▼ この「河野英男のこと」の作成にあたって 「ウェブ」上に、[あのひと検索スパイシー]なるものにおいて、「河野英男」という「ページ」があることは知っていましたが、河野英男≠ヘ、どちらかといえば、同姓同名の方の多い名だと思いますし、「河野英男」の「検索」に出て来る「代表取締役」とか「議員」の方についてのものだろうと思っていました。 ところが、驚いたことに、「メイン」に、父の、後に「土井ヶ浜遺跡」として命名される「人骨」発見のことを述べた私の「作成」した「ページ」の一部
があったのです。 大変な労力を用いて、私の父を対象としてくださっていることはありがたいことだと思います。 ただ、同姓同名の情報が混在している可能性がありますとあるように、「下」に、 × をつけたり、( )した方は、私の父とは関わりのない方々であったり、大したつながり≠ェあるとは思えない方ですのに、「つながりの強いひと」として上がっています。 しかも、それらの方々は、著名な方々で、そうした方々とのつながり≠ェないとなると、少なくとも、父=英男を「メイン」としたこの「ページ」は「作成」されなかったのではないかとスラ思えるのです。 従って、誤解≠ナ作成されているのなら、そうした方々と関わりの深い、私の父ではない河野英男なる方≠ノついて作成されるべき(当然=Aその場合、私の父=英男に関する方々は、除くことになります)だと思いますし、逆≠ノ、私の父=英男について、紹介していただけるなら、当然のように、ここにはないものの、名を記すべきお世話になった方々もおられます。 そこで、父=英男についての、こうした「ページ」を作ることが適当かどうかはともかくとして、私なりに整理しておこうと思います。(この[あのひと検索スパイシー]という「河野英男」のページは削除されたとしても、私の、この「ページ」は残しておくつもりです。父=英男のような小さな存在≠フ人間にも、「邂逅」なるものの不思議さは見られると思うからです。) なお、例えば、「年賀状」を、多いときは、2000枚以上を出しており、宛名書きを家族総出でしていたというわけで、広い意味でのつきあい・つながり≠ヘ、たいへんなもので、「賀状」のみならず、父の遺している「書簡」・「はがき」を見ても、それこそ「日本の代表的な方々」に何らかの形でお世話になったことが伺えますが、私の「ホームページ」に登場願っている方々に限りたいと思います。(私が「ホームページ」を作成することになった「理由」は、それぞれ該当箇所に記していますが、ここにはまとめて記しています) (平成22年1月5日現在)[あのひと検索スパイシー]に「つながりの強いひと」としてあげられている方々 藤島亥治郎 小山冨士夫 (国分直一)←国分直一先生については、国分先生の[あのひと検索スパイシー]という「ページ」に、父=英男も載せていただいていますが、 当時は、調査責任者の金関丈夫氏の協力者といった程度で、「県教委社会教育課文化係長」としての父=英男と、国分先生とは何度かお会いしていると思いますが、深い関係はありません。
三輪休和
国分先生との関わりは、父=英男の死後、私が「土井ヶ浜遺跡」の「発見・発掘史」を「調査」するきっかけ≠作ってくださったという意味で、重要な方です。 (坪井清足)←国分先生と同じく、発掘調査時、お会いしていますが、金関先生の協力者として、挨拶を交わした程度で、特に深い関係はありません。 清野謙次 ×半井桃水(なからいとうすい)=樋口一葉の師にあたる「作家」で、「歴史上」の人物ですので、父=英男との関わりはありません。 野村望東尼←望東尼との関係は、「終焉の室or宅」とされる家を購入したことによるもので、 当然、「幕末」の人である望東尼本人とのかかわり≠ヘありません。
奈良本辰也
ただ、「指定」をきっかけ≠ノ、「短冊」など望東尼関連の物をいくつか求めています。 × 木村荘八←父=英男との関わりはなかったと思われます。 × 亀井勝一郎←私が「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史¥繧ノ見られる「邂逅の不思議」を述べるに当たって、 邂逅=思いがけない出合い≠ニいう偶然≠「人生の重大事である」と亀井勝一郎氏は書いておられますが≠ニ、引用させていただいていますが、著名な方であり、断定はできませんが、父=英男との関わりはなかったと思われます。
× 加藤隆久←関わりはなかったと思われます。
× 隠元禅師←関わりはなかったと思われます。 春成秀爾 × 大村益次郎←益次郎の「墓」が「国指定の史跡」ですので、多少のかかわりはありますが、歴史上の人物であり、 当然、父=英男との直接的な関わりはありません。 三輪休雪(現 壽雪氏) (柳 宗悦)←「民芸」運動の代表者であり、「陶芸」にも、大きな影響を与えた方であって、当然、存知あげていたようですが、 父=英男との関わりはそんなに深いものとは思えません。
× 樋口一葉←「たけくらべ」等の作品で有名な、明治時代の「小説家」であり、父=英男とは関係ありません。
ただ、「筑摩書房」が『柳 宗悦全集』を編集する際、柳氏の手元に残っている「山口県に住所のある方からの書簡」について、柳氏との間にどんなやりとり≠ェあったかを確認できるものなら、是非、確認したいからとして、「相手」の方の連絡方法を教えてほしいという依頼を受け、調べて連絡したということはあります。(柳氏は既に亡くなっておられました。) × 日本武尊←父=英男との関わりはありえません。 (昭和天皇)←「植樹祭」でお出ましになった天皇・皇后両陛下に、「天然記念物黒柏」を天覧・台覧いただいた際、 おそば近くにはべらせていただいたというダケで、当然のように、深いかかわりがあるわけではありません。
ただ、両陛下のお側に、父=英男のいる「写真」を『陶片の楽書』に載せており、とても光栄なことと終生、思っていたことが伺えます。 × ミッキーマウス←関わりはありえません。 × ソフィア←どんな方かも存じません。 × ライセンス←どんな方かも存じません。 |
● 河野英男の「履歴」とその過程で関わり≠持つことになった方々のこと |
緑色の文字で記した方=「父=英男」と直接的な♀ヨわりのある方 茶色の文字で記した方=「父=英男」とは直接的な関わりはないものの、 私の[HOME PAGE]において、お名前をあげさせていただいている方
(「敬称」は「氏」に統一させていただきます。) |
● 「戸田焼」について及び「山田家本屋」の徳山(現 周南)市への寄贈の事実≠ニしての経緯 を「作成」している「理由」 「戸田焼」について、困ったこと≠ェ流布しているため、「戸田焼」の「歴史」を書き残すべく、父=英男は、『陶片の楽書』という「題」で、出版しています。
