平成22年9月25日 公開=@ 〈「萩焼のindex」に「リンク」〉
平成22年10月6日 更新
[Google]での「検索」で、小山冨士夫先生=E小山富士夫先生=≠ニもに「1頁目」、小山冨士夫==u6頁目」、小山富士夫==u2頁目」に出ていることを「確認」
 

●  小山冨士夫(小山富士夫)先生とのこと




● 小山士夫 か 小山士夫 かということ

小山先生について、調べてみますと、小山士夫が「正式」のハズなのに、小山士夫というものが多く、各地の「図書館」の著者名も、多くはそうなっているようです。
   (ただ、「図書館」の「検索」では、小山富士夫≠ナも、小山冨士夫≠焉u検索可能」になっている場合が多いとは思いますが。)

さらに、プロフィール あのひと検索SPYSEE [スパイシー]なるものがありますが、現在のところ、 小山冨士夫は、「会社社長」の方がメインで、小山富士夫の方が、「陶磁器研究家・陶芸家」の小山先生となっています。
ただ、小山富士夫小山冨士夫も、大半≠ヘ、「小山先生」に関する「ページ」の「紹介」となっています。

当然小山冨士夫の「ページ」の中に、私の「作成」した「ページ」が、あります。
私の「ページ」はともかくとして、多の方々の、正式≠ネ「小山冨士夫」で作成されている「ホームページ」や「著作物」が、見落とされる♂ツ能性があります。

このことに気がついて、私は、私の「ページ」の中で、小山士夫というのも、(  )にいれてみました。
(なお、考古学の[濱田耕作・浜田耕作]氏(新・旧の「字体」の違い)、建築学の[藤島亥治郎・藤島亥次郎]氏も、同様≠ノしており、両方≠ナ「検索」が可能になっています。)

しかし、残念なこと≠ノ、[平成22年9月24日]の時点では、残念ながら=A小山先生の場合、十分に機能しているとは言えません。

父=河野英男は、昭和二十年代の後半から、小山先生がお亡くなりになる昭和50年に至るまでの二十余年、親しくしていただき、小山先生、父=英男が共に筆まめであったとみえ、数多くの「書簡」類が残されていますが、富士夫とある「書簡」類一枚もなく、すべて=A士夫になっています。


「写真」は、小山先生からいただいた「年賀状」の中から、3枚を「スキャナ」で取り込んだものです。
小山先生からの「賀状」は、すべて、「お年玉くじ」のついた「年賀はがき」ですが、
全文「活字」というものは、「左」の「昭和37年」のような特別なもの°yび「喪中」の「はがき」(この場合は、「官製葉書」です)ダケで、
「昭和30年代迄」の「年賀状」は、「左」から2番目≠フように、 賀 春 は、小山先生の手書き文字の「印刷」、 小山冨士夫 は「活字」ですが、はっきり冨士夫とあるのが見えるハズです。
「昭和40年代以降」の「年賀状」は、「左」から3番目≠フように、 賀 春、 小山冨士夫 の文字とも、小山先生の手書き文字の「印刷」になっていますが、「筆字」でも、冨士夫と読めると思います。
なお、「昭和37年」には、「賀状」を2種≠「ただいています。
共に、「年賀はがき」ですので、同じ年≠フ「賀状」だということがわかっていただけると思います。
例年通り≠フ「形」の「賀状」をまずお出しになり、その後、何人かの方に、「訪欧」のことを記した「賀状」を出されたようです。(一方は「消印」があります)
そして、その何人か≠フ中に、ありがたいことに、父=英男も含めていただいていたということです。
と父が記しているのは、「文化財関係」の「賀状」だということです。
「左」の「賀状」には、例年≠ニ同じく、 賀 春 、「年号」、 小山冨士夫(活字) 、「住所」が記されています。
なお、「表」の「住所」は、「三田尻」の後の「桑山公園通り」が抜けていますが、後にも記していますが、父は、2000枚¢O後の「賀状」を出していましたので、防府市だけでも、届いていました。
なお、「三田尻」は、「防府駅」の旧名であり、「歴史」にも登場する「地名」で、かつては=A広い地域≠示していました。
(例えば、「野村望東尼終焉の宅」とされている、父の「家」は、今日では、[防府市岡村町五の三]となっています。)





