● 小山冨士夫 か 小山富士夫 かということ 小山先生について、調べてみますと、小山冨士夫が「正式」のハズなのに、小山富士夫というものが多く、各地の「図書館」の著者名も、多くはそうなっているようです。 (ただ、「図書館」の「検索」では、小山富士夫≠ナも、小山冨士夫≠焉u検索可能」になっている場合が多いとは思いますが。) さらに、プロフィール あのひと検索SPYSEE [スパイシー]なるものがありますが、現在のところ、 小山冨士夫は、「会社社長」の方がメインで、小山富士夫の方が、「陶磁器研究家・陶芸家」の小山先生となっています。 ただ、小山富士夫も小山冨士夫も、大半≠ヘ、「小山先生」に関する「ページ」の「紹介」となっています。 当然、小山冨士夫の「ページ」の中に、私の「作成」した「ページ」が、あります。 私の「ページ」はともかくとして、多の方々の、正式≠ネ「小山冨士夫」で作成されている「ホームページ」や「著作物」が、見落とされる♂ツ能性があります。 このことに気がついて、私は、私の「ページ」の中で、小山富士夫というのも、( )にいれてみました。 (なお、考古学の[濱田耕作・浜田耕作]氏(新・旧の「字体」の違い)、建築学の[藤島亥治郎・藤島亥次郎]氏も、同様≠ノしており、両方≠ナ「検索」が可能になっています。)
しかし、残念なこと≠ノ、[平成22年9月24日]の時点では、残念ながら=A小山先生の場合、十分に機能しているとは言えません。 父=河野英男は、昭和二十年代の後半から、小山先生がお亡くなりになる昭和50年に至るまでの二十余年、親しくしていただき、小山先生、父=英男が共に筆まめであったとみえ、数多くの「書簡」類が残されていますが、富士夫とある「書簡」類は一枚もなく、すべて=A冨士夫になっています。 「写真」は、小山先生からいただいた「年賀状」の中から、3枚を「スキャナ」で取り込んだものです。 小山先生からの「賀状」は、すべて、「お年玉くじ」のついた「年賀はがき」ですが、 全文「活字」というものは、「左」の「昭和37年」のような特別なもの°yび「喪中」の「はがき」(この場合は、「官製葉書」です)ダケで、 「昭和30年代迄」の「年賀状」は、「左」から2番目≠フように、 賀 春 は、小山先生の手書き文字の「印刷」、 小山冨士夫 は「活字」ですが、はっきり冨士夫とあるのが見えるハズです。 「昭和40年代以降」の「年賀状」は、「左」から3番目≠フように、 賀 春、 小山冨士夫 の文字とも、小山先生の手書き文字の「印刷」になっていますが、「筆字」でも、冨士夫と読めると思います。
脇道にそれました。 モトにもどりましょう。 この父宛の「書簡」類からして、が、「戸籍」がどうなっているかはわかりませんが、小山先生は、小山富士夫ではなく、小山冨士夫であると言ってよかろうと思います。 一般的?≠ネ小山富士夫だけでなく、小山冨士夫によって「アクセス」できる本来≠フ「ページ」があることを知っていただき、「確認」していただきたく、 「タイトル」の箇所にある「人名・語句」は、[Google]や[Yahoo]の「検索」の最初≠フ方に出てくることが経験的≠ノわかっていますので、この 小山冨士夫(小山富士夫)先生とのこと という「ページ」を設けました。 このように ( ) に入れておくと、小山冨士夫ダケでなく、( )の中の小山富士夫でも、「検索」が可能になるのです。 従って、小山富士夫と思い込んでおられる方にも、「注意」してもらえると思います。 なお、『陶の詩人 小山冨士夫の眼と技展 図録』には、小山先生と「萩焼」については、なんら触れられていませんが、「萩焼」のあゆみ≠ヘ小山先生あってのものですし、あろうことか、「萩焼」のあゆみ≠ェ事実≠ニは違った「形」で流布≠オていることから、小山先生のご子息の 小山岑一(こやま・しんいち)氏の御好意のモト、小山先生と父=英男とのささやかなつながり≠ノ係わる事実≠ニしての「萩焼」のあゆみを「作成」していますので、それらの「リンク」設定もしておこうと思います。 さらに、切角ですから、父=英男の大切にしていた小山先生の「色紙」も紹介しようと思います。 |
