平成20年6月26日 公開
平成21年9月7日 更新

● 「日本工芸会山口支部」結成の前史
−12代坂倉新兵衛氏が「萩焼中興の祖」という要因 としても−


『日本工芸会山口支部40年のあゆみ』における発足℃桙フ「記述」に、部分的な訂正≠試みる

『日本工芸会山口支部40年のあゆみ』という、立派な体裁≠フ中に、
日本工芸会発足当初地方支部の設置については、本部の意向として中国5県をまとめて中国支部とする方針であったが、萩焼だけの山口県支部を結成することを強く主張したため、備前焼を主体とする岡山県側も中国地区の1本改正[暫時見合わせ、東中国支部を発足させた(岡山県の神野 力氏の「証言」として)
とされ、それなのに
(「山口支部」の「事務局」を引き受けた脇本直甫氏が、高齢のため、三輪休和氏から、当時の橋本正之知事の了承のもとで、「事務局」を「山口県教育庁社会教育課」に持ち込んだ時は、)山口支部の結成、あるいはその発足に関しては、資料が皆無に等しく、唯僅かに遺された「山口県支部規約」と『日本伝統工芸の歩み』(平成5年・日本工芸会)の日本伝統工芸展沿革に、昭和33年2月、「山口支部を設置」と見える7文字の活字のみによって、山口支部の存在を窺い知るのみであった。
と書かれています。
 この後世≠ノ確実に影響すると思われる「資料」においては、表面的≠ノは、「萩焼」のわがままであったかのように
とられてしまいそうですので、私が父から聞いていること及び調べたことを、事実≠ノ近いものとして記しておきたいと思います。

 
「日本工芸会」の発足時に誘い≠フなかった「萩焼」

「日本工芸会」の発足については諸説ありますが、小山先生を初めとする方々の働きかけもあって、要するに、旧「無形文化財」の人達が中心となって発足させたということはまず、間違いのないところでしょう。

ただ、「社団法人 日本工芸会」の「正会員」の〈条件〉として、

 わが国伝統工芸の精神を体得し、その研究修練に特に熱意を有する者で、次の各項の何れかに該当する者
  1=伝統的な工芸に優れた技能を有する者
  2=伝統的な工芸技術を基盤とし、優れた創作力及び技術を有する者
  3=伝統的な工芸の研究修練に特に熱意を有し、かつ、優れた素質を有する者
ということを謳っており、プライド≠持った集団だったのです。

 しかも、「支部会員」になるのすら簡単ではなかったと言います。


----  [ 参 考 ]----------------------------------------------------------------------------

「昭和30(1955)年6月」設立当初 「日本工芸会正会員」 =47名〈『日本伝統工芸展50年記念展図録』中の内山武夫氏による〉

  [陶芸=13名]>荒川豊蔵/石黒宗麿/今泉今右衛門(十二代)/宇野宗太郎/加藤唐九郎
         /加藤土師萌/金重陶陽/川瀬竹春/酒井田柿右衛門(十三代
ママ実際は十二代)
         /徳田八十吉(初代)/富本憲吉/中里太郎右衛門(十二代)/浜田庄司

   [染織=10名]上野為二/木村雨山/小宮康助/清水幸太郎/芹沢_介
         /田畑喜八/千葉あやの/中村勝馬/松原定吉/山田栄一
   [漆芸・木竹工=8名]磯井如心/稲木東千里/飯塚ロウカン斎/音丸耕堂/木内省古
         /高野松山/松田権六/前大峰
   [金工=9名]石田英一/伊藤徳太郎/海野清/魚住為楽(初代)/香取正彦/鹿島一谷/高橋貞次/高坂雄水/内藤春治
   [人形=5名]岡本正太郎/鹿児島寿蔵/野口光彦/平田郷陽(二代)/堀柳女
   [七宝=2名]太田良太郎/早川義一
 
(参考)
「陶芸」関係のみについてですが、周知のごとく、
旧「無形文化財」に認定されていた方は、
荒川豊蔵/石黒宗麿/今泉今右衛門(十二代)/宇野宗太郎/加藤唐九郎/加藤土師萌/金重陶陽/徳田八十吉(初代) の8氏ですし、
「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」については、
昭和29年度 荒川豊蔵・浜田庄司・富本憲吉・石黒宗麿の 4氏
昭和30年度 金重陶陽氏 1氏
「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」としての「選択」については、
昭和29年度 [12代酒井田柿右衛門、12代中里太郎右衛門(=無庵)、川瀬竹春の 3人
昭和30年度  該当者なし
(なお、「昭和30年度」の「認定」=「人間国宝」の金重氏は、発足時には間にあっておらず、金重氏の肩書≠ヘ、旧「無形文化財」であったということになります。)
です。

 従って、発足℃桙フ「メンバー」として、これらの方々は、全員入っておられますし、
『第3回 日本伝統工芸展図録』にある、『第3回 伝統工芸展図録』巻末にある「一覧」によって、補足≠キれば、次の4氏≠ェ、「正会員」として、記載されています。
追加認定されたということでしょう。  
 宇野三吉(京都)/近藤悠三(京都)/辻晋六(京都)/藤原啓(岡山)
と、いずれも、発足時≠フ「正会員」が居住地されている地域の方々バカリです。
 
----------------------------------------------------------------------------------
「九州支部」からの「支部会員」としての入会の誘い