なお、「昭和四十二年元旦」分のみは、 賀 春 は「手書き文字」の「印刷」ですが、 小山冨士夫  の文字は、万年筆で書かれています。
「住所」は「活字」で印刷されていますので私は、「まん中」の「はがき」のように、住所・宛名が、この「昭和四十二年元旦」のみ、小山先生の文字ではないタメ、小山先生らしい誠意≠フ表れとして、小山冨士夫のみは手書きにされたのであろうと、推測しています。
なお、「右」に示した「昭和四十三年」の「賀状」のように、小山冨士夫は、手書き文字の「印刷」に戻り、「宛名」も、小山先生の手書き、それも、「万年筆」ではなく、「筆字」に戻しておられます。

父=英男でさえ、「2000枚」前後の「賀状」を出していたため、「宛名」は、当然、「万年筆」、さらに、次姉=幾世を中心に、半数以上は代筆していたのですから、小山先生には、頭の下がる思いです。)

脇道にそれました。
モトにもどりましょう。
この父宛の「書簡」類からして、が、「戸籍」がどうなっているかはわかりませんが、小山先生は、小山士夫ではなく、小山士夫であると言ってよかろうと思います。

一般的?≠ネ小山富士夫だけでなく、小山冨士夫によって「アクセス」できる本来≠フ「ページ」があることを知っていただき、「確認」していただきたく
「タイトル」の箇所にある「人名・語句」は、[Google]や[Yahoo]の「検索」の最初≠フ方に出てくることが経験的≠ノわかっていますので、この 小山冨士夫(小山富士夫)先生とのこと という「ページ」を設けました。
このように (  ) に入れておくと、小山冨士夫ダケでなく、(  )の中の小山富士夫でも、「検索」が可能になるのです。
従って、小山富士夫と思い込んでおられる方にも、「注意」してもらえると思います。

なお、『陶の詩人 小山冨士夫の眼と技展 図録』には、小山先生と「萩焼」については、なんら触れられていませんが、「萩焼」のあゆみ≠ヘ小山先生あってのものですし、あろうことか、「萩焼」のあゆみ≠ェ事実≠ニは違った「形」で流布≠オていることから、小山先生のご子息の 小山岑一(こやま・しんいち)氏の御好意のモト、小山先生と父=英男とのささやかなつながり≠ノ係わる事実≠ニしての「萩焼」のあゆみを「作成」していますので、それらの「リンク」設定もしておこうと思います。

さらに、切角ですから、父=英男の大切にしていた小山先生の「色紙」も紹介しようと思います。











小山先生が「萩焼」の「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「指定申請」のタメに、自費≠ナということで、「来県調査」してくださった時の三輪休和(当時は 十代 三輪休雪)氏宅を訪れられた時の「写真」です。
「右端」が休和氏で、「左端」は、弟の節夫(当時の「号」は、「休」ですが、以後、「十一代 休雪」、「壽雪」と名乗られます)氏です。
そして、いらぬことながら、「左」から二人目が、父=英男です。
















