平成19年7月25日   公開
平成22年2月26日 更新 

● 俳句誌「木の実」について



(参考)

清原氏については、ここに引用する『事・辞典』を初め、大半の情報≠ヘ正しい≠フですが、
少なからず=Aとなっているものがあります。



『俳文学大辞典』

   「角川書店創立五十周年記念企画[1995(平成7)年10月刊]

● 木の実(このみ)
          302頁

俳誌。
昭和二二(1947)・四、福岡県八幡市(北九州市)で創刊。
月刊。
代表  清原枴童(かいどう)。
師系は高浜虚子・皆吉爽雨(みなよしそうう)。
写生を標榜しつつ、作品には主情の裏付けを説き、清新な抒情の開拓をめざす。
昭和二三年、河野静雲が代表を継ぐ。
同三○年、山鹿桃郊が主宰となり、同四七年、向野楠葉が継承。
平成六年(1994)二月、楠葉の逝去により河野頼人が主宰となる。
平成六年四月号で通巻五五三号。
                           [阿部誠文]

清原枴童(きよはらかいどう)       228頁

俳人。
明治一五(一八八二)・一・六〜昭和二三(一九四八)・五・一六、六七歳。
福岡県生れ。
本名、伊勢雄。
高浜虚子に師事。
虚子は「進むべき俳句の道」で、自由さをもった枴童の技巧を称賛した。
大正四年(一九一五)から博多毎日新聞に勤め、同紙俳壇選者となる。
同一三年に「木犀」を創刊。
昭和五年、朝鮮に渡り木浦新聞社に入社、朝鮮俳壇で活躍。
同一三年から福岡に住んだ。
句集に「枴童句集」(昭和9)ほか。
 句「月ありと見ゆる雲あり湖の上」

                        [坪内稔典]

河野静雲(こうのせいうん)        280頁
俳人。
明治二〇(一八八七)・一一・六〜昭和四九(一九七四)・一・二四、八六歳。
福岡市生れ。
本名、定運(じょううん)。
僧侶。
神奈川県藤沢の遊行寺学林時代に「ホトトギス」を知り、高浜虚子に入門。
大正一二年(一九二三)、帰福し称名寺に寄寓。
昭和五年、清原枴童(かいどう)の「木犀」を継ぎ、同一六年、「冬野」を創刊主宰。
人間味溢れる滑稽句が特色。
同二四年、福岡県太宰府町(太宰府市)に花鳥山仏心寺を建て住職になる。
 句集「閻魔」(昭15)「閻魔以後」(昭48)。
  句 「ルンペン氏わらひのぞける冬夜宴」 
                      [岡部六弥太]


向野楠葉(こうのなんよう)        280頁
俳人。明治四四(一九一一)五・二一〜平成六(一九九四)・二・五、八二歳。
福岡県生れ。
本名、利夫。
九州医専卒。
眼科医。
昭和一〇年(一九三五)、皆吉爽雨(みなよしそうう)に師事。
「雪解」(ゆきげ)同人。
同四七年から「木の実」を主宰。
句集「柳絮」(昭19)「遠賀野」(昭39)「先島」(昭58)。
  句 「往診の舟に会釈し泳ぎをり」
                              [行方克巳]
  

『現代俳句大事典』

〈三省堂刊〉[2005(平成17)年11月20日発行]

● 木の実(このみ)     230頁

一九四七(昭22)年四月、福岡県八幡市(現、北九州市)で、清原枴童(かいどう)を代表として創刊。
師系は高浜虚子。
四八年、河野静雲が代表を継ぎ、五五年には山鹿桃郊が主宰となった。
七二年、皆吉爽雨(みなよしそうう)に師事していた向野楠葉が主宰を継承し、活躍。
写生の上に、清新な抒情を目指す。
九四年二月、楠葉死去により永く編集に携わった河野頼人が主宰を務める。
同人には植木南汀、川原友江等。             
                             [寺井谷子]  