 「第三回 日本伝統工芸展」に、小山先生の推薦≠ナ出展、好評を博した12代坂倉新兵衛・三輪休和両氏でしたが、 「無形文化財」への内定≠受けていたともいえるお二人に、事情≠知らぬ[工芸会九州支部]から、支部会員≠ニしての入会の誘いがあったことが、三輪休和氏からの「ハガキ」でわかります。

昭和32年1月13日付「はがき」
 差出人=十代三輪休雪
 受取人=河野英男
お寒さの折柄□□御元気□□ます。
岡崎様夫人御病気の由早速御見舞致ませふ。此程工芸会九州支部より入会勧誘あり、一応支部会員となり、更に中央の本部会員推挙を受ける手順の由、これも小山先生指示による事と思ひます
御上京の節御出会の節は・・・・・・・・・・・・・・。
三越文化財展にも正会員として出品出来喜んで居ります。


この「はがき」の文面から、「山口県」の置かれた位置≠ェわかると思います。「中国地方」でありながら、「九州支部=この場合は佐賀県」から、「入会」の勧誘があったというのですから。
(なお、三越文化財展にも正会員として出品出来≠ニあるのは、九州支部経由にせよ、次回=「第4回展」からは「正会員」として出展できるのでということです。)

今日でも、各種団体において、「山口県」は「九州各県」との結びつき≠ェ強いものがあるはずです。 

この中の一応支部会員となり、更に中央の本部会員推挙を受ける手順の由、これも小山先生指示による事と思ひます≠ヘ、休和氏の思い違いです。
 小山先生から、「記録選択」は、ほぼ間違いないという知らせを頂いていましたから。
「記録選択」であれば、「文化財保護法」の公開≠フ「規程」からして当然=A「正会員」となるのです。


──[「伝統工芸展」が「第二回展」以後も公開≠フ場であったこと公的≠ネ資料による証明]───────────────

文化財保護の歩み〈昭和35年11月1日発行 編集=文化財保護委員会〉
六 無形文化財関係資料
一 重要無形文化財一覧
二 記録作の措置を講ずべきものとして選択された無形文化財一覧 
三 無形文化財関係事業一覧
1 芸能関係
 (1)技の記録
 (2)技の公開
2 工芸技術関係
 (1)技の記録
 (2)作品の公開        (618−619頁)
      (昭和27年という技術講習会以外は、すべて「日本伝統工芸展」です。)

塗(松波式引べら)技術講習会・特殊蒔絵(河面式)技術講習会 昭和27年 (会場欄は空白)
第一回日本伝統工芸展  昭和29年3月16日〜21日  日本橋三越  
第二回日本伝統工芸展  昭和30年10月4日〜16日  日本橋三越 
第三回日本伝統工芸展
昭和31年10月9日〜21日  日本橋三越 
昭和31年11月17日〜22日  大阪三越   
第四回日本伝統工芸展
昭和32年10月8日〜20日  日本橋三越 
昭和32年11月1日〜7日  名古屋オリエンタル中村   
昭和32年11月16日〜21日  大阪三越 
昭和32年11月30日〜12月10日  第一会場高松市美術館 
昭和32年11月30日〜12月5日  第二会場三越高松支店
昭和33年1月14日〜19日  福岡市岩田屋
第五回日本伝統工芸展 
昭和33年10月7日〜19日  日本橋三越 
昭和33年10月29日〜11月3日  名古屋オリエンタル中村   
昭和33年11月8日〜13日  大阪三越 
昭和33年11月25日〜30日  福岡市岩田屋 
第五回日本伝統工芸展
昭和33年10月7日〜19日  日本橋三越 
昭和33年10月29日〜11月3日  名古屋オリエンタル中村   
昭和33年11月8日〜13日  大阪三越 
昭和33年11月25日〜30日  福岡市岩田屋 
第六回日本伝統工芸展
昭和34年10月6日〜18日  日本橋三越 
昭和34年10月28日〜11月3日  名古屋オリエンタル中村   
昭和34年11月7日〜12日  大阪三越 
昭和34年11月19日〜30日  高松市美術館 

 昭和35年11月発行において、昭和34年分まで、欠かさず「日本伝統工芸展」公開の場として設けられたとあるわけですから、父が、小山先生のお話を誤解していたわけではないということがわかっていただけると思います。

──────────────────────────────────────────────

 上にも述べたように、「工芸会」の発足については、いくつかの説がありますが、その発足に際し、衰亡の虞≠ニいう修飾語のついた「無形文化財」の方達が中心となって発足したことは間違いのないところです。
 従って、「山口県」に近い旧「無形文化財」であった「岡山県」の金重陶陽氏からか、「佐賀県」の今泉今右衛門氏からかのどちらから、「萩焼」にも「工芸会」結成の際の誘い≠ェあってほしかったと思うのですが、「山口県」の位置≠ェはざまになったのでしょうか、誘い≠ヘなかったのです。

 三輪休和氏「からひね会」の仲間であった荒川豊蔵氏、金重陶陽氏は共に、旧「無形文化財」であったわけですから、せめて休和氏個人にでも、その「日本工芸会」への誘い≠してほしかったのですが、誘い≠ヘありませんでした。
(なお、改正≠ウれた新「無形文化財」制度においても、荒川豊蔵氏は昭和29年度の、金重陶陽氏は昭和30年度の、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」として認定されており、今泉今右衛門氏は、昭和31年度に、「萩焼」の2人と同じ「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として「選択」されておられることは、既に述べた通りです。)