「写真」は、小山先生のご葬儀の時、参列者に渡された中にあったものとのことでした。



● 父=英男が『陶片の楽書』で紹介している小山冨士夫先生についてのエッセンス

小山先生については、随所≠ナ語っていますが、古陶の秘鑰(ひやく) ― 小山先生・備前・そして種子島 ―の中から、抜き出しておきます。


▼ 二の章(474頁〜480頁)の中の(475頁〜448頁)より

 先生には、いろんな面でお世話になった。 何の件で文化財保護委員会を訪れたときであったろうか。その時そこにおられた先生方を紹介され、名刺の交換をした中に小山先生がいらしたのである。わたしの専門とする陶芸の権威である先生に初対面ながらお教えを請うと、丁寧に答えていただいたことから、先生とのおつきあいがはじまった。それ以後も、手紙の往復によるお教えは無論のこと、上京することになることがわかると、事情が許すかぎり、その途次での他の窯元を訪ねることを予定にくみ、先生に、あらかじめ紹介状なり予備的な知識の御指導をあおぐことにしたものである。備前焼、丹波焼、大谷焼、瀬戸などは、ことに印象が深い。さらに、先生の窯元調査におともさせていただいたことも幾度かある。
 さらに、忘れてならないのは、先生と萩焼との関係である。先生には、ご来県を願って萩焼の窯元の調査、ことに萩の人間国宝三輪休和先生、湯本の今は亡き十二代坂倉新兵衛先生の県指定への当時から随分お世話になったものである。国の無形文化財への指定申請(「指定申請書」を提出し、価値ありとされると、「記録作成」の選択をうけることになり、さらに、その「記録作成」を完了したのち、個人の技術に関するものについては再び検討してもらって、「重要無形文化財」)いうところの「人間国宝」へと進むのが手順であるが)をする前に、山口県では「県の指定」を受けることを前提としていてたが、当時は、その県の指定にも中央の権威者の推薦を必要とするしくみであった。当時、文化財保護委員会で陶芸関係を一人で背負っておられたのが小山先生であったのである。
 当時、率直にいって、萩焼は実力を世間的に十分に評価されていたとはいえなかったと思う。わたしはわたしなりに慎重に検討したあげく、私の目に抜きんでてみえ、かつ、他の諸窯にひけをとらぬとみえた十二代新兵衛、十代休雪(現休和)の両先生を、国レベルで評価してもらうことで、評価を高めるための、行政レベルでの手助けをしたく、上司にも理解していただいていた。そこで、先生にはっきり、単に県指定にとどまるのでなく、国段階まで一気にもっていきたい旨をお話した。先生は、そのとき、次のようなことをいわれた。
 「君の話だと、萩焼の宗家と目される窯元抜きで、しかも二人もということだが、もしダメということになると、君は立場的に困ったことになると思うが、それでもいいんだね。」
 わたしは、「よしゅうあります」とお答えしたが、先生は「考えておこう」とおっしゃって、来県のことはすぐには承知してくださらなかった。当時の萩焼に対する世評からすれば、とても二人が認められる状況ではなく、察するに、ともかく一人にしぼってみろということのようであった。それに、こうした場合、出張に伴う経費等は当時事者の負担ということになるので、おもわしくないものであったときの、後味の悪さも先生を気の重いものにしていたようであった。
 二人申請という線を崩さないままに、先生の来県がかなったのは、「九州へ出張することになるかもしれない。」という先生からのわたしに対するお手紙の一節をとらえたわたしが、強引に繰り込んでいただくようお願いしたからであった。みていただけさえすれば認めていただけると、わたしは確信に近いものをもっていた。
 かくして、先生に最初におねがいしてからほぼ半年後の昭和三十年秋、九州からの出張(たしか「小鹿田焼」の件でのことだったと思う)のお帰りにたちよっていただくことになり、厚狭駅でお会いし、ハイヤーで御案内することになった。
 まず、湯本三之瀬の新兵衛先生のところへ。昼前には到着したと思う。新兵衛先生の作品や仕事場をみていただき、その日は、湯本温泉の大谷山荘という旅館に泊まっていただき、翌日、萩の休和先生のところに向かったわけである。萩でも同じような日程で、夕方には、萩をあとにされた。
 さいわいにも、先生の鑑定は、わたしのそれとはほとんどかわらなかった。  かくして、先生の推薦をいただき、県の指定がされるとすぐさま、次の段階への準備にかかったわけである。この県の段階で、小山先生に来県ねがって、直接目にふれていただいていたおかげと、わたしたちのめざしていたものが最初から国段階であったこととがさいわいし、以後、順調にことがはこび、県指定の賞与三十一年八月におっかけて、同じ年度内の三十二年三月には、両先生そろって、「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」となられたわけである。時に新兵衛先生七十五歳、休和先生六十二歳であった。みていただきさえすればわかってもらえると、あれほど強気になれたのも、考えてみれば、小山先生に御指導をうけ、わたしなりに研究してきたからであった。また、いったんよいと思われれば、人々が驚くような二人指定もなしえ、かつ、異論がでないというのは、小山先生なればこそであった。
 この三十一年度「工芸技術の部」で選択された無形文化財は、
1 上絵付(黄地紅彩)  加藤土師萌(神奈川)
2 上絵付(色鍋島)     今泉今右衛門(佐賀)
3 織部        加藤唐九郎(愛知)
4 萩焼    坂倉新兵衛
        三輪休雪 (山口)
5 辰砂  宇野宗甕(京都)
6 青磁  宇野宗甕(〃)
7 瀬戸丸窯 加藤庄平 (愛知)
8 丹波立杭窯  丹波立杭窯保存会(兵庫)
9 紫根染茜染   栗山文次郎(秋田)
10 有松鳴海紋   愛知県絞技術保存会(愛知)
11 丹波布      丹波布技術保存会(兵庫)
12 黄八丈  黄八丈技術保存会(東京)
13 存清   香川宗石(香川)
14 蒔絵用具   小宮又兵衛(東京)
15 能代春慶   石岡庄寿郎(秋田)
16 飛騨春慶  飛騨春慶技術保存会(岐阜)
17 螺鈿 片岡華江(東京)
18 布目象嵌 鹿島一谷(〃)
19 木画   木内省古(〃)
20 木版画      (〃)
21 七宝       (愛知)  
                    (「文化財要覧」昭和三十一年版)
であり、かくして、萩焼の中央への第一歩は、着実に踏みしめられたのであった。萩焼の今日と、小山先生との関係に浅からぬものがあるというゆえんである。


