構 成 (「下線部」をクリック≠キると「該当」箇所にジャンプ≠オます)
はじめに (1) 毛利元道氏の「写真」 (参考)として ─ 「公爵」について// 「毛利家」について ─ (2) 「書」 「防府天満宮」における揮毫// 「百万一心」の「額」 元道氏の「命名」された「勝坂窯」という「書」 |
は じ め に 「昭和25年」の、 「文化財保護法」の制定に伴う、厳選≠ウれた「国宝」に、「山口県」として「9件」、うち、「毛利家」関係が「4件」、「阿弥陀寺」関係が「1件」と、「防府市」関係が「5件」であるということを、「昭和二十年代後半」の「防府の歴史=vとして示そうと、 という「ページ」において、 父=河野英男 の 「アルバム」 にあった 「毛利家」関係の「文化財」の「調査」の時の「写真」 を、私の「個人的な写真」として、取り入れたのですが、その中で、 「写真」の中央は、ご当主の毛利元道氏です。
(私が「小学生」の時、「毛利邸」から帰る時、すれ違った方と父が挨拶を交わしました。
その時、父は、「あの方が、毛利元道さんだ。」と言いました。 父の「アルバム」にあった「写真」をスキャナ≠オましたが、なにせ、50年も前≠フ「記憶」です。 間違いがあってはいけませんので、「毛利博物館」の小山良昌館長に「確認」をお願いしたところ、快く、見ていただくことができ、「毛利元道」氏に間違いないと言っていただけました。) という「註」を入れています。 それは、「ネット」で「確認」しようとしたところ、「ネット」に出ている 毛利 元道 氏の「写真」が、いずれも、元道氏の「写真」ではないと思われるものバカリだからでした。 ([平成23年12月25日現在]も、毛利元道 プロフィール - あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]なるものの場合、「画像」の候補≠フ中にスラ、元道氏らしき=u画像」はありません。
また、[Google]において、毛利元道≠ナ「検索」し、「左」にある画像をクリック≠オても、元道氏の「写真」と認められるものは、 私作成のページ にある「写真」ダケです。) 私の「写真」は、大勢で撮られたものですので、元道氏も、小さく℃ハっています。 私の知らないうちに、私の作成した「ホームページ」掲載の「写真」が、幾つも転用されていますので、いずれは、この「写真」が紹介される可能性はあるのですが、「中央の先生方」の真ん中に写っておられるとはいえ、あまりに小さく、偉ぶることのなかった元道氏ということで、ラフな服装≠ナの「写真」です。 なんとか、適当な「写真」を紹介できないものかと思っていたところ、毛利邸周辺を、早朝に散歩していた時、たまたま、犬の散歩のために出て来られた娘さんと挨拶をかわしました。 「場所」が場所だけに、「毛利家」ゆかり≠フ方と思い、話をしたところ、東京から、「お盆」で帰省されたバカリの、元道氏の四男である 毛利 元敦 氏のお嬢さんとわかりました。 そこで、現在、元道氏について、誤った=u写真」が紹介されているため、元道氏の「写真」を紹介させていただくことはむつかしいでしょうかとお尋ねすると、 「多分、父は了承すると思います。 今はまだ寝ているので、話しておきますので、のちほど、電話でもしてみてください。」 と、親切に対応していただけました。 そして、後日、「電話」すると、 「小山良昌毛利博物館館長と、相談してみましょう。」 とおっしゃり、 小山館長と話されて、わたしに「次」の「写真2枚」を貸していただくことができました。 |
|
お若かった「陸軍」時代の「写真」です。
|
(参考 @) 「公爵」について
私の「調べ」によりますと、
「公爵」は、明治17(1884)年「制定」、昭和22(1947)年まで存在した「華族令」に基づく「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵]という「五階の爵位」の最高位の「爵位」です。 最初の「公爵」という叙爵は、「五摂家」=(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家)、「徳川家宗家」に、 「国家に偉功ある者」として 公家からは三条家(三条実美の功)、岩倉家(岩倉具視の功)、