 河野良輔氏や榎本 徹氏が、必要以上に重視≠オておられる「第三回日本伝統工芸展」の応募についても、公募≠ナあったなどというのは誤りで、「来県調査」に基づく、小山冨士夫先生の推せんがあったからこそだったということを、忘れてはなりません。

──(「第三回日本伝統工芸展」の出展者について)─────────────────────

「支部会員」として
京都=清水卯一←「京都府」=旧「無形文化財」・「人間国宝」石黒宗麿氏の弟子/「人間国宝」富本憲吉氏/旧「無形文化財」宇野宗甕氏
石川=大樋長左衛門←「石川県」=旧「無形文化財」初代徳田八十吉氏
岐阜=加藤景秋←「岐阜県」=旧「無形文化財」・「人間国宝」荒川豊蔵氏
京都=中島 清←「京都府」=旧「無形文化財」・「人間国宝」石黒宗麿氏/「人間国宝」富本憲吉氏/旧「無形文化財」宇野宗甕氏
岡山=山本陶秀←「岡山県」=旧「無形文化財」・「人間国宝」金重陶陽氏
石川=松本佐吉←「石川県」=旧「無形文化財」初代徳田八十吉氏
石川=納賀花山←「石川県」=旧「無形文化財」初代徳田八十吉氏
鹿児島=寺尾作次郎←九州≠ニいうことで「佐賀県」=今泉今右衛門氏?
石川=徳田八十吉←「石川県」=旧「無形文化財」初代徳田八十吉氏の子息
京都=木村盛和←「京都府」=旧「無形文化財」・「人間国宝」石黒宗麿氏/旧「無形文化財」宇野宗甕氏
愛知=加藤舜陶←「愛知県」=旧「無形文化財」加藤唐九郎氏
長崎=横石臥牛←九州≠ニいうことで「佐賀県」=今泉今右衛門氏
三重=菊山当年男←近畿≠ニいうことで「京都府」から?

「理事又は正会員の推せん」として
山口坂倉新兵衛←「理事」である小山冨士夫先生のお勧めによる応募
山口三輪休雪←「理事」である小山冨士夫先生のお勧めによる応募
愛知=雲雀民雄←「愛知県」=旧「無形文化財」加藤唐九郎氏
石川=北出藤雄←「石川県」=旧「無形文化財」初代徳田八十吉氏

 ここから、「九州支部」(現在の「西部支部」)及び、「京都支部」(現在の「近畿支部」)は、「地域内」の、「正会員」の存在していない、「他県」に、呼び掛けていることがうかがえるということです。
 しかし、「萩焼」の場合、「国指定無形文化財」への「指定申請」のための小山冨士夫先生による「来県調査」に伴って、「日本伝統工芸展」への推センがあったからコソの、「出展」だったという事実は、忘れてはなるまいと思います。
──────────────────────────────────────────────


「萩焼」の二人が、「正会員」となられたのは、支部会員となり、更に中央の本部会員推挙を受ける手順≠ノよってではなく「記録選択」になられたことが「理由」です。

 なお、この時の「正会員」推挙は、特別で、「工芸展4回入選」という原則≠ナはなく、清水卯一氏、加藤嶺男氏、加藤景秋氏、鈴木清氏の4氏「正会員」になられていますが、この4氏は、「記録選択」ではありません。

 さて、「正会員」となった「萩焼」のお二人は、「はがき」で誘いのあった「九州支部」ではなく、「中国支部」としてまとまる≠アとを要請されたのですが、「山口支部」単独での結成にこだわりました。
 当時の状況≠ゥらして、「中国支部」といっても、実質は、「岡山県」と「山口県」という両端の県≠ェ一緒になるということでした。

山口県£P独での「支部」結成へのこだわり


(「工芸会報」に見る「支部」の変遷≠ノついて)
(かつて、東京上野の「工芸会事務局」を訪ね、「資料」を見せていただくよう、御願いしたことがあります。しかし、あいにく、事務局長さんが不在でした。
そのため、「工芸会報」なるものがあることを、知っていましたので、それだけでも見せていただけないかと御願いしたところ、「外部に出したものなので、いいでしょう」として、「会報綴り」なるものを見せていただきました。
ただ、今はどうか知りませんが、随分、欠けていました。従って、そこで見た「会報」のみで、変遷≠みています。)

「工芸会報 bP」〈昭和31年8月10日発行〉の4頁≠ノあたるところに、
「支部の消息」として、
東京支部(関東・東北・北陸支部が改称して)
東海支部
京都支部
九州支部
という「支部名」が記されてます。

 そして、「工芸会報 bP3」〈昭和33年4月20日発行〉の4頁≠ノあたるところに、
「山口支部発足」として、
 中国地区では、岡山を中心として昨年十二月中国支部を結成、同地区の関係作家を殆んど包含していたが、地区が広範にまたがり研究会等の参加が地理的に不便のため、同地区を二つに分け西中国にあたる山口県に坂倉新兵(衛≠フ字なし)氏三輪休雪氏が世話役となり、左記発起人の強力な協力により山口支部を結成、四月から発足した。
とあり、続いて、既述したように、小澤知事、藤本教育長等の名前が列挙されています。 