(「訂正」及び新たな=u記述」のこと)

この『陶片の楽書』出版後、私は、「防府市内」に転勤し、それまでの通勤時間が大幅≠ノ短縮したことから、本格的≠ノ、父の整理している「資・史料」に目を通すことにしました。
その結果、父に思い違い≠ナあることがわかり、改めて*竄、たところ、「資・史料」が「記憶」を呼び戻す≠アとになり、いろいろと、「訂正」なり、追加≠ネりをすることになりました。
『陶片の楽書』を初めとする父=英男の「記述」と、私の「ホームページ」の「記述」に違い≠ェあるのは、そのためです。
なお、これに類したことは、父の死後、「山口県土井ヶ浜遺跡」について、金関丈夫氏を中心に「発掘調査」がされ、「人類学」に大きな°ニ績を残すことになるきっかけ≠作られた衛藤和行氏が、そのきっかけ≠ネるものについて、親しさ≠ノ任せての、私の度重なる「質問」がきっかけ≠ノなり、
「あんたは私の記憶を呼び戻してくれるのぉ。」
として、きっかけ=$マみ上げられていた人骨の中にあった貝で作られた奇妙な≠烽フであることを思い出され=A金関氏の後継者であり、発掘調査の「メンバー」であった永井昌文氏の書かれていた「論文」もあることを永井氏に教えていただき、今日では、ほぼ「定着」したということがあります。

この小山先生について語っている箇所における「記述」には、「訂正」する必要があります。
小山先生の「来県調査」は、「昭和三十年秋」ではなく、「昭和三十一年六月」のことですし、「小鹿田焼」の件での=u出張」ではなく、六月三日東京をたち、十日頃迄熊本、佐賀へという「日程」の中でのことでした。
そして、ここで記しておくべきは、小山先生が、「萩焼」の「調査」をしてくださったのは、自費≠ナという「制約」を受けないで済む、小山先生の御好意≠ナなされたということだったのです。







