平成22年8月20日 公開
平成25年12月3日  更新=@


● 毛利 元道 氏 の 「写 真」     「書」


構 成
(「下線部」をクリック≠キると「該当」箇所にジャンプ≠オます)

 はじめに

(1) 毛利元道氏の「写真」

 (参考)として
─ 「公爵」について// 「毛利家」について ─

(2) 「書」
 「防府天満宮」における揮毫// 「百万一心」「額」

 元道氏の「命名」された「勝坂窯」という「書」        


は じ め に


「昭和25年」の、 「文化財保護法」の制定に伴う、厳選≠ウれた「国宝」に、「山口県」として「9件」、うち、「毛利家」関係が「4件」、「阿弥陀寺」関係が「1件」と、「防府市」関係が「5件」であるということを、「昭和二十年代後半」「防府の歴史=vとして示そうと、 という「ページ」において、
父=河野英男 の 「アルバム」 にあった 「毛利家」関係の「文化財」の「調査」の時の「写真」 を、私の「個人的な写真」として、取り入れたのですが、その中で、



「写真」の中央は、ご当主の毛利元道氏です。
(私が「小学生」の時、「毛利邸」から帰る時、すれ違った方と父が挨拶を交わしました。
その時、父は、「あの方が、毛利元道さんだ。」と言いました。
父の「アルバム」にあった「写真」をスキャナ≠オましたが、なにせ、50年も前≠フ「記憶」です。
間違いがあってはいけませんので、「毛利博物館」小山良昌館長に「確認」をお願いしたところ、快く、見ていただくことができ、「毛利元道」氏に間違いないと言っていただけました。)

という「註」を入れています。

それは、「ネット」で「確認」しようとしたところ、「ネット」に出ている 毛利 元道 氏の「写真」が、いずれも、元道氏の「写真」ではないと思われるものバカリだからでした。
([平成23年12月25日現在]も、毛利元道 プロフィール - あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]なるものの場合、「画像」の候補≠フ中にスラ元道氏らしき=u画像」はありません。
また、[Google]において、毛利元道≠ナ「検索」し、「左」にある画像をクリック≠オても、元道氏の「写真」と認められるものは、 私作成のページ にある「写真」ダケです。)

私の「写真」は、大勢で撮られたものですので、元道氏も、小さく℃ハっています。
私の知らないうちに、私の作成した「ホームページ」掲載の「写真」が、幾つも転用されていますので、いずれは、この「写真」が紹介される可能性はあるのですが、「中央の先生方」の真ん中に写っておられるとはいえ、あまりに小さく、偉ぶることのなかった元道氏ということで、ラフな服装≠ナの「写真」です。

なんとか、適当な「写真」を紹介できないものかと思っていたところ、毛利邸周辺を、早朝に散歩していた時、たまたま、犬の散歩のために出て来られた娘さんと挨拶をかわしました。
「場所」が場所だけに、「毛利家」ゆかり≠フ方と思い、話をしたところ、東京から、「お盆」で帰省されたバカリの、元道氏の四男である 毛利 元敦 氏のお嬢さんとわかりました。
そこで、現在、元道氏について、誤った=u写真」が紹介されているため、元道氏の「写真」を紹介させていただくことはむつかしいでしょうかとお尋ねすると、
「多分、父は了承すると思います。
今はまだ寝ているので、話しておきますので、のちほど、電話でもしてみてください。」
と、親切に対応していただけました。
そして、後日、「電話」すると、
小山良昌毛利博物館館長と、相談してみましょう。」
とおっしゃり、
小山館長と話されて、わたしに「次」の「写真2枚」を貸していただくことができました。









毛利 元道(もうり もとみち) 氏

 明治36年(1903年)6月8日
─ 昭和51年(1976年)1月23日


公爵 毛利 元昭 氏(=最後≠フ「藩主」 元徳 氏の長男) の長男
夫人は 子爵 松平 定晴 氏 の 長女の 誠子 氏。
子供=元敬元宏元保元敦妙子 各氏 の 「四男一女」

戦前
大日本帝国陸軍に入隊し、陸軍砲兵中佐。
公爵・貴族院議員

戦後
「日本国連協会山口県副本部長」
「山口県公安委員」
「山口県ユネスコ協会連盟会長」
「日本ユネスコ国内委員」等。

元道氏は、「毛利博物館」として、
「毛利邸」及び旧公爵「毛利家」に伝来した「文化財」・「美術品」、さらには、単に毛利家の歴史のみならず、日本の歴史、とりわけ武家権力の成立から成熟・消滅に至るまでの過程を明らかにする上で、欠くことができない重要な史料(「毛利博物館」の「ホームページ」より)  の公開≠ノ踏み切られた方です。

