平成20年6月14日 公開
平成21年3月1日 更新


● 思わず語った「萩焼」のこと

 
 昨年の十二月一日から一週間ばかり奈良京都滋賀方面へ出かけた。
 日程は第一日大津泊、大津絵の研究をして、第二日は信楽を訪れ信楽焼の研究調査、第三日は奈良の文化財巡り、第四日を天理市にある天理教参考館見学というプランをたててすすめた。
 私の終生の仕事としている萩焼の研究のためで、萩焼の多く所在する京都の茶どころと三輪休雪の関連からの赤膚の地、並びに赤膚焼の研究も必要になってきていた。又、天理教の参考館は美術品の蒐集では東洋で一位という定評のあるところでぜひとも訪れる予定をつくっていた。
 さいわい旅行中、天候に恵まれて無事予定を終えて京都から急行を利用して帰途についた。私の座席の前に私より五つばかり上かなという年格好の人が大きな荷物を網棚に整理をしている。指にはめられた金の指輪は印が彫られている。そのう洋服の内ポケットから眼鏡を出して、今かけている眼鏡とかけかえた。そして週刊誌を開いて読み始めた。私は荷物から旅行中求めた参考品を整理しだした。
 相手の人は眼鏡越しに私を見ている。私と視線がパッとあうと、「お客さん、どちらですか」と挨拶された。九州路の人だなと思える口調である。
 「山口県です。」
 「山口県はどこですか。」
 「三田尻まで。」
 「私は有田まで帰ります。よろしく。」
と丁寧なご挨拶。
 「ところでお仕事は・・・。」
 「私は学校づとめです。」
 「ハァ?」
 けげんな顔つきである。さっきの荷物の整理を見ていたので、いろいろ考えてのことだと思った。
 私は一枚の名刺を渡し「お世話になります。」と挨拶した。
 「焼物に趣味をお持ちですか。」
 「ええ、少しばかり研究もしています。」
 「そうでしょうね。ところで、山口県には萩焼という抹茶茶碗がありますね。」
 「ええ。」 
 「以前から一楽二萩三唐津≠ニいさって、名だけは売れていましたが、正直言って田舎窯くらいにしか思われていなかったのに、近頃はたいしたものですね。一度に二人も『人間国宝』の前段階とうわさされる『記録作成等の措置を講ずべき無形文化財』になるなんて思いもよらなかったんですが、そのことがあってからですかね。」 
 私は意外な話の展開になんていっていいか、少し戸惑っていると、
 「実は私は有田焼の問屋で、先月から、北の岩手を振り出しにまわり歩き、郷里に帰るべく、京都始発の列車に乗りこんだところです。」
とのこと。
 私は「そんなふうに思われているんですか。」と答えるにとどめたが、車中でいいともを得たとよろこんだ。
 話は有田焼と萩焼のことになったわけであるが、有田焼についての知識も、私は人並みには持っているのでね自然と私の語る萩焼についての一方的な話となっていった。
 その時のことをふりかえると、
 まず、さきに相手の方の目にふれた陶片の説明をし、現在の私が、萩焼を日本陶器からの位置づけにおいてみようとしている最中で、窯元の物原の調査、研究ならびに萩焼の代表の研究をと、京都に毎年のように行っていることを述べ、
 「京都はご承知のように茶どころで、時代もののいい茶碗はここでなければ見られませんからね。一楽の楽吉左衛門さんもお訪ねしたことがあります。この道の最上位を占めるだけの格式はあらゆる面で拝見でき、又、教えられるところも多々ありました。さきほどの物原の研究にあわせて、高台の研究をと、これらの蒐集もしています。」と、萩焼の話を起こした。
 私は話を続けた。
 「私は萩焼の位置づけをするため、支那、朝鮮、日本の陶磁器の研究、東洋陶器をと心がけてきましたし、又、心がけています。九州は今泉今右衛門さんの錦手の色絵付け、酒井田柿右衛門、有田香蘭社等の窯元ならびに伊万里博物館等をたずねました。
 又、唐津の中里太郎右衛門さん、又、中野霓林さん等その他上野、高取の窯元というふうに訪ね歩きました。又、四国の砥部、京都の窯、織部、志野焼の附近の瀬戸の窯元、中央線の渋草焼から関東の冨士焼、奥羽福島の相馬焼、又、中国の備前焼等を訪れ、カメラに作業の手順から窯をおさめて帰っています。
 これらの調査に行く前に文献あさりをすることが非常に力になりますね。各窯元の歴史的考察と窯芸的考察とでもいいましょうか、いくら時間があってもたりませんよ。又、同じ地方の窯でも窯元のあるじの持ち味がありましてね。陶匠の得意≠ニでもいいますか、茶ものをよくするもの、置物をよくするもの、数ものをよくするもの、花器類をよくするもの、雑器をよくするもの等それぞれの特徴がありますからね。窯の特もありまして、なかなか勉強させられますよ。
 萩焼の窯元も主なものだけでも山口に大和春信松緑、大和吉孝松緑、大和正一松緑といって兄弟三人が別々に窯を三、四本もって盛んに製陶業をしています。
 次は、。さきほどおっしゃった三輪休雪に、日展系の吉賀大眉、歴史的に考察してはっきりされる坂高麗左衛門、東光寺の側の九州唐津の中野霓林の息子の霓林、指月の松月その他窯元が六つばかりあります。
 又、湯本温泉のある長門湯本に坂倉新兵衛の窯、さきほどおっしゃったのは十二代ですが、亡くなられて、息子の十四代がついでおられますよ。このほか坂田泥華、田原陶兵衛、新庄寒山等があります。  
 は小畑、湯本、阿川、大道からとります。主に大道の土をもっぱらにして焼いています。又、萩沖合の見島より見島土といって鉄分の多ものを取り入れて使っています。
 次に釉薬ですが、萩焼の祖はもともと朝鮮の李勺光及び李敬で豊臣秀吉朝鮮征伐のとき伴って帰ったとか。伴い来た二人のうち、一人は萩に、一人は深川湯本におちついたとか。
 話は、萩焼の釉薬のもと=朝鮮に移りますが、朝鮮茶碗の釉薬は主として松板、ツツジ、クリ等の植物の木灰を用いたように書物で読んでいますが、ではイスの灰が一番上とされ、使用されました。イスは九州の宮崎県に広く分布していますが、山口県でも生け垣に多く使われています。これは根が直根で他の植物にたいしてわざわいをせぬそうですね。