が叙せられたようです。
武家からは島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功)、玉里島津家(島津久光の功)、毛利家(毛利敬親の功) ツマリ、「公爵」は、ごく限られた「家」に叙せられたものであり、かつての「藩主」が各「藩」に存在したのに対し、はるかに格上ということでしょうか。 (なお、「記録」としては、「全華族=1011♂ニ」
・「公爵」=20戸=q「返上」3戸=r(「山口県」関係では、伊藤博文・山県有朋が侯爵から公爵になっています。)
としたものがあります。)・「侯爵」=42戸=q「返上」5戸=r ・「伯爵」=117戸=q「返上」14戸=r ・「子爵」=388戸=q「返上」38戸=r ・「男爵」=444戸=q「返上」67戸=r(野村望東尼ゆかり≠フ楫取素彦は、明治20年に男爵を授けられています。) これまた、私の「調べ」たところでは、 家系は、源 頼朝の側近となり、「鎌倉幕府」の政所初代別当をつとめ、幕府創設に貢献した 名臣 大江広元(おおえのひろもと) の四男 大江季光(おおえのすえみつ) を祖とし、季光が、「相模国毛利荘」を父から相続したため、「毛利氏」を称するようになったとされています。 従って、毛利家・毛利氏 としては 季光 を 初代 とするのが相当と一般的にはいわれ、元道氏を 「三十二代」 としていますが、毛利家の慣習上、 「天穂日命」(あめのほひのみこと)を 初代 とするため、 元道氏 も、「七十代」 と記されているようです。 なお、皇后日葉酢媛命の御葬儀に当っては、埴輪を以て、殉死に代へんことを奏したといわれる野見宿禰は、「天穂日命」の「十四世の孫」になります。
|
|
「防府天満宮」は、菅原道真公が亡くなった翌年の、延喜2(904)年にできた 日本で、最初の=u天満宮」で、 京都の「北野天満宮」、福岡の「太宰府天満宮」と並び、「日本三天神」といわれていますが、 かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたようです。 明治6(1873)年に近代社格制度のもとで「県社」に列格し、「松崎神社」と称しましたが、戦後の昭和28(1953)年に、「防府天満宮」と改称した際、 毛利元道氏に依頼して、揮毫していただいたそうです。 (「防府天満宮」の村松大樹氏による)
|
|
毛利元道氏の「書」は、なかなか見ることができないのですが、元道氏は、個人的に親しかったという、山口県長門市湯本温泉の「大谷山荘」の「会長」に、「上」の 「百万一心」 を書いて贈られたようです。 「百万一心」 という言葉は、毛利元就(もうりもとなり)が、吉田郡山城の増築工事の際、人柱の替わりに この 百万一心 という文字を彫った石碑を埋めたということで有名ですが、元就以来、「三本の矢の教え」 と共に、いわば=A 「毛利家の家訓」 とも思われるものです。 「大谷山荘」は、元道氏の期待されたように、従業員と一体となって客にあたられているようで、「プロが選ぶ日本の名旅館」として 高く 「評価」されています。 (「毛利家」の 百万一心 は、百と万に工夫があり、百万の箇所を「掛詞」的に読むことで、「百万、一日一力一心」となり、「全員が、心を同じくして、それぞれの持ち分で、たゆむことなく、着実に事にあたれば、何事でも成し得る」という意味と受け取ればよいのではないかと、私は思っています。
ここをクリック≠キると、 元道氏が「百万一心」の揮毫をされたいきさつ、 さらには、関連して、「百万一心」なるものと毛利元就・「毛利家」とのこと、 「豊栄神社」に奉納された武田泰信の「拓本」に書かれていること、 「安芸高田の郡山城址」にある「百万一心」の「碑」及びその「碑の解説文」等を述べています。 ) |
「大谷山荘」の「看板」も、元道氏は、書いておられます。 |
「左」の 勝坂窯 という文字は、 元道 氏の揮毫による「石碑」で、
「右」は、脇本幻庵氏が「額」に飾られた元道氏の「書」です。 「額」は、脇本定三氏の「作品展示室」に飾られています。 |
