平成20年7月8日 公開
平成25年9月30日 更新



●「萩焼」なるものについて


● 所謂「萩焼」とは



所謂「萩焼」という焼物は、
「文禄・慶 長の役」が終わった時、毛利輝元に従って来朝した李敬によって起こされたもの
をいう、
とするのが一般的≠ナ、
さらに、その流れ≠ノあるものもさすといえますが、
後に記すように異説もあります。



日本の陶磁史は「文禄・慶長の役」を契機として非 常な違いが起こりました。
「文禄・慶長の役」以前の窯というものは、日本に幾つもありません。
「萩焼」もこの「役」の後に 起こった窯の一つですが、ただ、ほぼ時を同じくして起こった高取、上野、薩摩 にしても、唐津にしても、ほとんどすべて九州に起こっており、九州 以外に起こった窯としては、「萩焼」だけのようだ小 山冨士夫先生は言われています。

以下、小山先生の「古萩の歴史と特質」「下敷 き」にして、「説明」します。
(窯元の伝える系譜≠ノ、疑問が多いとされる中、敢 えて、小山先生の、昭和18年当時のものを示しています。
単に、誰かが報告したものを引用≠ニいう形で、無責任≠ノ引用≠オたり 、ましてや「出典」にないものを付け加えるといったことなく、この小山先生の 書かれたものを原点≠ニして、常に=A原典≠確認した上で、 引用≠キることをお願いしたいと思います。)


実は、今日言う「萩焼」以前にも、これらの地方で焼物が発 達していたことがわかっています。
長門はわが国でも非常に古くから焼物の発達した地方の一つで須恵器の 窯跡が相当たくさんあります。 殊に、『延喜式』には、長門と尾張、この二つの国だけから瓷器(しのうつわ)を奉っ たという記録があり、 平安初期には、尾張と共に、最も良い焼物を焼いたということが記録の上か ら推察されます。
この瓷器についてはいろいろ意見がありますが、小山先生の(昭和18年当時の) 解釈としては、今日のような陶器ではなく、「須恵器」の上手なもので、 これに人工的な釉薬のかかったものであろうとされています。
長門でもこれが発見された所があります。
これについては小川五郎氏が 精細な調べをされており、山口県小野田町の字楢原というところに須恵器の窯址があ り、ここから釉薬のかかったごく上等な須恵器が発見されているとされています。
しかし、防長地方には備前、信楽、丹波等に並行するような吉野朝・足利時 代の窯はどうもないようです
本来の=u萩焼」は、これを大別して「松本萩」と 「深川萩」に区別していますが、 「松本萩」は更にこれを焼いた家によって、「坂」、「三輪」 、「林」の三つの窯に分けています
「深川萩」も、焼いた家によって 「坂倉」、「倉崎」、「赤川」の三つの窯に分けています
しかし、これ以外にも、周防、長門でいわゆる萩焼風の陶器を焼いた窯 はずいぶん多いようで、小川氏の調べによると、泉流山、東光寺、指月、総瀬、 須佐、深川、俵山、山口、八幡、宮野、堂道、浅地、原河内、大原、旦、岩淵、西浦 、鞠生、三田尻、玉祖、戸田等の窯はすべて松本・深川の萩焼の影響で起こった窯 となっています。
(但し、この中の「戸田焼」は、我が家の関係 する「窯」ですが、「磁器」を主体≠ノしていましたので、疑問がありま す。)

これら以外にも、徳川中期頃から「京焼の風」も山口県下に興こってい ます。
また九州の有田焼の流れをくんだ「磁器の窯」もあります。
それから三島刷毛目(はけめ)等朝鮮風のものを焼いた窯もあるようです。
中には、こんなものが山口県で焼けたかと思うような物があります。
しかし山口県の焼物の主流をなすものはやはり「萩焼」です。
小川氏の調べによると、山口県下には「萩焼系の窯」が三十四あり、これに 対し、「京焼系のもの」は十、「磁器」は九つ、「それ以外のもの」が十七とい うわけで、断然、萩焼系統の窯が多いということのようです 。
また、発達史的に見ても、「萩焼系のもの」が最も古く、「京焼」、「有田焼風 」のものは江戸中期以降、多くは幕末の窯のようだということです。

この萩焼系の窯の宗本をなすもの「松本萩 」、その中でも「坂家の窯」で、「萩焼」は坂高麗左衛門が始めたとするの が一般的ですが、「萩焼の起源」については次の「三 つの説」があります。

「第一の説」は、坂家 四代の新兵衛という人の「上申書」に、『焼物師由来書』というものが あり、この中に自分の曽祖父の高麗左衛門が、朝鮮から毛 利輝元に連れられて来て、松本の唐人山という所に屋敷を建て、ここで初めたのが坂 焼、「松本焼」の起こりだということを言っています。
これに対し第二の説は、防長 郷土史の権威者である近藤清石が 書いた『霜堤雑草』という本の中にある説で、
松本の萩焼の起こりというものは、 李敬、すなわち高麗左衛門が開い たように一般には言われているが、実は間違いである。
「松本萩」を起こしたのは、李敬勺光(シヤムカン)で、この勺光という者が 、文禄の役にわが国の捕虜になって大阪に連れられてきていた。
秀吉はこの者を、輝元にお預けになった。
慶長六年(一六〇一年)、輝元が長門に居を移して後、屋敷を唐人山に賜って、 勺光が起こしたのが深川焼 (ママ 「松本焼」 の誤りと思われます。この後の深川焼 ≠ニ矛盾しますので。)であって、その後勺光李敬を本国から呼 んで李敬も焼くようになった。
李敬は初めは坂助八といったが、寛永二年(一六二五年) に高麗左衛門という名前をいただ いて、それから後、坂家は代々高麗左衛門と呼んでいる。
勺光が死んだ事は分らないが、その子山村作之進 という者が初めは高麗左衛門 に養われていたが、後に「深川焼」を起こし、こ れが「深川焼」の起源である。

