平成19年10月2日 公開
平成20年10月8日 更新


● 『文化財保護法』の「無形文化財」の条文


[1]変な修飾語≠フついていた当初の「無形文化財」

 
 この、当初の「無形文化財」保護=選定には、事実≠ニして、変な修飾語(=衰亡の虞のある≠ニいう)がついていたことを知らない?執筆者も少なくないように思われます。しかし、このことは、忘れてはならない≠アとなのです。


『文化財要覧昭和二十六年版』(文化財保護委員会)
『文化財保護法』第四章 無形文化財

(助成)

第六十七條 無形文化財のうち特に価値の高いもので国が保護しなければ衰亡する虞のあるものについては、委員会は、その保存に当ることを適当と認める者に対し、補助金を交付し、又は資材のあつ旋その他適当な助成の措置を講じなければならない。


と書かれています。
  ↑ 『文化財要覧昭和二十六年版』(文化財保護委員会)の『文化財保護法』「第四章 無形文化財」を記した箇所

 このように、旧「無形文化財」の制度は、衰亡の虞≠ェなければ、つまり、助成≠オてもらわなければ、やめてしまいかねない≠ニいう状況≠ノあることを前提としなければ申請できないはずでした。




[2] 改正された「無形文化財」の制度


『文化財保護法』は、
第六十七條の前の「有形文化財に関する技術的指導」に関する「第六十六條」を含めて
第六十六条から第六十八条まで 削除≠ニ記され、
第四章 無形文化財≠ニいうのは、
『文化財保護法』
   第三章 有形文化財
    第一節 重要文化財
    第二節 重要文化財以外の有形文化財
   第三章の二 無形文化財
という箇所に移されて、次のように変更されています。

◆   『文化財保護法』  

第三章の二  無形文化財関係
                  (重要無形文化財の指定等)
第五十六条の三 委員会は、無形文化財のうち重要なものを重要無形文化財に指定することができる。
2 委員会は、前項の規定による指定をするに当つては、当該重要無形文化財の保持者を認定しなければならない。
3 第一項の規定による指定は、その旨を官報で告示するとともに、当該重要無形文化財の保持者として認定しようとする者に通知してする。
4 委員会は、第一項の規定による指定をした後においても、当該重要無形文化財の保持者として認定するに足りる者があると認めるときは、その者を保持者として追加認定することができる
5 前項の規定による追加認定には、第三項の規定を準用する。
(重要無形文化財の指定等の解除)
第五十六条の四 重要無形文化財が重要無形文化財としての価値を失つた場合その他特殊の事由があるときは、委員会は、重要無形文化財の指定を解除することができる。
2 保持者が心身の故障のため保持者として適当でなくなつたと認められる場合その他特殊の事由があるときは、委員会は、保持者の認定を解除することができる。
3 第一項の規定による指定の解除又は前項の規定による認定の解除は、その旨を官報で告示するとともに、当該重要無形文化財の保持者に通知してする。
4 保持者が死亡したときは、保持者の認定は解除されたものとし、保持者のすべてが死亡したときは、重要無形文化財の指定は解除されたものとする。この場合には、委員会は、その旨を官報で告示しなければならない。
(保持者の氏名変更等)
第五十六条の五 保持者が氏名若しくは住所を変更し、又は死亡したとき、その他委員会の定める事由があるときは、保持者又はその相続人は、委員会規則の定める事項を記載した書面をもつて、その事由の生じた日(保持者の死亡に係る場合は、相続人がその事実を知つた日)から十日以内に委員会に届け出なければならない。
(重要無形文化財の保存)
第五十六条の六 委員会は、重要無形文化財の保存のため必要があると認めるときは、重要無形文化財について自ら記録の作成、伝承者の養成その他その保存のため適当な措置を行い、又は保持者若しくは地方公共団体その他その保存に当ることを適当と認める者に対し、その保存に要する経費の一部を補助することができる。
2 前項の規定により補助金を交付する場合には、第三十五条第二項及び第三項の規定を準用する。
(重要無形文化財の公開)
第五十六条の七 委員会は、重要無形文化財の保存者に対し重要無形文化財の公開を、重要無形文化財の記録の所有者保持者に対しその公開を勧告することができる。
2 重要無形文化財の保持者又は重要無形文化財の記録の所有者から、重要無形文化財又は重要無形文化財の記録を国庫の費用負担において公開したい旨の申出があつた場合には、第五十一条第七項の規定を準用する。
3 前項の規定により公開したことに起因して当該重要無形文化財の記録が滅失し、又はき損した場合には、第五十二条の規定を準用する。
(重要無形文化財の保存に関する助言又は勧告)
第五十六条の八 委員会は、重要無形文化財の保存者又は地方公共団体その他その保存に当ることを適当と認める者に対し、重要無形文化財の保存のため必要な助言又は勧告をすることができる。
(重要無形文化財以外の無形文化財の記録の作成等)
第五十六条の九 委員会は、重要無形文化財以外の無形文化財のうち特に必要のあるものを選択して、自らその記録を作成し、保存し、若しくは公開し、又は適当な者に対し、当該無形文化財の公開若しくはその記録の作成、保存若しくは公開に要する費用の一部を補助することができる。
2 前項の規定により補助金を交付する場合には、第三十五条第二項及び第三項の規定を準用する。

