平成20年6月20日 公開
平成22年4月18日 更新

浜田 敦氏の 随筆 「青陵青春日記」

   浜田 敦先生 (ここに「紹介」する「随筆」や私への「書簡」類では、濱田ではなく、浜田としておられます) には、私の研究に役立つならと、いろいろな「資・史料」を送っていただいたり、「紹介」していただいています。
 その中に、文藝春秋 第六十七巻 第九号の[77・78ページ]のコピーがあります。
 それは、青陵青春日記というの敦先生の随筆です。
 敦先生の中学時代の停学処分のことまで書かれたものですが、わざわざ送ってくださったことと、なにせ、発表が天下の『文藝春秋』≠ノ発表済みのものですので、ここに掲載してもお許しいただけるものと思い、掲載します。
 この「随筆」の中にある、『日記』を送ってくださったのに関係してのことと思いますが、敦先生の父=浜田(濱田)耕作先生の一面≠伺えるものと思いますので。

 (私がこの[ホームページ]による発表という方法に気づく前に、敦先生は、お亡くなりになりました。そのことを奥様の百合子からのお手紙で知りました。ご冥福をお祈りすると共に、全くの面識のなかった私に対していただいた数々のご好意に対し、改めてお礼申しあげる次第です。)



青陵青春日記
浜田 敦 (京都大学名誉教授)


 最近は「考古学ブーム」で、毎日の様にその話題で賑わっていますが、七十年余り前、父が京大で日本最初の考古学講座を担当していた頃は、考古学ではメシが食えないと言われ、専攻学生皆無の年が少なくありませんでした。しかし父は、御陵や古墳の多い大阪府南部で生れ育ったためでしょうか、こどもの時からそれが好きで、本名「耕作」より通りのよい号「青陵」もそれに因んでつけたものです。まだ旧制中学時代に、学会で「前方後円墳」についての研究発表をしたことが、九十年前の父の古日記にもしるされています。
 父の十七歳から十八歳にかけてのほぼ一年間のこの日記が、このほど父の故郷岸和田市の御好意で出版されました。




当初=A「岸和田市立図書館」の「濱田耕作(青陵)」というパンフレット(下の「写真」参照)から、「スキャナ」で取り込んでいましたが、「ネット」で見ると、「手元」のものより、不鮮明≠ナすので、(岸和田)市立図書館創立六十周年記念誌 濱田耕作(青陵)日誌の「口絵」にある「写真」をスキャナ≠オかえました。
 なお、『濱田耕作(青陵)日誌』も、「パンフレット」も、浜田敦氏に紹介していただき、「岸和田市立図書館」の万代まき氏から送っていただいたものです。

[明治31年  博士18才]の当時とのことです。



「左」=[太田喜二郎画伯 筆による濱田耕作]という説明がつけられている「パンフレット」にある耕作氏の「肖像」。
「右」=斎藤 忠氏著『日本考古学史辞典』(昭和59年9月25日 東京堂出版刊)の(663頁)から転載させていただいた「写真」です。


浜田耕作氏 と 斎藤 忠氏

「考古学」を専攻したいという希望のあった斎藤 忠氏は、指導教授黒板勝美氏の紹介で、一時期を、京都帝国大学考古学教室の浜田耕作氏のモトで、研究生活を送られることになります。
黒板氏は、浜田氏の東京帝国大学時代の恩師の一人で、浜田敦氏の手で、橿原考古学研究所に寄贈された遺稿≠フ中の「受講ノート分類番号T」の中にも023 古文書学 黒板文学士=E024 古文書学 U 黒板文学士≠ニいうノートがあります。
ただ、年齢的に近かったこともあって、二人は親しくつきあわれていたといういいます。
斎藤氏の京都帝大の在職時は、「土井ヶ浜遺跡」に関係のある方々が京都帝国大学にそろっておられる時期でした。
なお、別の箇所でも触れていますが、斎藤氏には、私のタメに、長い時間を設定してくださり、貴重な「証言」をたくさん、いただいています。




