● 「萩焼」の「歴史」 ─ 「萩焼」の起こり≠ゥら、昭和18年以前≠フ「歴史」を、 小山冨士夫先生の「古萩の歴史と特質」を中心≠ノ、紹介します。 ─ |
はじめに |
「萩焼の歴史」については、佐藤進三氏を初め、幾人もの方によって、疑問が呈されてきました。 父=英男も、父なりに「古文書」類を、「文書館」の方に協力を求めながら、研究をしていたようですが、なにせ、「萩焼」が主要な仕事になるような時代ではなく、そのうえ、「山口県教育庁」勤務が丁度10年ということで、現場の「小学校」に転じましたので、中途半端になってしまったようです。 当時≠ヘいろいろな「教育問題」が山積しており、例えば、まもなく開かれる第二回目の「山口国体」が県民あげて歓迎ムード≠ナあるのと異なり、「第一回目」の時は、例えば「小学生」が「マスゲーム」をすることについて、大変な反対があったものです。 「学力テスト」問題や「勤務評定」問題などもあって、気の毒にも、命を絶たれた管理職もおられるといったように、現場の校長としての仕事はたいへんだったようです。 父は、その諸問題についても、資料を事細かくまとめていますが、なにせ、個人名があることとて、「歴史資料」として、しかるべき所に納めてよいものかどうか、迷うものも沢山あります。 「萩焼」の研究は、現物≠対象にすることで、「古文書」類の研究は、結局、そのままにしたようです。 ただ、かなり分厚い冊子として、「写真」のように、上に「古文書の「写真」、下に、「解読した文章」という形式のものが残っています。 この「冊子」の場合、左側の付箋≠ノ「坂」・「三輪」・「佐伯」とあるのがおわかりでしょうか。 私も高校で「国語」を教えていましたし、長兄は「国文学」が専門で、賀茂真淵の全集において、ごく一部とはいえ、翻刻・解説をさせていただいているといったことで、その「資料」がまったく生かせないというわけではないのですが、 なにせ、残された「資・史料」は少なく、かつ、その信憑性≠ノついて疑問が呈されているものもあるという現状において、その究明≠ヘ、兄はともかく、とても私ごときにできることではありません。(兄も、残念ながら、体調を崩しており、今後も、専門外の「陶芸」に、足を踏み入れることはないと思います。) |
河野良輔氏による「萩焼略年譜」は、 「インターネット」に出ており、直接=A「確認」していただけます。 この(大正7年)迄については、父=英男の残したものはありませんし、ましてや、私も、わかりません。 河野良輔氏の、この「資料」は、大いに参考になるものと思います。 しかし、この(大正7年)の次は、 昭和31年(1956) 山口県指定無形文化財萩焼保持者として、十二代坂倉新兵衛、三輪休和が認定される。 に飛んでいるおり、 「昭和23年」以降は、英男が、「山口県教育庁社会教育課」におり、 「萩焼」について、主として「担当」しており、 流布≠オている「萩焼」の「歩み」には、困ったこと≠ェあるとしていましたので、 「萩焼」=エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代のその歩み の方を御覧いただきたいと思います。 昭和18(1943)年=「商工省」による「工藝技術保存資格者」の認定 については、英男のまだ、「関係」していない時のことですが、この「工藝技術保存資格者」の認定については、 私が、直接的≠ネ「資料」を捜し出した上で記述しています。 困った情報≠フ流布≠オている現状において、この「昭和18年」以降については、不遜な言い方≠ゥも知れませんが、 「萩焼史」・「日本の工芸史」に、役に立つ=u資料」となるハズだと思っています。 なお、この「萩焼略年譜」は、「日本工芸会山口支部」の「ホームページ」に設定されており、大きな=u影響」があると思います。 部分的≠ノ、修正の「検討」を御願いしていますが、 公的≠ネ「資料」に拠っているので、公的≠ネ「資料」において、「修正」されない限り、「いらうことはできない」と言われています。 「萩市」の「ホームページ」にも、詳しい「萩焼の歴史」がありましたが、「問題点」があることを指摘したところ、「資料」に拠っているので、部分的≠ネ「修正」はできないとして、私の「指摘」した箇所にとどまらず、「明治維新」以後は、削除されています。
このようなワケで、私としては、公的な°@関=「山口県立萩美術館」の石ア泰之氏に、 長い時間をかけて、検討していただくことを御願いしていますが、 [平成23年3月20日]現在、まだ、「形」として現れていません。 |