・ブレンドした土で成形され、文様がほとん どなく、透明釉の土灰釉か、白濁する藁灰釉(白萩釉)が施さ れることに特色がある。 土精製の過程で除かれた粗砂を混ぜた鬼萩という土を用い、ざらついた質感を出 す手法もある。 また比較的低い焼成温度で焼きを止めるため、釉の内部に水分が浸みやすく、使 ううちに釉色が変化することが多い。それは他の産地のものと比べて著しく、「 萩の七化け」と呼んで人気が高い。 (以下には、唐津焼の解説が続いていま
す。)
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(参考) 「望郷の韓臼¥ャ鹿田」─ 熊笹を分け土を舐めて窯を 築いた朝鮮陶工の伝説 ─ 『日本の陶芸と窯 ─ 現代の名陶と陶郷の旅 ─』(講談社MOOK 昭和 52年11月1日刊)より ・・・・・・・・・・・・・・・・ 指おりかぞえて三百八十年昔、文禄・慶長の役≠ニいうのがあった。 かつて秀吉の朝鮮征伐≠ニ教えられた戦争である。 加藤清正、小西行長といった名だたる武将が秀吉の命令一下海を渡り、朝鮮半島 へ攻め入った戦争であった。 戦争の中身はさておき、そこで従軍した武将たちは日 本にない、訴えるような美しさをもつ朝鮮陶器に心をひかれた。 筑前福岡に城をもつ黒田長政 もそのひとりであった。 他の武将があらそってそうしたように、彼も、手品師のごとく魔法使いのごとく 焔のなかへこねた土をほうりこんでは、その語りかけるように美しい焼きものを作り だす陶工を日本へ連れてかえろうとした。 帰化人としてではない。俘虜としてである。 彼が選んだのは八山という陶 工であった。 おなじ陶工である子供にも同行を命じた。 当時の朝鮮海峡は渡るのに五日から六日かかった。 風がないと風を待ち、海が荒れるとそれは十日にも十五日にもなった。 水も言葉も違う。 八山親子がどのように肉親と血涙をしぼりあったことか。 海を渡った八山は、長政の所領地の東のはずれにある鞍手郡鷹取山の麓へ窯をひ らかせられた。 名前も地名をもじり高取八蔵とかえさせられ、もっぱら長政のためにだけ美しい 焼きものをつくることを命じられた。 七十人扶持をあたえられたというから、長政としては厚遇したつもりだった のだろうが、親子には、西の空を見ては手をとりあさって泣く日々であった。 やがて長政が病没する。連れてこられて三十年ちかい歳月が流れていた。 八山はこのとき、おそるおそる「長政様が亡くなられた からには帰国することをお許しください」 長政の嗣子である忠之に懇願しているが、なにを怒ったのか、忠之は懇願をつき かえし、そればかりか長政があたえていた七十人扶持の禄までとりあげてしまった。 さらに鷹取山麓の窯場からも追放した。 八山親子は、故郷に帰ることもならず、たつきの途までたたれていったので あった。 それでも親子は生きていかねばならぬ。 やっとの思いで嘉麻郡の山田に人目をさけ小さな窯をきずき、飯盛茶碗、油壺や 皿など日常雑器を焼いては近くの村々へ売り歩き米麦にかえ、かろうじて生命をささ えることになった。 南九州には、ごく最近までカンジン≠ニいう言葉が残っていた。 文字にすると韓人≠ナあり乞食≠フことであった。 五木の子守唄にでてくる、あの「おどまカンジン、カンジン」のカンジン≠ナ ある。 八山親子もまた乞食のように見えたのかも知れない。 ところが、そのうち忠之は八山親子がいなくなっては、仲間の大名たちに自慢で きる陶器ができないことに気がつく。 「勘気がとけた」として八山親子をふたたび召しだし、今度は嘉穂郡の白旗に新 しい窯をきずかせた。 大名の身勝手であるといえばいえるが、連行された異邦人はここでも黙々と それに従うしかないのだった。 ふたたび何年かがすぎ、長政没後三十一年め、八山はその白旗で骨となった。 ・・・・・・・・・・(これまでは、「白旗」についてであり、このアト が、「小石原」、さらに、「本題」の「小鹿田」になるのですが、「 割愛」します。)・・・・・・・・・・ |
─〈小山先生がこの「古萩の歴史と特質」においては触れ ておられない、「萩焼の七化け」等の 特徴について、父=英男の一文から、 補足しておきます。当然、以下の記述の責任は、父=英男にあります。〉─ ・「萩焼」の位置
=ロクロによる無限の力≠持つ「朝鮮李朝初期
の茶碗」の味と なごやかにして安らか
さ持つ=u楽茶碗」との中間
↑ 〈『陶片の楽書』〈父=河野英男著〉 「萩焼の味」(251〜256頁)〉
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◆ 「七化け」 (その3)
注意しなければならないのは、当然のことですが、七化け≠ヘ、必ず しもいい方≠ノ化けるとは限らないということです。 「使用する者は、第二の作者という位置づけと責任があるとも言える。」というわけです。 特に「花器」類の場合、花≠ヘその種類によって、想像もつかないものを含ん でおり、どんな花を生けるとどのようになるという見当≠ェつきませんので、特に 留意する必要があります。 休雪白≠フように、既に、好ましい景色≠持っている「作品」の場合は、 特に気をつける必要がありますが、「写真」の11代三輪休雪(現 寿雪)氏の「花生 」のように、当初から金属製の筒が用意されていることも少なくありません。 |