 なお、続きは、第三章の三  民俗資料
(重要民俗資料の指定)≠ニなっています。



なお、「文化財保護法の一部改正について」という「昭和29年6月22日文委企第五十号=文化財保護委員会事務局長から各都道府県教育長あて通達」において、改正の意図が説明されています。
 

従来の無形文化財に関する取扱いは、価値の高いもので国が保護しなければ衰亡するおそれのあるものについて、助成の措置を講ずべきものとされていたのであるから、国が保護しなければ衰亡するおそれのあるものでない限りは、価値は高くとも助成の措置を講ずることができないこととなつていたのであるが、今回の改正により、価値の観点からのみ指定する制度をとり、保護については、その状況に応じて助成措置を講ずるものとしたのである。



(参考) 「次」の「リンク」を御覧ください。

中ノ堂一信氏による[技の継承=重要無形文化財の保持者たち]
   ↑ 中ノ堂氏から、手渡しで「コピー」をいただいたものです。

対談 重要無形文化財指定の頃を語る
↑ 杉原信彦氏と林屋晴三氏の対談です。
中ノ堂氏が上の執筆をされる際に、「参考文献」として掲げられているものです。
杉原氏は、この制度の発足当初から係わられた方です。私が調査した時も、何人もの方から「杉原さんが生きておられたらなぁ」と言われたものですが、 この「対談」を手にすることができたのは、次のような経過≠ェあります。

 私が、「朝日新聞東京本社」を訪れた時のことです。イメージ≠ニはまるで違い、ものものしく、多数のガードマンが取り囲む中、「受付」で、「学芸部の白石氏に、見てもらいたい物があるので会いたいのですが」と申し込むと、電話された後、「白石は不在です。要件は。」と聞かれ、事情を話すと、「広報課」(当時は「部」ではありませんでした)の人を呼んでくれました。
ところが、この人は、まったく事態が理解できず、途中で逃げ出す始末。
私としてもわざわざ上京したわけですから、そのままにはできません。「受付」の前で、突っ立っての対応でしたから、私は、受付の女性に、「今の人は何という人なんですか」と言い、あんな人が相手では困るというと、気の毒がって、「川原」という人物であることを教えてくれるとともに、再度、「学芸部」に電話してくれました。

そして出てこられたのが、虻川宏倫という方でした。極めて紳士的な人で、名刺を出され、別室に案内して、話を聞いてもらえました。
虻川氏は、「全国版」に、署名入りで「文化記事」を書いていたことを知っていましたので、心弾む思いでした。
虻川氏は、私の話を一通り聞くと、「十数年前の記事が違っていたと、今になって書くことはできないと思います。あなたが直接、なんらかの形で発表されるのが適当ではないですか。」と言われ、「せっかく東京まで来られたことですので、あなたの言われたことに詳しい中ノ堂といわれる方を紹介してあげましょう。」と言ってくださったのです。
私は、虻川氏に迷惑をかけてはと思い、「中ノ堂氏に、私が直接、要件を話し、会えないようでしたらお願いします」といって、電話をしました。
中ノ堂氏は、虻川氏の名前を出すまでもなく、あってもいいとおっしゃったのですが、実は、とても忙しい最中で、私が「近代美術館」を訪れると、仕事を中断されて来られて、「これを読んでみてください。今は、じっくり話をきいてあげられる時間がとれませんので。」とおっしゃって既に用意されていた上記の「コピー」を渡してくださったのです。

ただ、5分間は時間を取っていただき、私が一番確かめたかったこと=「小山先生は、私の父に、気の毒でも腕一本動かなくなって、技が発揮できなくなったら、重要無形文化財の認定は返上してもらうとおっしゃっていた≠ニいうのですが、どうもそうでないように思えるのですが=vというと、
「そのことは、法の条文の中に書いてあり、実際にそうした例はいままでないけれど、理念≠ニしては今も生きています。」と明快に答えてくださったのです。
虻川氏と中ノ堂氏にお会いできたことで、東京まででかけたかいがあったと、うれしかったものです。