また、この公開≠謔闡≠ュ「防府市」にある 「別邸=御茶屋」 を 昭和14年 には 「防府市」寄贈、さらに、昭和16年に、その「別邸」を 「英雲荘」 と名付けたのも元道氏です。

1952年(昭和27年)に、「旧長州藩主毛利家」から約5万点の「藩政文書(毛利家文書)」を「山口県へ寄託」、それが、日本最初の「公文書館」として「山口県文書館」が開設(昭和34年)されるきっかけとなりました。
なお、広く、「山口県」関係の「文化面」に関与され、「萩焼」にも尽力をしていただいており、「三輪休雪(後の 休和)後援会」の発起人の一人となってくださっています。























お若かった「陸軍」時代の「写真」です。



(参考 @) 「公爵」について

私の「調べ」によりますと、
「公爵」は、明治17(1884)年「制定」昭和22(1947)年まで存在した「華族令」に基づく「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵]という「五階の爵位」の最高位の「爵位」です。
最初「公爵」という叙爵は、「五摂家」=(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家)、「徳川家宗家」に、
「国家に偉功ある者」として
公家からは三条家(三条実美の功)、岩倉家(岩倉具視の功)、
武家からは島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功)、玉里島津家(島津久光の功)、毛利家毛利敬親
が叙せられたようです。

ツマリ、「公爵」は、ごく限られた「家」に叙せられたものであり、かつての「藩主」各「藩」に存在したのに対し、はるかに格上ということでしょうか。
(なお、「記録」としては、「全華族=1011♂ニ
・「公爵」=20戸=q「返上」3戸=r(「山口県」関係では、伊藤博文山県有朋侯爵から公爵になっています。)
・「侯爵」=42戸=q「返上」5戸=r
・「伯爵」=117戸=q「返上」14戸=r
・「子爵」=388戸=q「返上」38戸=r
・「男爵」=444戸=q「返上」67戸=r(野村望東尼ゆかり≠フ楫取素彦は、明治20年に男爵を授けられています。)
としたものがあります。)


(参考 A) 「次の次」に示す「額」に七十代とあることについて

これまた、私の「調べ」たところでは、
家系は、源 頼朝の側近となり、「鎌倉幕府」の政所初代別当をつとめ、幕府創設に貢献した 名臣 大江広元(おおえのひろもと) の四男 大江季光(おおえのすえみつ) をとし、季光が、「相模国毛利荘を父から相続したため、「毛利氏」を称するようになったとされています。
従って、毛利家・毛利氏 としては 季光 を 初代 とするのが相当と一般的にはいわれ、元道氏を 「三十二代」 としていますが、毛利家の慣習上、 「天穂日命」(あめのほひのみこと)を 初代 とするため、 元道氏 も、「七十代」 と記されているようです。
なお、皇后日葉酢媛命の御葬儀に当っては、埴輪を以て、殉死に代へんことを奏したといわれる野見宿禰は、「天穂日命」「十四世の孫」になります。

なお、元道氏を 「三十代」 としている「資料」も少なからずありますが、
その場合、四代 貞親、 五代 親衡 が抜かしているものが多いようです。
「毛利博物館」 の 「館長代理」 であるのみならず、「歴史学者」でもある 柴原直樹氏 は、
私の「問い」に対して、なぜ、その二人を飛ばす≠フかは、根拠が書かれていないので判然としないとされながらも、南北朝の混乱期特殊な=u事情」を推測を交えて詳しく述べてくださっていますが、ここに述べることは避け、
結論的に、貞親・親衡両名が、安芸毛利氏の基幹所領である吉田荘地頭職を継いだことは間違いありませんので=A江戸時代の毛利家としては、この両名を当主と考え、代数に加えたものと思われます。∞このお二人を「代」数から外すことはあまり適切ではないと思われますとご教示いただいたということを記すにとどめます。
(詳しいことは、柴原氏に直接=Aお尋ねになる方がよいと思いますので。)

鵜呑みは禁物≠ニされてはいますが、 『もりのしげり』 の「系図」には、「天穂日命」 に1≠ェ、そして、以後、 元道氏 の70=@に至るまで、「代」が打ってあり、
「天穂日命」からは39番目である 季光を 「毛利家」としての 「初代」 とするなら、元道氏は、32代≠ニなり、一般に′セわれている「代数」合致するワケです。

