平成19年10月25日 公開
平成21年2月15日 更新


●山口県指定文化財保存顕彰規程
再考「顕彰規程≠フ誕生・運用そして廃止後の元指定文化財」         
                             河 野 俊 乎    
 


この文は、「投稿」する前に、父=英男と一緒に仕事をし、
英男の後継としての仕事をされた
「兼清正徳」氏(後、「山口県文書館長・大学教授」を歴任)
「臼杵華臣」氏(後、「山口県立博物館長」)
に目を通していただき、一部修正の上で「発表」しています。

一 はじめに
                  
 
 私「河野俊乎」、昭和二〇(一九四五)年九月二五日生まれ、父「英男」、明治四三(一九一〇)年一一月一九日生まれ、そして長男「俊一郎」、昭和五五(一九八〇)年三月一〇日生まれ−このように、「私と父」・「私と長男」との年齢関係が類似しているということから、私は長男の発達段階と自分のそれとを重ね、断片的とはいえ、私の「幼・少年時代の記憶=vを呼び起こすことが多い。
 私の「幼・少年時代」、父は「山口県教育庁の社会教育課」(「文化課」は後に分離独立したもの)の一員であり、主として、「文化財」関係の仕事をしていた。 そして、当時としては、「家族」も無縁ではありえなかったのである。
 「電話」がまだ一般的でなく、郵便物に日数のかかっていた当時は、私が使い走りをしていたし、私どもの住む防府の「三田尻」駅(現「防府」駅)は、「中央の文化財関 係者」の山口県への玄関であった。駅まで出迎え、仕事前の一時を、疲れをいやしていただくべく、我が家に招いたことも少なくない。重要文化財クラスの仏像が、修理の前後、我が家に立ち寄られたことも何度かある。(当時は、仏師の懐に抱かれて、修理の旅に出られることがままあった。)

 父=英男が「文化係長」に任じていただいた頃。
 母が突然の病気で入院、手術とあって、日程的に休みもとれず、やむなく、「職場」に連れて行かれた時の私と父の「写真」です。
 「山口県立図書館」の児童用図書の部屋で本を読んで待っていて、父の仕事に区切りがついた夕刻、帰る際に、そこにいあわせた方が、たまたま勤務後、どこかに行かれるつもりで「写真機」(当時は、高級品で、個人で持っておられる方はあまりなかったと思います。)を持ってきておられたことで、撮っていただいたものです。

 この時から8年間、父は「文化財」の担当を主としてしていました。私でいえば、小学校卒業の時までです。


  〈この「写真」は、『山口県地方史研究』には、当然、載せていません。〉

 それに、父は「土井ケ浜遺跡」に多少のかかわりをもっていたし、借りていた家を、家主の希望で、そのまま購入 してみれば、「野村望東尼終焉の家」であった。
 天然記念物「日本鶏黒柏」も、祖母「ツチ」が飼育し、 私「俊乎」の名で、「日本鶏展覧会全国大会」に出展、入賞し、昭和三一年四月の「第七回国土緑化大会」に御臨席のため行幸啓された天皇・皇后両陛下に天覧・台覧いただいている。(『続防府市史』の「俊子」は誤植)
 萩焼の「人間国宝」への第一歩がどのようであったかも、私の記憶の中にあるし、窯元の多くにも、面識がある。
 そうした私が、「オヤッ?」「ドウナッテルンダ!」と思わせられるマスコミ報道が少なからずあることに気づいたのは、随分前のことである。
 私の記憶との相違を糸口に、資料を捜し求め、関係した方々に記憶を呼び戻していただいて、事実関係を確かめた。無論、私自身、その事柄を「理解するため」に、必要な最小限度の勉強もしたつもりでいる。 
 そして、マスコミに対し、「これが事実だ」と、誤りを指摘し、ある場合には、「訂正」を求めてみたが、取材した人物名や、報道の根拠となった『文献』を示され、その取材源≠フ不適切であったことを認めることはあっても、「情報提供者ないし、『文献』の問題であって、責任を云々される覚えはない」とつっぱねられるか、「次の機会には正しく書きましょう」と、体よくあしらわれる(「担当者」の転勤等で、正されないままになる)のが常であった。
 偶然の機会に、この『山口県地方史研究』がこうした文化財≠ノかかわる発表をも対象としていることを知り、かつ、「索引」まで作って、一回限りのものではなく、長く、問題を提起し続けるよう配慮されていることを知った。
 今回は、『山口県指定文化財保存顕彰規程』(以下、『顕彰規程』と略記)について述べてみたい。今後予定している幾つかの『小稿』の基礎ともいえるものである。
 