 なぜ、「中国支部」でなく、「東中国支部」という名称≠ナ当初、結成したのかが疑問ですが、は誤植だったのだろうと思います。
 なお、今日は、「山口県」だけが「山口支部」を名乗り、他の4県=岡山県・広島県・鳥取県・島根県はまとまって、東中国支部ではなく、「中国支部」と名乗って、「中国支部展」を開催しています。

「工芸会報 bP6」〈昭和34年1月1日発行〉に、

賀春

社団法人日本工芸会
事務局
東京支部
東海支部
北陸支部
京都支部
東中国支部
山口支部
四国支部
九州支部
とあります。

 この限られた「資料」≠ノよって、
@ 「工芸会」の「支部」は、「昭和31年8月よりも前=vに、
   「関東支部」・「東北支部」・「北陸支部」・「東海支部」・「京都支部」・「九州支部」があり、
A 「昭和31年8月=vに、
   「東京支部」・「東海支部」・「京都支部」・「九州支部」となり、
B 「昭和32年12月に、「(東?)中国支部」を結成、
C 「昭和33年4月に、「(東?)中国支部」から、独立≠キる形≠ナ「山口支部」を結成した
ということがわかります。


(参 考)

『日本工芸会山口支部 40年のあゆみ』・『同50年のあゆみ』とも、「年譜」において、
何を根拠にしているのかがわかりませんが、
昭和30(1955)年
6月=社団法人日本工芸会設立(6/27日)
8月=関東・東北・北海道支部発足←「北海道支部」の名が、「工芸会報」にでていないのはなぜ?
9月=近畿支部発足←「京都支部」ではないのか?
昭和31(1956)年
8月=四国支部設立←「工芸会報 bP」の発行された「昭和31年8月」にないのはタッチ≠フ差?
12月=東中国支部発足←とあるのが疑問
昭和33(1958)年
2月=社団法人日本工芸会山口県支部が設立され、事務所を山口市後河原脇本直甫方に置く(2/11日)
と記しています。

この「記述」を正しい≠ニすれば河野良輔氏の昭和33年全国5番目の支部としてわが山口支部の誕生を見たのである。という「表現」と矛盾することになります。



 「昭和31年8月」「工芸会報 bP」によって、「理事又は正会員の推セン」によって、応募が可能になるということが、公≠ノされた当時≠ヘ、
「東京支部」・「東海支部」・「京都支部」・「九州支部」しかないワケで、それでいて、山本陶秀氏が、「支部会員」として、「一覧」に載っていることとて、「岡山県」=「備前焼」は、「京都支部」に属していたのではないかと思います。
 そして、「山口県」は、各種団体≠構成するのに、「九州」と組むことが、現在においても少なくないこと(「新聞各社」の「西部本社」が「北九州市」にあったのも、その典型です。なお、今日は、次第に、「北九州市」から「福岡市」に機能≠移しているように見受けられますが、それとて、「九州」・「山口」の結びつき≠損なわせるものではありません。)から、はざまとなったのではないかと思われますが、「昭和31年10月」のこととて、「第3回 日本伝統工芸展」において、華々しくデビュー≠オた「萩焼」の二人に、「京都支部」ではなく、「九州支部」から、「支部会員」への加入の勧め≠ェあったのだと思われます。
 それが、「本部」の意向もあって、「昭和33年」の後半には、「京都支部」から「岡山県」を独立≠ウせ、「中国地方」としてまとめようということだったのでしょうが、新兵衛氏が、独立≠ノこだわられたのです。

 三輪休和氏は、上の「はがき」でもわかるように、「九州支部」でもかまわないということで、それが「中国支部」でもかまわないということだったハズですが、坂倉新兵衛氏は、「記録選択」ではなく、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「認定」を望まれており、 新兵衛氏は、「陶工」・「陶芸家」としての技≠ェ優れているだけでなく、政治的な力もお持ちで、岸 信介氏や安部晋太郎氏らとも親しく、その安部氏が、新兵衛氏の「遺稿集」=『陶匠 坂倉新兵衛』において、
翁は芸術家によくある孤高にのみ生きることなく、進んで世事にも飛び込み、地元のいざこざや、発展のためには、熱意をもっとのぞまれ、円満な解決へと努力された。今、湯本を走る国道が拡張されつつある。完成したら、湯本も見違えるようになるであろう。これなども翁の遺産の一つであるといっても過言ではあるまい。・・・(「翁と郷土開発の熱意」(85〜89頁))
とあるのを代表として、「陶工」・「陶芸家」の「遺稿集」において、「陶芸」以外の功績が、寄稿された何人もの方によって、幾つも、具体的に記されているのです。
(〈参考〉 新兵衛氏は、昭和32(1857)年5月 「安部晋太郎後援会」結成に伴い「後援会長」になられ、安部氏の、翌昭和33年の衆議院議員の当選に力をつくされています。
なお、新兵衛氏の後援された安部氏は、その後、ほぼ間違いなく℃相になられるという評価≠されるに至っていましたが、病に倒れられたことは、ご存知だと思います。)

