大村益次郎と吉田松陰の年譜

明治維新の大きな原動力となった二人の年譜をまとめてみました。
精神論の吉田松陰、技術論の大村益次郎とよく言われます。歴史上二人の接点はほとんどありませんが、同じ時代に生きた二人が明治という新しい時代の基礎を確立しました。

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西暦(年) 大村益次郎 吉田松陰 主な歴史事実
1825 周防国吉敷郡鋳銭司村で出生
幼名を宗太郎という

1827 父が村田家を出て、藤村家を継ぐ
宗太郎もそこで成長する
1830 萩松本村で出生
幼名を虎之助のち大次郎、松次郎
寅次郎
1831
1832
1833
1834
1835 吉田家八代、名を大次郎と改める
1836
1837
1838 家学教授見習として明倫館に出勤
1839 明倫館で家学教授
1840 藩主の前で「武教全書」を講義する
1841 波多野源左衛門に馬術を学ぶ
1842 三田尻の梅田幽斎の門に入る 玉木文之進、私塾「松下村塾」を開く
松陰入塾する
藩主の前で「武教全書」を講義する
1843 4月7日 日田の咸宜園に入門
12月 天ガ瀬にて詩を作る
1844 6月 咸宜園を退く
このころ 良庵と改名
藩主に「武教全書」、「孫子」を講義
する
1845 山田亦介より長沼流兵学を修める
1846 緒方洪庵の適塾に入門 佐藤寛作より兵要録を学ぶ
飯田猪之助より西洋陣法を学ぶ
守永弥右衛門から荻野流砲術を伝授
1847 湯田に遊ぶ
林真人から「大星目録」の免許返伝を
受ける
1848 適塾の塾頭となる
1849
1850 適塾を辞し郷里で医業を開く
1851 妻、琴子(18歳)と結婚
1852
1853 10月27日 宇和島藩に出仕する
1854 宇和島藩の命により、村田良庵
を村田蔵六と改名
軍艦の製造法修行のため長崎へ
1855 軍艦雛形完成
宇和島九島にて進水式
1856 宇和島藩主の参勤で江戸に出る
5月下谷の大槻俊斎の家に寄宿
11月麹町に私塾鳩居堂を開く
同月、幕府蕃書調所教授手伝
1857 11月幕府の講武所教授
1858 12月江戸をたち帰省の途につく
1859 正月、萩につき、さらに帰郷する。
2月宇和島に行く
6月江戸に行く
10月江戸千住において死刑女囚
を解剖する。
1860 4月長州藩雇士になる。
横浜滞留のヘボンより英語を学ぶ
1861 正月、江戸より萩に帰る。
手廻組に加えられ博習堂用掛とな
る。馬関へ行く。
1862 江戸麻布蕃内での西洋兵学会読
の教授を命ぜられる。
1863 5月井上馨、伊藤博文ら5名の英
国遊学を周旋する。
1864 2月三田尻付近砲台築造用地巡検
3月小郡付近砲台築造用地巡検
5月鉄煩取調方
8月外国人応接掛
1865 2月上海に渡る
5月用所役軍政専務
12月大村益次郎に改名
1866 4月三兵教授役
6月四境戦争始まる
石州口にて幕軍攻撃
12月海軍用掛
1867 10月用所助役、軍政専務
1868
明治元年
1月用所本役
3月海軍繰練準備
4月軍防事務局判事
  軍務官判事
5月従五位、江戸府判事
   上野彰義隊討伐
9月東北戦乱鎮圧平定
10月軍務官副知事
1869 5月函館戦終わる
7月兵部大輔
9月4日京都にて刺客に襲われる
11月5日死す
11月20日鋳銭司墓所に神葬
1872 大村神社建設