二 問題点の確認

 
[1] 山口県の歴史≠語った権威あるはずのものの中にも、「国段階」の文化財保護の歴史が正確でないものがある ことで伺えるように、

[2] 山口県独自の文化財保護≠フ歴史が、昭和四十年代に始まるかのように錯覚しかねない『文献』や、『顕彰規程』の実態≠誤解した『文献』が多い。
[3] ましてや、『顕彰規程』の下の指定文化財に言及した昭和三十年代の『文献』、あるいは、物件そばの石柱=i山口県指定文化財保存顕彰規程により何年何月何日何に指定≠ニ刻まれている)の根拠を説明する適当な『文献』は見あたらないように思える。
[4] 中央の先生方の善意や、文化財保護に関する篤志家≠フ努力(当時は、戦争という混乱期を経ていることとて、破損、腐朽の度が大きい物件が多く、「国指定」にしろ、「顕彰規程での指定」を目指すにせよ、先生方が修理をすることを前提とするよう、指導・助言される物件が比較的多く、申請を期に、修理費用の工面をしていただくということも事実の問題としてあった)を知りながら、そのことに触れられない現状を放っておくことは、私には忍びない。
 [5] 併せて、『旧法』時代の「国指定文化財」の指定年月日の表記が父らの担当した時代と異なってきているので、そのことについても、言及しておきたい。

「写真」は、「野村望東尼終焉の宅」という「指定」を示す石柱ですが、ここには今日に至るも、山口県指定文化財保存顕彰規程により昭和三十年一月二十五日史跡に指定という文字が「写真」の右側に彫り込まれたままで立っています。 
また、「萩焼」の「人間国宝」=三輪休和氏の紹介には必ず書かれている県指定も、「顕彰規程」のもとでの、昭和31年8月ですから、昭和40年7月以前が説明されていない現状はまずいと思います。
その具体例≠ニして、こんな一流新聞社≠フちぐはぐな「記事」もあるのですから。
 

三 文化財保護の歴史の概観

 カルチャーショックによる文化財受難の歴史が幾度かあったとはいえわが国では、古来、家宝≠ニして、社寺の宝物≠ニして、あるいは、名所・名勝≠ニして、文化遺産≠ヘ、おおむね、保護・管理されてきた。
 明治以降、「国」が文化財を保護しようとしてきた細かな「法規」の変遷は、今は置くとして、専門家による「文化財保護行政の沿革」という『文化財要覧 昭和二十六年版』〈文化財保護委員会〉(以下、『要覧』と略記)の記述をもとに、ここでは、ごく大づかみに図表で示しておこう。


 ↑ 「国としての保護」の「文化財保護法」への経路=@ 『山口県地方史研究 第70号』〈48頁下段〉

★ 『旧法』との関係〈法令廃止に伴う経過規定〉

 『国宝保存法』の「附則」によると、古社寺保存法ニ依リテ特別保護建造物又ハ国宝ノ資格アルモノト定メラレタル物件ハ之ヲ本法ニ依リテ国宝トシテ指定セラレタル物件ト看做スとある。また、                 
 『文化財保護法』(以下、『保護法』と略記)
 第百十五條によると、この法律施行前に行つた国宝保存法第一條の規定による国宝の指定は、第二十七條第一項の規定による重要文化財の指定みなし、同法第三條又は第四條の規定による許可は、第四十三條又は第四十四條の規定による許可とみなす≠ニあり、また、
 第百十七條によると、この法律施行前に行つた史跡名勝天然記念物保存法第一條第一項の規定による指定は第六十九條第一項の規定による指定、同法第一條第二項の規定による仮指定は、第七十條第一項の規定による仮指定とみなし、同法第三條の規定による許可は、第八十條第一項の規定による許可とみなす。℃|の記述がある。
 従って、『保護法』の指示に従えば、『文化財保護法の施行期日を定める政令』によって、既指定文化財≠フ指定年月日=i以下、指定日と略記)は、すべて昭和二十五年八月二十九日≠ニなるはずである

