当初=A「岸和田市立図書館」の「濱田耕作(青陵)」というパンフレット(下の「写真」参照)から、「スキャナ」で取り込んでいましたが、「ネット」で見ると、「手元」のものより、不鮮明≠ナすので、(岸和田)市立図書館創立六十周年記念誌 濱田耕作(青陵)日誌の「口絵」にある「写真」をスキャナ≠オかえました。 なお、『濱田耕作(青陵)日誌』も、「パンフレット」も、浜田敦氏に紹介していただき、「岸和田市立図書館」の万代まき氏から送っていただいたものです。 [明治31年 博士18才]の当時とのことです。 |
「右」=斎藤 忠氏著『日本考古学史辞典』(昭和59年9月25日 東京堂出版刊)の(663頁)から転載させていただいた「写真」です。
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浜田敦氏は、 「やっぱり相当、自分としては無念だったと思うんですね。恐らく、そんな放校されるような悪いことをしたつもりはなかったんだろうと思うんですが、比較的詳しくその顛末を書いております。ちょうどそのとき、私の祖父に当たる源十郎は台湾の方に勤めて、単身赴任で行っていたわけですが、恐らくそれに報告するというために、そんなものをしたためたんじゃないかと私は思いますが。」 と語っておられます。(「先學を語る 濱田耕作博士」〈『東方学 第六十七輯』(昭和59年1月31日)〉) この『東方学 第六十七輯』の全文コピー及び、耕作氏と親しかった方々に印刷したものを配られたという「顛末書」は、浜田敦氏から送っていただいたものです。 「顛末書」は、放校処分前後之事実報告≠ニ見出しのつけられたB4の罫紙二枚に墨書きされたもので、浅学な身で、私には読めない箇所が幾つかありますが、次のようになっています。 三十一年六月三日突然余ハ放校ノ処分ヲ受ケタリ即チ金曜日第二次ノ初メニ方リ監督ヨリ呼ビ来ル余其ノ命ニ応ジテ至レバ森田監督広田級頭安本倫理教師及石川級頭等例席ノ下ニテ校長金子銓太郎ヨリ放校ノ辞令ヲ受ク其文ニ曰ク 第五年二組 濱田耕作 右者教員ニ対不都合ノ所為有之候ニ付放校ニ処ス ト余ハ其突ナルニ驚ケリト雖モ既ニ詮ナシ同時ニ停学ノ処分ヲ受クルモノ二人曰ク赤松、曰ク浦濱是レ信書ノ秘密ヲ侵セルモノナリ 是ヨリ・・・・・〈以下、省略〉 |
(参考) 浜田耕作氏に関する他の「頁」 上の≠クリック≠キると、[土井ヶ浜遺跡の「index」]になりますが、 浜田耕作氏を語る場合、 「京都帝国大学」の「考古学教室の学生」ではなかった方々を、「考古学者」・「人類学者」として大成される手助け≠されたということを語らないワケにはいきません。 「以下」の「頁」も、時間的に余裕がありましたら、御覧いただきたいと思います。 [邂逅=@この不思議なるもの─土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史≠フ場合─(戦前編)] [金関丈夫氏を中心とした邂逅≠フさま] ↑ ここに、「カフェ・アーケオロジィ」についての一番詳しい「説明」を入れています。 [三宅宗悦氏を中心とした邂逅≠フさま] ↑ 「他大学」の「学生」で、「小児科医」としての「道」を歩まれるハズであった三宅氏が、清野謙次氏のモトで、「人類学者」として歩まれることになった過程≠ェ、浜田氏抜き≠ナは語れないことを記しています。 [邂逅=@この不思議なるもの─土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史≠フ場合─(戦後編)] ↑ 末永雅雄氏・森本六爾氏ら、「京都帝国大学」の「学生」でなかった「考古学者」とのことに触れています。 |