小山先生が「萩焼」の「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「指定申請」のタメに、自費≠ナということで、「来県調査」してくださった時の三輪休和(当時は 十代 三輪休雪)氏宅を訪れられた時の「写真」です。 「右端」が休和氏で、「左端」は、弟の節夫(当時の「号」は、「休」ですが、以後、「十一代 休雪」、「壽雪」と名乗られます)氏です。 そして、いらぬことながら、「左」から二人目が、父=英男です。 |
「写真」は、小山先生のご葬儀の時、参列者に渡された中にあったものとのことでした。 |
● 父=英男が『陶片の楽書』で紹介している小山冨士夫先生についてのエッセンス 小山先生については、随所≠ナ語っていますが、古陶の秘鑰(ひやく) ― 小山先生・備前・そして種子島 ―の中から、抜き出しておきます。
|
父=英男は、小山先生を尊敬していましたが、先生の書かれる「文字」も好んでおり、先生からいただいた「書簡」の「整理・保存」はもとより、「色紙」を書いていただいたり、「名刺」に使う 河野英男 ・ 陶片陳人についても、小山先生にお願いしました。 「左」は、その「名刺用」の「文字」をお願いした時にいただいた「手紙」です。 小山先生は、何通りもお書きになり、好みのものを使用するようにと、書いてくださっています。 |
● 小山岑一氏とのこと 小山岑一氏は、1939年、小山先生の長男としてお生まれになっています。 「陶芸家」として著名な方で、鎌倉(永福窯)、土岐市(花の木窯)の「二窯」において施釉、焼締などの優品を多く制作しておられます。 昭和55(1980)年 「日本工芸会正会員」、昭和62(1987)年 「日本陶磁協会賞」受賞。 「萩焼」の事実≠踏まえぬ「記述」がなされていることから、なんとかしたいと思っていたところ、父=英男の晩年、『柳 宗悦全集』が「筑摩書房」から「企画」されるに際し、 「『全集』の中に、山口県在住の人物からの『手紙』を入れようと思うが、小山がどういう『手紙』を出していたかを知りたいので、その人物の連絡方法を調べてほしい」 という依頼がありました。 どうして父のことを知られたのかはわかりませんが、「朝日新聞」・「毎日新聞」という一流紙≠ニされる「新聞社」の「記者」が、事実≠ノ基づかぬことを書き、その書かれたことが誤り≠ナあることを示す「資料」ダケでも「確認」してほしいという依頼にも応えぬということを体験していたため、「筑摩書房」の誠実≠ネ編集態度に、感心したのですが、このことから、 当然=u小山冨士夫全集」なるものも、同様にどこかの「出版社」において「企画」されるハズだと思いついた私は、小山先生は昭和50(1975)年10月7日にお亡くなりになっており、父=英男も亡くなっていたのですが、「全集」の中に、「萩焼」に関する父=英男への、冨士夫先生からの「書簡類」をいれていただくことで、「萩焼の歴史の歪み=vをただしたいと思い、「鎌倉」の家を訪ね、ご子息の岑一氏に会っていただきました。 その際、岑一氏は、 「全集の話は、幾つもあるのだが、あまりに膨大で、時間的な余裕がなく、お断りしています。父の手紙を公表されても結構ですから、どうぞ、あなたの思うようになさってください。」 と、私の持参した、幾つかの「手紙」を確認されぬまま、私にその扱いを一任してくださったのです。 しかも、それだけでなく、批判・中傷≠ェ出て来ることを予想されたのでしょうか、私が小山邸訪問の後、東京に出て、二日後に帰宅してみると、わざわざ、私が冨士夫先生の「手紙」を使うことを、認めるということを書いた「手紙」が届いていたのです。 かくして、私は、小山先生の「書簡」を「山口県文書館」に「寄贈」の手続きを取りましたが、残念ながら=Aなんらの「効果」がないタメ、「ホームページ」という伝達手段があることを知り、試行錯誤≠オながら、「ホームページ」を作成し、今日に至っているのです。 (「筑摩書房」の方からの「書簡」も、その誠実な&メ集方針を後世に伝えられれば≠ニ思い、「文書館」に寄贈しています。)