清原枴童(きよはら・かいどう) 
一八八二・一・六〜一九四八・五・一六
             192〜193頁

福岡県福岡生まれ。
本名、伊勢男。
九州日報社員、のち博多毎日新聞社入社。
俳句は一九〇四(明37)年より作句、一三年より「ホトトギス」へ投句、高浜虚子に師事。
二五年、福岡市から「木犀」(もくせい)を創刊し主宰となる。
吉岡禅寺洞(ぜんじどう)との旅で、〈俳諧の旅に日焼けし汝かな〉と虚子に詠まれた。
禅寺洞、河野静雲(せいうん)とともに福岡ホトトギス俳壇の基礎をつくる。
三〇年、朝鮮に渡って木浦(モッポ)新聞の南鮮俳壇選者として俳人育成につとめ、三八年帰国。
〈長命縷かけて流るる月日かな〉、 〈さやさやと夕ぐれ近し青簾〉、 〈露の世のもめを淋しく坐りをり〉
等、静謐(せいひつ)の句風で知られる。
句集に「枴童句集」(三四・六 素人社)、「枯蘆」(四三・一二 近澤書店)がある。
                          [岩岡中正]

河野静雲(こうの・せいうん)
一八八七・一一・六〜一九七四・一・二四              221頁
 福岡県福岡生まれ。
本名、裏辻定運。
一八九二(明25)年、称名寺住職河野智眼の養子となる。
一九〇五年、時宗宗学校卒業後、二三年、福岡に帰り称名寺に寄寓(きぐう)、四九年、太宰府市観世音月山に花鳥山仏心寺を創建。 俳句は一四年より「ホトトギス」に投句、高浜虚子に師事。
二四年、清原枴童(かいどう)主宰の「木犀」創刊に参加、三〇年枴童が朝鮮に転じたのちこれを継承主宰する。
三四年、「ホトトギス」同人。
四一年、福岡県下五誌合併によって生まれた「冬野」を没年まで主宰。
六四年、西日本文化賞受賞。
句集に、「閻魔」(四一・三)、「閻魔以後」(七三・一一 西日本新聞社)がある。
〈生きてゐて相逢ふ僧や一遍忌〉や〈盆布施のきばつてありしちとばかり〉
等、人生の哀歓を詠んだペーソスあふれる句で有名。     
[岩岡中正]






「左」=清原枴童氏、「右」=河野静雲氏
(川原友江さんからお借りした「木の実 400号記念号」から、「スキャナ」で取り込みました。)




この二つの「事・辞典」に記述されている俳句誌「木の実」の「解説」では、「枴童」・「静雲」両氏のことが記されていますが、
「枴童」・「静雲」両氏の「解説」では、「木の実」のことは触れられていませんので、
「木の実」の「記録」として
「枴童」・「静雲」両氏と「木の実」とのことを明確≠ノするとともに、
更には、「木の実」が、「枴童」氏→「静雲」氏→「山鹿桃郊」氏へと繋がること
及び、「枴童」・「静雲」両氏の「雑詠選」を中心とした指導あっての「木の実」のあゆみ≠ナすので、
できることなら、「枴童」・「静雲」両氏にとっても、「木の実」を指導なさっていたという「記録」
が、今後、「俳句」関係の諸文献においても、していただけることを願って、残しておきたいと思います。


◎ 俳句誌「木の実」 と  河野 静雲氏、清原枴童氏について

「あのひと検索スパイシー 河野静雲」という「サイト」があります。
それによると、「その他」という所に
清原枴童があり、クリック≠キると、一番上に、俳句誌「木の実」についてという、この「ページ」が「リンク」されていますし、
また、「木の実」もあって、クリック≠キると、一番上に、やはり、俳句誌「木の実」についてが「リンク」されているだけでなく、5番目(=最後)にも、句誌「木の実」650号記念合同句集の「リンク」があります。

私の[HOME PAGE]もそれなりに℃Q考にしていただいているようです。
(平成22年2月21日現在)




「木の実」のあゆみ≠ノついて



大正13(1924)年=清原枴童、「木犀」創刊。
昭和5(1930)年=清原枴童、韓国へ。河野静雲、「木犀」を引き継ぐ。 
昭和13(1938)年=清原枴童、病のため、帰国。
昭和16(1941)年=河野静雲、福岡県下五誌合併によって生まれた「冬野」の「主宰」となる。
昭和22(1947)年4月清原枴童を指導者として、「木の実」を創刊。