 「中国支部」に入るということは、「中国支部」=「備前焼」といったイメージ≠フモト、「萩焼」の存在を強くアピール≠キることにつながるとは思いにくかったことに加えて、既に記したように、それまで「萩焼」に対しては、「正会員」どころか、「支部会員」の誘い=Aはたまた、「第3回 日本伝統工芸展」が、「理事又は正会員」の「推セン」によって、「応募」できるようになったからどうかといった、誘い≠烽ネかったという流れのモト、形式的に£国地方の両端≠ェむすびついても意味がないと思われ、それに、「工芸会」以外に、諸団体が中国地方としてまとまるという「例」がほとんどなかったこともあって、「山口県単独」での「支部」結成にこだわられたのです。
 「山口支部」という特異な「支部」≠ェ、「萩焼」ダケでなり立っているということで、「萩焼」に注目してもらい、もって、「萩焼」からの「人間国宝」への昇格を願うということであったと思います。


「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」へのできるだけ早い段階≠ノおいての「指定・認定」を目指しての「山口県支部」結成≠ナあったことを示すものとして、「社団法人日本工芸会山口県支部設立趣意書」を示しておきます。


  「社団法人日本工芸会山口県支部設立趣意書」
(「本文」は、旧字が多く用いてあり、っ≠熈つ≠ニなっていますが、一般的な表記にして記しています。)


わが国の伝統工芸は、その淵源するところ唇深遠かつ広汎であって、永年にわたる創意と洗練によっ民族固有の精神文化と工芸技術が渾然として融合し、世界的に卓越したものであることは多言を要しないところであります。而して今後更に一層確固たる信念に徹して、その技術を錬磨し、その精髄を発揮して、わが国伝統工芸の向上進展を期することは、極めて緊要事であると信じます。
かかる見地より文部省文化財保護委員会の発起により、さきに社団法人日本工芸会が創設され、高松宮殿下を総裁に推戴し、細川護立氏を会長に選び、重要無形文化財工芸技術保持者及びこれに準ずる作家、技術者を正会員とし、正会員に準ずる作家、技術者を支部会員とし、伝統工芸に関する学識者を特別会員とし、この会の目的に賛同し、その事業を後援する者を賛助会員として、すでに着々適切なる事業を行いつつあります。
それとともに、全国各地に支部を設けて、各地方における優秀なる伝統工芸の伝統工芸の興隆を策し、その継承者の断絶をなからしめるよう、有能なる作家、技術者の育成につとめることになっております。
ひるがえって考えますに、わが防長二州における伝統工芸は、その由来するところ遠くその間特別の保護育成を受けて、独特高貴なる芸術的境地を開拓保持するに至り、重要無形文化財として後世に伝承せしむべきものも少くありません。よつて社団法人日本工芸会山口県支部を設立して、二州独特の伝統工芸の進展に資し、もつて日本工芸会創設の趣旨にも副いたいと念願するものであります。
而してこの事業たるや、工芸家のみの努力に委すべきでなく、広く県民の負うべき意義深き責務であると信じます。ここに有志諸賢の絶大なる御協賛を希うてやまない次第であります。
  昭和三十三年一月
社団法人日本工芸会山口県支部設立発起人(五十音順)
小澤 太郎(註 「山口県知事」)  野村鳳介
小河 正儀(註 「文化財保護」に協力的だった県議会議員)   林 佳介
蔭山 如信  二木 謙吾
神田 吉松  布浦 愼作
河上屋 千代槌  藤本 菊二(註 山口県教育長)
岸本 孝二  毛利 元道(註 「毛利家当主」) 
斎藤 実  八木 宗十郎
坂本 康治  山下 誠一(註 萩市長)
佐々木 健児  横山 繁雄(註 坂倉新兵衛氏の後援会長)
白木 了一  脇本 直甫
中安 閑一  坂倉 新兵衛
中部 利三郎  三輪休雪


(註 五十音順≠ニありますが、上段から下段になっているため、この「横書き」ではうまく表現できないことをご了承ください。
なお、「萩焼」の新兵衛氏、休和氏は、最後≠ノ記されています。)



 新兵衛氏は、行動力のある方です。
 新兵衛氏は、既に、昭和23年3月に、「萩焼美術陶芸協会」を設立、会長となっておられたことから、頭の中≠ノ、この「組織」を拡充・発展≠オていけばよいといった、ある種≠フ目途があったのだろうと思います。
 それに、新兵衛氏、休和氏を始め、「萩焼」の「陶工・陶芸家」の、技≠ノ対する自負≠烽ったからこそ、新会員≠ナあるにも関わらず、がんばられたのだと思います。

 つまり、「山口支部」の設立は、新兵衛氏の熱い思い≠ノよるものですが、「無形文化財」との関連にあるため、相談の上、当時の山口県知事=小澤太郎氏、山口県教育長=藤本菊二氏等を発起人≠ニして発足させるよう、根回し≠オました。
 なにせ、県単位という「支部」は、他にないのですから、この「支部長」に、「県知事」をということは、苦心≠フ結果だといいます。(当然=A小澤知事の了解のもとです。形式的≠ネものであるという「認識」はあったといわれました。私は、後年、「土井ヶ浜遺跡」の関係者である、三宅宗悦氏、小川五郎氏の「旧制山口高校時代の友人」としての、小澤氏に、お目にかかっています。三宅、小川両氏は、亡くなっておられましたが、お会いした時の小澤氏は、ご高齢であったにもかかわらず、矍鑠としておられました。)