なお、この時、私のために、かなりな時間を割いてくださり、いろいろと興味ある話が伺えました。 北大路魯山人氏の「人間国宝」への推薦のことについても、冨士夫先生は、一度ならず再三、受けるよう、話されていたということも、証言してくださいました。 同じ鎌倉なので、魯山人氏は、時々、小山邸を訪ねてきておられたとのことで、しかも、来られるタイミングは10分か15分前にはわかったといいます。 酒屋からガンガンに冷えたビールの小瓶が1ケース届くからだとのことでした。 冨士夫先生は、轆轤の使えぬ陶工≠ナある魯山人氏を、敢えて、再三、推されていたということは、「陶芸史」の中において、今後も忘れられることはないと思われます。 (現在≠ヘ、13代 今泉今右衛門氏、14代 酒井田柿右衛門氏など、かつては、「総合指定」であった「窯」において、「保持団体」としての「認定」と同時に、「個人指定」もなされていますので、(ほぼ)全行程に携わらないでも、「人間国宝」になられています。 事実=A魯山人氏の「作品展」は、今日に至るも、「人間国宝」であった人以上に、数多く企画・開催され、多くの人々が押しかけているのですから、岑一氏にお聞きしたことも踏まえて、私は人間国宝」を辞退≠オた2人の陶工=*k大路魯山人氏と河井寛次郎氏のことという「ページ」も作っています。 時間的に余裕がおありでしたら、クリック≠オてみてください。) |
● 小山先生に「関連」した「ページ」 ─ 私の「ページ」の抜粋>氈@ 「萩焼の歴史」=エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代のその歩み ↑ 小山先生あっての「萩焼」の「歩み」です。
なお、「萩焼」の「歩み」は、「陶芸史」における典型≠ニしての「歩み」をしたワケで、「陶芸史」の「参考」になると、私は思っています。 「古萩の歴史と特質」 ↑ 小山先生にとっての「萩焼」へのイメージ≠ェどのようなものであったかを知ることができるものです。
残念ながら、流布≠オているものは、この「短文」を誤読し、「萩焼」のあゆみを誤って紹介しています。 「(昭和三十一年)五月七日」付の小山先生からの「手紙」 「昭和31年5月24日」付の小山先生からの「はがき」 ↑この「手紙」及び「はがき」は、「上」の「古萩の歴史と特質」に見られるように、「萩焼」の力が、知られていない状況のモト、その「萩焼」から、こともあろうに、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」に、二人を同時=u申請」したいという「山口県」の意向に対し、なかなか了承していただけなかったのですが、小山先生が、自費≠ナ個人的≠ノ「萩焼」の調査するということで、踏み切ってくださったこと示すものです。
この、小山先生の「来県調査」によって、小山先生は、「萩焼」への認識≠新たにされ、「第三回日本伝統工芸展」に、推薦してくださることにつながり、「萩焼」が「全国的」に注目≠ウれるきっかけ≠ノなったのです。 「人間国宝」候補者の「プール」としての「記録選択」? ↑ 藤島亥次郎博士の話、 小山先生の「手紙」 及び 鈴木健二氏との「電話」をモトに推測しています。
「重要無形文化財」保持者としての「個人認定 俗称「人間国宝)」/「保持団体」としての認定/「総合認定」]について
─ [参考] 「助成の措置を講ずべき無形文化財」・「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」─
↑ 口幅ったいことながら、一部≠フこととはいえ、権威≠る「情報」の疑問点を、「情報モト」に「確認」し、修正してもらっています。
「来県調査」後にいただいた「手紙」 ↑ この「手紙」ダケは、なんとしても、『小山冨士夫全集』に入れていただくことを願い、岑一氏をお訪ねしたのです。
この「手紙」が残っていることで、「萩焼」のあゆみが、流布≠オている「あゆみ」とは違うことが「証明」できるのです。 「萩焼古窯発掘調査」のことを最初≠ノ知らせてこられた「はがき」 渉外£S当の佐藤進三氏の言動について、小山先生に直訴≠オた際の「回答」 この「手紙」を御覧いただければ、佐藤氏が「平凡社」の出版物において、山口県の妨害≠ノよって「中止」になったと書いておられることのいい加減さ≠ェわかっていただけるハズです。
「中止」の一因≠ヘ、佐藤氏自身にあったのです。 小山先生への「手紙」 ↑ これは、「山口県」の罫紙に、「カーボン紙」を利用して書いたものの「控え」です。
|