すなわち、
第一は、坂高 麗左衛門が始めたという説、
第二は、高麗左衛門勺光という人が始め、高麗左衛門は後に兄 に呼ばれて日本へ来たのだという説。
さらに、
第三の説というのは、深川の窯元 に言い伝えとしてい残っている説で、これは二つの説を折衷したような話 で、
勺光も弟の李敬一緒に朝鮮から来て、兄の 勺光の方は「深川焼」を始め、弟の李敬の方が「松本焼 」を始め、「松本萩」も「深川萩 」も同時に起こったという説です。

このうちどれが正しいかということは小川氏もはっきりとは述べておられな いし、小山先生も調べたことがないと記された上で、

一般には、李敬すなわち坂高麗左衛門が起こしたということになっ ています。
「萩焼」では坂家が総本家ということになっています。

萩焼の歴史はざっとこういう風ですが、各窯で焼きましたものは、原 料も、釉も同様で、作品の判別はなかなか困難ではないかと思います。

「萩焼の特質」と申しますと、萩は軟らか い、親しみがあるのがその特質で、平々凡々な何の取りえもな いようなところに、かえってその特徴があるのではないでしょうか。
昔から一井戸、二萩、三唐津、または一楽、二萩、三唐津と いいますのも、やわらかい、おだやかなものを愛する日本人 の好みから発したものでしょう
萩焼は日本的な焼物のうちでも、特に日本らしい、やわらかさのあるも ので、ひろく日本人に愛されるもそのためでありましょう。
取りえといえば、軽いやわらかいその器地は日本にも中 国・朝鮮にもない特別な親しみのあるものですが、 総じて茫寞とした大きさがあり、何ということのない親しみがあ り、こんなところにかえって萩焼の特質 とでもいうべきものがあるのではないでしょうか。

と、まとめておられるのです。




────『週刊朝日百科  人間国宝22 陶芸4』における「萩焼」解説にも疑問 ───── ──────────────────────
東京国立近代美術館工芸課長という肩書≠フ、いわば、今日の代表≠ニもい える方の「萩焼」解説すら、次のよう になっています。


「一楽二萩三唐津」という言葉が あるように、萩焼と唐津焼は楽焼とともに茶陶として珍重され、大事にされてきた。
これはまた「一井戸二楽三唐津」ともいう。 一見萩が落ちているように見えるが、萩はそもそも朝鮮陶磁をベースにした陶磁器産 地であり、その主体はいわゆる高麗茶碗である。
その中心はいうまでもなく井戸茶碗であり、萩焼は井戸風茶碗を中心に生産され てきた。この二つの言葉は順序が違うだけでほとんど同じことをいっているのである 。
いかに萩焼、唐津焼が茶陶として特別な位置にあったかがわかる。
萩焼は豊臣秀吉の文禄・慶長の役(一五九二〜九八年)の際に渡来した 朝鮮の陶工、李勺光とその弟(初代坂高麗左衛門)が毛利藩の御用窯を築いたことに始 まる。
江戸時代に長門、明治には山口市にも窯ができ、現在では山口県全域に 広がっている。
大道土に金峰(山)土、見島土を精製・ブレンドした土で成形され、文様がほとん どなく、透明釉の土灰釉か、白濁する藁灰釉(白萩釉)が施さ れることに特色がある。
土精製の過程で除かれた粗砂を混ぜた鬼萩という土を用い、ざらついた質感を出 す手法もある。
また比較的低い焼成温度で焼きを止めるため、釉の内部に水分が浸みやすく、使 ううちに釉色が変化することが多い。それは他の産地のものと比べて著しく、「 萩の七化け」と呼んで人気が高い。
(以下には、唐津焼の解説が続いていま す。)


私の疑問
O 文禄・慶長の役(一五九二九八年)≠ノついて
文禄の役=(1592〜1593)・慶長の役=(1597〜1598)のハズです が。
(1592〜98)とあると一続き≠フようになってしまいます。

O 渡来した朝鮮の陶工、李勺光とその弟(初代坂高麗左衛門)が毛利 藩の御用窯を築いたことに始まる≠ノついて
これでは大まかすぎる≠フではないでしょうか。上述した小山先生の説≠ もう一度、確認いただきたいと思います。

なお、いちゃもんのようですが、渡来した≠ナは自らの意思のよう です。
さいわいなことに 、 むりやり連れてこられたといった哀史≠フようなことが伝えられていないにしても、渡来させられたとやはりあるべきでしょ う。

執筆された方がどなたかということが記されておらず、また、「史 的」な「裏付け」も取っていませんが、私にとって忘れられない「出版物」 があります。

(参考) 「望郷の韓臼¥ャ鹿田」─ 熊笹を分け土を舐めて窯を 築いた朝鮮陶工の伝説 ─
 『日本の陶芸と窯 ─ 現代の名陶と陶郷の旅 ─』(講談社MOOK 昭和 52年11月1日刊)より