 しかし、現在、このイスも少なくなり、ケヤキ、ツツジ、ワラバイ、紺屋のハイ等が使われているそうです。現在一番多いのはワラバイでしょう。
 又、表面の結晶のガラス状のものは、長石、馬歯石ともいって防府市の牟礼方面の上下二メートルくらいの所から出ているものを使用しています。」
 「陶土は有田のように大きな山ですか。」という問いを発せられたが、
 「あのような大きな山ではないが、広い分布において掘り出されています。九州、四国、瀬戸付近も陶器の盛んな所は土はふんだんにありますね。有田は天草の石を砕いて使っているとか。
 「そういです。そうです。」
 二人は車中を売って歩くミカンを買い求めてのどをうるおした。
 「陶匠の芸術もその陶工の生活環境、茶道への求心、時代的センスの持ち主等、数多くあげられましょうね。」
 「ところで、萩焼のよさは結局どこですかね。」 
 「他の陶磁器と違って七化七変化すると言っていますよね。」
 「同じ陶工がロクロ挽きをしますが、気韻生動と申して、それそのものが型でないため、個々違っています。ロクロも左蹴りの左仕上げ、左蹴りの右仕上げ、右蹴りの左仕上げ、右蹴りの右仕上げとありますが、これは個人のロクロ蹴りのくせ≠ナすが、先ほど申しましたように個々各々違ったおもしろさがまずあります。」
 次は釉薬の濃度、調合、かけ方の違いの違いもあります。それが窯に入れて火の洗礼を受けますが、ここで火動の変化が大きく出てきます。は、萩はのぼり窯の三〜四本ですが、一つの窯の中で、火奥、火中、火前で異なり、又、火奥の高さの位置、又、窯そのものの焚き口の手前と中と奥と何通りもあるわけです。その位置で焼き上がりが随分違います。
 又、窯くせがあり、陶匠の意のままにならぬ故に、窯あけの楽しさは格別です。喜びが大きいだけにまた悲しみも大きい場面もありますからね。私も窯元の窯あけに何度も招かれて行ったものです。」
 その異なったものを使っているうちに、又、七化七変化しますよ。実に直(すなお)なものですよ。釉薬の関係で小貫入大貫入が入っています。」
 「貫入≠ェね。」
 「そうです。長石が火にあって陶土の土にガラス状となってかぶさりますが、その長石の火に対して玻璃状となる度合の違いからキレツ≠生ずるわけです。」
 陶磁器の問屋のあるしせだけあって、話はよくわかる。
 私は鞄から赤膚の陶片を出してみせた。
 「茶筅の用い方、後始末が悪いとそこだけ厚く茶の色がつきます。これで、時代なり、使い手なりが察知できます。よく「つけ時代」といって、古く見せるために茶の中につけたりしますが、見るものから見ればすぐわかることですからね。直な萩焼もこうなると価値を失いますよ。よく煎茶器のサマシが非常に茶あかで色がついていますが、これも不自然ですよ。水あかならまだしも、茶あかのつくはずがありませんからね。 又、俗に蔵さびといって、新しいものを使わずにそのまま置いておくと、自然の時代≠ェついて、これも美しいものです。藩主毛利公なんかの蔵の中から出るものにはすばらしいものがありますよ。
 茶筅の通り道のわかる茶碗までになると、愛着が一層出て、楽しめるものです。又、釉薬の流れがみんな違っているし、 作為のないところに自然≠ェつける美、これも萩焼のみに見られる美でしょう。
 又、ホタル≠ニかモミジ≠ニか言っていますが、備前の火たすきのように、茶碗の所々にホタルが火をつけているようなものが出ます。これが煎茶器で五碗揃えばたいしたものですよ。五碗揃った薬の流れを求めることもなかなかむずかしいものです。
 又、抹茶茶碗の見込(茶だまり)がきれいなものをお茶では求めますが、中に薬のかかり方がまずいと形のいい茶碗も二流品になりますからね。黒い斑点が一つ二つあってもだめですよ。
 また、高台の所の薬分けも大切な一役を担います。
 いま一つは、火引きと言って、円いものも火のかげんで楕円形になりますが、これは助かるものと助からないものすなわち、商品的価値を失うものと助かる程度のものと、さらに、むしろこれを特徴として愛玩されるにいたるものとありますね。 」
 「ところで、萩焼も朝鮮から来たことがわかりましたが、朝鮮茶碗がいいといわれていますが、お茶そのものに使用したのは日本人で、朝鮮では雑器でした。それが今日、なぜ賞美されますかね。」
 「私はこんなことを思いますよ。これは私が思うことで、あとでご意見を拝聴したいのですが・・・・」
 「朝鮮茶碗は庶民の飯茶碗で、大量に陶工がロクロ挽きをした。それこそ数知れず毎日毎日、陶工がそれのみを作ることで一生を終わっていたといってもいいほどつくられたことでしょう。技術の極地とまでいくほど熟練してきます。こんどこそ立派な茶碗という意識よりも飯の食える∞飯の食べられる≠アとのみでロクロが回転したことと思います。その中の無造作で作為なき美を認めたのが日本人で、何万の中から残されたものが名碗として珍重されるのだと思います。
 茶人の日本人の人達が見いだし、それを模倣する作為のある生活から作り出されたものにはどうしても意図的な束縛は抜けきらぬことでしょう。名陶匠の作でも模倣から脱皮することはむずかしいでしょう。日本の茶人の見いだしたのも足利時代でしたね。」
 夜汽車は速く走るような気がするが、こうして話に身が入るとなお早い。
 「もう岡山に来ましたね。私一人おしゃべりをしてやすませませんでしたね。」というと、
 「今少し聞かせてくれませんか。茶碗を扱っている私達は、有田焼なんかデザインにおわれますよ。型そのものは決定されているのですからね。」
 そう言われると、日常使用する茶碗は、型の上でも、男もの、女もの、又、デザインにおいても男もの、女もの位だから、抹茶茶碗とは相当考え方が異なってくる。
 そこで、私はさっきからの話と重なるところもあるがとして、抹茶茶碗を次のようにまとめて話をした。
  茶碗としての機能を発揮すること
  茶碗としての品格
  茶碗の景色、鑑賞点の具備