(「あとがき」に、多くの方々の手助けのもとに、出版にふみきることにしたのは、・・・それはいつに、「戸田焼」の正しい歴史を書き残さねばならぬという、いわば、わたしにしかできぬ責務をはたさんがためであり、昔流にいえば「七十歳」を迎えた今年は、その機に達したと判断したがためである。・・・≠ニあります。) しかし、「題名」が理由だと思いますが、「戸田焼」の「資料」としてはほとんど利用されなかったのみならず、父の死後、大学の歴史の先生の手によって、私どもの「戸田焼」との関わりを抹殺≠オた、これまで以上に、とんでもないものが、山口県指定文化財である「山田家本屋」において、「山田家本屋だより」という形 ≠ナ、来訪者に配布され、「ウェブ」にも出ていたのです。(私が知ったのは、「ウェブ」が先でした。) 「戸田」で焼かれた「焼物」を「戸田焼」とすることには異論はありません。 従って、私どもの「戸田焼」以外が「戸田焼」として紹介されることは、別にどうこういうつもりはありません。 しかし、「戸田焼」の中心的≠ネ存在であった私どもの「戸田焼」を抹殺≠ウれては、「山口県立博物館」に所蔵されている「作品」や、我が家に残されている「作品」の「説明」がつきません。 大学の先生が信頼仕切っている情報≠ノ疑問≠ェあること、さらには、「指定」されている肝腎の=u山田家本屋」についての「記述」が、「戸田焼」を特集した「山田家本屋だより」とは別の「号」において、当時の関係者≠フ配慮を無視して、「県」や「市」の関係者を一方的に#癆サした記述がなされていることを知り、父=英男が、指定当時、担当者の一人であり、当時の「資料」が残されていることに加え、 「国指定文化財」としての「調査」に来県された藤島 亥治郎博士に、私がお目にかかって話を伺っていたため、「作成」したのです。 (私が藤島博士の東京のご自宅を訪問したのは、「山口県指定文化財保存顕彰規程」が十分な「理解」をされないママ流布≠オているという実態≠ェあったためですが、その流布≠オている誤り≠フ一つが、「山田家本屋」の「指定」に関する記述だったのです。) 更に困った≠アとは、一流とされている==u平凡社」という出版社、「山口県立美術館館長」である河野良輔氏という執筆者の組み合わせで、「戸田焼」に関する出版がなされた中で、抹殺≠アそされていませんが、「資料」の扱いが適当でなく、従って、明らかにおかしい°L述があったのです。 O「戸田焼」記述 に登場していただいている方(五十音順) ・小川五郎氏(京都帝大の「考古学専攻の第一回生」であり、「考古学」だけでなく、「山口県」の文化方面に広く、関わられ、実績を残されている方
O「戸田焼」記述に関連した「山田家本屋の徳山(現 周南)市への寄贈の事実≠ニしての経緯」 に登場していただいている方(五十音順)
「山口県の陶磁器展」の際の「解説」を指揮され、作成された方です。この中の「戸田焼」に関する記述には、我が家を中心としておられます。)
・臼杵華臣氏(父と共に「山口県」の「文化財」の仕事をされ、父の後を承けて「文化係長」→「課長補佐」となられたが、
その後、「山口県立博物館館長」となられ、「文化財」、「郷土史研究」の第一人者となられた方)
・藤島亥治郎氏(東大教授等を歴任。「文化財審議会専門委員」としても活躍された「建築学」の最高峰ともいえる方。
「山口県」の建造物の「調査」等に、多大の貢献をしていただいています。
なお、「世界遺産登録」の候補としての「平泉」の「遺跡群」の調査保存に、尽力をされた方としても、忘れることのできない方です。 更には、私に「人間国宝」に関するヒント≠下さった方として、私個人とのかかわり≠焉A持たせていただいています。) (備考) 「本文」や「解説」の部分はともかく、つながり≠フある人としてその名をここに掲げるのに、誤り≠ニ思われる記述なり、「証言」をしている人物をあげるのは疑問があるので、示しません。 |
● 「土井ヶ浜遺跡」の発見?≠ノ関連して
O 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史 に関して登場していただいている方々(五十音順) (ア″s)
粟屋和彦氏(「山口県立医科大学」の助教授であった時、教授である尾曽越文亮氏が「岡山大学」へ転任されるに際し、尾曽越氏の教授への 推薦がありながら、粟屋氏が若すぎるという声が教授会であり、その対策として、教授であった水田信夫氏が、京都帝大医学部の学生、助教授として旧知の友人である金関丈夫氏の了解のもと、ワンポイントリリーフ≠提案し、金関氏が教授になられ、粟屋氏は、2年間、金関氏のもとで、研究をされています。(当時は「県立」で、定年が遅かったため、九州大学→鳥取大学をそれぞれ定年でお止めになった金関氏を、「山口県立医科大学」にお招きすることができたのです。)
・井上十六氏(「豊北町」の教育委員会で「文化財」関係の仕事をなさっていた方であり、俳人としても知られている方です。
「国立山口大学医学部」となり、そこで、「医学部長」、「山口大学学長」を勤められ、私の調査当時は、「宇部短期大学」の学長でした。 金関氏や、その学問的協力者の国分直一氏のことなど、貴重なエピソード≠教えていただきました。 なお、尾曽越氏や水田氏のご子息からも、関連した話を伺っています。) 余談ながら、私の母=ユリコの実家近くにお住まいでした。
・梅原末治氏(これといった「学歴」がないのに、浜田耕作氏の、京都帝大「考古学教室」の後継者となられ、大きな業績を残された大学者。
旧「豊北町」の「地方史研究誌」=『ニギメ』という名称は、井上氏に拠るものです。) 小川五郎氏や三宅宗悦氏が旧制「山口高等学校」在籍当時から、知り合いとなっておられました。)
・衛藤和行氏(「土井ヶ浜遺跡」が「弥生時代」の遺蹟であり、「日本人の起源」について画期的な研究をされることになるには、
この衛藤氏の存在あってのことです。
・小川五郎氏(「土井ヶ浜」出土の人骨を出土状態からして「古墳時代」≠ニ推測され、旧制「山口高等学校」からの親友で、「県教委」の「社会教育課」にも一時、在籍されました。 香月泰男氏に師事された「画家」でもあります。 お気の毒にも、「下関駅」における「通り魔殺人」の犠牲となられました。) 人類学者である三宅宗悦氏に連絡してくださる。既述分も参照ください。)
・小川 信氏(五郎氏のご子息で、衆議院議員も勤められた方です。きさくに、私の「調査・研究」に協力をいただきました。)
・小沢太郎氏(小川五郎氏、三宅宗悦氏らと「旧制山口高等学校」で親しかった方です。「山口県知事」、「衆議院議員」も勤められました。) (カ″s) ・鏡山 猛氏(考古学者で、九州大学に在籍され、多くの業績を残しておられます。 金関丈夫氏に、「土井ヶ浜」における「人骨」が「弥生時代」のものである可能性があるとして知らされ、金関氏の「土井ヶ浜遺跡」発掘調査へつながる「情報」をもたらされた方です。
・金関丈夫氏(周知のことですが、
残念ながら、私の「調査時」には亡くなられていましたが、お弟子さんの渡辺正気氏の協力をいただくこときました。) 「土井ヶ浜遺跡」の発掘調査をされ、その「出土人骨」が「弥生時代」の人々のものだとされるとともに、
・金関 恕氏(金関丈夫氏の次男。