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指おりかぞえて三百八十年昔、文禄・慶長の役≠ニいうのがあった。
かつて秀吉の朝鮮征伐≠ニ教えられた戦争である。
加藤清正、小西行長といった名だたる武将が秀吉の命令一下海を渡り、朝鮮半島 へ攻め入った戦争であった。
戦争の中身はさておき、そこで従軍した武将たちは日 本にない、訴えるような美しさをもつ朝鮮陶器に心をひかれた。
筑前福岡に城をもつ黒田長政 もそのひとりであった。
他の武将があらそってそうしたように、彼も、手品師のごとく魔法使いのごとく 焔のなかへこねた土をほうりこんでは、その語りかけるように美しい焼きものを作り だす陶工を日本へ連れてかえろうとした。
帰化人としてではない。俘虜としてである。
彼が選んだのは八山という陶 工であった。
おなじ陶工である子供にも同行を命じた。
当時の朝鮮海峡は渡るのに五日から六日かかった。
風がないと風を待ち、海が荒れるとそれは十日にも十五日にもなった。
水も言葉も違う。
八山親子がどのように肉親と血涙をしぼりあったことか。
海を渡った八山は、長政の所領地の東のはずれにある鞍手郡鷹取山の麓へ窯をひ らかせられた。
名前も地名をもじり高取八蔵とかえさせられ、もっぱら長政のためにだけ美しい 焼きものをつくることを命じられた。
七十人扶持をあたえられたというから、長政としては厚遇したつもりだった のだろうが、親子には、西の空を見ては手をとりあさって泣く日々であった。
やがて長政が病没する。連れてこられて三十年ちかい歳月が流れていた。
八山はこのとき、おそるおそる「長政様が亡くなられた からには帰国することをお許しください」
長政の嗣子である忠之に懇願しているが、なにを怒ったのか、忠之は懇願をつき かえし、そればかりか長政があたえていた七十人扶持の禄までとりあげてしまった。
さらに鷹取山麓の窯場からも追放した。

八山親子は、故郷に帰ることもならず、たつきの途までたたれていったので あった。
それでも親子は生きていかねばならぬ。
やっとの思いで嘉麻郡の山田に人目をさけ小さな窯をきずき、飯盛茶碗、油壺や 皿など日常雑器を焼いては近くの村々へ売り歩き米麦にかえ、かろうじて生命をささ えることになった。
南九州には、ごく最近までカンジン≠ニいう言葉が残っていた。
文字にすると韓人≠ナあり乞食≠フことであった。
五木の子守唄にでてくる、あの「おどまカンジン、カンジン」のカンジン≠ナ ある。
八山親子もまた乞食のように見えたのかも知れない。
ところが、そのうち忠之は八山親子がいなくなっては、仲間の大名たちに自慢で きる陶器ができないことに気がつく。
「勘気がとけた」として八山親子をふたたび召しだし、今度は嘉穂郡の白旗に新 しい窯をきずかせた。
大名の身勝手であるといえばいえるが、連行された異邦人はここでも黙々と それに従うしかないのだった。
ふたたび何年かがすぎ、長政没後三十一年め、八山はその白旗で骨となった。
・・・・・・・・・・(これまでは、「白旗」についてであり、このアト が、「小石原」、さらに、「本題」の「小鹿田」になるのですが、「 割愛」します。)・・・・・・・・・・


O 江戸時代に長門・・・窯ができ≠ノついて
この江戸時代に長門、明治には山口市に窯ができ・・・≠ニ いう記述だと、「萩」に窯ができたのは江戸時代以前≠フようになります が、毛利氏が長州に転封されたのがそもそも江戸時代≠ナ す。「萩」も当然、江戸時代≠フハズです。
さらに、長門≠フ窯を開いたのが誰かについて、言及 されていません。「異説」もあるのですが、長門 の窯も、「萩」とともに、「御用窯」であり、狭い意味の=u萩焼」に入るワ ケですから、触れてほしいと思います。
昭和32年の「萩焼古窯発掘計画」の際にも、小山先生 、田中作太郎先生共、「萩焼」を知るには、「坂の古窯」と長門市深川の共同窯の二 箇所の発掘は必要とされたことからもこの長門≠フ 開窯を触れる必要があると思います。
また、明治には山口市にも≠ニあり、大和作太郎の開窯のことを指しているの でしょうが、「萩焼」の範囲≠ノついてどう考えておられるのでしょうか。
いわゆる萩焼風の陶器を焼いた窯はずいぶん多いよ うでとあるように、「江戸時代」に存在した、幾つもの民間窯 を、「萩焼」とせず、山口市の大和窯(大和作太郎 氏は、既に萩で作陶しておられます)、現在の山口県各地にある窯を「萩焼」とされ るのはどういう根拠に基づくのでしようか。
透明釉の土灰釉か、白濁する藁灰釉(白萩釉)が施されることに特色がある≠ニ されることにも、現状をいうのならともかく、「萩焼の歴史」全般について なら、疑問があります。
白濁する藁灰釉(白萩釉)が施される≠アとが「萩焼」 の特色となるのは、三輪休 和・寿雪両氏の優れた「作品」が続々と発表されるようになって以後のこと だと私は理解しています。

O 「萩の七化け」について
「七化け」の前提としての貫入という語が用いられていないことに 疑問があります。


以上、東京におられ、全国の陶芸を直接、調査される機会はほとんどないと思わ れ、何かor誰かの意見を参考にされたのでしょうが、再検討していただくか、あるい は、私の認識の方に誤りがあるとされるなら、指摘していただきたいと思います。

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─〈小山先生がこの「古萩の歴史と特質」においては触れ ておられない、「萩焼の七化け」等の 特徴について、父=英男の一文から、 補足しておきます。当然、以下の記述の責任は、父=英男にあります。〉─
「萩焼」の位置 ロクロによる無限の力≠持つ「朝鮮李朝初期 の茶碗」の味と
なごやかにして安らか さ持つ=u楽茶碗」との中間
    〈『陶片の楽書』〈父=河野英男著〉 「萩焼の味」(251〜256頁)〉


