『日本工芸会山口支部40年のあゆみ』における発足℃桙フ「記述」に、部分的な訂正≠試みる 『日本工芸会山口支部40年のあゆみ』という、立派な体裁≠フ中に、 日本工芸会発足当初地方支部の設置については、本部の意向として中国5県をまとめて中国支部とする方針であったが、萩焼だけの山口県支部を結成することを強く主張したため、備前焼を主体とする岡山県側も中国地区の1本改正[暫時見合わせ、東中国支部を発足させた(岡山県の神野 力氏の「証言」として) とされ、それなのに、 (「山口支部」の「事務局」を引き受けた脇本直甫氏が、高齢のため、三輪休和氏から、当時の橋本正之知事の了承のもとで、「事務局」を「山口県教育庁社会教育課」に持ち込んだ時は、)山口支部の結成、あるいはその発足に関しては、資料が皆無に等しく、唯僅かに遺された「山口県支部規約」と『日本伝統工芸の歩み』(平成5年・日本工芸会)の日本伝統工芸展沿革に、昭和33年2月、「山口支部を設置」と見える7文字の活字のみによって、山口支部の存在を窺い知るのみであった。 と書かれています。 この後世≠ノ確実に影響すると思われる「資料」においては、表面的≠ノは、「萩焼」のわがままであったかのように とられてしまいそうですので、私が父から聞いていること及び調べたことを、事実≠ノ近いものとして記しておきたいと思います。 |
「日本工芸会」の発足時に誘い≠フなかった「萩焼」 |
「九州支部」からの「支部会員」としての入会の誘い |
昭和32年1月13日付「はがき」 |
お寒さの折柄□□御元気□□ます。 岡崎様夫人御病気の由早速御見舞致ませふ。此程工芸会九州支部より入会勧誘あり、一応支部会員となり、更に中央の本部会員推挙を受ける手順の由、これも小山先生指示による事と思ひます。 御上京の節御出会の節は・・・・・・・・・・・・・・。 三越文化財展にも正会員として出品出来喜んで居ります。 この「はがき」の文面から、「山口県」の置かれた位置≠ェわかると思います。「中国地方」でありながら、「九州支部=この場合は佐賀県」から、「入会」の勧誘があったというのですから。 (なお、三越文化財展にも正会員として出品出来≠ニあるのは、九州支部経由にせよ、次回=「第4回展」からは「正会員」として出展できるのでということです。) |
山口県£P独での「支部」結成へのこだわり |
(参 考) 『日本工芸会山口支部 40年のあゆみ』・『同50年のあゆみ』とも、「年譜」において、 何を根拠にしているのかがわかりませんが、 昭和30(1955)年 6月=社団法人日本工芸会設立(6/27日)
8月=関東・東北・北海道支部発足←「北海道支部」の名が、「工芸会報」にでていないのはなぜ? 9月=近畿支部発足←「京都支部」ではないのか? 昭和31(1956)年 8月=四国支部設立←「工芸会報 bP」の発行された「昭和31年8月」にないのはタッチ≠フ差?