「木の実」の創刊号について 



河野頼人         「松明の如く─『木の実』の創刊号─」〈「木の実 四百号記念号」〉より)

「木の実」の胎動は、既に昭和十四年にあること、本号所載の吉田一穂・上原朝城のお二人の文章に見え、それ以来長い歩みを積み重ねて来ているのであるが、当時の様子は現在知るすべもないので、実質的に「木の実」の創刊号ともいえる昭和二十二年四月発行の第一号を紹介したい。



吉田一穂   「『木の実』創刊号より四十七年まで」〈「木の実 四百号記念号」〉より)     

昭和初期に於ける八幡市枝光は、官営製鉄所本事務所の所在地であったところから、所謂職工町らしからぬムードを持った地区で、文化的な胚胎もあって、俳句の面でも矢上蛍雪を中心としたグループが出来、その中の一人永島巴城の手によって、昭和十三年頃三、四人の試作品発表の機関誌として「木の実」が発行されたようである。
当時既に清原枴童先生の御指導を受け、昭和十四年四月二十九日河内湖畔に吟行された折の「心太山のみどりにすすりけり」という佳吟が残されており、その後戦時統制時代に入って休刊となったが、昭和二十二年四月に「木の実」十一号として復刊された。





私の「考察」

大正13(1924)年=清原枴童、「木犀」創刊
昭和5(1930)年=枴童は、現在の「韓国」へ行くことになり、河野静雲に「木犀」の主宰を委ねます
昭和13(1938)年に、健康上の理由から、韓国から帰国した枴童は、「木犀」の顧問的立場にいましたが、帰国して間もない頃から、帰国とほぼ同じ頃、職場仲間数人で発行の「木の実」の指導をされるようになっていたようです。

そして、戦争の激化により、休刊のやむなき状況を経て、昭和22年4月に、復刊された「木の実」は、頼人によると、
11人の93句
(清原枴童=3句・池田嘉録=10句・米村石蓑=10句・永島巴峡=10句・永島巴城=5句・山鹿桃郊=10句・政近鷹児=5句
・藤本和理子=10句・藤本 量=10句・藤久雨夜史=10句・森川素香=10句)
を掲載
し、
末尾に


藤久雨夜史   「木の実に寄す」     

永い間土に埋れてゐた木の実は、陽春漸く芽をふいて来ました。
・・・
私達同人は土の下から必ず新しい芽をふき出す事を忘れない。お互の俳句がもつ逞しい生存と個性の力を、湿れる松明の如く燃しつづけませう。
昭和二十二年四月一日     雨夜史


とあるそうです。

ただ、吉田一穂氏の文は、「昭和22年4月」の「復刊号=十一号=vを記した後、
そして翌二十三年四月に十二号として、復刊一周年記念号が出され、現在の「木の実」誌の第一号となった。
と続いています。
つまり、「木の実」の号数の数え方が問題になるわけです。
戦前の「十号」までは、「木の実」の「号数」には含めていないことは、他の方と共通ですが、
「昭和22年4月」を「第一号」としない根拠≠ェわかりませんし、初めの頃は、「号数」も記されておらず、更に、必ずしも定期的≠ノ、発行されていないようで、
かつ、「木の実」全号を確認するすべ≠ェないという現状≠ノおいては、
河野頼人が、
第一号の発行メンバーの一人である永島巴城さんの旧蔵のものという「木の実」を所蔵(大きさは現在と同型。表紙は無地でクリーム色)しており、
その昭和二十二年四月一日刊の「木の実」の「左上」に、
永島氏の手で
「木の実 22.4 1号」と墨で直書きがあることを根拠≠ノ、
「昭和22年4月」「第一号」
としているのでよいのではないかと思います。
なお、向野楠葉氏も、昭和22年2月清原枴童指導により藤久雨夜史が創刊した北九州唯一のホトトギス系俳誌≠ニしておられます。
(ここでは2月≠ニなっていますが、平成4(1992)年10月刊の『若き日の日記より』に収められている「永島巴峡さん追悼」おいては、
昭和二十二年四月一日創刊(168頁上段17行目)としておられます。
(なお、この「永島巴峡さん追悼」には、「木の実」の初代の編集責任者=%。久雨夜史氏、2代目の編集責任者=♂i島巴峡氏の御苦労を記しておられますので、後に「転載」しています。この「下線部」をクリックされればそこへ飛べます。)