◆ 「七化け」(その1)

萩の七化け==u萩焼」の特徴≠ヘ、用いる人の心をそのままうつすこと、つ まり、同じような茶碗も愛し方によって、持つ人によって大きく変わるということで 、「いい茶碗」は、すぐれた陶技、陶工の技術と人柄が 一つになってつくり出された茶碗が窯から出されたいいものに、素直な人が道にかな った使い方をした茶碗が後世残されたものだと思います。
使用によってはいかようにも化ける萩焼なので、使用する者は、第二の作者という位置づけと責任がある とも言える。
↑〈『陶片の楽書』の「人と作 品」(265〜275頁)


◆ 「七化け」 (その2)  「思わず語った萩焼のこと」(231〜242頁)〉


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「ところで、萩焼のよさは結 局どこですかね。」 
「他の陶磁器と違って七化七変化すると言っています よね。」
「同じ陶工がロクロ挽きをしますが、気韻生動と申して、それそのものが型でな いため、個々違っています。ロクロも左蹴りの左仕上げ、左蹴りの右仕上げ、右蹴り の左仕上げ、右蹴りの右仕上げとありますが、これは個人のロクロ蹴りのくせ≠ナ すが、先ほど申しましたように個々各々違ったおもしろさがまずあります。」
次は釉薬の濃度、調合、かけ方の違いの違いもあります。それが窯に入れて火の洗 礼を受けますが、ここで火動の変化が大きく出てきます。 は、萩はのぼり窯の三〜四本で すが、一つの窯の中で、火奥、火中、火前で異なり、又、火奥の高さの位置、又、窯 そのものの焚き口の手前と中と奥と何通りもあるわけです。その位置で焼き上がりが 随分違います。
又、窯くせがあり、陶匠の意のままにならぬ故に、窯あけの楽しさは格別です。 喜びが大きいだけにまた悲しみも大きい場面もありますからね。私も窯元の窯あけに 何度も招かれて行ったものです。」
その異なったものを使っているうちに、又、七化七変化しますよ。実に直(すなお)なものですよ。釉薬の関係で小貫入大 貫入が入っています。」
「貫入≠ェね。」
「そうです。長石が火にあって陶土の土にガラス状と なってかぶさりますが、その長石の火に対して玻璃状となる度合の違いからキレツ ≠生ずるわけです。(大道土≠使うようになってか らの萩焼は、この大道土が他の陶器の土よりも、やわらかく吸水性がある上、焼成温 度が幾分低いため、この貫入に沿って、釉薬が変化する割合が高く七化け≠萩焼の特徴とするわけですが 、同時にこの七化け≠ェ「萩焼」の魅力≠ナもある わけです。)」
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  「写真」は、山口県で、現時点では、ただ一人「文化勲章」を受けられた松林桂 月氏が絵付けをされた12代坂倉新兵衛氏の「湯呑」です。
私の「写真」がまずく、充分にその味≠示せないのが残念ですが、貫入≠ェ味わい≠増している例 として示しておきます。 
「炎は流れる」(447〜456頁)に詳しく書かれていますが、この「 湯呑」は、二度=A大きく壊れたものを金つくろい≠オたものですが、そのこと は措くとして、抜粋≠オて、ここに示しておきます。

 ・・・「湯呑」とあるが、より正確には煎茶茶碗である。新兵衛先生 の煎茶茶碗は釉薬のかかりぐあいがよく、焼きあがりもよくて、枇杷色があざやかに 出ている。その中に、小貫入が一様に全体を覆って実に静かである。その上、成形が 、平素自慢に語っておられたように腕の立ち上がりが自然にロクロから生まれ出てつ くりあげられている。余韻じょうじょうとした魅力ある作品である。









この「茶碗」と下の「 茶碗」は、共に小久保凌雲氏の「抹茶茶碗」ですが、この「写真」の「茶碗 」は、未使用であり、下の「写真」の「茶碗」は、父がほんの数年、 使用したものです。







ほんの数年の使用でも、こんなに変化します。使い込めば、ま だまだ変化していきます。
(この「写真」は、使用することで、貫入≠ェ味わい≠増す例≠ニして 、「上の新兵衛氏の湯呑」がうまく「画面」に出て来ないため、併せて示し ておきます。)



◆ 「七化け」 (その3)

注意しなければならないのは、当然のことですが、七化け≠ヘ、必ず しもいい方≠ノ化けるとは限らないということです。

使用する者は、第二の作者という位置づけと責任があるとも言える。」というわけです。
特に「花器」類の場合、花≠ヘその種類によって、想像もつかないものを含ん でおり、どんな花を生けるとどのようになるという見当≠ェつきませんので、特に 留意する必要があります。
休雪白≠フように、既に、好ましい景色≠持っている「作品」の場合は、 特に気をつける必要がありますが、「写真」の11代三輪休雪(現 寿雪)氏の「花生 」のように、当初から金属製の筒が用意されていることも少なくありません。











 この花瓶は、父=英男の 「作品」ですが、父の没後、使うことが供養≠ニ思い、この花瓶に銅を主体とした 金属製の筒を注文して用意し、釉薬の紫≠ェ変に化けないように≠オています。


「親とつき合うカエル」(428〜429頁)より

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陶匠は、窯開けのときわたしをよく招いてくださった。
「すこし時間的には早いがあけてきます」といって、まだ熱い窯をあけて作品を 布に包んでもってこられる。 みれば、つぎはぎだらけのズボン、陶土つきのズボン・作業衣。ピンピン音がする。冷たい空気に合い貫入が入るわけである。
気に入らねば無造作に難なくこわされる。作為!、無作為!、全身全霊 をうちこんだ作品、胎土の味、釉の味がいかされ、型づくられたて造形の美、選ばれ 、運ばれ、展示され、鑑賞される。
線の流れ、いずれもいいものは個性的な風格、格調高いものがあってつよい魅力 をもたらせる。
・・・・・ 