「日本民族の起源」について発表された方です。 ある意味では運命に翻弄された≠ニいえる方ですが、それを乗り越え、大きな実績を残されました。「朝日賞」も受けておられます。 「京都帝大」卒業後、助教授まで勤務され、浜田耕作氏、清野謙次氏、三宅宗悦氏、斎藤忠氏・・・と親しい関係にあり、その後、「台北帝大教授」となられ、終戦で、「九州大学」に転任され、「研究分野」を「弥生人」に変更され、「土井ヶ浜遺蹟」と遭遇されるのです。) (なお、金関丈夫氏を中心とした邂逅≠フさまとして、「ページ」を設定しています。
)
兄=毅氏
・清野謙次氏(「帝国学士院賞」を受けた「病理学者」であるだけでなく、「人類学研究者」としても、多くの実績を残されている学者です。
(丈夫氏のおられた「九州大学医学部」の教授を退官された後、私の調査の際は、「佐賀県立医科大学」の副学長でした。なお、毅氏が「医学」の道に進まれたのは、単に、父親からの勧めであったというわけではなく、いずれ「戦争」に行くことになるということで、それなら、人を殺すより、負傷者を助ける方がよいという考えからであったとおっしゃっていました。) に続いて、恕氏にも、「医学」の道を勧められていたそうですが、戦後の混沌とした情勢のモトで、好きな道≠ノ進むことを認められたそうで、それが、「考古学」(「京都大学」の「考古学」)に進まれ、結果的≠ノは、丈夫氏の発掘調査を伴う「人類学」研究の強力な援助者として、活躍されることになり、 「三津永田遺蹟」、「土井ヶ浜遺跡」といった、「弥生人骨」の発掘調査等、丈夫氏の多くの調査の手助けをされています。 この「土井ヶ浜遺跡」発掘にかかわった坪井清足ともども、「日本を代表する考古学者」となられています。 「天理大学」退官後は、大阪の「弥生博物館館長」を勤めておられます。) その「人類学研究」の助手として、三宅宗悦氏を招き、それが「土井ヶ浜」と結びつくことになるのです。
・木下尚子氏(私の「調査」当時は、山口県の大学に在籍しておられ、私に協力をしてくださいました、
三宅氏が「土井ヶ浜」出土の「人骨」を持ち帰られると、父=英男に対し、金関丈夫氏との共著を、「サイン」をして、贈ってくださっています。) さらに、雄山閣考古学賞受賞の大著『南島貝文化の研究─貝の道の考古学』においては、私の「発表」をさながら土井ヶ浜遺跡からみた人類学小史である≠ニ記して紹介してくださっています。)
・国分直一氏(世界的な「文化人類学者」ですが、長く、金関丈夫氏の研究協力者でした。
まことに穏やかで、偉大な学者であるにもかかわらず、腰が低く、私が「山口放送」における対談についての「疑問」を寄せたところ、素直に、不勉強でした≠ニ言われのみならず、ぜひ、多くの人に伝えてほしいと、「土井ヶ浜遺蹟」の発見・発掘史≠するきっかけ≠作ってくださり、かつ、ヒント≠烽ュださいました。
・駒井和愛氏(早稲田大学卒業ながら、東京開成中学校時代、原田淑人氏の指導を得ていたことから、原田淑人氏を慕い、
「写真」をいただけませんかとお願いした(当時、「スキャナ」によって取り込むことなど、思いつきませんでした)ところ、最近は写真を撮っていないからとして、「もう、使うことはないと思うのでこれをどうぞ」と、まだ有効期限のある「パスポート」から、「写真」をはぎ取ってくださろうとしたことは、私には、忘れられない思出です。(無論、辞退しましたが。) なお、「写真」は、その後、木下尚子氏に、提供していただきました。) 東京帝大の「副手」となります。
(サ″s)
その副手時代、小川五郎氏の情報提供を受け、「土井ヶ浜」の地を調査され、「弥生式土器片」を採集され、三宅宗悦氏に送られています。 この「弥生式土器片」の採集が、後に金関丈夫氏が「土井ヶ浜」の発掘調査に踏み切られる一因となっています。 なお、駒井氏は、東京大学の教授となっておられます。) ・斎藤 忠氏(東大卒業後、京都帝大の浜田耕作氏のもとで、研究され、「土井ヶ浜遺跡」に関わるほとんどの方と交友をお持ちです。 また、「土井ヶ浜遺跡」の発掘調査、「国指定」申請当時は、「文化財保護委員会」におられました。
・島田貞彦氏(京都帝大の浜田耕作氏のモトで、研究されていた方で、小川五郎氏の「美濃ヶ浜遺跡」の発見を旧制「山口高等学校」の
斎藤氏は、単に「視察・調査」に訪れられただけではなく、短期間ではありましたが、発掘作業現場にも出向かれて、その人柄から、中央≠フ偉い先生であるのに、発掘作業を手伝った婦人たちから、「長府博物館」の伊秩洋子氏の話では、チュー先生=Aチューさん≠ニ、親しみを込めて呼ばれていたとのことですし、斎藤氏も、むしろ喜んでおられていたといいます。 (偉い先生として、敬意を持たれながらも、親しみを持たれるという、その「人柄」は、ずいぶんと後年のことになりますが、私に対しての接し方からも伺うことができました。) 「文化財保護委員会主任調査官」から、東大教授、さらには、大正大学教授として指導され、退官後も、考古学全般について、研究、お世話をつづけておられます。 今年=平成22年にいただいた「賀状」にも、・・・一○二歳の初春を迎え 考古学一筋の道を元気に歩んでおります・・・≠ニありました。) 全校生徒の前で絶賛され、小川氏が「考古学」に進路を取られるきっかけ≠作られます。)
(タ″s)
・田中 晃氏(山口大学や山口県立大学の学長を勤められた哲学者。 小川五郎氏の友人として、小川氏が「考古学」への道を取られるきっかけ≠フ証言をしてくださっており、小川氏の葬儀委員長もなさっています。)
・椿 惣一氏(小学校長を経て「長府博物館」の館長であった当時、旧知の、衛藤和行氏が、「土井ヶ浜」で出土の「貝製品」を持ち込み
意見を聞いた際、鏡山猛氏に伝え、鏡山氏が九大の同僚で「弥生人の研究」を志しながらも、肝心の「弥生人骨」が見つからず、困っていた金関氏に、鏡山氏が伝えたことが、「土井ヶ浜遺跡」発掘調査に繋がったワケで、「土井ヶ浜遺跡」の陰の功労者≠フ一人とも言える方です。)
・坪井清足氏(「朝日賞」受賞の「考古学者」。
「台北帝大」から、古巣の=u京都帝大」の「人類学」の出張講義にでかけていた金関丈夫氏の講義の受講者であったことから、学徒動員での「台湾」で、金関氏との交流が深まり、「土井ヶ浜遺跡」発掘調査の実質的な発掘責任者として協力をされます。
(ナ″s)
「土井ヶ浜人類学ミュージアム」が開館されるきっかけ≠ニなる「迫力ある£壕モ」をされたということも、忘れられません。) ・永井昌文氏(九州大学解剖学教室において、金関丈夫氏のもとで、「土井ヶ浜遺跡」研究の協力をするとともに、 金関氏の後継者として、九州を中心とした「人類学」関係の調査・研究のにおいて多大な貢献をされた方。
・乗安和二三氏(「山口県教委」「山口県埋蔵文化財センター」において、「考古学」関係の仕事をされ、業績を残しておられる方ですが、
九大を金関氏が退官された後、引き続き、「土井ヶ浜」の人骨の研究をされていました。 私の「土井ヶ浜の発見・発掘史=vの「調査」において、終始、協力してくださいました。) かつて、『図説発掘が語る日本史 5 中国・四国編』=新人物往来社刊〈昭和61(1986)年6月〉の「弥生人の生成 −砂丘に眠る人々−土井ケ浜遺跡(1)」