 明治三十一年、大阪府立一中(現北野高校)五年生一学期の終りに近い頃、教師に反抗したとの理由で放校処分となり、上京して二学期から早稲田中学に転校、翌年そこを卒業して、その秋第三高等学校に入学する時までのものです。

 浜田敦氏は、
「やっぱり相当、自分としては無念だったと思うんですね。恐らく、そんな放校されるような悪いことをしたつもりはなかったんだろうと思うんですが、比較的詳しくその顛末を書いております。ちょうどそのとき、私の祖父に当たる源十郎は台湾の方に勤めて、単身赴任で行っていたわけですが、恐らくそれに報告するというために、そんなものをしたためたんじゃないかと私は思いますが。」
と語っておられます。(「先學を語る 濱田耕作博士」〈『東方学 第六十七輯』(昭和59年1月31日)〉)

この『東方学 第六十七輯』の全文コピー及び、耕作氏と親しかった方々に印刷したものを配られたという「顛末書」は、浜田敦氏から送っていただいたものです。


 「顛末書」は、放校処分前後之事実報告≠ニ見出しのつけられたB4の罫紙二枚に墨書きされたもので、浅学な身で、私には読めない箇所が幾つかありますが、次のようになっています。

三十一年六月三日突然余ハ放校ノ処分ヲ受ケタリ即チ金曜日第二次ノ初メニ方リ監督ヨリ呼ビ来ル余其ノ命ニ応ジテ至レバ森田監督広田級頭安本倫理教師及石川級頭等例席ノ下ニテ校長金子銓太郎ヨリ放校ノ辞令ヲ受ク其文ニ曰ク
第五年二組
濱田耕作
右者教員ニ対不都合ノ所為有之候ニ付放校ニ処ス

ト余ハ其突ナルニ驚ケリト雖モ既ニ詮ナシ同時ニ停学ノ処分ヲ受クルモノ二人曰ク赤松、曰ク浦濱是レ信書ノ秘密ヲ侵セルモノナリ
是ヨリ・・・・・〈以下、省略〉

  ↑ 要約すると、
 卒業間近い中学五年生の一学期、体育の授業時、教師から、いじめに近い叱責を執拗に受けていた同級生に同情し、発した言葉が「教師を侮辱した」とされて、そのことを認めるよう、執拗に迫られたので、しかたなく、認めて謝ることで解決しようとしたところが
有無を言わさずに金曜日第二次ノ初メニ方リ監督ヨリ呼ビ来ル余其ノ命ニ応ジテ至レバ突然余ハ放校ノ処分ヲ受ケタリとなってしまったというのです。

 当時三高の文科は志願者が少なく、入学試験も行なわれないことが多かったらしいのですが、その年は定員超過で試験がありそうだとの報に、「魂消え、青くなり、泣きたくなり、今更過去の怠を悔い、これはたまらぬと思ふ」としるしているのを読んで、私は思わず吹き出してしまいました。もともとあまり勉強家ではなかった父ですが、特に数学が大嫌いだった様です。実は私も父の遺伝か、やはり数学はいつも落第点でした。しかし父は「ワシも数学が嫌いだった。あんなもの成績が悪くたってかまわん」と、非教育的な暴言を吐き、母にたしなめられていました。また、私がやはり中学時代停学処分を受けた時も、「停学ならまだましだ。ワシは放校になった」と笑ってすませてくれました。
 明治三十二年春、東大の人類学会で、当時考古学の第一人者だった八木奘三郎を前にして、その前方後円墳についての説を批判する発表を行なったことがしるされていますが、これは、師説に対しても堂々と批判を加えることが、学問の発展のため、研究者として当然と信じてのことだったのでしょうが、やはりそこには、中学時代先生に反抗して放校になったことに相通じる、よく言えば「反骨精神」が感じられます。そして、この精神は、初期の京大の多くの教授にも共通するものの様です。それらのかたは、東大出身でありながら、そこに容れられず、つまみ出され、言わば「落ちこぼれ」として京大に来られたもので、意地にでも、東大にない新しい学風を作ろうとされたのだと私は考えます。 ただし、機会をとらえて東大にもどられる方も少数はありましたが、その様なお一人について、あの温厚な新村出先生が、「後足で砂をかける様にして東京に去った」と、いささか激越な調子で書かれたものがあり、当時の京大文学部の反東大的空気がうかがえます。
 この反骨精神おうせいな父が、逆に、権力者側に立つという悲劇がおこりました。昭和十二年春、父が京大総長に選挙されそうだという噂が立った時、すでに成人して、父と同じ研究者の道を歩みはじめていた兄と私は父に対して、ひとたび志して学問の道を選んだ者が、今その学問を捨て、たとえ世俗的には「出世」かも知れないが、要するに事務員の親玉に過ぎない俗吏になるのは堕落だ、選挙されても辞退すべきだ、と申しましたが、この書生論は通らず、その五月、父は総長に就任してしまいました。 しかし、心身ともに見かけほどは強くなかった父は、その激職に堪えられず、わずか一年後、現職のまま五十七歳の短い生涯を閉じるという悲しい結果に終りました。