長年、「萩焼」は、使っているうちに、貫入≠ノお茶や酒などが素地にしみ込んで 化け≠トいく(上に「リンク」させている 「思わず語った萩焼のこと」にもあるのですが、茶筅 の通り道のわかる茶碗もあるのです。) わけですが、そうした化け≠珍重≠オ、意図的≠ノ化かす≠アとを 注意した一文を、父は、「陶片の楽書 二」の◆  つけ時代(369〜371頁)に書いています。


◆ 「七化け」 (その4)

わたしはつけ時代は悪趣味と考えている。時代 は時代が生むもので、年代はつくり出されはしない。写は 写で、十分使用できるし、楽しめるものである。しかし本物には器物を愛した年代が織り込まれ、つくり出した、本来の持つ美しさが あり無限の愛着が澎湃(ほうはい)する。
一楽二萩三唐津と茶人に親しまれている萩焼の茶器は 萩の七化け≠ニいって使用する人のこころをうつし出すからおそろしい。 二数十年前、わたしが文化財関係の調査で土地ま趣味人を 訪ねたときのことを思い出す。
「わたしは後妻をもらって十四年ばかりになります。妻を失ったヤモメ暮しで、 四、五年本当に困りました。なかでも一番困ったのは何よりも洗濯物でした。今日、 粗末ながらもキチンとした服装が身につけられるというのもそのお蔭と感謝していま す。その当時、そのことを家内に話しお礼を言ったものですよ。ところがです―」と 、話はこれからが本論である。「あまりほめすぎて、わたしがだいじにだいじにして いた煎茶茶碗、それも萩焼の煎茶器で手に入れてまもないものを茶で煮つめ、茶につ けてようやく渋味が出たところに、この家内の登場です。身のまわりの世話をほめた ためにせっかくのこの茶碗もきれいにされてほとほと困りました。この世界に理解の ないものは仕様のないものですよ。」
しかし、わたしは当時六十過ぎたこのあるじ(もう他界されている)と考え方が違 い、力強く結ばれたことばにはさほど反応を示さなかった。むしろ、きれいにされた 奥さんに共鳴する思いがした。時代はつけなくても自然に時 間的に積まれるものである。十年を一日でつけるのではなく、十年は十年でつけるべ きだとわたしは考える。目で見て新しく見えてもその作ゆ き、胎土、釉薬でその時代は時代を物語るものである。その器物の生まれた時代を知 ることができるならば、その感興は更に深められるし、鑑賞点は高められるのである 。特にその器物がまぎれもなくその時代の相(これはすべてを総合してのことである が)をしていることはありがたいことである。その器物に対しての鑑賞が一段とはっ きりしてき、わせわせは鑑賞を通してその時代と共に呼吸することができる。したが って、そのものの時代の理解が重要となる。焼物は、偶然、形ができて漫然と生まれ たものではない。必ず、時代というものから生まれているということを知らなければ ならない。このことは、すべて絵画工芸品にはいえる一面であろう。画幅なら、この 点いっそうはっきり言えると思う。いたずらに古みせし時代があるように落ち着きを 出すのは変なものである。 つけ時代の世界に、われわれは遊んではならない。その対象にするものの世界に取り 組み、究明することが必要であり、楽≠ナあると思うわたしである。毎日、こうし て楽しい生活をさせていただいている自分が反省させられることは、美の対象として 鑑賞するものの世界と同様に人間の世界にもつけ時代があるのではなかろうかという ことである。






●「萩焼」の範囲

「文禄・慶長の役」が終わった時、毛利輝元に従って来朝した李勺′・李敬によ って起こされた焼物をその作陶された地=萩≠フ地名に基づいて呼んだ ということでしょうが、それ以前にも「萩」近辺に焼物≠ヘあったこと、及び 、長門深川≠も含みますので、「萩藩」の庇護のもとに発展したことに因む 呼称 といえるかも知れません。

なお、この李勺′については、

田村哲夫氏の『萩藩焼物師譜録』の「解読」により
李夕′のハズだという「見解」を私は採っています。
次をクリック≠オてみていただきはたいと思います。

「萩焼」の「開祖」は 李勺′ か、 李夕′ かということについて



当初は「萩近辺」の土≠使用していたでしょうが、それが、大道(現 防府市)の土を使用するようになって大きく進展し、更に 、金峯山土・見島土など、いろいろな所からのものも同時に使うようになり 、作風≠熾マ化し、楽風≠フ優れた作品も多く生まれ ました。
江戸時代は、この「御用窯」を中心にいくつかの民間の窯が製作していまし た。それらを「萩焼」に含めるか否か(後記する楢崎鉄香氏の記述を参照)はいまは置 くとしても、「萩焼」は、「明治維新」を迎えて、御用窯≠ゥら放たれて、大きく 変容します。
作陶の地 も、「萩」、「長門深川」は無論のこと、「山口市宮野」を中心とした「大和一族」 の方々による「山口萩焼」と称されるものや、脇本楽之軒氏ゆかりの「防府市」の「 勝坂窯」、「防府市台道長沢湖畔」の「長沢窯」(元国会議員秘書で あった原田隆峰氏が「大和松雁」氏のもとで修行後、開窯)等、 「作品」からして、江戸期の「民間窯」とは異なり、当然のように、萩焼≠フ範疇 に入るものが、「県内」に広がっています。
のみならず、空前の陶芸ブーム≠経験したこともあって、県内各地 で、新たな陶工・陶芸家を生み、各地で開窯されています。