「対談 重要無形文化財指定の頃を語る」を見たいと思い、あちこちあたりましたが、なにせ、『現代日本の陶芸』そのものではなく、第三巻の「月報」として、挟み込まれたものです。なかなかみつかりませんでした。 そして、「岡山県立図書館」にあることがわかり、お世話になったのです。





[3] 旧「無形文化財」制度における事実≠ニしての「各県」・「各陶工・陶芸家」の対応の違い


[3]−(1) 「山口県」は「申請」せず

 「山口県」の対応、それは、当時としては、上司の指示を仰ぎながらではありますが、「父=英男」の動きがそうであったのです。
 「山口県」は、衰亡の虞≠ェあるという修飾語≠素直≠ノ受け取り、「申請」を見送りました
 常識的に言って、この「制度」の対象とするのは、bP≠フ陶工・陶芸家であって、「萩焼」から申請するとしたら、その当時は、「坂倉新兵衛」氏であったのですが、英男は、衰亡の虞≠ニいう条件ゆえに、「茶陶=萩焼」のイメージの問題もあり、それに、英男の生活感覚(母と妻、子供5人)からして、新兵衛氏が貧しく、保護の手を加えねば衰亡する≠ニはとても思えませんでした
今日の、一つの「抹茶茶碗」を買おうとしても、平均的なサラリーマンの年収の全額≠もってしても不可能というような恵まれた¥況と比較すれば、決して、豊かであったとは言えません。
 それに、戦時中≠頂点に、恵まれない状況≠ノあったのは、事実≠ナす。
 しかし、戦後も、かなり経ったこの頃には、最悪期≠ヘ、脱しておられました。
 当時の認識≠ナは、12代坂倉新兵衛氏は、助成≠ェ得られなければ、投げ出す≠ニいうような状況ではなかったのです。

父の残した、手元の「資料」からしても、三輪休和氏の場合は、昭和二○年には二月の一回だけだった窯焚きが、翌二一年からは年二回のペースとなり、昭和二六年からは、年三回のペースになったということがわかります。
需要が徐々に増してきていた=「最悪期」は脱していた≠ニいう「証拠」といってよいのではないでしょうか。
 
英男は、当面、「他の県の出方をみる」ことにし、上司の方とも相談の上、申請しませんでした。
新兵衛氏からも、「申請」をしてほしいという希望はなかったといいます。
 
[3]−(2) おもしろい動きを示した「佐賀県」

私は、「佐賀県」が、この旧「無形文化財」制度において、おもしろい動きをしたと思っています。
「佐賀県」は、「12代今泉今右衛門」氏を「申請」しているのですが、「12代酒井田柿右衛門」氏・「中里無庵(当時は12代太郎右衛門)」氏の申請は見送っている≠ゥらです。
今右衛門氏だけが貧しかった≠ゥら、申請したのでしょうか
担当した「永竹威」氏に聞けばよいのですが、既に亡くなられており、遺族の方に、あるいはと思って電話しましたが、その間の事情は、家族は一切知らないとのことでした。
中里家の現当主の方は、「父(=無庵氏)はそういう制度のあることを知らなかったと思う」と言われました。 
今泉氏は、ことがことだけに、聞き方に注意する必要があり、私の「調査の意図」の理解なくしては、とても協力を依頼しかねたので、平成12年8月9日(土)、家族旅行としての「ハウステンボス」からの帰りを利用して、今泉氏の自宅の展示室を訪問し、その時、顔を合わせながら、お尋ねすることをしなかったのですが、その後まもなく、亡くなられ(平成13年10月13日)、聞く機会を永遠に逸しました。
14代柿右衛門氏には、「ΝΗΚラジオ」で、数夜に亘るインタビュー番組があり、印象的には、協力してもらえそうで、何度も電話をし、手紙も送ったのですが、間にいつも「I氏」がおられ、直接、お目にかかるどころか、電話での話すらできず、さらには、「手紙」の「返事」ももらえぬまま、結果的に、あしらわれた′`で終わっていましたが、今右衛門氏の展示室を訪問した後、そう遠くないこととて、柿右衛門氏の「展示室」も訪れたのですが、「12代の解説」の中に
 没後ではあったが、その功績を称えて国の「重要無形文化財」の総合指定を受ける事ができました。
と書かれているのを見て、この程度の知識しかないのなら、無理をして接触しても無駄だと判断しました。 なぜなら、後にも触れるように、「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」の制度は、現在進行形≠フ技≠ノ対するものであって、腕がきかなくなったら、気の毒だが指定解除する≠ニいう厳しい≠烽フであって、亡くなった陶芸家に、追贈≠キることなどはありえぬことだからです。
 事実≠ニしても、「12代」は「重要無形文化財(総合指定)」になる前に、亡くなっておられます。
なお、柿右衛門氏への電話の記録、手紙の控えはすべて取ってあります。もし、この記述に反論があるようでしたら、いつでも受けてたつつもりです。なお、その後、私の留守の時でしたが、「説明」をしかえたいう電話がI氏からあったそうです。