また、事実の「問題」として、
河野頼人が「編集」に関わるようになるのは、「昭和54年1月号」からですが、
それ以前である昭和52年4月29日刊
木の実三百五十号記念合同句集『爽滴集』「後記」おいて、
昭和二十二年四月、故藤久雨夜史氏の編集によって創刊された木の実誌は、爾来多くの先輩によっ て、受け継がれ、郷土俳句の灯を燃しつづけて来ましたが、本年五月号をもって、三百五十号の年輪を 重ねることになりました。
とあるように、
「木の実」誌の号数が、昭和二十二年四月第1号≠ニして捉えられてきているということを、ここに記しておきます。


こうしたいきさつ≠ェあるということになると、「木の実」を清原枴童氏が立ち上げたというには、いささか、疑問がでてきそうですが、
「雑詠選」という実質的な指導者≠ナあった
それも、昭和十四年頃から引き続いているワケですから、
初代の「主宰」とみてよかろうかと思います。
事実≠ニして
清原枴童氏が「雑詠選」という実質的な指導者≠ナあったことから、河野静雲氏への継続≠燻け入れていただけ、さらには、静雲氏の直系の弟子≠ニして、「俳句」を学んでこられ、かつ、「木の実」の初期からの有力メンバーであった山鹿桃郊氏へと受け継がれているのです。




昭和23(1948)年5月16日=清原枴童、没。
昭和23(1948)年=河野静雲、「木の実」を引き継ぐ。


「河野静雲」への「選」の依頼へ 



吉田一穂   「『木の実』創刊号より四十七年で」     

しかしその翌年の五月十六日に枴童先生が突然逝去され、「木の実」にとっては大打撃を受けることになったのである。
・・・復刊第四号からは、河野静雲先生の雑詠選によって誌面を整え、再出発することとなった。
その時の編集責任者は永島巴峡、巴城兄弟であった・・・



私の推測=@    

吉田一穂氏の「文」によりますと、
清原枴童氏が急逝されたため、枴童氏と親しい河野静雲氏に、「雑詠選」を依頼し、編集は永島巴峡、巴城の兄弟が担うという形で「木の実」は発行されていった
ということになるようです。


昭和30(1955)年=山鹿桃郊、「木の実」を引き継ぐ。


私の「考察」     

やはり、吉田一穂氏の「文」から、抜き出してみると、
昭和33年、巴峡氏は製鉄所を年満退職され、それを機会に「木の実」の編集を辞退された
とあり、
そのため、皆で相談して、山鹿桃郊氏に引き受けていただくように、是非にとお願いしたとあります。
桃郊氏は、早くから河野静雲氏の指導のモトで、「俳句」を作ってこられており、枴童氏の流れ≠引き、静雲氏が主宰されていた「冬野」にはもちろんのこと、
「昭和22年4月」の「木の実」復刊「第一号」の11人の中1人として、「木の実」でも活動しておられたのです。

桃郊氏は、
編集についても、殆ど人手を煩わすこともなく、印刷も先生の御人格に傾倒している隆文堂の犠牲的な援助によって、立派な「木の実」が発行されることとなった。
・・・おかげで「木の実」は隆昌の一途を辿ったのである。
とも吉田氏は記しておられます。

この吉田氏の「文」からすると、昭和30年からというのは疑問で、昭和33年からということになりますが、
巴峡氏が八幡製鉄所を退職されたのは昭和30年ですから、
吉田氏の記憶の誤り≠セと思われます。
 

なお、このように見てきますと、初代の清原枴童氏、2代目の河野静雲氏が、「雑詠」の選者として、「作句」を指導してこられ実質的≠ノは「主宰」と同様なのですが、この山鹿桃郊氏からが、「雑詠選」、「編集」、「経営面」にも気を配られるという、名実°、に、「主宰」であったといえようかと思います。
(なお、河野静雲氏にとって、弟子≠ナあった桃郊氏が「木の実」の「主宰」に推されたことは、望まれたことであったでしょうし、本来≠フ「冬野」の「主宰」としての活動に専念され、昭和49年1月24日に亡くなられています。)