作者 についても、当初の朝鮮陶工は「特別」として、ほとんど[山口県]の人間であった 陶工・陶芸家であったと考えられるのが、県外≠ゥらの来住も少ないとは 言えなくなっています。

既に、唐津から 中野霓林> 氏 が来萩 (唐津には、今日も、中野窯があり、中野陶痴と 号される方が、四代として活躍しておられようです。残念ながらお訪ねしたことがな いので、「ホームページ」で調べました。) して窯を開かれており 、父=英男は、その人柄にも惹かれて、親しくさせていただいていました。
その突然の死には、父=英男は非常に悲しがり、メモにも記しています。

「写真」の茶碗は、いわば「遺作」といえるもので、「紙」の箱に入れて持 ち帰っていました。

「右下」の「観音像」「茶碗」も 霓林氏 の「作」です。










その後は、ニルス・ベアティル・ペアソン氏やペア・ワイス・ハンセン 氏のように、海外からの来萩による「萩焼」の作陶もあります。
[平成20年6月末]時点で、「山口県無形文化財」として認定されている「萩 焼」5人≠フうちの波多野善蔵(佐賀県唐津市)、野坂庚起(三重県 志摩郡浜島町)氏は、もともとは県外≠フ人で、それぞれ「萩焼」以前 に、他の地での経験≠積まれています

「作品」 にしても、本来の用≠ゥら離れ、前衛的なもののみならず、ごく一般的な陶工・陶 芸家の人達も、「美術品」としての「作陶」を目指すようになりました。
「重要無形文化財(人間国宝)」の三輪壽雪氏の「作品」も、茶の呑 めない「抹茶茶碗」≠ェ主流となり、先日の「なんでも鑑定団」なる「テレビ番 組」において、鑑定の中島誠之助氏は、壽雪氏をして、「抹茶茶 碗」にオブジェ≠取り入れた作家であるとして「解説」しておられました。

更には、「山口県外」の陶工・陶芸家が、「萩」の地において、「作品」を焼い ている場合もありますし、「萩」の陶工・陶芸家が、「大道土」を主とする萩 以外の地≠フ土を使っているのは周知のことですが、他県の 陶芸地において、他県の土≠使い、その地の「窯」で焼くこともめずらしいことではなくなり、他の地の土≠混ぜて、 「萩」の地で作陶することもあるようです。(交通が便利になったこと、立場的に、 自由になられたこともあってでしょう、小山先生も、何度か、萩の地を訪ねられ、「 萩焼」の窯で作陶されています。もっとも、多くは、轆轤をまわされただけで、後は 、窯元にまかされています。)

このように、限りなく幅≠広げていく状況においては、もはや 、「萩焼」という名≠ナひとくくりするのは意味をなさないように思います。

「萩焼」なるもののイメージ≠ヘ、もはや変容≠オているわけ ですから、ハギヤキ≠ネいしは、HAGIYAKI≠ニして、 便宜的≠ネ呼称≠ニみた方がよいかもしれないという実態がもうそこまで来ているのです。

それに、「萩焼」の製作を業≠ニする人達が飛躍的に増え ている[下の「萩市制50周年記念展 萩焼展 目録」を転記した箇所を参照してください]のみならず、 趣味≠ニして、「陶芸」に携わる人達のことももはや無視≠ナきなくなっています。
充分に売ろうと思えば売れる=u作品」を作っている人達を何人も私 は知っています。
その趣味≠ナ製作する人達の「作品」は、「萩焼作家」が作る「作品」以上に 萩焼的ともいえるのですから。

 なお、楢崎鉄香氏は、『萩焼』の(102頁)において 、

萩市内及市外に於て本窯と共に脇窯にして、萩焼と称する焼物を製産して ゐる諸窯を概括的に列挙してみるなら萩焼の本窯である松本焼の坂焼・三輪焼を始め として、其の他には泉流山焼〈註 「吉賀」の窯のこと〉東光寺焼・指月焼・総瀬焼 ・須佐焼・深川焼〈註 「坂倉・田原・坂田・新庄」の窯のこと〉・俵山焼・山口焼 ・八幡焼・宮野焼〈註 「大和」の窯のこと〉・堂道焼・浅地焼・原河内焼・大原焼 ・且焼・岩淵焼・西浦焼・鞠生焼・三田尻焼・玉祖焼・戸田焼等がある。山口県下を 旅行して見て、萩焼と称して製産されてゐる陶器類は右の窯に依つて焼かれたも のであって何れも類似の形態である。

と書いておられ、多少の疑問点はありますが、楢崎氏によると、既に「 萩焼」の範囲≠ヘ、昭和18年11月以前(多くは「江戸時代末」の開窯と思 われます)には、拡大していたということになります。


北大路魯山人氏の「作品」は、「織部焼」・「備前焼」・「伊賀焼 」・・・と、「作品」ごとに呼ばれているわけで、今後は、この魯山人氏の 場合のように、個々の陶芸家£P位の、個人的・個性的≠ネ、バリエーション の一つとしての「萩焼」な 作品ということになっていくと思います。