 ただ、「12代」は、「記録選択」に終わったとはいえ、実力%Iには、十分「人間国宝」の資格≠ヘあったと思います。
 昭和59年『伝統工芸30年の歩み』展に「朝日新聞西部本社企画部」の発行した『図録』では、「重要無形文化財保持者」として作品が紹介されています
『図録』では、「重要無形文化財保持者」として作品の掲載よりも前≠ノ、「受賞者」の作品が並べられており、「賞」が設けられた最初の「第2回日本伝統工芸展」での授賞に続き、同じ人にいくのは避けたい≠ニいう審査員の意向がありながらも、「第4回日本伝統工芸展」でも賞を受けておられるのですから、そちらの方で紹介すればなんということはなかったのに、わざわざ
「重要無形文化財保持者」として作品を紹介しているのですから困ったものです。
(もっとも、ごくごく小さい訂正の紙切れが入ってはいましたが、『図録』を購入した人も気づかないくらいの訂正≠ナあり、その後、『図録』だけを資料≠ニして見られる人も、おそらく、多くは、「重要無形文化財」として認識すると思います。)
 私は、「人間国宝」として認定された「13代」・「14代」に比して、劣っているとは思いません。当時の狭かった枠≠フゆえに、「12代」は、「記録選択」に留まり、「人間国宝」になれなかっただけだと思っています。(「プール」ということ)

なお、(総合指定)「人間国宝」ではないとする扱い≠することが少なからずありますが、私は、(保持団体)としての「認定」と違い、(総合指定)=12代今泉今右衛門・13代酒井田柿右衛門の両氏の場合は、「人間国宝」としてよいと思っています。
 


● (参考)   [柿右衛門氏の授賞について]  「日本工芸会報 bP0」より


「鑑査員の所感」 の中の小山先生の箇所(3頁目)


・・・一般的にいつて昨年にくらべて遥かに低調である。これはひとり私ばかりでなく、鑑査にたづさわつた者が等しく感じたことである。浜田さんから君がだらしないからだとしかられたが、たしかに会に中心となる大きな推進力がかけていることは反省すべきであろう。もしこの調子で年々作風が低下するものとしたら、やがて日本工芸会も解散せざるを得なくなるだろう。しかし、個々の作品についていえば、昨年にくらべ、一層の努力と研究のあとのありありとあらわれたいるものもある。例えば再び賞をもらった柿右工門の蓋物、今泉今右工門の八角大皿、藤原啓の壺、水指、萩の坂倉新兵衛三輪休雪の茶碗、清水卯一の壷など、昨年にくらべていいと思った。殊に柿右工門のこんどの蓋物は、初代以来代々の柿右工門にもかって見ない作と評してもいい。然し柿右工門にまた賞がゆくのは会の方針として適当でないという声もきいた。どこまでも会を若々しくのばしてゆくのには若い作家の清新な作品に賞を与えるべきだという意見であろう。たしかにこれも一理だが、無記名投票で授賞の選衡を行った結果は再び柿右工門が授賞という結果になった。・・・・ 

(衛≠ェヱ≠ネいしエ≠ナなく、工≠ノなっているほか、っ≠ェつ≠ニっ≠ノ混同している、壷≠ニ壺≠ニが併用されているなど、印刷に問題があります。私としては、ママ≠ノ記したつもりです。)



「佐賀県」が、この衰亡の虞≠ェあるという条件≠、どう受け取っておられたのか、結局はわからぬまま≠ナす。
 
 
[4] 事実≠ニしての旧「無形文化財」の人たち

 旧「無形文化財」の「助成の措置を講ずべき無形文化財一覧」という記事が『文化財要覧 昭和二十六年版』〈文化財保護委員会発行〉にあり、その中の「二 工芸技術関係 →Β 個人、組織、地域的に有する技術の中助成の措置を講ずべきもの」として、190ページに掲載されています。
 それによると、」、「荒川豊蔵」、「石黒宗麿」、「金重陶陽」、「加藤唐九郎」、「加藤土師萌」、「宇野宗太郎」の6人が[昭和27年3月選定]ということになります。
 翌年の『文化財要覧 昭和二十七年版』では、57ページ・58ページに「工芸技術関係」として、「徳田八十吉」、「今泉今右衛門」の2氏が加わって、計8人になっています。
 