「次」からの「5枚」は、小山先生からいただいた「色紙」です。
ご存知と思いますが、 「古 山 子」 は、小山先生の「号」です。

























父=英男は、小山先生を尊敬していましたが、先生の書かれる「文字」も好んでおり、先生からいただいた「書簡」の「整理・保存」はもとより、「色紙」を書いていただいたり、「名刺」に使う 河野英男  陶片陳人についても、小山先生にお願いしました。
「左」は、その「名刺用」の「文字」をお願いした時にいただいた「手紙」です。
小山先生は、何通りもお書きになり、好みのものを使用するようにと、書いてくださっています。





● 小山岑一氏とのこと

小山岑一氏は、1939年、小山先生の長男としてお生まれになっています。
「陶芸家」として著名な方で、鎌倉(永福窯)、土岐市(花の木窯)の「二窯」において施釉、焼締などの優品を多く制作しておられます。
昭和55(1980)年 「日本工芸会正会員」、昭和62(1987)年 「日本陶磁協会賞」受賞。

「萩焼」の事実≠踏まえぬ「記述」がなされていることから、なんとかしたいと思っていたところ、父=英男の晩年、『柳 宗悦全集』が「筑摩書房」から「企画」されるに際し、
「『全集』の中に、山口県在住の人物からの『手紙』を入れようと思うが、小山がどういう『手紙』を出していたかを知りたいので、その人物の連絡方法を調べてほしい」
という依頼がありました。
どうして父のことを知られたのかはわかりませんが、「朝日新聞」・「毎日新聞」という一流紙≠ニされる「新聞社」の「記者」が、事実≠ノ基づかぬことを書き、その書かれたことが誤り≠ナあることを示す「資料」ダケでも「確認」してほしいという依頼にも応えぬということを体験していたため、「筑摩書房」の誠実≠ネ編集態度に、感心したのですが、このことから、 当然=u小山冨士夫全集」なるものも、同様にどこかの「出版社」において「企画」されるハズだと思いついた私は、小山先生は昭和50(1975)年10月7日にお亡くなりになっており、父=英男も亡くなっていたのですが、「全集」の中に、「萩焼」に関する父=英男への、冨士夫先生からの「書簡類」をいれていただくことで、「萩焼の歴史の歪み=vをただしたいと思い、「鎌倉」の家を訪ね、ご子息の岑一氏に会っていただきました。
その際、岑一氏は、
「全集の話は、幾つもあるのだが、あまりに膨大で、時間的な余裕がなく、お断りしています。父の手紙を公表されても結構ですから、どうぞ、あなたの思うようになさってください。」
と、私の持参した、幾つかの「手紙」を確認されぬまま、私にその扱いを一任してくださったのです。
しかも、それだけでなく、批判・中傷≠ェ出て来ることを予想されたのでしょうか、私が小山邸訪問の後、東京に出て、二日後に帰宅してみると、わざわざ、私が冨士夫先生の「手紙」を使うことを、認めるということを書いた「手紙」が届いていたのです。
かくして、私は、小山先生の「書簡」を「山口県文書館」に「寄贈」の手続きを取りましたが、残念ながら=Aなんらの「効果」がないタメ、「ホームページ」という伝達手段があることを知り、試行錯誤≠オながら、「ホームページ」を作成し、今日に至っているのです。
(「筑摩書房」の方からの「書簡」も、その誠実な&メ集方針を後世に伝えられれば≠ニ思い、「文書館」に寄贈しています。)


なお、この時、私のために、かなりな時間を割いてくださり、いろいろと興味ある話が伺えました。
北大路魯山人氏の「人間国宝」への推薦のことについても、冨士夫先生は、一度ならず再三、受けるよう、話されていたということも、証言してくださいました。
同じ鎌倉なので、魯山人氏は、時々、小山邸を訪ねてきておられたとのことで、しかも、来られるタイミングは10分か15分前にはわかったといいます。
酒屋からガンガンに冷えたビールの小瓶が1ケース届くからだとのことでした。