(ハ″s)
という箇所を担当された際、少しばかり「疑問」があったことを指摘すると、検討をしてくださり、 『山口県史』、『豊北町史』において、 「土井ヶ浜遺跡」の執筆を担当されるに際し、私の「発表」を踏まえた記述をしてくださった、ありがたい「研究者」です。 ・浜田 敦氏(浜田耕作氏の次男で、耕作氏と同じ京都大学の教授となられていますが、専門は「国語学」です。 私の「土井ヶ浜研究」に際し、面識のない私からの「電話」に対して、終始、親切に対応してくださり、貴重な「証言」や多くの「資料」を示してくださいました。
・浜田耕作氏(京都帝大の考古学研究室の初代教授となり、「日本近代考古学の父」と呼ばれる多大な貢献をされた方。
一度、京都「東福寺」近くのお宅をお訪ねしたのですが、あいにく、ご不在で、その後、急逝され、結局、お目にかかることはありませんでしたが、たびたびの「電話」、多くの「書簡」で、教示いただいたことは、私のささやかな研究≠ノとって、本当にありがたいことでした。) その「研究室」は、お茶の時間≠ノは、「カフェ・アーケオロジー」と呼ばれ、多くの京都帝大の先生方のみならず、学生も加わって談笑する「場」となっていたといいます。
・春成秀爾氏(「論文」の執筆にあたり、父=英男に対して、昭和6年の「土井ヶ浜」からの人骨の出土地点を尋ねてこられました。
この「カフェ・アーケオロジー」での談笑≠ヘ、斎藤忠氏によると、「学問」研究のヒントを掴む場でもあったそうで、ここにおいて、他大学=京都府立医科大学の学生であった三宅宗悦氏も、しばしば加わっており、清野謙次氏が助手として、自分の研究室に招くきっかけ≠作ることになります。 そのことで、「小児科医」としての道を歩むはずであった三宅氏を、「人類学者」へと導くことになったのです。 松本清張の『断碑(だんぴ)』における、「熊田良作」は明らかに「浜田耕作」氏です。 在野≠フ「考古学研究者」で、大変な業績≠あげながら、奥さんともども悲劇的な人生≠送り、考古学の殉教者≠ニ呼ぶ人もあるという「森本六爾」氏を主人公=木村卓治≠フモデルにした「作品」ですが、 彼(卓治)を京都に呼んだのは京都大学の学長になっていた熊田良作である。この温厚な考古学界の長老は卓治の窮状を見かねたのだった。彼の才能を前から認めていたのである。何かの名目を与えて、自由に考古学教室に出入りをゆるした。≠ニあります。) 著名な「考古学者」の一人ですが、その真摯な態度には敬意を表したいと思います。 (マ″s)
おかげで、父の示した「出土地点の地図」が、今日まで残ることになりました。 春成氏から「礼状」と「抜き刷り」が来ていたことを知っていましたから、私は、春成氏にお願いして、「コピー」をいただき、『山口県地方史研究』に掲載しています。) ・三坂圭治氏(「山口県地方史」の権威者。小川五郎氏、三宅宗悦氏と同窓。 「国衙の研究」でも、全国的に著名な方です。)
・三宅宗仙氏((三宅宗悦氏の祖父・孝明天皇皇子祐宮(後の明治天皇)が御重態に渉らせ給ひ、典医等に拝診を仰付けられ≠ス際、
万一、御寿命あらせられざる節は、潔く自裁して御詫仕る♀o悟で治療にあたり、お救い申し上げたといい、そのことが、柔子さんの渡辺剛二氏との結婚に関わりをもつことになったといいます。
・三宅宗悦氏(京都の十代に及ぶ「医家=三宅家」に生まれ、旧制「山口高等学校」で学ばれ、小川五郎氏らと「考古学」に取り組まれます。
そして、その剛二氏との結婚が、三宅宗悦氏を「土井ヶ浜遺跡」に結びつけることになったのです。 ) それは、高校生離れ≠フ業績として、絶賛されています。
・三宅柔子氏(三宅宗悦氏の姉・「宇部興産会長」の渡辺剛二氏夫人。「ホトトギス」の同人。)
京都帝大の清野教室において、助手であった昭和6年、「土井ヶ浜」からの人骨の出土を、小川氏から受け、来村調査をし、当時の「人骨資料」との比較の結果、「古墳人骨」とされ、『防長史学』という『山口県地方史研究』の前身≠ニもいうべき地方≠フ「研究誌」に、「報告文」を執筆しておられます。 金関丈夫氏の弟弟子%I立場にあったことから、その「報告文」は、金関氏のモトにも届けられています。) (なお、三宅宗悦氏を中心とした邂逅≠フさまとして、「ページ」を設定しています。)
なお、「土井ヶ浜遺跡」の、三宅宗悦氏の来村調査当時、河野英夫と記していましたので、三宅氏の「報告文」にある「河野英夫」は、三宅氏の誤りではありませんし、その三宅氏の「報告文」を引用した多くの「ウェブ」にある「河野英夫」も、「河野英男」と同一人物です。 (備考) ここでも、「本文」や「解説」の部分はともかく、つながり≠フある人として掲げるのに、誤り≠ニ思われる記述なり、「証言」をしている人物をあげるのは疑問があるので、示しません。 |
● 「野村望東尼」とのかかわり 父=英男は、「土井ヶ浜」出土の「人骨」を、最初に=A「元寇の役」の時の「蒙古人」のものではなく、「日本人の人骨」だと認識したことで、何度も「機会」を与えられ、研究発表を重ね、「理科教諭」として、認められることになりました。
そして、「防府市」の「松崎小学校」へと、招かれることになったのです。 ただ、私どもの母=ユリコは、「豊浦郡神田村」(現 下関市)に、父一人を残すことになる(母親=サナは、ユリコが12歳の時、亡くなっています)ため、「防府」への転勤には反対でした。 当時としては少なかった「女子師範学校」を卒業し、椿惣一氏から、下関市の中心部の大規模校への誘いをお断りして、「実家」に近い「神玉小学校」に着任していたわけで、当時の「交通事情」からして、[防府市〜神田村]はとても往き来しやすい距離ではありませんでした。 そこで、断られることを想定して、ユリコも一緒に、「防府市」への「転勤」をお願いしたのです。 ただ、ユリコは、「女子師範学校」出身の教員であるため、早くから、重い任務を引き受けていたわけですし、椿氏からの誘いもあったように、ごり押し≠ニいうワケではありません。 「文化財」関係の仕事をなさっていた井上十六氏は、私に「あなたのお母さんは、この田舎から、家事一切を引き受けなが女子師範に合格されており、お父さん以上の人でしたよ。」とおっしゃってくださっています。 その結果、二人とも「防府市」に転勤することになったワケですが、母も「華浦小学校」という「松崎小学校」に劣らぬ歴史ある学校に移動することになりました。 母の勤務する学校に近い方が便利だからとして、お世話していただいた「二階家」が、困ったことに雨漏りすることがわかり、わずか半年後に、近くに空き家ができたので、そこに移ったワケです。 ただ、その「家」が「野村望東尼」に関係する「家」だとは、知りませんでした。 ところが、昭和29年に、「防府市」で亡くなった野村望東尼の墓・終焉の場を「史跡」として、「指定」しようという動き≠ェ出てきたのです。 ただ、終焉は、「荒瀬家」だったのですが、既に、「荒瀬家」→「池田家」→「林川家」→「杉家」へと所有者が移っていただけではなく、「終焉の場」とされる「荒瀬家の離れ=vは、林川氏の時代、林川の所有地があった「桑山」の東麓に移築されていたというのです。 