 こうした方々が、国から助成≠オてもらえないと衰亡の虞≠ゥある陶工・陶芸家でしたでしょうか。
 例えば「富本憲吉」氏の場合です。
 
 朝日新聞社刊『小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁』の「富本憲吉氏のこと〈394頁〉において、
昭和五、六年ごろ=A貧書生≠フ小山先生に「君五十銭貸してくれたまえ」といわれたことがある≠ニいうこと、
また、「石黒宗麿・人と作品」の中の「石黒さんの思い出と逸話」の中〈364頁7行目〜〉で、
 石黒さんは生涯貧乏のどん底を悠々と闊歩してきた人だが、八瀬のあばらやで何とか恰好がついてのは、重要無形文化財の保持者に認定された昭和三十年ころからである。これは富本憲吉、濱田庄司、荒川豊蔵、金重陶陽さんなど皆同じで、それまではくらしがたたなかったようである
という記述があり、それをもとに、「休和物語」の疾風怒濤=q161頁〉で、
 休和と同時代のこれらの陶芸家は、昭和三十年(一九五五)か三十一年に、人間国宝(重要無形文化財)に認定されるまで、「みんなくらしがたたなかったようである。」(小山冨士夫『日本の陶磁』)
と書いており、さらに地の文≠ノおいて、
  富本にも五十銭の電車賃にすら事欠く時代があった。
と書いています。
 
 私どもの尊敬する小山先生の文とはいえ、この件に関する限りは疑問があります。
 私は、小山先生のようであるという書き方に注目します。
 
  石黒宗麿氏の場合は、俳優の勝新太郎氏や藤山寛美氏に借金≠ェ多くあったから貧しかった≠ニいえるかどうかと似たような点があるし、
 なによりも、「富本」氏の場合は、『現代日本の陶芸 第3巻』 「月報 6」の「対談 重要無形文化財指定のころを語る」において、「前東京国立近代美術館工芸課長 杉原信彦」氏と「東京国立博物館主任研究官 林屋晴三」氏とが、
林屋その時選定されていた方々は、焼物では志野、瀬戸黒ということで荒川豊蔵さん、天目釉ということで石黒宗麿さん、織部ということで加藤唐九郎さん、備前焼で金重陶陽さん、それだけですか?まだ富本憲吉さんとか・・・。
杉原富本さんは入っていませんね。国で保護しなくても衰亡の恐れがないから。・・   ・
とあります。
要するに、貧しい≠ゥ否かは、主観的なものだということでしょう。   

どのように「申請」されたのかはわかりませんが、当然、助成が必要≠ニいう形で「申請」されたでしょうから、小山先生もようであると書かれざるをえなかったのではないでしょうか。
 
[5]  改正≠ウれた「無形文化財」
 
 「山口県の関係者」は、現実としての=u無形文化財」の認定者を知って、困惑しました。 
 しかし、こうした矛盾をはらんで出発した「無形文化財」の現実≠前に、当然のようにこの条件≠ノは疑問≠ェ呈されました
 
杉原:最初に申しあげたように、特に価値が高いものであると同時に、国が保護しなければ衰亡の恐れのあるものという条件があるでしょう。だから非常に立派なものでも、いい仕事をしているものでも、国が保護しなけりゃ、衰亡の恐れがなけりゃ手がつけられなくなってしまう。だからどうも選定する時にギクシャクギクシャクするのと、仕事上消極的になるわけですね。で、おかしいじゃないかという声が、部内にも専門委員の先生にも起こったわけです。それで保護法を改正すべきだという建議があって、昭和二九年の五月に保護法が改正になるんです。それで指定制度をとるわけです。
              (「対談 重要無形文化財指定のころを語る」)

つまり、「文化財保護委員会」(「文化庁」の前身)は、
有形文化財の場合と同様、もっぱら価値の観点から重要無形文化財を指定し、補助するかどうかはその必要の状況に応ずることとした
        (『無形文化財要覧上』〈文化庁監修 芸艸堂発行昭和49年9月)
のです。
同時に、「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」という「無形文化財」も設けられました。

ここから、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」制度が歩みをはじめたのです。