 浜田庄司氏などは、単独≠ナの「山口支部」の結成ということに、不快感をもらされたそうです(複数の方からの「証言」をいただいています)が、結果的に「山口支部」が結成できたのは「記録選択」による「正会員」が二人≠「ることと、新兵衛氏が「工芸会」の人達の中でも、年上≠ニいうことが踏み切れた理由だといいます。
(「岡山県」にしても、「人間国宝」の金重陶陽氏と、「正会員」の藤原 啓氏(藤原氏は、陶陽氏亡き後、三輪休和氏と同じ時≠ノ、「人間国宝」になっておられますが、この時は、肩書き≠フない「正会員」でした。)の二人≠セったのです。)

 新兵衛氏は、翌年の昭和34年5月に、日本工芸会理事に選任され、その活躍が期待されたのですが、残念ながら、昭和35年12月には、亡くなってしまいました。
 当初こそ、「正会員」の数も、肩書も、「岡山県」にひけ≠とらなかったものの、35年、「正会員」に休和氏の弟の「節夫氏(現 壽雪℃=B当時の号=休)」が推挙されて間もなく、新兵衛氏が亡くなられたのです。
 この2人の「正会員」という時が続き、昭和39年坂田泥華氏まで待って、やっと「正会員」が3人=A昭和41年14代坂倉新兵衛の「正会員」で4人≠ニなるワケですが、「東中国支部」の方は、ただでさえ層の厚い「備前焼」の窯元に加え、「山口県」以外≠フ「中国地方の県」が加わっていっているワケで、「会員」の数(「支部会員」を含む)は、比べものにならなくなっていました。
 そうした状況≠ノおいて、ただでさえ、表≠ノ出ることを好まれなかった休和氏が、「工芸会理事」をまわしてほしいと言い出されるハズはなく、結局、新たな「山口支部」からの「工芸会理事」は、河野良輔氏の「申し入れ」「昭和47年」に実現≠オたという、三輪壽雪(当時は、11代 三輪休雪)氏まで、途切れて≠「ます。

 ところで、こうしたいきさつがあるにも関わらず、なぜか、記述したように、
日本工芸会発足当初地方支部の設置については、本部の意向として中国5県をまとめて中国支部とする方針であったが、萩焼だけの山口県支部を結成することを強く主張したため、備前焼を主体とする岡山県側も中国地区の1本改正[暫時見合わせ、東中国支部を発足させた
とされ、それなのに、
(「山口支部」の「事務局」を引き受けた脇本直甫氏が、高齢のため、三輪休和氏から、当時の橋本正之知事の了承のもとで、「事務局」を「山口県教育庁社会教育課」に持ち込んだ時は、)山口支部の結成、あるいはその発足に関しては、資料が皆無に等しく、唯僅かに遺された「山口県支部規約」と『日本伝統工芸の歩み』(平成5年・日本工芸会)の日本伝統工芸展沿革に、昭和33年2月、「山口支部を設置」と見える7文字の活字のみによって、山口支部の存在を窺い知るのみであった。 と書かれています。

 この昭和33年2月、「山口支部を設置」と見える7文字の活字のみによって、山口支部の存在を窺い知るのみであった。 ということには、疑問があり、それは、 『日本工芸会山口支部40年のあゆみ』に記しているので、そちらを見ていただくことにします。
 なにせ、この昭和33年2月も、昭和33年4月の誤り≠ニ思われるのです。
(河野良輔氏は、山口支部の結成、あるいはその発足に関しては、資料が皆無に等しく、唯僅かに遺された「山口県支部規約」と『日本伝統工芸の歩み』(平成5年・日本工芸会)の日本伝統工芸展沿革に、昭和33年2月、「山口支部を設置」と見える7文字の活字のみによって、山口支部の存在を窺い知るのみであった。≠ニ記されている一方、後では、社団法人日本工芸会山口県支部規約によって、おそらく「建国記念の日」にあやかったものと思われる2月11日としていることが知られ≠驍ニしておられますが、「日本工芸会」においては、「四月」の発足となっています。)

(「昭和33年4月20日」発行の「工芸会報bP3」の方が、直近のこととて、正しい≠ニ思います
 例えば、残念ながら、『第36回 日本伝統工芸展 図録』においても、巻末≠ノある「出品及入選状況」の「説明」において、
 1.第回展は、一般募集せず。
 2.第2回展より推せん制度による一番募集、出品点数制限なし。
 3.第3回展より1人5点以内。
 4.第7回展より公募、1人3点以内。
 5.・・・6.・・・7.・・
と、極めて重要な誤りがあります。
 残念ながら、平成5年刊という『日本伝統工芸展の歩み』を持っておらず、「図書館」等でも確認していませんが、
 『日本伝統工芸展50年記念展 わざの美』(発行年月日は印刷されていないと思いますが、「平成15年」であることは確実です。)の「年譜 伝統工芸50年の歩み」においても、
 1958 昭和33年
  5月 京都支部研究展開催。
 10月 第5回日本工芸展開催(東京、名古屋、大阪、福岡)。
  この回のみ名称が日本工芸展となり、技術賞が設けられる。
 11月 第1回日本工芸会岡山支部展開催。
とあります。
 ここは、「西中国支部展」のハズです。


『日本工芸会山口支部 40年のあゆみ』・『同50年のあゆみ』とも、「年譜」において、「関連の動き」として、
昭和33(1958)年11月=「第1回日本工芸会東中国展」としています。



 さて、新兵衛氏亡き後の「山口支部」の活動は、華々しいものとは到底、言えない状況で、そのためでしょう、東中国支部と西部支部の両者から折にふれて合併の働きかけを受けていたそうですが、「山口県」単独≠フ「支部」であったがゆえに河野良輔氏という企画力=A行政手腕に優れた人物を得て、めざましい活躍をすることになったと私は思います。