ツマリ季光以後、
─ 経光─時親─貞親─親衡─元春─広房─ 光房─煕元─豊元─弘元─興元─幸松丸─元就─隆元─輝元─秀就─綱広─吉就─吉広─吉元─宗広─重就─治親─斉房─斉熙─斉元─斉広─ 敬親─元徳─元昭 と続き、
 元道氏 は、「天穂日命」からでは「七十代」「毛利」と名乗りだしてからは 「三十二代」 となるということです。
















「左」の 防府天滿宮 という文字は、 元道 氏の揮毫によるもので、
「側面」に 昭和二十八年一月社名改稱  毛利元道 書 とあります。



「防府天満宮」は、菅原道真公が亡くなった翌年の、延喜2(904)年にできた
日本で、最初の=u天満宮」で、
京都の「北野天満宮」、福岡の「太宰府天満宮」と並び、「日本三天神」といわれていますが、
かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたようです。
明治6(1873)年に近代社格制度のもとで「県社」に列格し、「松崎神社」と称しましたが、戦後の昭和28(1953)年に、「防府天満宮」と改称した際、
毛利元道に依頼して、揮毫していただいたそうです。 
  (「防府天満宮」の村松大樹氏による)











毛利元道氏の「書」は、なかなか見ることができないのですが、元道氏は、個人的に親しかったという、山口県長門市湯本温泉「大谷山荘」「会長」に、「上」の 「百万一心」 を書いて贈られたようです。
「百万一心」 という言葉は、毛利元就(もうりもとなり)が、吉田郡山城の増築工事の際、人柱の替わりに この 百万一心 という文字を彫った石碑を埋めたということで有名ですが、元就以来、「三本の矢の教え」 と共に、いわば=A 「毛利家の家訓」 とも思われるものです。

「大谷山荘」は、元道氏の期待されたように、従業員と一体となって客にあたられているようで、「プロが選ぶ日本の名旅館」として 高く 「評価」されています。
(「毛利家」の 百万一心 は、工夫があり、百万の箇所を「掛詞」的に読むことで、「百万、一日一力一心」となり、「全員が、心を同じくして、それぞれの持ち分で、たゆむことなく、着実に事にあたれば、何事でも成し得る」という意味と受け取ればよいのではないかと、私は思っています。
ここをクリック≠キると、
元道氏が「百万一心」揮毫をされたいきさつ
さらには、関連して、「百万一心」なるもの毛利元就・「毛利家」とのこと、
「豊栄神社」に奉納された武田泰信の「拓本」に書かれていること
「安芸高田の郡山城址」にある「百万一心」の「碑」及びその「碑の解説文」等を述べています。 )









「大谷山荘」の「看板」も、元道氏は、書いておられます。










「左」の  勝坂窯  という文字は、 元道 氏の揮毫による「石碑」で、
「右」は、脇本幻庵氏が「額」に飾られた元道氏の「書」です。

「額」は、脇本定三氏の「作品展示室」に飾られています。



「勝坂窯・勝坂焼」は、「萩焼」系統の「窯」ですが、脇本 幻(号 幻庵)氏が、昭和21年に創始した窯です。
その「名称」は、右田の勝坂という地名に因むものですが、しかし、その「地名」を以て、「窯」の名称にすることになったのは、毛利元道氏によるものだといいます。
「脇本家」の方々は、「旧藩主」の家に対して、敬意を持っておられた (防府史談会会誌『佐波の里 第3号』6頁)ことからの依頼に、元道氏が、応えられたのだろうと思われます。
元道氏の揮毫による「石碑」が建てられているほか、「脇本家」では、「額」に入れておられます。

[香月泰男美術館]という「文字」は、「俳優」&「書家」として有名な緒方 拳氏によるものだということは、以前、 香月泰男氏の夫人=婦美子さんにお目にかかった時、伺ったことがあります。
なんでも、香月氏のご健在の時から、緒方氏は、香月氏の「人間愛と平和」をテーマ≠ニした「作品」の「ファン」だったとかで、何度も「書簡」を寄せられるといった「つきあい」があったため、緒方氏の「書家」としての活動も知っておられたことから、依頼されたといいます。
その「看板」になっている緒方氏の「書」は、当初は三隅町立 香月美術館≠ナしたが、「平成の広域合併」で「長門市」と合併したことで、新たに緒方氏に依頼、「平成17年3月22日」以後は、香月泰男美術館≠ニいう「看板」になっていますが、「香月泰男美術館」という「書」も、「額」に入れられて、「館長室」に飾られています。
それを見せていただきましたが、どちらも味≠フある「文字」ですが、大きさ≠竅u材質」の関係で、かなり、印象≠ェ違います。
そのことが頭にあったため、脇本定三氏(幻氏の子息)に、お願いして、「写真」に撮らせていただきました。
なお、元道氏は、書かれたものを「掛軸」にされるとか、「額」に入れられるといったことは、ご自身ではされなかったようで、「毛利博物館」にもなく(平成22年10月7日現在)、「上」の「大谷山荘」にある「額」、さらには、「萩城跡指月公園」内の「花江茶亭」にあるという(私は、「茶亭」には行ったことがありますが、気がつきませんでした)「掛け軸」の 「百万一心」 ともども、貴重≠ネものと思われます。

