──[
『木の実』 (平成18年3月号 通巻694号)]──────────────────────────────
母の死
私の平成十五年ごろの旧作に、
町に墓地買ひて移すとくにの秋 頼人
という句があるが、その墓地のある防府市の弟から、二月一九日(日)、午前九時五四分、母が亡くなったという電話を受けた。つい最近十日ほど前に見舞に行ったばかり。まだしっかりとしていたので、「春になったら、きっと元気になって家に帰れますよ」と励ましたのであったが、意外に早い訃報であると思った。
母は明治四三年五月一日生まれ。亡くなる二日前のやすらぎ句会で、西野貴美子さんの作品、
初御空吾に七巡の戌の干支 貴美子
とあったのを思い出し、母も年女、今年八回目の戌を迎えたのであった。父の死後凡そ二○年生きたのであるが、最期まで惚けることもなくしっかりとしていて、もっと長く生きてくれるものと思っていた。
|
そして、趣味もなければと、晩年短歌に心を寄せ拙いながら作っていたようである。例年、礼子の短歌の掲載されている東京四季出版編の現代短歌カレンダーを毎年送っていたのであるが、それが、何年分も保存しサンルームに掛けてあるのであった。しかし、決して体の丈夫な方というわけではなく何回も入院を繰り返し、思い出せば私の大学受験の時も入院しており、今頃ならば受験勉強に疲れただろうと夜食など出てくるであろうが、その頃のお見舞といえば籾殻に埋まった生卵が主であったが、それを分けてもらい、一日一箇食べて栄養をつけ受験勉強をしていたことも懐かしい。
亡くなる少し前のこと、娘や息子の配偶者合わせて五人それぞれに、形見分けとして自分の使っていた装身具類を手ずから渡してくれたのであった。身辺も片付けてあり、思えば自分の死期を考えていたのであろう。葬式当日の司会者の挨拶に、「例年より二○日ばかり遅いようですけれど梅の花も咲きだしました」とあったが、多分今頃はあの世で亡き父とわが庭の梅を見その花を、金に糸目をつけない楽しんでいることであろう。
ところで両親とも兄弟は少なかったが、孫、曾孫含めてその血に繋がるうがら三○人余による賑やかな野辺送りであるのであった。
|
↑ 『写真図説 昭和萬葉集 第六巻 昭和五一年〜五九年』(昭和60年11月25日発行 株式会社講談社刊)
(171頁 3首目)
河野 礼子 昭7〜「コスモス」(53・11)
いづこにか情熱こぼしこぼし来て四十路は迅し夏の雲逝く
──────────────────────────────────────────────
──
「Fさんへの手紙」 ──────────────────────────────