 ツマリ、私としては、「萩焼」今日を招来したのは、12代坂倉新兵衛氏及び河野良輔氏の二人≠フ功績だと思います。
 「萩焼中興の祖」と言われ、「顕彰碑」にもその文字≠ェ刻まれている新兵衛氏ですが、私は、新兵衛氏没後に、大きな効果≠ェでてきた、この「山口支部」を立ち上げたということも、その理由の一つ≠ノ含めるべきだと思っています。

(中興なるものが、どういう状況≠指すのかは、いま一つ、私には疑問≠ナすが、
「御用窯」として「藩」の保護のモト、一楽二萩三唐津と、いわれた時代を基準にしてのことで、
12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏が「記録選択」として、認められた当時をして、中興というのでしたら、
現在≠フ、未曾有≠フ活況(=「萩焼」に対する、全国的な、高い評価°yびそれに附随した評価額=E陶芸家の人数=E「作品」の多様性=E・・)をもたらした「祖」ということにもなるわけでもはや、中興の祖≠ヌころではないと言ってもよいかも知れません。)

 



◆ 「支部展」の効果≠ノついて

 『伝統工芸30年の歩み』(昭和59年3月10日刊)において、当時=A「朝日新聞西部本社学芸部長」であった源 弘道氏は、「日本伝統工芸展と九州・山口」に、次のような「記述」箇所があります。
・・・現行の公募制になった第7回展(昭和35年)の入選者は十二代今泉今右衛門、十三代酒井田柿右衛門、鈴田照次(染織・佐賀県)、中里無庵、十二代坂倉新兵衛(陶芸、山口県)、三輪休和、十一代三輪休雪の7人にとどまっている。全入選者が145人だから、4.82%にすぎない。
 その後も日本伝統工芸展での九州・山口の低迷はつづく。10回展(38年)での入選者もやっと10人(5.43%)、15回展(43年)でも20人(6.89%)と伸び悩む。
・・・・・・・・・・・・・・・
 しかし20年目ごろから、九州・山口在住者の入選率も上向き始める。昭和48年の20回展では入選者37人(入選率8.46%)と30人を越える。25回展(53年)は66人(10.94%)と10%を上回る。以後年々ふえつづけて、昨年の第30回展では106人と初めて100人の大台を突破、入選率も16.40%に達した。7回展当時にくらべれば入選者数では実に15倍、入選率でも3.9倍だ。30年目で、ようやく、その伝統の底力がヒノキ舞台の上でも出てきたということである。
 とりわけ陶芸部門での伸びが目覚ましい。30回展での九州・山口からの入選者は76人である。陶芸部門の全入選者が265人だから、九州・山口はその中の29.6%に当る。つまり陶芸部門のほぼ3人に1人が九州・山口在住者ということだ。陶芸王国・九州・山口の名にふさわしい。
 一方、陶芸部門の九州・山口からの入選者76人は、全部門への九州・山口からの入選者106人の72.38%に当る。その他の部門への入選者は染織16人、木竹工7人、金工、漆芸各1人、人形0人、その他5人となっている。つまり陶芸が圧倒的多数を占めており他の部門は相対的に比重が低いということだ。こういった状況は過去30回ほとんど変わっていない。陶芸王国であることを裏付けると同時に、他部門の相対的不振を物語っている。
 7回展の7人から30回展の106人への成長≠フ背景として忘れてならないことのひとつに西部工芸展と伝統工芸新作展がある。前者は日本工芸会の西部支部が昭和41年に創設した地域公募展、後者は日本工芸会山口支部が同53年から毎年開いている支部会員展である。ともに日本伝統工芸展の母体(主催者)である日本工芸会の九州・山口支部展だが、日本伝統工芸展のための予備校または勉強会の役割を果した。それぞれの開設以後、伝統工芸展への入選者が着実に伸びていることがその効用を語っている。
・・・・・・・・・・ 



    (私の思い)
単独≠ナ「山口支部」を結成したものの、肝心の12代坂倉新兵衛氏が、ほどなく亡くなってしまい、政治的≠ネ力とは無縁の三輪休和氏が中心≠ニなられ、一方、「県教育庁」においても、当時は、「陶芸」に詳しいダケで、勤まるような部署ではなかった(「山口県」で、「陶芸」に詳しいということで、最初≠ノ採用されたのは、昭和55年、「山口県立美術館」の開設に際しての、榎本 徹氏です)ため、口幅ったい言い方ではありますが、父=英男に代わる方に、「陶芸」にも、詳しいという方はなく、そのため、「山口支部」の「支部展」は、「他支部」に大きく、遅れを取ることになってしまいました。 (当然=A「支部展」の開催は、民間≠フ「工芸会山口支部」ダケで、できるワケはなく、助成等の措置が必要です。)

 「西中国支部展」(『日本伝統工芸展50年記念展 わざの美』にある「年譜 伝統工芸50年の歩み」には、「岡山支部展」となっていますが、誤り≠フハズです)が、既に昭和33(1958)年11月に、「第1回展」を開催しているのに対して、「山口支部展」は、昭和53(1978)年4月)が、「第1回展」です。