「勝坂窯・勝坂焼」は、「萩焼」系統の「窯」ですが、脇本 幻(号 幻庵)氏が、昭和21年に創始した窯です。 その「名称」は、右田の勝坂という地名に因むものですが、しかし、その「地名」を以て、「窯」の名称にすることになったのは、毛利元道氏によるものだといいます。 「脇本家」の方々は、「旧藩主」の家に対して、敬意を持っておられた (防府史談会会誌『佐波の里 第3号』6頁)ことからの依頼に、元道氏が、応えられたのだろうと思われます。 元道氏の揮毫による「石碑」が建てられているほか、「脇本家」では、「額」に入れておられます。 [香月泰男美術館]という「文字」は、「俳優」&「書家」として有名な緒方 拳氏によるものだということは、以前、 香月泰男氏の夫人=婦美子さんにお目にかかった時、伺ったことがあります。 なんでも、香月氏のご健在の時から、緒方氏は、香月氏の「人間愛と平和」をテーマ≠ニした「作品」の「ファン」だったとかで、何度も「書簡」を寄せられるといった「つきあい」があったため、緒方氏の「書家」としての活動も知っておられたことから、依頼されたといいます。 その「看板」になっている緒方氏の「書」は、当初は三隅町立 香月美術館≠ナしたが、「平成の広域合併」で「長門市」と合併したことで、新たに緒方氏に依頼、「平成17年3月22日」以後は、香月泰男美術館≠ニいう「看板」になっていますが、「香月泰男美術館」という「書」も、「額」に入れられて、「館長室」に飾られています。 それを見せていただきましたが、どちらも味≠フある「文字」ですが、大きさ≠竅u材質」の関係で、かなり、印象≠ェ違います。 そのことが頭にあったため、脇本定三氏(幻氏の子息)に、お願いして、「写真」に撮らせていただきました。 なお、元道氏は、書かれたものを「掛軸」にされるとか、「額」に入れられるといったことは、ご自身ではされなかったようで、「毛利博物館」にもなく(平成22年10月7日現在)、「上」の「大谷山荘」にある「額」、さらには、「萩城跡指月公園」内の「花江茶亭」にあるという(私は、「茶亭」には行ったことがありますが、気がつきませんでした)「掛け軸」の 「百万一心」 ともども、貴重≠ネものと思われます。
「勝坂窯」の創始者=幻庵氏、子息=定三氏は、影響≠受けた方として、小山先生のほか、川瀬竹春氏(昭和31年度「記録選択」)、川喜多半泥子氏(荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休和、三輪壽雪各氏も影響≠受けられた「実業家兼陶芸家」です)の名を挙げておられます。 なお、幻庵氏、定三氏は、共に、「日本工芸会正会員」ですが、一般の方々に対して、早くから「窯」を解放されており、「昭和40年」には、既に「第一回」の「展示会」を開くに至り、以後、毎年、継続され、「平成22年10月」には、「第46回 勝坂手づくり会陶芸展」を開いておられます。 また、注目≠キべき「萩焼」陶芸家の一人≠ナある、永地博正氏が、活躍していた「グラフィックデザイナー」を辞め、「陶芸家」として「出発」する礎を作った「窯」でもあります。 (参考)
小山先生が、「勝坂窯」を訪れられる時は、父=英男は、既に「小学校」に転出していたのですが、小山先生から「連絡」をいただき、都合のつくときは、「勝坂窯」で小山先生にお会いしていましたし、一度は「我が家」にも寄ってくださっています。 従って、私は、楽之軒氏と小山先生とのこと、更には、「勝坂窯」が毛利元道氏の「命名」だということも知っていたということです。 |
Εメール 気づきなどがありましたら、[ こ こ ] をクリックして「連絡」を御願いします。 |
「リンク」 「萩焼」のindex 「百万一心」(「大谷山荘」・「毛利邸=毛利博物館」・「安芸高田=郡山城址」) ↑ 「写真」が多いタメ、「容量」の関係で、「Yahoo!ジオシティーズ」で作成します。 「防府昭和館」─高樹のぶ子氏の小説『マイマイ新子』のふるさと≠ノて─ ↑ この中に、「萩」→「山口」→「防府」へという「毛利家」の移転のことを記しています。
脇本楽之軒氏のこと |