 ただ、「史跡名勝天然記念物」は、




























「特別≠ェ新たに設けられ、ごく少数の物件が格上げされただけで、他はほとんど変わっておらず、『旧法』での指定年月日をそのまま用いた方が、実質的(斎藤忠氏に伺ったこと)なため、全国的にそうされたが、
「有形文化財」についての重要文化財≠ニいう名称は『保護法』でのものであり、国宝≠ニいう名称も、保存法による国宝¢Sてをいったん、重要文化財≠ノした上で、後日、厳選の上、ごく少数の物件にのみ用いられている名称で、以前の国宝≠ニは質的に異なっている。

 従って、山口県では、重要文化財≠フ指定日を、当初は規定通り、昭和二十五年八月二十九日≠ノしていた
(ただ、『旧法』による指定日を付記することが望ましいのはいうまでもないが。)

 しかし、いつの頃からかはっきりしないが、山口県では、「有形文化財」についても、『旧法』による指定日をそのまま記載するようになってきているように思える。

 ひろく県民の皆さんの認識と理解を深めていただくための普及版≠ナある『山口県の文化財』〈昭和四三年一二月〉では、従来の父らの担当していた当時の方針が踏襲されているが、その改訂版ともいうべき昭和五四年三月の『山口県文化財総覧』においては、凡例」でこそ、指定年月日については、昭和二五年の文化財保護法の制定に伴ない、有形文化財について国宝と重要文化財の選別が行なわれたため、国宝から重要文化財へ指定変更が行われたものは変更告示のあった昭和二五年八月二九日で示し、その下に括弧で旧国宝と添記した。≠ニ、疑問のある表現を含んではいるものの、ほぼ、従来の方針を掲げているが、執筆者の考えに相違があってか、重要文化財≠ノついては、「凡例」通りの記載以外に、「建造物」の項において、『旧法』の指定日だけを記載(8件)、『保護法』の施行期日≠フみを記載(1件)としている。

 なお、旧法の国宝≠ニ保護法の国宝≠ヘ質的に違うはずなのに、この『総覧』に限らず、『山口県文化財要録』・『山口県文化財一覧(毎年発刊)』等、ある箇所では、旧国宝≠フ、他では新国宝≠フ指定日を記載している。父らのやり方に固執する必要は全くないが、一定の方針に従うことが必要だと思う。「凡例」での明示と、統一された記載年月日をお願いしたい。              
 (なお、重要美術品については当分の間、なおその効力を有する旨の記述が『保護法』にある。)

四 『保護法』の制定と山口県

   ★ 『保護条例』制定への「文化財保護委員会」からの要請


 『要覧』によると、『保護法』はその基本構想として
 (一)保護対策範囲の拡大 従前より保護されていた国宝や史跡名勝天然記念物のほかに、あらたに無形文化財埋蔵文化財を保護対象として採り入れた。
 (二)行政機構の整備と中央地方の協力 文化財保護行政の妙味ある運用とその徹底を期するため文化行政にふさわしい機関と地方公共団体の協力の必要を認め、文化財保護委員会を新設するとともに地方公共団体に対する相当広範囲の権限委任を行つた。
 (三)文化財の重点的保護 従前の文化財保護行政の混乱は、保護対象の多すぎたことにもその一半の原因のあることを認め、将来の保護文化財は国力とにらみあわせ、厳選主義をとることとし、また従前の国宝を国宝および重要文化財に史跡名勝天然記念物を特別史跡名勝天然記念物および史跡名勝天然記念物の二段階に分けて、国宝と特別史跡名勝天然記念物の保護を優先的に行うこととした。
といった点を掲げており、さらには、「各都道府県における文化財保護の現況」の章の「東京都」に昭和二十六年、文化財保護委員会の指示により、条例を立案≠ニか、「福井県」に先般文化財保護委員会から県條例の準則を示されたので≠ノ見られる如く、『条例』制定は、文化財保護委員会の要請であったのである。当然、山口県もそれに対応し、準備を進めた。
 『要覧』の山口県の項には、昭和廿七年度において県条例を以て制定の予定≠ニ明記されているのである。

























