 従って、「本部」の意向通り≠ノ、「中国支部」に入っておけばよかったということになりそうですが、 河野良輔氏が「山口支部」の世話をされるようになってみると、単独≠ナの結成は、大きく=A意味を持つことになったといえるのではないでしようか。

 良輔氏の力≠ェあってでしょう、
「第1回展」=「21人」の会員数に対して4の「賞」
「第2回展」=「22人」の会員数に対して5の「賞」
以後、「4回展」までが、5の「賞」で、「第5回展」は、6の「賞」です。














「左」の「写真」は、この「第5回展」を報ずる[昭和57年11月3日(水)]の「朝日新聞」の(16ページ)全体です。
この「第5回展」は、「25人」の会員数だったとあります。(註 「日本工芸会山口支部奨励賞」は、「長方研」という「硯」が受賞、他の5が、「陶芸」です。)

「日本工芸会山口支部」、「朝日新聞社」など主催になっていることから、「日本工芸会山口支部長(知事)賞」、「朝日新聞社賞」が大きく取り上げられるのは、当然≠ナしょうが、他の受賞作品も、「作品写真」・「作者」が写真入り、そして、「作品解説」が加えられています。
この「ページ」には、[日本棋院 徳山支部長]の「随想」と「広告」以外は、すべて[第五回伝統工芸新作展]の記事であり、いかに、大きく≠ニりあげているかがわかっていただけると思います。

父の残した「資料」の中にあったのですが、すでに変色していることもあって、廃棄しかけたのですが、どうにか思いとどまりました。シワが多いのは、私が捨てかけたためです

 なお、これらは、『日本工芸会山口支部40年のあゆみ』にある「伝統工芸新作展20回の記録(会期、会場、審査員、受賞一覧)」をモトに記述しているのですが、「本文」に解説のある「第1回展」の場合、「記録」の「会員数=21人」と、差≠ェあります。

 (「第1回展」は、)公募展ではなく、支部会員23名が1人3点宛出品するもので、会員の意欲を刺激するためにも、出品作品を審査(無形文化財保持者および創立会員を除く)して賞を設置し、支部長賞(副賞10万円)、朝日新聞社賞(副賞7万円)、NHK山口放送局賞(副賞2万円)、支部長奨励賞(対象研究会員・副賞3万円)、朝日新聞社奨励賞(対象研究会員・副賞3万円)の5等賞とする。(ママ)
とあるのと、2人≠フ差・違い≠ェあります。(残念ながら、『第1回新作展の図録』のみ、「山口県立図書館」に、所蔵されておらず、確認ができません。)

  「支部会員23名」とありますが、参考までに、昭和53年当時の「正会員」を記しておきますと、12代坂倉新兵衛氏(昭和33年月没)・14代坂倉新兵衛氏(昭和50年4月没)が亡くなられているタメ、三輪休和・三輪壽雪・坂田泥華・坂高麗左衛門・田原陶兵衛の5人が「正会員」ということになります。
 「年」を重ねていくと、「日本伝統工芸展」に、4回入選≠ナ、「正会員」という原則≠セといいますので、「正会員」になっていく陶芸家も増えてきますし、「何回展」からかはわかりませんが、「正会員」も受賞されていますし、同じ人物に「賞」が何度も行くことは避けようとする<nズですが、何度も受賞という人もいますので、一概にはいえませんが、「若手」にとっては、確率の高いものとして、励みになったことは間違いないところでしょう。
 「賞」の数≠熨揩ヲていき、例えば、「第20回展」の場合は、「49人」の会員数に対して、11人の受賞者とあります。


 そして、この「伝統工芸新作展」は、公募≠ナはなく、「会員」対象ということで、実施したということですから、「会員」を増やすのにも、効果があったと思います。

 層≠ェ厚く、レベル≠熏b「「岡山県」・「佐賀県」と争うことなく=A「萩焼」が毎回=Aほぼ確実≠ノ顕彰され、しかも、「朝日新聞社」が、「作品」・「作者」を「写真」で、大きく¥ミ介するのですから、この点からいっても、励み≠ノならないハズはありません
 さらに、直接=A権威者≠ノよるアドバイス≠ェなされたこともあって、「萩焼」は大きく♂Hばたくことになったのです。
極端な言い方をすれば、これも、山口県<_ケという、純粋培養される狭い範囲≠トあったからだと、言えなくはないと思うのです。 

 更に、河野良輔氏による、さまざまな企画で、「山口支部」は、いろいろな面で、活動していますが、これも、山口県<_ケの「支部」なるがゆえのことだと思いますので、12代坂倉新兵衛氏の、熱き思い≠ェ実ったといえるのではないでしょうか。
  かくして、一気≠ノ、「他支部」に対する遅れ≠取り戻したのみならず、「山口支部」は、先頭≠走る「支部」の1つ≠ニなったと、言ってもよいかと思います。



 なお、『日本工芸会山口支部40年のあゆみ』において、社団法人 日本工芸会 理事長 安嶋 彌 氏「山口支部発足40周年を祝う」というし「祝辞」の冒頭≠ノおいて、
山口支部発足40周年を心からお祝い申し上げます。
 山口支部が発足した昭和33年は、日本工芸会が設立後3年余を経過した時期に当たります。この様な早い時期に、僅か数名の方々により、しかも他支部に先駆けての支部結成には、当時の皆様の御熱意と御苦労の程が推察され、敬服と感謝の念を新たにする次第であります。・・・・・・・・・
と書いていただいていることも、付記しておきます。