 ところで、祖父が下級警察官で六人のこどもというまずしい家庭に育った父ですが、きわめて経済観念に乏しく、後年、高給をはむ地位についても、貧乏暮しは変らず、一生借家住まいに終りました。ただし、父は負け惜しみ半分、どうせこの世は仮り住まい、自分の家でも、死ぬ時はあの世に持って行くわけにもゆかず、借家と同じだ、などと言って笑っていました。私も、今にして思えば、こどもに何一つ遺産を残さなかったのは、まことに賢明だったと考えています。
 当時の帝国大学教授は、謹厳実直、学問一筋というイメージでしたが、わざと、研究室でも弟子のかたを前に自分の失敗談などバカ話をしていた様ですし、家庭でも、夕飯時、私どもを前にして、ワイ談めいた話を持ち出して、「こどもの前でそんな話を」と母ににらまれていたものです。父が「偽悪者」とも評されたゆえんですが、そんな父が、青春時代の自分を、あらわにさらけ出したこの古日記は、ひょっとしたら、「反面教師」として、世の落ちこぼれ諸君へのなぐさめ、すくいとなるかも知れません。
 ただし、こんな日記を公刊されて、あの世で父は、さぞかし、にがい顔をしていることでしょう。


  77ページの4段全部と78ページの2段で、以上のように発表されています。
  なお、次は、評論家の上坂冬子氏の「生き残った人びと」という文章の掲載となっています。















(参考)  浜田耕作氏に関する他の「頁」

上の≠クリック≠キると、[土井ヶ浜遺跡の「index」]になりますが、
浜田耕作氏を語る場合
「京都帝国大学」の「考古学教室の学生」ではなかった方々を、「考古学者」・「人類学者」として大成される手助け≠されたということを語らないワケにはいきません
「以下」の「頁」も、時間的に余裕がありましたら、御覧いただきたいと思います。

[邂逅=@この不思議なるもの─土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史≠フ場合─(戦前編)]
[金関丈夫氏を中心とした邂逅≠フさま]
 ↑ ここに、「カフェ・アーケオロジィ」についての一番詳しい「説明」を入れています。
[三宅宗悦氏を中心とした邂逅≠フさま]
 ↑ 「他大学」の「学生」で、「小児科医」としての「道」を歩まれるハズであった三宅氏が、清野謙次氏のモトで、「人類学者」として歩まれることになった過程≠ェ、浜田氏抜き≠ナは語れないことを記しています。
[邂逅=@この不思議なるもの─土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史≠フ場合─(戦後編)]
 ↑ 末永雅雄氏・森本六爾氏ら、「京都帝国大学」の「学生」でなかった「考古学者」とのことに触れています。