●「萩焼」の今後≠ニ12代坂倉新兵衛氏、三輪休 和氏のこと

「萩焼」の≠ニいうより、「陶磁器」全般にいえると思うのです が、
昨年(平成19年)の夏、京都の古美術商の方々を訪ねて、話を伺ったことがあり ます。
父の遺したものの幾つかについて、「古美術商」の方の眼(「美術品」の「評価」は、「作品」のよさ<_ケではありません)で、どう「評価」されるかを、お聞きするのが目的だったのですが、
その時、「美術館等に、寄贈することも考えているのですが」と言った時のこと です。
「もう、どこの美術館も、飽和状態に近く、寄贈しても 、倉庫に眠るだけというのが実態≠セと思いますよ。」
「それよりは、自分の手元に置いて心を豊かにし、求めがあれば貸し出すという 方がはるかに得策です。」
「それに、現在の作家の作品は、昔は考えられなかったほど高額で、 昔のように用≠ナはなく、美術品≠ニしての扱いですから、まず壊れま せん
戦争もないでしょうし、さらに、長寿時代とあって、各作家の作品の数自体 が膨大ですし、作風≠熾マ化があります。
希少価値≠ニいった概念は、もはやなくなったとみていいと思います 。
単に、誰々の作品≠ニいうだけでは、たとえ寄贈≠キると申しいれても、美 術館は受け入れないでしょう。」
「画家の方々を中心にした個人≠フ美術館も、全国には、いったい幾つありますかね。それほど、一作家 ≠ノして多様な作品≠ェあるということですよ。今後も、開館が続くでしょう しね。」
と言われたのです。
さらに、
「新しさ≠フ追 求は際限がないわけですから、私は、今後はむしろ、古きもの ≠ェ見直される時がくると信じています。」と継がれたの です。

  
陶工・陶芸家にもよりますが、少なからぬ人の「作品」は、あまりに高額≠ネ ものとなって、もはや使用≠キることはなくなっている わけですから、用≠ノこだわっ ても仕方がない(というより、「美術品」であることが用 だともいえそうです)という状況 のモト、 どんな作品≠ェ生まれても不思議≠ヘないわけです。
「萩焼」の特徴≠ニもいうべき七化け も、従来の意味での用≠離れてしまってはその特徴 も意味を失ってしまいます。
とすれば、今後、どのような特徴≠ェ、「萩焼」に 加わっていくことになるのやら・・・。
用≠ニいう制約≠離れた以上、今後、どのような「作品」が生ま れるものか、予測もつかないのです。

また、先日、NHKの「ラジオ深夜便」において、「日本伝統工芸展」で、 「日本工芸会会長賞」を「古上野釉平鉢」(第15回展 昭和43年)「 古上野釉組鉢」(第16回展 昭和44年)という、まさに、「伝統」を生か した「作品」で連続受賞している「上野焼」の高鶴 元が、 求めに応じて、現在は、「アメリカ合衆国」という場≠ノおいてオブジェ≠「 作陶」されているようですが、そのオブジェ≠ニて、「伝統」と「伝承」は違 う「伝統」は新しい場においても、生かされるべきものだと、 「伝統」を生かした「作品」であるといったことを話しておられた(と思います。なにせ、タマタマ「ラジオ」をつけた所で流れてきたことと て、簡単なメモ≠オか取っていませんので。)ことも今後≠フ「 萩焼」の展開の「参考」になります。

しかし、その一方で、古美術商の言われたことを考え合わせる時、いわば、 和歌文学における『新古今和歌集』等の、芸術性≠フ高さが評価され つつも、文学の原点=A和歌文学の原点≠ニして、そ の輝き≠失わない『万葉集』のように、陶芸≠フ 方向を考える時の原点として、用≠見据えた12代坂倉新兵衛氏、三 輪休和氏の「作品」(休和氏の場合は、最晩年≠ノは、用≠離れた?と思われる「作 品」もあるようですが)が、『万葉集』のような位置を占めると私個人は思っています。 


むろん、こうした芸術品・美術品≠目指す陶工・ 陶芸家とは別に、用≠目指し、「生活」を豊かにすることを信条≠ニする 陶工も存在していますし、今後も、活動し続けると思います。(金銭的に報わ れる≠アとは期待できないにしても。)


────[萩市制 50周年記念展 萩焼展 目録]昭和57年 10月23日(土)〜25日(月)]による「萩焼」の陶 芸家 ───────
↑ すべて≠フ陶工・陶芸家が出展してはいな いと見え、私の知っている人も数人は、この「目録」には載っていませんが、今日 =Aいかに多くの方々が作陶≠ウれているかという参考にはなると思います。
また、残念ながら、この一覧にある、将来を嘱望されていた三輪栄造氏、坂田慶 造氏が若くして亡くなられています。
 「目録」の記載順に示します。(「作品名−氏名−窯元名」の順に記載されて いますが、作品名は略します。)


[無所属]

石川 靖人  (松唐山)
石丸 萩想  (大照院窯)
泉 清風  (八景山)
梅田 陶楽  (記載なし)
大野 瑞峰  (瑞峰窯)
岡田 仙舟  (岡田窯)
小野 光臣  (萩陶苑)
喜村 治司  (唐泊山)
小久保 凌雲  (凌雲窯)
水津 乙彦  (水津窯)
水津 真幸  (大井窯)
杉山 芳寿  (芳寿窯)
高見世 清光  (鞍見窯)
田村 悟朗  (小迫窯)
都野 栖雲  (栖雲窯)
止原 伸郎  (土和窯)
中原 国輔  (国輔窯)
中村 絵里子  (里香窯)
中村 宗林  (宗林窯)
納富 鳥雲  (鳥雲窯)
浜中 月村  (大屋窯)
原田 隆峰  (長沢窯)
平井 香栄  (萩光山)
平野 教道  (塔陶山)
廣瀬 淡映  (天鵬山)
廣瀬 淡彩  (天鵬山)
藤井 明雄  (天龍窯)
藤山 之夫  (天龍窯)
古重 保男  (松雁窯)
松浦 無元  (松雲山)
松本 武光  (天龍窯)
三浦 崇男  (崇峰山)
三浦 崇峰  (崇峰山)
三輪 竜作  (三輪竜作窯)
椋原 佳俊  (古畑窯)
守繁 栄徹  (蓮光山)
守田 唐七  (不易庵)
大和 潔  (初瀬松緑窯)
大和 松雁  (松雁窯)
大和 敏男  (敏男松緑窯)
大和 萬山  (萬山窯)
大和 義昌  (初瀬松緑窯)
山本 稔  (堀田窯)
吉岡 暁藏  (無□窯)
吉田 茂(弟子)  (玉隆山)
吉村 陶焔  (玉城窯)