昭和47(1972)年10月15日=山鹿桃郊 没
昭和47(1972)年=向野楠葉、「木の実」を引き継ぐ。


選後俳話     向野楠葉  「木の実 393号」(昭和55年12月25日発行)より     

・・・今月は三百三十名を越える選集の投句に少々悲鳴をあげました。
約十年と言う歳月の流れに感慨を覚えております。
私が引きつぎました当時は大黒柱の桃郊師の急逝で会員諸君の動揺が激しかったことを思いますとき、止むを得ない事情であったとはいえ、今月は当時の二倍の投句者にふえて来たことは、会員諸兄の協力の賜であり、又各地区公民館活動等の指導者の方々の御尽力によるものと感謝しています。
同時に編集委員の方々の一方ならぬ努力の結果であろうと存じます。
然し投句が増加して来たことのみを手放しで喜ぶべきかどうか、私達はここで初心に立ちもどって反省すべきではないかと思います。
要は選集の一句一句が充実したものであるかと言うことです。・・・


(参考)
「北九州市立文学館」の宮地里果氏によると、
「木の実」の「昭和47年10月号(通巻295号)」巻頭の「木の実同人一同」名義での山鹿桃郊追悼文「合掌」
今日北九州に於ける伝統俳句の中心となり、六〇〇人の会員を擁する迄に発展しました事は、先生の高い指導力とあの包容力の賜でありまして、その蔭に奥様はじめ御家族の功を見逃すことは出来ません。
という記述があるそうです。
「会員」であっても、定期的≠ノ「投句」するというのではなく、できた時に「投句」するという、「作句」を楽しまれる方が、かなりおられるということでしょうか。


        ※河野静雲、昭和49(1974)年1月24日没。
平成6(1994)年2月5日=向野楠葉 没
平成6(1994)年4月=河野頼人、「木の実」を引き継ぐ。
平成19(2007)年3月=河野頼人の健康上の理由で、「701号」を「終刊号」として、ひとまず、終止符を打つ。


「山鹿 桃郊」・「向野 楠葉」・「河野 頼人」については、次をクリック≠オてご覧ください。



● 「山鹿 桃郊」について

● 「向野 楠葉」について

● 「河野 頼人」について











◆ 永島 巴峡 さん追悼
(平成4(1992)年10月刊の『若き日の日記より』の167〜170頁)

春暁や見開いてゐる子の瞳     永島 巴峡

十二月三日夜永島巴峡さんが死去された。
巴峡さんのことは、本誌上で度々述べたことではあるが、新しい誌友のために「木の実」のルーツを知悉しておいて貰いたいと思い、十二月五日巴峡さんの葬儀に「木の実」の代表としてささげた弔辞の概略をここに誌しておきたい。

「謹んで故永島巴峡さんの霊前に、『木の実』を代表してお別れの言葉を申し上げます。
貴殿のご入院を知ったのは、去る十一月二十日北九州俳句協会幹事会の席上でありました。
翌日サッ引く入院先の西野病院院長西野雨邨さんに電話して全力を尽して診療をお願いしたのでありますが、お見舞に参るひまが無いまま、十二月三日雨邨院長から巴峡さん危篤の電話を受けたのであります。
意識不明の貴殿とついに言葉を交すことなく永別せねばならなかったことが悔まれてなりません。

私たちの『木の実』俳誌が初めて世に生まれ出たのは、藤久雨夜史さんを編集責任者として、永島巴峡、巴城兄弟、藤本和理子、量兄弟など十数名の八幡在住の俳人によって同人誌として、昭和二十二年四月一日創刊されたのであります。
ところが昭和二十三年五月十五日、『木の実』の最もよき指導者であった清原枴童先生の急逝により、編集責任者雨夜史さんは、枴童先生追慕のあまり三十四歳の若さで、かつて先生とともに吟行した津屋崎の宿で自らの命を絶つという俳句界ではかつてない痛恨事に遭遇したのであります。