 次に、部分的に眺めて、
 口ざわり、胴、腰、高台、茶溜(見込)の作域。
 火のひき方、不完全の完全
 愛用された茶筅ずれ

等をあげた。
 なお、私の頭の中の展開は、
 茶碗の景色−作域−見所肝所−侘を味わい−静かさを求め−風流−愛好
 のような字句が出てくる。又、よく言われる
 三味(品、侘、サビ)
 三感(量感、力感、浄感) 
が。
 「一つの」器を眺めるとき、こうしたことを見ますがね。又、こんなことをしたこともありますが・・・。天目、井戸、楽という名碗の高さ、口径、高台等の原寸をそれぞれあたってみました。天目の名碗を数点、井戸を数点、楽を数点とあたると、それぞれそのものの尺寸に見逃せない一致があることです。これも美の構成にも見逃せない一つではないかと考えます。
 ずいぶん話しましたね。坂倉さんが昨年突然亡くなって、無形文化財を一人失い、休雪さんだけになりました。七十九歳だったと思いますが、おしいですね。 
 挙げると数限りなく挙げられますが、とにかく、茶碗は茶の呑める茶碗、余韻のある茶碗、すなわち無限の力が内在していること、これこそ陶匠の力であると思います。
 先ず陶匠の茶道への趣、その人の生活、これが大切なことで、一つの茶碗にもその陶匠の人格があらわれていますよ。
 ほんとうに失礼しました。もう広島近くなっているようです。萩焼から抹茶茶碗を中心に話をしましたが、萩焼の作品の代表は茶碗でしょうね。
 萩焼を使う人に、私はこんなことをいつも言うんですよ。
『萩焼を直にそだてたい、つかいたい』って。
 おさまる位置によって美しさが違うおそろしさをあまりに知っていますからね。まあ結論は、そのものと語らいのできる人になりたく研究を続けています。」
 私は思いだしたように鞄から旅の残りのウィスキーを出し、提供した。非常に喜ばれ、有田の人との語らいで千日の知己を得た思いで無事三田尻についた。有田の人に、私はどんな人間としてとられているであろうか。
 
[参考]
 12代坂倉新兵衛氏の死について触れ、それが昨年≠ニあることから、「昭和36年」の執筆と思われます。
 なお、「三田尻」は、現在の「防府駅」ですが、この「三田尻」の名は、塩田がさかんであったこと、小説にも登場してくることから、全国的に知られている駅名だったと思います。


                    〈河野 英男=『陶片の楽書』より〉