(参考)
清原枴童氏については、ここに引用する『事・辞典』を初め、大半の情報≠ヘ正しい≠フですが、 少なからず=A拐童となっているものがあります。 |
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この二つの「事・辞典」に記述されている俳句誌「木の実」の「解説」では、「枴童」・「静雲」両氏のことが記されていますが、 「枴童」・「静雲」両氏の「解説」では、「木の実」のことは触れられていませんので、 「木の実」の「記録」として、 「枴童」・「静雲」両氏と「木の実」とのことを明確≠ノするとともに、 更には、「木の実」が、「枴童」氏→「静雲」氏→「山鹿桃郊」氏へと繋がること、 及び、「枴童」・「静雲」両氏の「雑詠選」を中心とした指導あっての「木の実」のあゆみ≠ナすので、 できることなら、「枴童」・「静雲」両氏にとっても、「木の実」を指導なさっていたという「記録」 が、今後、「俳句」関係の諸文献においても、していただけることを願って、残しておきたいと思います。 |
◎ 俳句誌「木の実」 と 河野 静雲氏、清原枴童氏について 「あのひと検索スパイシー 河野静雲」という「サイト」があります。
それによると、「その他」という所に 「清原枴童」があり、クリック≠キると、一番上に、俳句誌「木の実」についてという、この「ページ」が「リンク」されていますし、 また、「木の実」もあって、クリック≠キると、一番上に、やはり、俳句誌「木の実」についてが「リンク」されているだけでなく、5番目(=最後)にも、句誌「木の実」650号記念合同句集の「リンク」があります。 私の[HOME PAGE]もそれなりに℃Q考にしていただいているようです。 (平成22年2月21日現在)
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「木の実」のあゆみ≠ノついて |
「木の実」の創刊号について
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「河野静雲」への「選」の依頼へ
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私の「考察」 やはり、吉田一穂氏の「文」から、抜き出してみると、 昭和33年、巴峡氏は製鉄所を年満退職され、それを機会に「木の実」の編集を辞退された とあり、 そのため、皆で相談して、山鹿桃郊氏に引き受けていただくように、是非にとお願いしたとあります。 桃郊氏は、早くから河野静雲氏の指導のモトで、「俳句」を作ってこられており、枴童氏の流れ≠引き、静雲氏が主宰されていた「冬野」にはもちろんのこと、 「昭和22年4月」の「木の実」復刊「第一号」の11人の中1人として、「木の実」でも活動しておられたのです。 桃郊氏は、 編集についても、殆ど人手を煩わすこともなく、印刷も先生の御人格に傾倒している隆文堂の犠牲的な援助によって、立派な「木の実」が発行されることとなった。 ・・・おかげで「木の実」は隆昌の一途を辿ったのである。 とも吉田氏は記しておられます。 この吉田氏の「文」からすると、昭和30年からというのは疑問で、昭和33年からということになりますが、 巴峡氏が八幡製鉄所を退職されたのは昭和30年ですから、 吉田氏の記憶の誤り≠セと思われます。 なお、このように見てきますと、初代の清原枴童氏、2代目の河野静雲氏が、「雑詠」の選者として、「作句」を指導してこられ実質的≠ノは「主宰」と同様なのですが、この山鹿桃郊氏からが、「雑詠選」、「編集」、「経営面」にも気を配られるという、名実°、に、「主宰」であったといえようかと思います。 (なお、河野静雲氏にとって、弟子≠ナあった桃郊氏が「木の実」の「主宰」に推されたことは、望まれたことであったでしょうし、本来≠フ「冬野」の「主宰」としての活動に専念され、昭和49年1月24日に亡くなられています。) |
選後俳話 向野楠葉 「木の実 393号」(昭和55年12月25日発行)より ・・・今月は三百三十名を越える選集の投句に少々悲鳴をあげました。 約十年と言う歳月の流れに感慨を覚えております。 私が引きつぎました当時は大黒柱の桃郊師の急逝で会員諸君の動揺が激しかったことを思いますとき、止むを得ない事情であったとはいえ、今月は当時の二倍の投句者にふえて来たことは、会員諸兄の協力の賜であり、又各地区公民館活動等の指導者の方々の御尽力によるものと感謝しています。 同時に編集委員の方々の一方ならぬ努力の結果であろうと存じます。 然し投句が増加して来たことのみを手放しで喜ぶべきかどうか、私達はここで初心に立ちもどって反省すべきではないかと思います。 要は選集の一句一句が充実したものであるかと言うことです。・・・ (参考) 「北九州市立文学館」の宮地里果氏によると、
「木の実」の「昭和47年10月号(通巻295号)」巻頭の「木の実同人一同」名義での山鹿桃郊追悼文「合掌」に 今日北九州に於ける伝統俳句の中心となり、六〇〇人の会員を擁する迄に発展しました事は、先生の高い指導力とあの包容力の賜でありまして、その蔭に奥様はじめ御家族の功を見逃すことは出来ません。 という記述があるそうです。 「会員」であっても、定期的≠ノ「投句」するというのではなく、できた時に「投句」するという、「作句」を楽しまれる方が、かなりおられるということでしょうか。 |
「山鹿 桃郊」・「向野 楠葉」・「河野 頼人」については、次をクリック≠オてご覧ください。 ● 「山鹿 桃郊」について ● 「向野 楠葉」について ● 「河野 頼人」について |