その「移築までして保存」しているということで、「県指定」となりました。 その移築までして保存≠ウれている「荒瀬家の離れ=vというのが、私の両親が、林川氏が、東京に移るからとして、「購入」するか、「空けるか」と持ちかけられ、「購入」し、増築をしていた「家」だったのです。 「指定」の申請は、我が家でしたものではありませんが、当時、「県教委」の「社会教育課文化係長」だった父は、自らはタッチ≠オないということで、「申請」に同意しました。 「山口県指定文化財保存顕彰規程」における「指定」でしたが、「山口県条例」になるに当たって、見なし規定がされず、検討されましたが、「野村望東尼関係」の[墓・旧宅地・移築された終焉の室]は、[墓・旧宅地・移築された終焉の宅]として、「指定」されました。 そして、両親が亡くなって、私が管理することになるのですが、平成18年2月に亡くなった母の晩年には、「桑山」からの山水が流れ込むようになってしまい、「床下浸水」を毎年のように繰り返すようになってしまいました。 そうした「住めない家」なのに、「管理」しなければならない私なのに、困ったことに、「指定」されている「家」が、望東尼とは関係ないといった情報≠ェ少なからずあることに気がついたのです。 まず、望東尼の亡くなった「離れ」だから移築したハズの林川家の方が、「指定されている家は、望東尼とは関係ない」という証言をされているというのです。 望東尼研究の必読書≠ニも言われている、春山育次郎氏の『野村望東尼傳』にも困ったことがありました。 まず、春山氏自身の執筆部分に、わざわざ防府まで来て、「荒瀬家」には、「離れ」があるのに、夾竹桃1本≠オかない荒瀬家の「抱家」で亡くなった家を見たとありました。 さらに困ったことは、その『野村望東尼傳』の原稿が所在不明であったのに、発見されたからとして、「福岡県」における著名な「地方史研究家」である筑紫豊氏が、翻刻されるに際し、防府の柳星甫氏の『星穂随筆』から、望東尼の亡くなったのは、空き家となっていた家に住まわされ、望東尼は不満を持ちながら亡くなったという「証言」部分のみを引用して紹介しておられるのです。 望東尼は、どこで亡くなったかによって、望東尼の晩年は大きくちがってしまう≠フです。 更に困ったことは、「指定」を受けていることで、あたかも、いい目を見ている≠ゥの如き、噂≠ウえ、耳に入ってくる始末なのです。 持ち出しこそあれ、いい目≠ネどとんでもないことです。 それに、「山口県地方史」の権威≠フ一人とされる人も、「抱家」と記している始末。 そして、望東尼研究家として、堅実に、調査を踏まえておられる谷川佳枝子氏からは、「空き家」説があるが、実際はどうなのか教えてほしいという依頼があったのです。 谷川氏は、書く前に、調べるという、研究者として立派な方です。 私は、その谷川氏の「問い合わせ」を契機に、これまで調べてきたことを[HOME PAGE]として作成することにした次第なのです。 結論だけ述べておきますと、 望東尼は、荒瀬家の主家で、多くの人に看取られながら亡くなったのだが、それは、死の間際であり、生活そのものは、荒瀬家の「離れ」、つまり、指定されている、私の「管理」している「家」でしていたのだということになります。 「指定」解除していただければ一番よいのですが、当面、そう遠くない時に訪れるであろう、「解体」までは、負担は、ほぼ100%、私がすることとて、「望東尼ゆかり≠フ家」として、できるだけ長く保存できるようにしていこうということです。 なお、「桑山」から流れ込む山水を裂けるための道路工事は、既に、「自治会長」さんを通じて、お願いしてあります。 O 「野村望東尼」記述 に関して登場していただいている方々 (五十音順)
・兼清正徳氏(「県教委社会教育課」の主事→文化係長→「山口県文書館館長」→大学教授)
・上山喜誉氏(「防府望東尼会」の会長) ・谷川佳枝子氏(望東尼研究の第一人者。 多くの著書があるほか、[HOME PAGE]としても、野村望東尼のページなるものを作成しておられます。)
・奈良本辰也氏(「歴史家」として、特に「幕末史」関係の著作や監修が多く、著名な方。山口県大島郡出身で、父=英男にくださった「手紙」が残っています。)
(備考) ここでも、「本文」や「解説」の部分はともかく、つながり≠フあるとして掲げるのに、誤り≠ニ思われる記述なり、「証言」をしている人物をあげるのは疑問があるので、示しません。 |
(参考) 平成22年1月10日現在、「ウエブ」に見られる 柴 一実 氏の「戦後理科教育改革関係資料の研究(V)」 (広島大学大学院教育学研究科紀要 第一部 第56号)
(99頁)に
(2)昭和21年度の優秀な科学教育実践校及び関係者 2)優秀な科学教育関係者及び団体 として、(1)〜(26)上げられている中の (9)河野英男(防府市松崎国民学校)─(推薦理由)電気機械その他物象方面の指導に優れ、継続観察に独自の指導を発揮した。 と紹介していただいています。 |
● 「文化財」関係(含む 「萩焼」)においてのかかわり 父=英男は、「県教委社会教育課」に、「理科教育」面の仕事をすべく、着任しますが、当時は、少人数で「社会教育全般」を担当していたこととて、「文化財関係」の仕事も、何度となく担当していましたが、その仕事ぶりを評価していただいて、それまでの「国宝保存法」等によって保護されてきた「文化財」を、新たに制定された「文化財保護法」によって保護していくことになって、新しく設けられることになった「文化係」の「初代係長」にしていただきました。 それは、小学校へ転出するまでの間、続くわけですが、「太平洋戦争」を挟んでいたこととて、大変な時代だったようです。 「キジヤ台風」による「錦帯橋」の流出や、「秋吉台」の「爆撃演習問題」、「秋芳洞のエレベーター問題」など、多くの問題に直面しています。 「重要文化財」の本格的な「解体修理」にも、数多く関係することになりました。 ところで、「文化財保護法」は、その基本構想として (一)保護対策範囲の拡大 従前より保護されていた国宝や史跡名勝天然記念物のほかに、あらたに無形文化財と埋蔵文化財を保護対象として採り入れた。 (二)行政機構の整備と中央地方の協力 文化財保護行政の妙味ある運用とその徹底を期するため文化行政にふさわしい機関と地方公共団体の協力の必要を認め、文化財保護委員会を新設するとともに地方公共団体に対する相当広範囲の権限委任を行つた。 (三)文化財の重点的保護 従前の文化財保護行政の混乱は、保護対象の多すぎたことにもその一半の原因のあることを認め、将来の保護文化財は国力とにらみあわせ、厳選主義をとることとし、また従前の国宝を国宝および重要文化財に、史跡名勝天然記念物を特別史跡名勝天然記念物および史跡名勝天然記念物の二段階に分けて、国宝と特別史跡名勝天然記念物の保護を優先的に行うこととした。 といった点を掲げていました。 