その時の遺書の一部をここに述べて見ましょう。

『永島巴峡、巴城、量その他木の実の諸氏に簡単に別れを告げる。
時間がないのだ。
私は命のある限り木の実をつづけると約束したことがあった。
私は死の直前までガリ版を切りつづけた。
私の切ったものだけは印刷して発表して下さい。
木の実の命を全うしなかったことを詫びる。
巴峡さん、さようなら
羽蟻とぶ今生の燈を今消しぬ      藤久雨夜史 』

このような悲痛な絶唱を残して雨夜史さんは死を選んだのでした。
二十三年九月号から巴峡さんが責任者として、終戦後の物資不足の中でガリ版を切り、月々発行という大きな責任を負って苦難の毎日を送って来られたのでした。
三十年三月貴殿は会社を停年退職されて編集から手を引かれたのでありますが、その間の御苦渋は察するに余りあるものがあったと存じます。
三十六年から(ママ)山鹿桃郊師が引継がれ、爾来北九州地区で堅実な地盤を固められ、現在のような活版印刷の立派な俳誌として発展して来たのであります。

四十七年十月桃郊師の逝去によりまして、会員諸兄の推挙により私が引継ぐこととなり今日まで十五年間なんとか発行をつづけて参ることが出来ました。
その間三百五十号、四百号、四百五十号という記念すべき大会を迎えることが出来ましたのも、先輩である巴峡さん初め、吉田一穂、是永□城、上原朝城、村岡籠月さん達の暖かい御協力によるものであります。

六十四年秋には五百号というまことに輝かしい記念号を発刊することを期しております時、二代目編集長として功績のあった貴殿をここに失ったことは、まことに痛惜に堪えないところであります。

貴殿の大正から昭和にかけて『ホトトギス』は勿論多くの俳誌に発表された句業を一書にするため、昨年来その発刊をお勧めして参ったのでありますが、貴殿は遠慮しつづけて参られました。
本年になって本田幸信君の熱心な進言により漸く内諾されましたので、句集上梓の緒についたことを喜んでいたところであります。
なんとか生前貴殿の健やかなお顔の前に、句集をさし上げたいと念じていましたのでしたが、遂にその念願を果たすことが出来ず残念でなりません。
なお句集名は、生前貴殿が私にお洩らしになさった『春暁』という題名に致したいと思っております。
貴殿の代表作である前出の秀句から、思いつかれたものでありましょう。

終りに善興園老人ホームから長い間投句をつづけていただいた事を、心から感謝致しまして、近作をここに論じて御冥福を祈りたいと思います。

日の目見し故人の蔵書黴匂ふ     永島 巴峡
涼しさは心の扉開きしより     同
秋風やしづかなわれと人の云ふ     同

巴峡さん、何とぞ安らかにお眠りください。
そして泉下より『木の実』をいつまでも見守っていただきたくお願い致します」

私の手許に巴峡さんからいただいた大正十三年六月一日発行の『ホトトギス現俳人住所録』という小冊がある。
巻首に「『雲母』十周年を記念して、いささか俳壇に貢献するところなかるべからず」という所存の下に本書を編集すると記してある。
福岡県の頁は、筑前、筑後、豊前と区別してあり、筑前の部の初出に、
巴峡  兄永島喜右衛門(製鉄所従業員)
八幡市平原仲町五丁目
巴城  弟永島伝六    (同右)           同
枴童  清原枴童     (工業)    福岡市橋口町

豊前の部には、
久女    杉田久子 (無職)  小倉市堺町四十一
方舟  日原兼吉 (会社員)   門司市大阪商船会社内

夫々私が知った俳人の名をあげたが、河野静雲師の名はついに見出すことが出来なかった。
巴峡、巴城句兄弟として、当時よりすでに全国的にも高名であったのであろう。

私が入門早々の昭和十一、二年頃枝光で浴場を経営し俳誌「無花果主宰の矢上蛍雪さんの句会に招かれたとき、二階の大広間に居ならぶ俳人の上座に、巴峡、巴城さん句兄弟がいつも坐っていられたことを、今も鮮かに思い出すのである。
八十歳を過ぎてなお句作欲は衰えず次のような佳作を発見したので、ここに挙げて御冥福を祈りたい。

恍惚の人ともならで病める秋   永島 巴峡
寝たきりの身にせめてもの羽根布団     同
生きてゆくのみの起居ゆ寒きびし    同
カーテンに春暁の色渺れる     同