◆ 永島 巴峡 さん追悼 (平成4(1992)年10月刊の『若き日の日記より』の167〜170頁) 春暁や見開いてゐる子の瞳 永島 巴峡
十二月三日夜永島巴峡さんが死去された。
巴峡さんのことは、本誌上で度々述べたことではあるが、新しい誌友のために「木の実」のルーツを知悉しておいて貰いたいと思い、十二月五日巴峡さんの葬儀に「木の実」の代表としてささげた弔辞の概略をここに誌しておきたい。 「謹んで故永島巴峡さんの霊前に、『木の実』を代表してお別れの言葉を申し上げます。
貴殿のご入院を知ったのは、去る十一月二十日北九州俳句協会幹事会の席上でありました。 翌日サッ引く入院先の西野病院院長西野雨邨さんに電話して全力を尽して診療をお願いしたのでありますが、お見舞に参るひまが無いまま、十二月三日雨邨院長から巴峡さん危篤の電話を受けたのであります。 意識不明の貴殿とついに言葉を交すことなく永別せねばならなかったことが悔まれてなりません。 私たちの『木の実』俳誌が初めて世に生まれ出たのは、藤久雨夜史さんを編集責任者として、永島巴峡、巴城兄弟、藤本和理子、量兄弟など十数名の八幡在住の俳人によって同人誌として、昭和二十二年四月一日創刊されたのであります。 ところが昭和二十三年五月十五日、『木の実』の最もよき指導者であった清原枴童先生の急逝により、編集責任者雨夜史さんは、枴童先生追慕のあまり三十四歳の若さで、かつて先生とともに吟行した津屋崎の宿で自らの命を絶つという俳句界ではかつてない痛恨事に遭遇したのであります。 その時の遺書の一部をここに述べて見ましょう。 『永島巴峡、巴城、量その他木の実の諸氏に簡単に別れを告げる。 時間がないのだ。 私は命のある限り木の実をつづけると約束したことがあった。 私は死の直前までガリ版を切りつづけた。 私の切ったものだけは印刷して発表して下さい。 木の実の命を全うしなかったことを詫びる。 巴峡さん、さようなら 羽蟻とぶ今生の燈を今消しぬ 藤久雨夜史 』
このような悲痛な絶唱を残して雨夜史さんは死を選んだのでした。 二十三年九月号から巴峡さんが責任者として、終戦後の物資不足の中でガリ版を切り、月々発行という大きな責任を負って苦難の毎日を送って来られたのでした。 三十年三月貴殿は会社を停年退職されて編集から手を引かれたのでありますが、その間の御苦渋は察するに余りあるものがあったと存じます。 三十六年から(ママ)山鹿桃郊師が引継がれ、爾来北九州地区で堅実な地盤を固められ、現在のような活版印刷の立派な俳誌として発展して来たのであります。 四十七年十月桃郊師の逝去によりまして、会員諸兄の推挙により私が引継ぐこととなり今日まで十五年間なんとか発行をつづけて参ることが出来ました。 その間三百五十号、四百号、四百五十号という記念すべき大会を迎えることが出来ましたのも、先輩である巴峡さん初め、吉田一穂、是永□城、上原朝城、村岡籠月さん達の暖かい御協力によるものであります。 六十四年秋には五百号というまことに輝かしい記念号を発刊することを期しております時、二代目編集長として功績のあった貴殿をここに失ったことは、まことに痛惜に堪えないところであります。 貴殿の大正から昭和にかけて『ホトトギス』は勿論多くの俳誌に発表された句業を一書にするため、昨年来その発刊をお勧めして参ったのでありますが、貴殿は遠慮しつづけて参られました。 本年になって本田幸信君の熱心な進言により漸く内諾されましたので、句集上梓の緒についたことを喜んでいたところであります。 なんとか生前貴殿の健やかなお顔の前に、句集をさし上げたいと念じていましたのでしたが、遂にその念願を果たすことが出来ず残念でなりません。 なお句集名は、生前貴殿が私にお洩らしになさった『春暁』という題名に致したいと思っております。 貴殿の代表作である前出の秀句から、思いつかれたものでありましょう。 終りに善興園老人ホームから長い間投句をつづけていただいた事を、心から感謝致しまして、近作をここに論じて御冥福を祈りたいと思います。 日の目見し故人の蔵書黴匂ふ 永島 巴峡 涼しさは心の扉開きしより 同 秋風やしづかなわれと人の云ふ 同 巴峡さん、何とぞ安らかにお眠りください。 そして泉下より『木の実』をいつまでも見守っていただきたくお願い致します」 私の手許に巴峡さんからいただいた大正十三年六月一日発行の『ホトトギス現俳人住所録』という小冊がある。 巻首に「『雲母』十周年を記念して、いささか俳壇に貢献するところなかるべからず」という所存の下に本書を編集すると記してある。 福岡県の頁は、筑前、筑後、豊前と区別してあり、筑前の部の初出に、 巴峡 兄永島喜右衛門(製鉄所従業員)
八幡市平原仲町五丁目
巴城 弟永島伝六 (同右) 同
枴童 清原枴童 (工業) 福岡市橋口町 豊前の部には、 久女 杉田久子 (無職) 小倉市堺町四十一
方舟 日原兼吉 (会社員) 門司市大阪商船会社内 夫々私が知った俳人の名をあげたが、河野静雲師の名はついに見出すことが出来なかった。 巴峡、巴城句兄弟として、当時よりすでに全国的にも高名であったのであろう。 私が入門早々の昭和十一、二年頃枝光で浴場を経営し俳誌「無花果主宰の矢上蛍雪さんの句会に招かれたとき、二階の大広間に居ならぶ俳人の上座に、巴峡、巴城さん句兄弟がいつも坐っていられたことを、今も鮮かに思い出すのである。 八十歳を過ぎてなお句作欲は衰えず次のような佳作を発見したので、ここに挙げて御冥福を祈りたい。
恍惚の人ともならで病める秋 永島 巴峡
寝たきりの身にせめてもの羽根布団 同 生きてゆくのみの起居ゆ寒きびし 同 カーテンに春暁の色渺れる 同 |