 ↑ 『文化財要覧 昭和二十六年度』「山口県」についての記述〈148頁下段〉と「宮城県」の項〈142頁上段〉

     ★ 日の目をみなかった山口県≠フ『保護条例』

 『要覧』の「宮城県」の項に、
本県においては保護条例はいまだ出来ていない。今その案について慎重考究中である。その難点の重な点は次の如きものである。≠ニして、指定物件を保存するための県費補助の裏附が絶対に必要のであるが、県財政上これは困難とされている点である。≠はじめ、幾つかの問題点が記述されている。
 山口県の場合は、この「県の財政事情」が、その制定を阻んだ大きな理由であった(と父は明言した)
 当時の教育長を追悼した『野村幸祐伝』にも見られるが、昭和二四年のデラ台風=A翌二五年のキジヤ台風≠ウらに二六年のルース台風≠ニ、平成三年の「一九号台風」並の大型台風に相次いで見舞われた山口県は、多数の人命を失うという悲しみに加えて、経済的にも莫大な被害を被り、地方財政は枯渇に瀕していた≠ニいう。
 キジヤ台風≠ナ失った「錦帯橋」の再建にだけでも、国庫補助金の他、一千万円の県費補助金を支出して修理『要覧』)したのみならず、台風被害以外にも、腐朽甚だしかった文化財修理への県負担の費用も大きく、更にまた、負担増の予想される県指定文化財≠ヘ、敬遠され、県会での成立の目途がたたなかったのだという(父)。
 なお、山口県が、他県に比し、既に、国段階の指定文化財を多く持っていたことも、一因であろうと私は想像する。
 

五 ピンチヒッターとしての『顕彰規程』

 みなし規定≠ノよって、相当数を「国指定」の文化財として出発した『保護法』による文化財行政ではあるが、「こういう条件にあてはまっておれば指定する≠ニいった絶対的な指定基準はない。できるだけ多く指定して、後世に残したいという気持ちはあっても、そういうわけにはいかないので、大事な物件から指定ということもある。従って、物件の中には、候補として、プールされておかれることにならざるを得ないものがある。」(藤島亥治郎氏に伺ったこと)という実状にあったため、
山口県の申請物件も、あのお宅は山口県としてはたしかに貴重ですが、民家の価値は全国的に見てよほど慎重にせねばならぬ事情があり、そのために遅れ勝ちとなるのは止むを得ないことです。∞あんなにひどくいたんではそのままにするわけにはいかないかも知れませんが、こはしてしまふといふようなことは暫らくなさいませんで、今少し御配慮願へないでせうか。失ってしまふには惜しいところが充分にあります。∞蛇の生殺しのような御返事ですが、そのように御処理のことよろしく御願致します。とりあへず県で指定されるのも一法なのですが。%凵A「国指定」を目指す物件にも、「県での指定」を考慮するようにとの助言が幾つも寄せられた。(但し、直接「国指定」になった文化財の方が、現時点でも多い。)
 『保護条例』が無理であれば、それに代わる次善の策≠考えようとして、山口県でとられた方法が「教育委員会」による『顕彰規程』(昭和二十九年二月)であった(と父はいった。なお、他県にも似た例はあったという。)。

六 『顕彰規程』での指定

 
〈「顕彰規程」施行当時の仕組み〉 『山口県地方史研究 第70号』〈51頁下段〉

 
★ 「学識経験者」の指導・助言はあった!