冨士夫先生は、轆轤の使えぬ陶工≠ナある魯山人氏を、敢えて、再三、推されていたということは、「陶芸史」の中において、今後も忘れられることはないと思われます。
(現在≠ヘ、13代 今泉今右衛門氏、14代 酒井田柿右衛門氏など、かつては、「総合指定」であった「窯」において、「保持団体」としての「認定」と同時に、「個人指定」もなされていますので、(ほぼ)全行程に携わらないでも、「人間国宝」になられています。
事実=A魯山人氏の「作品展」は、今日に至るも、「人間国宝」であった人以上に、数多く企画・開催され、多くの人々が押しかけているのですから、岑一氏にお聞きしたことも踏まえて、私は人間国宝」を辞退≠オた2人の陶工=*k大路魯山人氏と河井寛次郎氏のことという「ページ」も作っています。
時間的に余裕がおありでしたら、クリック≠オてみてください。)






●  小山先生に「関連」した「ページ」 ─ 私の「ページ」の抜粋>氈@

「萩焼の歴史」=エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代のその歩み
↑  小山先生あっての「萩焼」の「歩み」です。
なお、「萩焼」の「歩み」は、「陶芸史」における典型≠ニしての「歩み」をしたワケで、「陶芸史」の「参考」になると、私は思っています。

「古萩の歴史と特質」
↑ 小山先生にとっての「萩焼」へのイメージ≠ェどのようなものであったかを知ることができるものです。
残念ながら、流布≠オているものは、この「短文」を誤読し、「萩焼」のあゆみを誤って紹介しています。
   

「(昭和三十一年)五月七日」付の小山先生からの「手紙」

「昭和31年5月24日」付の小山先生からの「はがき」
↑この「手紙」及び「はがき」は、「上」の「古萩の歴史と特質」に見られるように、「萩焼」の力が、知られていない状況のモト、その「萩焼」から、こともあろうに、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」に、二人を同時=u申請」したいという「山口県」の意向に対し、なかなか了承していただけなかったのですが、小山先生が、自費≠ナ個人的≠ノ「萩焼」の調査するということで、踏み切ってくださったこと示すものです。
この、小山先生の「来県調査」によって、小山先生は、「萩焼」への認識≠新たにされ「第三回日本伝統工芸展」に、推薦してくださることにつながり、「萩焼」が「全国的」に注目≠ウれるきっかけ≠ノなったのです。

「人間国宝」候補者の「プール」としての「記録選択」?
↑  藤島亥次郎博士の話、 小山先生の「手紙」 及び 鈴木健二氏との「電話」をモトに推測しています。
「重要無形文化財」保持者としての「個人認定 俗称「人間国宝)」/「保持団体」としての認定/「総合認定」]について
─ [参考] 「助成の措置を講ずべき無形文化財」・「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」─
↑ 口幅ったいことながら、一部≠フこととはいえ、権威≠る「情報」の疑問点を、「情報モト」に「確認」し、修正してもらっています。

「来県調査」後にいただいた「手紙」
↑ この「手紙」ダケは、なんとしても、『小山冨士夫全集』に入れていただくことを願い、岑一氏をお訪ねしたのです。
この「手紙」が残っていることで、「萩焼」のあゆみが、流布≠オている「あゆみ」とは違うことが「証明」できるのです。



「萩焼古窯発掘調査」のことを最初≠ノ知らせてこられた「はがき」

渉外£S当の佐藤進三氏の言動について、小山先生に直訴≠オた際の「回答」
この「手紙」を御覧いただければ、佐藤氏が「平凡社」の出版物において、山口県の妨害≠ノよって「中止」になったと書いておられることのいい加減さ≠ェわかっていただけるハズです。
「中止」の一因≠ヘ、佐藤氏自身にあったのです。


小山先生への「手紙」
↑ これは、「山口県」の罫紙に、「カーボン紙」を利用して書いたものの「控え」です。