この新しく設けられた「無形文化財」の「保護・指定」は、「陶芸史」上、エポックメーキング的な「展開」≠促す要因になったとして位置づけられるベキだと、私は思っています。 その典型としてのあゆみ≠ェ「萩焼」にあるのです。 (私は≠ニするのは、残念ながら、そうした「理解」をしていないと思われる情報≠ェあるからです。) いわば、父=英男は、その「証言者」の一人≠ネのです。 しかし、「萩焼」の記述は、父=英男の残したハズの「資料」や「証言」とは無縁≠ノなされたのみならず、中でも、「三輪休和遺作展」の開催に伴って、「朝日新聞」の白石明彦記者が、「山口版」に「休和物語」として「連載」していた最中、おかしい≠ゥら、せめて「資料」だけでもみてほしいという「要請」をしたのに、「山口立美術館」の館長、学芸員等の「証言」に基づいているから「その必要は認めない」として、「訂正」されなかったのみならず、ほぼそのまま≠、『萩焼人国記』として、「出版」してしまったのには困りました。 しかも、その『萩焼人国記』は、古書市場で、高い評価を受けていたのです。(受けていた≠ニいう「過去形」にしたのは、私の[HOME PAGE]の影響があってかどうか、現在では、一般的な価格≠ノなっているからです。) その記述は、三輪休和氏についてだけではなく、当然≠フように、休和氏のあゆみ≠サのものが、「萩焼史」、「陶芸史」に関わることですし、更には、関連して、本来は、書かれるハズのないことまで言及されており、そのまま≠ノしておくことはできないと、私は思いました。 私は、白石氏が「資料」を見ることさえ拒否したため、上司にあたると思われる「朝日新聞西部本社」の「学芸部長」にもあたりましたし、白石氏が、「東京本社」に栄転していったため、東京築地の「本社」にも行きました。 「広報部」にも、何度も「手紙」や「電話」を繰り返しています。(一度は、分厚い≠烽フを、「箱島社長」宛に、「書留」で送っています。 「広報部」からの「手紙」による「回答」は一度切りでしたが、「電話」でのやりとり≠ヘ、すべて、「録音」しています。その「録音」も、「録音していることを、相手に伝えたうえでのことです。 しかし、その「対応」はあきれたものでした。) 私は、当然=A父から聞いていた内容や「資料」だけに頼ってはいません。 当時≠フ「資料」を探して、「京都」、「東京」の「図書館」や「資料館」にも行きましたし、当時≠知る方々を求めて、歩き回りました。 そして、驚くほど好意的≠ノ接してくださる、本当の意味の一流≠フ方々と出会えたのです。 その中のお一人である林屋晴三先生は、過去の記述について、「マスコミ」はまず、訂正することはないだろうといわれ、「山口なら榎本君がいるだろう。榎本君に話してみなさい。」という助言をしていただきました。 しかし、榎本氏は、会って話を聞いてくださったものの、進展はありませんでした。 河野良輔氏にも、あたりましたが、ダメでした。 公的≠ネ「肩書」のある人や「機関」が、いつの間にか=A正しいもの≠ノしており、以後は、その正しいもの≠ェ「典拠」となって、後世に伝わっていくというのが、一番、望ましいことだと考え、河野良輔氏、榎本徹氏、「山口県文化振興課」に当たったのですがダメでした。 その結果が、私の手で[HOME PAGE]を作成するということだったのです。 なお、一流の執筆者=A一流の出版者=A公的な機関≠ェ出している情報≠ナ、私の書こうとしていることと矛盾≠キるものについては、「問題点」の指摘≠ニ、「訂正」をお願いしました。 ありがたいことに、その幾つかは、私の「調査」に沿った「内容」を取り入れてもらっています。 一方、私の[HOME PAGE]も、相当数のアクセス≠していただくことができ、新たに「萩焼」に関する「記述」をする場合、当然=A参考にするハズの「人物」や「事項」において、[Google]や[Yahoo]の「検索」で可能になっており、私の、「資料」を「スキャナ」で取り込んでの「記述」は、無視≠ウれることはあるまいと思っています。 そのまま≠取り入れることはないかも知れませんが、少なくとも、その「資料」をどう位置づけるかには言及しないではおれないハズだと思っています。 (例えば、榎本氏の場合は、多くの業績のある方なのに、お気の毒にも、榎本徹≠ナ「検索」すると、私の作成した「ページ」が初っぱな≠ノでており、きっと困っていらっしゃると思いますが、河野良輔氏がお亡くなりになった現在、「萩焼」を語る場合には、榎本氏抜き≠ナは語れないと思います。 従って、「萩焼」について語ろうとするには、榎本氏に関する「ページ」で、私の指摘していることにも、当然=A言及せずにはおれないと思いますので。) O 「萩焼」記述 に関して登場していただいている方々(五十音順) (カ″s)
・河井寛次郎氏(「人間国宝」制度のあゆみ≠語るために、言及しています。 「北大路魯山人」氏と共に、「人間国宝」の推挙を断った方です。
・北大路魯山人氏(不遇な境遇の中から、「書」・「陶芸」・「美食」において、立派な実績を残された方です。
なお、「ラジオ深夜便」での対談を耳にしたことをきっかけにして、寛次郎氏の孫に当たる、河井寛次郎記念館の「学芸員」である鷺 珠江氏にお願いして、いろいろとお答えいただいたことを、記しています。 貴重な「証言」≠セと私は思っており、鷺氏のご親切には、感謝しています。) 亡くなられた今日も、各地で「陶芸展」が開催され、多くの人々をあつめていますし、漫画『美味しんぼ』にも登場してきます。
・久保庭伊佐男氏(社団法人日本工芸会 事務局長。清水卯一氏の助言で、「日本工芸会」に「昭和33年」に「正会員」となった
その「人となり」については、いろいろいう人がいますが、とにかく、大人物です。 決して、経済的には恵まれているとはいえなかった晩年に、小山先生から「人間国宝」となることを再三、勧められながらも受けられませんでした。 寛次郎氏と共に、「人間国宝」制度について、語るために、その名をあげさせていただいています。) 「陶芸関係」の人物を「電話」で尋ねた際、どうしたことか、電話口で対応してくださった女の方の答えは、その後、「山本陶秀」氏に関する記述と矛盾が生じ、岡山県教委の横山氏のアドバイスで、再度「手紙」で尋ねたところ、「文書」にして、改めて、久保庭氏が、「事務局長」として答えてくださいました。 ・小山岑一氏(小山冨士夫氏の長男。
その「回答」をアップしていますので、「萩焼」関係以外の「資料」としても、役立つものと思います。) 「陶芸家」であり、昭和55(1980)年 「日本工芸会正会員」、昭和62(1987)年 「日本陶磁協会賞」受賞。
・小山冨士夫氏(「文化財保護法」のモトでの「無形文化財」指定・認定の基礎を作られた方であり、