 確かに『顕彰規程』に、学識経験者の意見を聞く条項や補助金の条項は明記されていなかった≠フは事実であるが、明記≠ウれていなかったということと、実際の運用≠ェどのようになされていたかということは別のはずである。このことを誤解している=w文献』が多いように思う。
 『保護条例』の制定に伴い、『顕彰規程』当時の文化財をみなおす会議の一つ、「昭和四一年一二月七日」分に添付の資料(「諮問教社第7号」)のうち、
 萩焼の三輪休和(当時は十代休雪)氏についての場合、
昭和31年文化財保護委員会小山士夫技官による萩焼全般についての詳細な調査の結果、坂倉新兵衛(12代)三輪休雪の二窯が県指定無形文化財指定候補に推され、昭和31年8月25日旧保存顕彰規程による指定を受けた。
とあるのは、『顕彰規程』の当時、中央の権威者の指導・助言を仰いでいたことを示す公的な¥リ拠だし、はたまた、「萩焼」の「重要無形文化財」指定・12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏の「保持者(人間国宝)」認定を、直接求めたのに対し、「県指定を先にしておくよう」小山氏が指示された書簡があることも、この制度の典型的な運用≠フ様を示しているのである。(なお、「県条例」制定時には、12代坂倉新兵衛氏は、既に亡くなっておられたし、昭和31年の「指定」の際の、萩焼全般についての詳細な調査の結果≠ニあるのは、父=英男作成の資料を踏まえられてものであり、直接的に、すべてを調査されたのは、12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏のお二人のみです。)
 さらに、財政的な補助の面においても、まったくなかったかというと、皆無ではなかったし、「県指定」であることが、市町村からの補助や寄付等に好影響があったという。
 
★ 指定文化財の実際

 無論、『顕彰規程』を制定する以上、「国指定」だけを考えたわけではなく、「県段階」での保存・保護をすべきものを考えたわけで、数が揃った段階で見直す≠ニいう委員会での含み≠フもと、担当者の腹案≠謔閨Aやや広めに指定されていった(と父は、明言していた)
 「仏像」を例にとろう。『保護条例』の下、第一回の審議会で再指定≠ウれた中にも、中央の先生方からの書簡で、作は地方作ではなく稀に見る優秀なものでこのことは単に彫刻からだけでもいへようと思ひます。∞従って県宝としての指定はためろうことなく速かにされる方が望ましいことであり急務であるとさへ思ひます。(松原正業技官)と述べられ、重要文化財指定への尽力もしてくださったものの、結局、実現しなかった重要文化財¢鞄魔フ「仏像」があるかと思えば、あの地方としては一応大事にすべきものでしょう。(倉田文作技官の書簡)というアドバイスに留まっている「仏像」まで幅があったのである。
 さらに、『保護条例』の下で見直され=A再指定を却下された「仏像」も別に存在しているのである。
 
★ 善意に支えられての仕組みであったこと

 御県のモットーである中央のものを充分に利用することは当然ことで大いに御手伝申しませう。又させて頂くことも有難いんですがあまりコクシしないで下さい。∞東京を十三時に出発(この前に電車内約一時間を必要とします。)汽車内十八時間二十八分の後しゃべったり、調査したり・・・・・・∞デ結論官吏の出張には特二に乗ることは規定外ですが、もし前夜ねむれなかったりしては大いにこまりますから、規定外なれど出張旅費中特二だけは奮発して下さい 山口県の財布をしぼって(寝台とは申しません(H技官の書簡=昭和二九年六月)