「勝坂窯」で忘れられないのは、幻庵氏の長兄=脇本楽之軒〈本名 十九郎(そくろう)〉氏のことです。
楽之軒氏は、「京都市立美術工芸学校」を故あって「中退」されており、いわゆる学歴≠ヘ十分とはいえないものの、その後、藤岡作太郎氏、中川忠順氏らに学び、「研究」の手伝いをすることで成長≠ウれ、大正4年、「美術攻究会」を創立。
「美術史研究」、「美術評論」を「万朝報」や「東京朝日新聞」において展開、それらが高く評価され、昭和12年「重要美術品等調査委員」、昭和20年「国宝保存会委員」、昭和25年「文化財専門審議会専門委員」と、文化財保護行政に功績のあった方です。(「国宝保存会委員」→「文化財専門審議会専門委員」は、「法改正」に伴うものです。)
昭和22年「東京芸大」の前身=u東京美術学校教授」→昭和24年「国立博物館次長」→昭和25年「東京芸大教授」(退官後は「名誉教授」)でもありました。

「東京藝術大学図書館」 の「ホームページ」より

・・・貴重図書には,美術学校や音楽学校ゆかりの人物から寄贈された独立した文庫に含まれるものが数多い。
そうした文庫の中でも最大なのは,日本東洋絵画史の研究者だった脇本楽之軒が寄贈した,日本美術関係の和書2634冊からなる「脇本文庫」である。この文庫には,『武家雛形』や『造庭秘伝書』などの建築図書も含まれ,大部を占める中国や日本のさまざまな文物を描いた絵画帳も,美術研究だけでなく,集落や建築あるいは風景観等を研究する資料となりうるものである。


【楽之軒氏のことば】  芸術が自己以上を語り得ない如く、鑑賞も自己以上に出で得ない。 
           (『日本美術随想』新潮社 昭和48年刊)

楽之軒氏との交友関係から、小山冨士夫先生をはじめ、多くの「陶芸」関係の方々が、この「勝坂窯」を訪れられています。
「勝坂窯」の創始者=幻庵氏、子息=定三氏は、影響≠受けた方として、小山先生のほか、川瀬竹春氏(昭和31年度「記録選択」)、川喜多半泥子氏(荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休和、三輪壽雪各氏も影響≠受けられた「実業家兼陶芸家」です)の名を挙げておられます。
なお、幻庵氏、定三氏は、共に、「日本工芸会正会員」ですが、一般の方々に対して、早くから「窯」を解放されており、「昭和40年」には、既に「第一回」の「展示会」を開くに至り、以後、毎年、継続され、「平成22年10月」には、「第46回 勝坂手づくり会陶芸展」を開いておられます。
また、注目≠キべき「萩焼」陶芸家の一人≠ナある、永地博正氏が、活躍していた「グラフィックデザイナー」を辞め、「陶芸家」として「出発」する礎を作った「窯」でもあります。
(参考)
小山先生が、「勝坂窯」を訪れられる時は、父=英男は、既に「小学校」に転出していたのですが、小山先生から「連絡」をいただき、都合のつくときは、「勝坂窯」で小山先生にお会いしていましたし、一度は「我が家」にも寄ってくださっています。
従って、私は、楽之軒氏と小山先生とのこと、更には、「勝坂窯」が毛利元道氏の「命名」だということも知っていたということです。




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「リンク」

「萩焼」のindex

「百万一心」(「大谷山荘」・「毛利邸=毛利博物館」・「安芸高田=郡山城址」)
       ↑ 「写真」が多いタメ、「容量」の関係で、「Yahoo!ジオシティーズ」で作成します。
「防府昭和館」─高樹のぶ子氏の小説『マイマイ新子』のふるさと≠ノて─
↑ この中に、「萩」「山口」「防府」へという「毛利家」の移転のことを記しています。

脇本楽之軒氏のこと