12月=東中国支部発足←東とあるのが疑問 昭和33(1958)年 2月=社団法人日本工芸会山口県支部が設立され、事務所を山口市後河原脇本直甫方に置く(2/11日)
と記しています。 この「記述」を正しい≠ニすれば、河野良輔氏の昭和33年全国5番目の支部としてわが山口支部の誕生を見たのである。という「表現」と矛盾することになります。 |
「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」へのできるだけ早い段階≠ノおいての「指定・認定」を目指しての「山口県支部」結成≠ナあったことを示すものとして、「社団法人日本工芸会山口県支部設立趣意書」を示しておきます。 「社団法人日本工芸会山口県支部設立趣意書」 (「本文」は、旧字が多く用いてあり、っ≠熈つ≠ニなっていますが、一般的な表記にして記しています。) わが国の伝統工芸は、その淵源するところ唇深遠かつ広汎であって、永年にわたる創意と洗練によっ民族固有の精神文化と工芸技術が渾然として融合し、世界的に卓越したものであることは多言を要しないところであります。而して今後更に一層確固たる信念に徹して、その技術を錬磨し、その精髄を発揮して、わが国伝統工芸の向上進展を期することは、極めて緊要事であると信じます。 かかる見地より文部省文化財保護委員会の発起により、さきに社団法人日本工芸会が創設され、高松宮殿下を総裁に推戴し、細川護立氏を会長に選び、重要無形文化財工芸技術保持者及びこれに準ずる作家、技術者を正会員とし、正会員に準ずる作家、技術者を支部会員とし、伝統工芸に関する学識者を特別会員とし、この会の目的に賛同し、その事業を後援する者を賛助会員として、すでに着々適切なる事業を行いつつあります。 それとともに、全国各地に支部を設けて、各地方における優秀なる伝統工芸の伝統工芸の興隆を策し、その継承者の断絶をなからしめるよう、有能なる作家、技術者の育成につとめることになっております。 ひるがえって考えますに、わが防長二州における伝統工芸は、その由来するところ遠くその間特別の保護育成を受けて、独特高貴なる芸術的境地を開拓保持するに至り、重要無形文化財として後世に伝承せしむべきものも少くありません。よつて社団法人日本工芸会山口県支部を設立して、二州独特の伝統工芸の進展に資し、もつて日本工芸会創設の趣旨にも副いたいと念願するものであります。 而してこの事業たるや、工芸家のみの努力に委すべきでなく、広く県民の負うべき意義深き責務であると信じます。ここに有志諸賢の絶大なる御協賛を希うてやまない次第であります。 昭和三十三年一月 社団法人日本工芸会山口県支部設立発起人(五十音順)
小澤 太郎(註 「山口県知事」) 野村鳳介
小河 正儀(註 「文化財保護」に協力的だった県議会議員) 林 佳介 蔭山 如信 二木 謙吾 神田 吉松 布浦 愼作 河上屋 千代槌 藤本 菊二(註 山口県教育長) 岸本 孝二 毛利 元道(註 「毛利家当主」) 斎藤 実 八木 宗十郎 坂本 康治 山下 誠一(註 萩市長) 佐々木 健児 横山 繁雄(註 坂倉新兵衛氏の後援会長) 白木 了一 脇本 直甫 中安 閑一 坂倉 新兵衛 中部 利三郎 三輪休雪 (註 五十音順≠ニありますが、上段から下段になっているため、この「横書き」ではうまく表現できないことをご了承ください。 なお、「萩焼」の新兵衛氏、休和氏は、最後≠ノ記されています。) |
『日本工芸会山口支部 40年のあゆみ』・『同50年のあゆみ』とも、「年譜」において、「関連の動き」として、 昭和33(1958)年11月=「第1回日本工芸会東中国展」としています。 |
良輔氏の力≠ェあってでしょう、 「第1回展」=「21人」の会員数に対して4の「賞」 「第2回展」=「22人」の会員数に対して5の「賞」 以後、「4回展」までが、5の「賞」で、「第5回展」は、6の「賞」です。 「左」の「写真」は、この「第5回展」を報ずる[昭和57年11月3日(水)]の「朝日新聞」の(16ページ)全体です。 この「第5回展」は、「25人」の会員数だったとあります。(註 「日本工芸会山口支部奨励賞」は、「長方研」という「硯」が受賞、他の5が、「陶芸」です。) 「日本工芸会山口支部」、「朝日新聞社」など主催になっていることから、「日本工芸会山口支部長(知事)賞」、「朝日新聞社賞」が大きく取り上げられるのは、当然≠ナしょうが、他の受賞作品も、「作品写真」・「作者」が写真入り、そして、「作品解説」が加えられています。 この「ページ」には、[日本棋院 徳山支部長]の「随想」と「広告」以外は、すべて[第五回伝統工芸新作展]の記事であり、いかに、大きく≠ニりあげているかがわかっていただけると思います。 父の残した「資料」の中にあったのですが、すでに変色していることもあって、廃棄しかけたのですが、どうにか思いとどまりました。シワが多いのは、私が捨てかけたためです |