「萩焼」の事実≠踏まえぬ「記述」がなされているため、既述したように、「柳 宗悦全集」が「筑摩書房」から「企画」されるに際し、その「全集」の中に、「山口県在住」の人物との「手紙」を取り入れるということを知っていたことから、 当然=u小山冨士夫全集」なるものも、同様に「企画」されるハズだと思った私は、「全集」の中に、「萩焼」に関する父=英男への、冨士夫氏からの「書簡類」をいれていただくことで、「萩焼の歴史の歪み=vをただしたいと思い、「鎌倉」の家を訪ねました。 すると、岑一氏は、「全集の話は、幾つもあるのだが、あまりに膨大で、時間的な余裕がなく、お断りしています。父の手紙を公表されても結構ですから、どうぞ、あなたの思うようになさってください。」と、私の持参した、幾つかの「手紙」を確認されぬまま、私にその扱いを一任してくださったのです。 しかも、それだけでなく、批判・中傷≠ェ出て来ることを予想されたのでしょうか、私が小山邸訪問の後、東京に出て、二日後に帰宅してみると、わざわざ、私が冨士夫氏の「手紙」を使うことを、認めるということを書いた「手紙」が届いていたのです。 なお、この時、私のために、かなりな時間を割いてくださり、いろいろと興味ある話が伺えました。 北大路魯山人氏の「人間国宝」への推薦のことについても、冨士夫氏は、一度ならず再三、受けるよう、話されていたということも、証言してくださいました。 冨士夫氏は、轆轤の使えぬ陶工≠ナある魯山人氏を、敢えて、再三、推されていたということは、「陶芸史」の中において、今後も忘れられることはないと思われます。 事実=A魯山人氏の「作品展」は、今日に至るも、「人間国宝」であった人以上に、数多く企画・開催され、多くの人々が押しかけているのです。) その「人間国宝」、「日本伝統工芸展」が
「陶芸」に与えた影響は計り知れず、「陶芸史」・「文化史」を語る場合、今後も決して忘れれられることのない業績を残された方といえると思います。
・高麗陶兵衛氏(現在の「田原陶兵衛」の「11代」にあたりますが、昭和18年の「工芸技術保存資格者」という「陶兵衛」氏は、この方です。)
「朝日新聞社」から「小山冨士夫賞」なるものが設けられています。 「萩焼」にとって、恩人≠ニもいうべき方であり、[あのひと検索スパイシー=小山冨士夫]の中に、幅広い人脈をお持ちの中に、父=英男の名も加えていただいていることは、父にとっては、この上ない喜びであろうと思います。 ただ、父=英男にとっては、この上ない方ではあっても、小山先生から見た場合は、大した存在ではないと思われます。 その内、「整理」されるに従い、削除されていくだろうと、思っています。) (サ″s) ・酒井田柿右衛門氏(「人間国宝」制度のあゆみ≠語るために、言及しています。 父=英男は、「12代」には、お会いしたことがあるといっていましたが、私は、「人間国宝」なるものに、プール≠ニいう考え方があることを「推測」するために、「12代」・「13代」・「14代」の名前を使わせてもらっています。)
・坂倉新兵衛(12代)氏(「人間国宝」制度の始まった時点における「萩焼」の第一人者≠ナした。
ただ、「日本伝統工芸展」を舞台に、競う≠ニいう時間≠ほとんど持てないママ、亡くなられたため、「作品」は、多様≠ニはいえませんが、非常に魅力ある「作品」を残しておられます。
・坂倉新兵衛(14代)氏(12代坂倉新兵衛氏の三男で、民間会社に勤務されていたのですが、
この新兵衛氏への『萩焼人国記』の評価≠ヘ、困ったもので、その是正が、私の[HOME PAGE]作成の「理由」ともなっているのです。) 長兄の死によって、29歳にして、窯を受け継ぐことになったのです。
・坂田泥珠(13→14代泥華)氏(「山口県指定無形文化財に、三輪壽雪、14代坂倉新兵衛両氏と同時期になられています。
しかし、その遅い出発でありながら、その「作品」は高く評価され、既に、昭和35年には、磯野風船子氏が、『陶説』誌上において、「坂倉新兵衛父子展」としての「萩焼秀作陶芸展」でのことを、 ・・・坂倉新兵衛展に足を踏み入れた時、わたしは之はイカスぞと思ったのである。入口の正面にある、花彫の大壷(1)が、形といいさく行きといい立派なものである。おどる心をおさえながら見て行くと、いい壷が沢山ある。 中央にあつた壷は、高麗の井戸の壷と同じような形の優れたものである。模様を彫ったものが特に良い。伝統の不識形水指(2)、梅鉢水指なども決して単なる模倣に終って居ない。 茶碗に至っては、感嘆久しうした。無雑作に十数個一処くたに並べてあつたが、力が充実して居てどれもどつしりして居る。作りつけた型物を機械的に作ったのとは全く違う。欲しいなと思ったものが数個あつた。表千家と裏千家の銘のものに優れたものがあった。 わたしが署名して居るのを見て、息子さんが名乗りをあげて来た。なかなかいいじゃないですか。あの壷がよいと花彫大壷を指さしたらあれは自分が作ったのだと云う。ぐるつと見て回つたら、自作だと云うものが全部よろしい。聞いて見ると次男で、長男が逝くなつたので跡を取るようになつたと云う。・・・ と、絶賛しておられます。 「山口県指定無形文化財」になられていますが、残念ながら、若くして亡くられています。 なお、「13代」は、亡き長兄=光太郎氏に、12代が「追贈」されているため、「13代 坂倉新兵衛」という「作品」は存在しません。) 「13代泥華」として立派な「作品」、特に「井戸茶碗」を作っておられます。
・清水卯一氏(石黒宗麿氏に指示した「陶芸家」で、若いときからその「力」は注目されていました。
ただ、ご子息=慶造氏の「調査」で、一代#んでいたことがわかったそうで、「日本伝統工芸展」において、「山口県」から始めて「大賞」を受賞し、その活躍が期待されていた慶造氏が亡くなられたことから、みずからを「14代」と名乗りかえ、慶造氏に「15代」を追贈されています。) 「日本工芸会」発足時は、その若さ≠ゥら、「支部会員」からの出発でしたが、昭和32年には、「記録選択」の「萩焼」の12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏らとともに、「正会員」に推挙されています。
・鈴木健二氏(九州工芸大の教授等を勤められた美術評論家。
「日本伝統工芸展」での何度もの受賞や、各種「展覧会」において多くの賞を受けておられ、「人間国宝」にも、認定されておられます。 私が、「第3回日本伝統工芸展」の『図録』での扱いからして、いつ、「日本工芸会」の「正会員」になられたかが、知りたく、電話したところ、突然の、見ず知らずの私に対して、とても親切に対応してくださいました。 しかし、「休暇」になってからお訪ねしようとしていたのに、急逝してしまわれ、お会いできないママになってしまったのは、とても残念に思っています。) その「著作」からして、「人間国宝」制度のあゆみ≠ご存知だと思い、まず、「電話」でと思い、「電話」したところ、見ず知らずの私に、長時間、温かく、対応してくださいました。
(タ″s)
ご病気で、退院されてから、間がない時期だったということは、後で知ったのですが、そのことはおくびにもだされませんでした。) ・田中作太郎氏(「東京国立博物館」の「陶磁室長」、「考古課長」等を歴任された陶磁器研究家として著名な方。 昭和32年の「萩焼古窯発掘調査計画」の際の、「萩古窯総合調査会」代表ですが、この「計画」は、延期(中止)になりましたが、このことを『萩焼 やきものの町』なるもので、まるで事実≠ノ反することが記述されているため、小山氏、田中氏からの「書簡」をやむなく、とりあげています。)