[日本現代工芸所属]

片山 萩月  (桂泉山)
金子 信彦  (城山窯)
渋谷 泥詩  (御台場窯)
田中 秀男  (秀峰窯)
中村 松堂  (護国山)
中村 眞一  眞白山)
永岡 定夫  (郷川窯)
ニイルス・ペアティル・ペアソン (南明寺窯)
船崎 正舟  (正舟窯)
ペア・ライス・ハンセン  (ワイス窯)
増野 陶花  (増野陶花窯)
松尾 藻風  (唐華山)
松野 緑栄  (松龍山)
丸山 武  (野萩庵)
山本 京山  (人丸窯)
吉賀 大眉  (泉流山)
吉賀 将夫  (泉流山)

[日本工芸会所属]

大野 誠二  (記載なし)
大野 孝晴  (瑞峰窯)
岡田 裕  (岡田窯)
兼田 佳炎  (勝景庵)
兼田 昌尚  (天龍山)
兼田 三左衛門  (天龍山)
厚東 建信  (小萩窯)
坂倉 新兵衛  (坂倉新兵衛窯)
坂田 慶造  (坂田泥華窯)
坂田 泥華  (坂田泥華窯)
新庄 貞嗣  (新庄寒山窯)
田原 謙次  (田原陶兵衛工房)
田原 陶兵衛  (田原陶兵衛工房)
玉村 松月  (松月窯)
玉村 登陽  (松林庵)
波多野 善蔵  (指月窯)
三輪 栄造  (休雪窯)
三輪休雪  (休雪窯)
大和 保男  (保男窯)
大和 吉孝  (吉孝松緑窯)
脇本 定三  (勝坂窯)

[萩焼伝統陶芸家協会所属]

有田 昌之  (豊仙窯)
岩崎 峰昇  (萩陶山)
梅尾 行人  (行人庵)
大畑 白船  (行人庵)
岡野 松桂  (松桂山)
小高 正哉  (正峰窯)
土谷 一水  (唐瀧庵)
土谷 六郎右衛門  (唐瀧庵)
手銭 安行  (旭峰)
福富 秀八  (陶遊庵)

[日本新工芸家連盟所属]

金子 松延  (旭雲山)
斉藤 美明  (十朋窯)
俵田 徹士  (雲谷窯)
中村 昇龍  (長州窯)
西本 閑陽  (東光山)
野坂 康起  (玉悌山)
森島 一伸  (閑忙庵)
大和 信昭  (春信松緑窯)
大和 稔  (春信松緑窯)
 以上






●  「関連」して、「アクセス」していただきたい「ページ」 ─ 私の「ページ」の抜粋>氈@

この「ページ」は、[Google]・[Yahoo]において、[萩焼特徴]という「項目」が立てられ、
私の[index]としての萩焼 (はぎやき)が、1&ナ目〜32&ナ目 と移動するのに対して、
常時1&ナ目においていただいていることとて、
この「ページ」も、かなり≠フ「アクセス」をしていただいています。
そこで、「萩焼」理解していだくために、「関連」して、「アクセス」していただきたい「ページ」を「リンク」設定しておきます。

残念ながら、現在流布している「萩焼」の「歩み」は、
権威者≠ニされる=u執筆者」によって、一流≠ニされている=u出版社」から発行されている『書籍』「山口県立美術館」の『図録』等、
いずれも「問題がある」と思います。




事実≠踏まえた「萩焼の歴史」を! ─ 『山口県史』への期待 ─ 

「ホームページ」は、変更≠ェ容易なタメ、「資料」としては扱ってもらえない傾向≠ェある
ということですので、
『萩焼・戸田焼』という「出版」用にした「ページ」です。

幾つかの=u図書館」において、御覧頂けるハズです。
この「ページ」は、今後も、アップを継続しますので、
単に、「ホームページ」において、仮≠ノ述べられているということではなく
全国の権威者≠自称される方々に向けての「正式」の「提言」である
と思って、見ていただくことを御願いします。

─ 『山口県史』への期待 ─
としているのは、「美術館」関係者の権威≠謔閧焉A更に権威≠ェある『山口県史』において、「対応」していだくことを願ってのことだとすることで、
是非、『山口県史』において、「萩焼」を取り上げていただくことを願うとともに、
ここに述べることが、「歴史」を述べるせ「前提」として、事実≠語っている
ということをアピールしているつもりです。




    この『萩焼・戸田焼』においては、この「ページ」で紹介している
小山先生「古萩の歴史と特質」についても、私の「見解」によって、問題点を示しています。





↑ 小山先生にとっての「萩焼」へのイメージ ≠ェどのようなものであったかを知ることができるものです。
残念ながら、流布≠オているものは、この「一文」を誤読し、 「萩焼」のあゆみを誤って紹介しています。

   
三輪休和氏の「作品」」






これまで使わせていただいていた 「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、38206≠ナし たが、[平成23年2月18日午前9時]から、別≠フ「カウント」を使 わせていただくこととします。
従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります