● 事実≠ニはかけ離れたとんでもない°L述
─ 小山先生への直訴=@ 昭和32年12月11日付 「手紙」─
「渉外」担当の佐藤進三氏を飛ばして≠フ2通の「手紙」−その2−
▼ 昭和32年12月11日付 「手紙」
差出人 河野英男
受取人 小山冨士夫先生
(「山口県」の罫紙にカーボン紙を利用して英男本人が 複写したものの控え分)
拝啓 浜松よりのご芳書拝見いたしました。課長、文化係にも見ていただきました。私達も県行政の立場から手続(埋蔵文化財)その他、土地の陶匠との交渉にしましても窯元も相当多く業者間の感情も考慮の上進めて行くべき大きな問題でもありますので、その手順で進むべきと考えています。県教育庁・市教委・市・陶匠の話が先達ってお知らせしましたように異っています。
十二月十日日曜日午後三時半長門市・湯本坂田泥華の息子が山口県教育庁を訪れました。当日、私は天然記念物日本犬顕彰につき山口県日本犬保存会を設立すべく会議に出ていました。そこで泥華の息子と三時半から四時半まで話をしました。その概要をお知らせします。
泥華氏の息子が先達って上京した際、佐藤氏と会いました。佐藤氏より坂窯発掘の承諾書を出されて、之と同じ形式の坂倉新兵衛氏の承諾書を出していただくよう申しつたえてくれと一件書類をことづかって持ちかえったそうです。そして新兵衛氏を訪れ渡しておきましたから、その後の様子はわからない、と申しておりました。しかし、その時先日お知らせしましたように『掘ることは結構なことだが私は承諾はしていない。それで市の方にお願いし、掘れるものか掘れないものか、位置、現在の窯との関係、その他のことを専門的に調査する、決して発掘に対しての反対をするものではなくて実□上掘ることが不可能と思う』と新兵衛氏は申しておられました。調査後確定すると申しても現在発掘の意志はないと思料されます。
なお泥華の息子にあなたは「発掘を快だくした」と佐藤氏から十月二十日朝、湯田の千才世から電話で聞いたがと申しますと、決してそんなことは云っておらぬ、そうした事業は結構だが、掘る承諾はしておらぬと申します。このような事情で私達は、地元の発掘に対しては承諾の問題はむづかしいと思います。地元の事、市教委、窯元の話と佐藤さんの話が違っていますので如何としたものかと案じています。
又、萩の方は、市・市教委と佐藤さんの話が違っています。坂氏は承諾書を出したが、如何だったでしょうかというような次第です。
先生より直接、坂倉新兵衛氏、坂田泥華氏におそれいりますがご一報いただければ大変しあわせます。決して県教委がとめているのではありません。何とか出来ぬものかと思いますが、最初申し上げましたよう行政的に処理をしなければ私達の立場もありませんので。
右ご返事まで
昭和三十二年十二月十一日
河野英男
小山冨士夫様
[参考] 泥華の息子≠ヘ、「山口県指定」の「13代」(後に、14代≠ニ名乗りかえ、泥珠≠ニ号す)のことです。
「先代」は、戦争から無事帰ってきた「息子」に、在世中に、泥華を譲っていたのですが、父=英男らは、「先代」を泥華≠ニいっていたようです。