・田原陶兵衛(12代)氏(12代の陶兵衛氏も、遅く「陶芸」の道に入られますが、昭和56年、「山口県指定無形文化財」になっておられます。
その「香合」を父=英男は好み、干支すべてを所蔵していました。)
(ナ″s)
・中野霓林氏(「唐津」から「萩」へ来て、作陶していた方で、父=英男は、その人柄にも惹かれて、親しくさせていただいていました。 ) ・中ノ堂一信氏(「人間国宝」認定の方が、「作品」が出来なくなった場合には、認定解除≠ニいう「規定」があるが、実際にその「例」が あるかどうかを、明快に答えてくださった方です。
(ハ″s)
私がお会いした当時は、「東京国立近代美術館」におられました。) ・浜田庄司氏(「益子」で作陶された「人間国宝」。 「日本工芸会」において、指導的な役割を果たされたといいます。
・林屋晴三氏(昭和23年に「国立博物館(現東京国立博物館)」に入られ、「無形文化財」・「日本伝統工芸展」の当初≠ゥら関わっておられ、
先日の「ラジオ深夜便」において、上野焼の高鶴元氏が、「日本伝統工芸展」で、「会長賞」を連続受賞された話がありましたが、「小山先生、浜田先生がおられたから、認めていただけた」といったことが語られていました。) 工芸課長、資料部長次長を勤められた、小山氏と共に、「陶芸界」をリード≠ウれてきた、代表的な「美術評論家・陶磁史研究家」です。
・藤本菊二氏(「県教委社会教育課長」、「山口県教育長」等を勤められた方で、傑物≠セと評されています。
私に、親切にアドバイスをしてくださった方でもあります。) 「萩焼」の「無形文化財」への「二人申請」等において、藤本教育長ならではという「対応」をしてくださいました。)
(マ″s)
・三輪壽雪(休→11代休雪)氏(三輪休和の弟。休和氏の「次」の「人間国宝」であり、その「作品」は、「鬼萩」、「紅萩」等、 いろいろと探求され、茶の呑めない抹茶茶碗にも意欲的に取り組まれています。
・三輪休和(10代休雪)氏(昭和31年の、「萩焼」の「重要無形文化財」への「指定申請」当時から、「萩焼」のために尽力され、百歳を間近にした現在も、作陶に取り組んでおられると、「テレビ」で放映していました。 なお、私自身も、お目にかかったことがあります。) 「萩焼」最初の「人間国宝」として認定されました。 (ヤ″s)
そのあゆみ≠ヘ、「萩焼」だけでなく、「陶芸史」という視点≠ゥらも、特記されるべきものと思われます。) ・大和保男氏(大和三兄弟のうちの「春信」氏の子息。 昭和34年の「第二回 日展」に入選、以後も入選を重ね、「現代陶芸」のエース%I存在だったのですが、「伝統工芸」に移ります。
・吉田萩苑氏(三輪休和氏のモトで作陶を始めるが、休和氏が「無形文化財」への指定申請・「日本伝統工芸展」での発表を機に、そして、その「現代陶芸」での体験≠活 かして「作陶」にあたり、昭和63年には、「山口県指定無形文化財萩焼保持者」として「 認定」されています。 ) 個人≠ニしての「作家活動」を始められるに及んで、天鵬山窯に招かれて移り、
そこで、作陶するとともに、多くの陶工を育てています。 なお、その後、「玉隆山窯」を開窯し、そこにおいても、若い陶工を育てています。 ただ、残念なことに、萩苑氏は、若くして亡くなってしまいましたが、陶工≠ニいうイメージ≠フぴったりする、魅力ある人物でした。 「日本伝統工芸展」には、まったく、関心を示されなかった(と思います。) 私の駄作≠ナ、「俳句誌」の選には入りませんでしたが、 陶工の無念の涙や曼珠沙華
という「句」は、その萩苑氏について詠んだものです。
萩苑氏の「作品」を愛し、萩苑氏に父は、「作品」に注文≠つけて依頼していたのですが、約束の期日が過ぎているのに、「作品ができない」と、たまたまでしょうが、いささか赤ら顔で答えた萩苑氏に、父=英男が大声で叱責したので、萩苑氏の「窯」に付いていっていた私が、びっくりして、「ごめんなさい。」と詫びた際、 「いえ、私がダメだからです。」 と、言われながら、思わず一筋流れた涙を、私は美しい≠ニ思ったものです。 萩苑氏の「作品」は、数多く、父の所蔵として、今日も残っています。 なお、萩苑氏の育てた中でも、小久保凌雲氏は、その代表的な人物で、萩苑氏同様、「伝統工芸展」には無関係≠ノ活動を続けていますが、「萩陶芸家協会」の確か、発足当時から、「理事」となっているハズです。) なお、O 「萩焼」以外≠フ「文化財」関係 で登場していただいている方々 (五十音順) ・海老原喜之助氏(「山口県美術展」の審査員として、お出で願っていたことがあります。) ・藤島亥治郎氏(既述) ・本田正次氏(「文化財専門委員」で東大名誉教授であった本田氏にも、「山口県」はお世話になっています。 「恩徳寺の結びイブキ」の「指定」などはその代表的なものですが、
・安田天山氏(「雪舟の庭」で有名な「常栄寺」のご住職だった当時、戦後、手の付けられないような状況にあった「庭」を、一度は整備した日吉神社の社殿の周囲のオガタマノキの群生の調査の時は、「調査」に先だって、地元の人達が、親切≠ノ、下草や下木を刈り払ってお迎えしたのてすが、「当の木はよく現れていたものの、原生的様相を失った」としてお小言をいただくことになったといった後世≠フ「参考」になりそうなこともあったと言います。) 直後、再び、大洪水に見舞われるということがありましたが、安田氏を中心とする、容易ならざる力添えで、復旧されたということがありました。
安田氏には、気軽に、筆を取っていただき、多くの書き物をしていただいています。 特に、「陶片居古美術研究所」と書いていただけた時には、父は喜んでいました。 昭和61年に、京都の名刹「東福寺」の管長として移られました。) (備考) ここでも、「本文」や「解説」の部分はともかく、つながり≠フある人として掲げるのに、誤り≠ニ思われる記述なり、「証言」をしている人物をあげるのは疑問があるので、示しません。 |
昭和三十三年四月一日 山口県徳山市公立学校長に任命する 山口県教育委員会 昭和三十三年四月一日 山口県徳山市立櫛浜小学校長に補する 山口県教育委員会 昭和三十七年四月一日 山口県山口市市立大殿小学校長に補する 山口県教育委員会 昭和三十七年四月一日 山口県小学校長会事務局長を命ずる 山口県小学校長会 昭和三十七年四月一日 山口県小学校教育研究会事務局長を命ずる 山口県小学校教育研究会 昭和四十一年四月一日 山口県小学校長会・小学校教育研究会副会長を命ずる 山口県小学校長会 ・山口県小学校教育研究会 昭和四十二年四月一日 山口県小学校長会会長並小学校教育研究会会長を命ずる 山口県小学校長会・山口県小学校教育研究会 昭和四十四年三月三十一日 願に依り本職を免ずる 山口県教育委員会 |
昭和四十四年〜 山口県退職校長会の結成に関与、会長→名誉会長 昭和四十五年十一月二十一日 山口県選奨を受ける 山口県知事 昭和六十二年六月二十三日 病没 |