 この「手紙」に見られるように、当時≠ヘ、中央からの権威者をお招きするにも、十分なことをしてあげられるような状況ではなかったのです。
 

七 『顕彰規程』からみた『保護条例』との関係

    昭和二九年二月九日=『顕彰規程』制定・施行
    昭和四〇年七月一日=『保護条例』施行
    昭和四〇年七月一三日=『顕彰規程』廃止

 昭和四〇年、山口県にも「保護条例」ができた。文化財保護という面では極めて喜ばしいことである。
 『顕彰規程』を運用するにあたって、数が揃った段階で見直す°@会を持つことにしていたとはいうものの、現実には難しい問題があるため、『保護条例』への昇格を機会に、『顕彰規程』下での指定を御破算≠ノしたのは、ある意味では賢明なことであった(と、当時、山口市大殿小学校長として、任をはずれていた父は言っていた)
 しかし、問題は、この御破算≠ニいう扱いによって、この『顕彰規程』の性格が、既述のように、誤解されて受け取られるようになったのではないかと思えることである。
 この『保護条例』に移行するに際し、『顕彰規程』の下での指定物件を再指定するか否かを審議する資料に指定当時の状況はよく維持されている∞保存良好≠ニいう記述が随所に見られることからも、この『顕彰規程』は、十分に代役≠果たし得たと認めてよいのではあるまいか。
 そして、同時に「中央の先生方の指導・助言」に基づいて運用されてきたという事実≠焉A忘れてはなるまいと思うのである。
 ただ、考えておくべきは、指定は、学問の進歩による新しい価値や意義の発見、類例の多少によって、変化するということである。新しい分野ということもありうるし、民家≠フように、早くから、山口県として、指定を望みながら、果たされず、後日、相当数が一度に「国指定」されるということも現実にあるのである。(「熊谷家」は、既に二十年代末には、「国指定」を萩市教委・県教委は申請している。当時の国指定民家≠ヘ、全国で二件であった。)
 県段階でも、『顕彰規程』当時、指定を見送られた物件が、『保護条例』では指定されているものも少数ではあるが存在する
 また、価値判断≠ノはどうしても主観≠ェ伴い、多少の幅があることも、研究者?≠ニしては考えるべきことであろう。父がかつて、『保護条例』のもとでの再指定が却下された「数方庭」について、「これも落としたのか!」と思わずいった一言を私は時折、思い起こす。父がこういった以上、中央の先生の指定に関する積極的助言がなかったとは考えられない。はたまた、当初、山口県の文化財専門委員であったが、丁度、こうした民俗関係の審議会の開かれる直前の昭和四二年一月、「東京教育大学(現 筑波大学)教授」として、転任され、委員を辞められた国分直一氏(世界的な文化人類学者)が、山口県にお帰りになって(現在は、山口市在住)、この「数方庭」が『保護条例』の下で指定されるのに尽力されたと知り、お訪ねして、お話を伺ったところ、『顕彰規程』での指定理由・『保護条例』での却下理由は知らないが、「国指定」となってもいいはずのもの≠ニ考えているとおっしゃった。
 地元「山口県」を中心とする専門委員の方々より、中央の方が優れているといっていっているわけではなく、拠って立つ理論≠フ違い、主観≠ノよって、どうしても、相違が生ずると推測するということである。
 なお、この項の具体的な記述は、文末の「一覧表」で代用することにしたい。 

八 おわりに

 慎重に記述したつもりでも、発表した後で、何らかの訂正・補足をしたいと思うのは避けられないようである。『土井ケ浜遺跡』発表後、その対応を考えていた時、「山口県立図書館」で「索引」で利用した『文献』が、ある『雑誌』の『抜刷』であったり、「ガリ刷」のものがあったことから、問いあわせたところ、たとえ名もない者の『私家版』であっても、受納していただけるとの回答を得た。ありがたいことである。
 この稿の場合は、特に、「ないはずはない」(臼杵華臣氏)とされる『顕彰規程』当時の資料が、現実としては所在不明=i「県文化課」・「該当市・町教委」)という状況のもと、やむなく、二次的な資料(手元の資料の外、多くの方々に協力願っているが、特に、故日野巌氏の『保護条例』への移行時の資料を見せていただけたことはありがたかった。)を基にしている部分が多く、叩き台≠フつもりでいるし、限られた頁数をできるだけ超えないためにも、その『図書館寄贈分』(『抜刷』+『正誤表・補註』)を利用しようと思うに至った。
 従って、『保護条例』でも再指定されたものの個々名等については、その「補註」を利用しようと思うし、誤りの指摘≠ヘ勿論のこと、より直接的な正しい資料≠竍証言≠寄せていただけるなら、その『図書館寄贈分』でより事実≠ノ近づくよう、対処していきたいと思っている。
 誤った内容の『文献』が孫引き≠ウれている現状を問題提起≠オた以上、自分の文章には、それなりの責任を持とうと思う。協力を切にお願いする次第である。(父の『陶片の楽書』の「正誤表・補註」についても、準備をすすめています。)
        /付記/住所は、『六八号』の会員名簿にあります。
 



 [参考]↑ この中の「神明祭」は、「保護条例」に移行の際、再指定されませんでしたが、昭和56年12月11日に、再び「山口県指定」されます。情報開示で確認したところ、指定理由には、「顕彰規程」昭和32年10月19日に指定された時と、さしたる差≠ヘありませんでした。なお、この「神明祭」は、「県指定」にとどまらず、平成21年1月16日開催の文化審議会にて文化庁長官へ、重要無形民俗文化財(国指定)「阿月の神明祭」として答申されています。