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この花瓶は、父=英男の 「作品」ですが、父の没後、使うことが供養≠ニ思い、この花瓶に銅を主体とした 金属製の筒を注文して用意し、釉薬の紫≠ェ変に化けないように≠オています。 |
「親とつき合うカエル」(428〜429頁)より ・・・・・・・・・・・・・・・ 陶匠は、窯開けのときわたしをよく招いてくださった。 「すこし時間的には早いがあけてきます」といって、まだ熱い窯をあけて作品を 布に包んでもってこられる。 みれば、つぎはぎだらけのズボン、陶土つきのズボン・作業衣。ピンピン音がする。冷たい空気に合い貫入が入るわけである。 気に入らねば無造作に難なくこわされる。作為!、無作為!、全身全霊 をうちこんだ作品、胎土の味、釉の味がいかされ、型づくられたて造形の美、選ばれ 、運ばれ、展示され、鑑賞される。 線の流れ、いずれもいいものは個性的な風格、格調高いものがあってつよい魅力 をもたらせる。 ・・・・・ 長年、「萩焼」は、使っているうちに、貫入≠ノお茶や酒などが素地にしみ込んで 化け≠トいく(上に「リンク」させている 「思わず語った萩焼のこと」にもあるのですが、茶筅 の通り道のわかる茶碗もあるのです。) わけですが、そうした化け≠珍重≠オ、意図的≠ノ化かす≠アとを 注意した一文を、父は、「陶片の楽書 二」の◆ つけ時代(369〜371頁)に書いています。
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なお、この李勺′については、 田村哲夫氏の『萩藩焼物師譜録』の「解読」により 李夕′のハズだという「見解」を私は採っています。 次をクリック≠オてみていただきはたいと思います。 「萩焼」の「開祖」は 李勺′ か、 李夕′ かということについて |
既に、唐津から 中野霓林> 氏 が来萩 (唐津には、今日も、中野窯があり、中野陶痴と 号される方が、四代として活躍しておられようです。残念ながらお訪ねしたことがな いので、「ホームページ」で調べました。) して窯を開かれており 、父=英男は、その人柄にも惹かれて、親しくさせていただいていました。 その突然の死には、父=英男は非常に悲しがり、メモにも記しています。 「写真」の茶碗は、いわば「遺作」といえるもので、「紙」の箱に入れて持 ち帰っていました。 「右下」の「観音像」、 「茶碗」も 霓林氏 の「作」です。 |
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[無所属] 石川 靖人 (松唐山) 石丸 萩想 (大照院窯) 泉 清風 (八景山) 梅田 陶楽 (記載なし) 大野 瑞峰 (瑞峰窯) 岡田 仙舟 (岡田窯) 小野 光臣 (萩陶苑) 喜村 治司 (唐泊山) 小久保 凌雲 (凌雲窯) 水津 乙彦 (水津窯) 水津 真幸 (大井窯) 杉山 芳寿 (芳寿窯) 高見世 清光 (鞍見窯) 田村 悟朗 (小迫窯) 都野 栖雲 (栖雲窯) 止原 伸郎 (土和窯) 中原 国輔 (国輔窯) 中村 絵里子 (里香窯) 中村 宗林 (宗林窯) 納富 鳥雲 (鳥雲窯) 浜中 月村 (大屋窯) 原田 隆峰 (長沢窯) 平井 香栄 (萩光山) 平野 教道 (塔陶山) 廣瀬 淡映 (天鵬山) 廣瀬 淡彩 (天鵬山) 藤井 明雄 (天龍窯) 藤山 之夫 (天龍窯) 古重 保男 (松雁窯) 松浦 無元 (松雲山) 松本 武光 (天龍窯) 三浦 崇男 (崇峰山) 三浦 崇峰 (崇峰山) |
● 「関連」して、「アクセス」していただきたい「ページ」 ─ 私の「ページ」の抜粋>氈@ この「ページ」は、[Google]・[Yahoo]において、[萩焼特徴]という「項目」が立てられ、 私の[index]としての萩焼 (はぎやき)が、1&ナ目〜32&ナ目 と移動するのに対して、 常時、1&ナ目においていただいていることとて、 この「ページ」も、かなり≠フ「アクセス」をしていただいています。 そこで、「萩焼」を理解していだくために、「関連」して、「アクセス」していただきたい「ページ」を「リンク」設定しておきます。 残念ながら、現在流布している「萩焼」の「歩み」は、 権威者≠ニされる=u執筆者」によって、一流≠ニされている=u出版社」から発行されている『書籍』、「山口県立美術館」の『図録』等、 いずれも「問題がある」と思います。
三輪休和氏の「作品」」 |
これまで使わせていただいていた
「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、38206≠ナし たが、[平成23年2月18日午前9時]から、別≠フ「カウント」を使 わせていただくこととします。 従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります。 |