古代文学への誘い                        backindexnext

 


共同体意識

 

  古代の文学を考えるには、言葉を理解する以外に方法はありません。そして言葉を理解する基本は共同体意識が何であるかを探ることから始まります。その中でも普遍性を持っているものは、記号的意味で理解されます。

  結婚式で黒のネクタイをしていく男はいませんし、ピンクの服をきている神様はいません。これが記号です。暗黒とか、悪魔とかに連想する黒は恐怖や死といった負のイメージですし、神や幸福は白のイメージとして連想されます。もちろんこれは我々の属する社会全体のイメージに左右されることもあり、制度と言われています。背広を着たりジーパンをはいて外を歩くのは現代では普通ですが、羽織袴で刀を差して歩くと、みんなジロジロと見るでしょう。映画のロケかなと思う人もいると思います。服装も制度的な見方ができます。同様に言葉も制度です。社会全体のコミュニケーションの道具として見ると、みんなが共通に理解出来ないと意味がありません。当然社会の共通認識に寄りかかっています。また信号の色もそうでしょう。

  古代に現れているものを同様にみると、この見方で古代の様子をうかがうことが出来ます。それを見るときは古代からものに書かれている言葉が基本になりますし、古くから伝承されているものを参考にするからです。

  祭りというのも制度の一つです。共同体の共通認識によって成り立っているからです。湯田温泉ばかりでなくあちらこちらにある起源話には必ず白い狐や烏が登場します。これが赤い狸では少し間が抜けます。狐や烏は神の使いであったり、あるいは神そのものという認識が過去にあったことを示しています。

  このような見方で古代に現れてくるものを見ると、制度的な共通点を見ることが出来ます。それを古代の考え方であると見て間違いはないでしょう。

  有名な桃太郎の話。おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川で洗濯にで始まる誰でも知っている昔話ですが、

 

  ある日、おばあさんが川で洗濯していると、上流から大きな桃がドンブラコッコ、ドンブラコッコと流れてきました。おばあさんは驚いてその桃を拾って、家に持って帰りました。おじいさんとその桃を二つにしてみると、まあどうしたことでしょう。中からは小さなかわいい赤ん坊が出てきました。子どものなかったおじいさんとおばあさんは大喜び。

 

  という最初の方ですが、我々が知っているこの話は明治の国定教科書に載せられたものが始まりで、中世の御伽草子に載せられているものは少し話が違います。

 

  ある日、おばあさんが川で洗濯していると、上流から桃が流れてきました。おばあさんはその桃を拾って、家に持って帰りました。おじいさんとその桃を二つにして食べてみると、まあどうしたことでしょう。二人ともずいぶんと若返ってしまいました。そしてその内おばあさんにかわいい赤ん坊が生まれました。今まで子どものなかったおじいさんとおばあさんは大喜び。

 

seas089  というふうになっています。若返って子どもを生むというのはちょっと生々しくなるので、明治の頃に書き換えられたのでしょうね。

  この話では、共同体の共通概念が三つ入っています。まず上流から桃が流れてくるということ。それから桃を食べると若返ったということ。その結果生まれたかわいい赤ん坊が、後に桃太郎となって鬼退治に行くという強力な力を持つ話に展開します。

  「上流」というのは、柳田国男がまとめた「遠野物語」においても、遠野地方の話として、上流からおわんが流れてきて、不思議に思った人が川をさかのぼっていくと桃源郷に至りついたという話や、古事記神話では、高天原を追放された須佐の男命が肥の川で上流から箸が流れてきたのを見て、川上に行き、やがては八股の大蛇退治をするというきっかけになっていたり、他にも「川上」ということが話の端緒となることが多く出てきます。つまり川上には不思議な力のある世界が広がっているという認識が当時あったことを示しています。

seas137seas095  それから「桃」。

  古事記には、亡くなった妻のイザナミの命を連れ戻しに黄泉の国に行ったイザナギの命が、命からがら逃げ帰る時に、追ってくる黄泉醜女に投げて急場をしのいだのが「桃」です。桃には不思議な力があると思われているのです。もっとも実際は古代は薬だったようです。

  その桃の持つ不思議な力の一つに、食べると若返るということがあります。若返るというのは古代には共通に見られるもので、若返水(おちみず)伝承と呼ばれています。

 

  昔ある所におじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんが柴刈りに出て山道を歩いていると、ふっときれいな水の湧き出ている泉を見つけました。ちょうど喉も渇いていたので、少しその水を飲みました。家に帰ると、おばあさんが驚いたこと。なぜならおじいさんが昔の若い姿になっていたからです。道を聞いたおばあさんも急いでその泉の所に行きました。ところがいくら待っても家に戻って来ません。心配したおじいさんはその泉のところに行きました。するとおばあさんの姿はどこにもなくて、小さい赤ん坊が泉のほとりで泣いていました。

 

  というのが今昔物語にも載せられている若返水伝承です。万葉集にも

 

我がたもとまかむと思はむ大夫は変若水求め白髪生ひにけり(巻4627

白髪生ふることは思はず変若水はかにもかくにも求めて行かむ (同・628

天橋も  長くもがも  高山も  高くもがも  月夜見の  持てるをち水 (巻133245

 

  などと見えており、月読神が持っているともされています。月は欠けたり満ちたりを繰り返すので、若返るものと見られていたのでしょう。最初の二首は、年配のおじさんが若い女に言い寄ってからかわれている歌。自分と寝ようなんて思っているのだったら精力剤(若返水)を探してきなさい。すっかり白髪が生えているじゃないの。と言われたのに対して、白髪は関係ないよ。まあだけど若返水はとにかく探して、あなたの所へ行こう。とやけに従順な男の歌です。

  このように他を見てくると、桃太郎の話の桃もこの若返水伝承の一端が組み込まれているということになります。

  それから、赤ん坊。

  みんなの知っている昔話をいろいろ思いめぐらしてください。かぐや姫。一寸法師。何か共通点がありませんか。そうみんな始めは小さいのです。柳田国男はこれを小さ子譚と名付けました。神は童形(子どもの形)となって登場するという共通点があるというのです。桃太郎もそうです。若返ったおばあさんから生まれたとするならば、不思議な登場のしかたはしていませんが、桃を食べて若返るのですから、不思議といえば不思議でしょう。やはり神としての能力があり、それが鬼を退治するという力につながっていると見ることが出来ます。

  小さ子ということでは、古事記にある少彦名神もそうですが、もう一つまた別の要素がこのなかには入っています。

 

  大国主神がある時に出雲の美保の岬に居たときに、海の方から芋のさやで作った船に乗って来る小さい神がいた。誰だろうとかかしに聞いたところ、カミムスヒの神の子であるスクナヒコナの神であり、二人で協力して国作りをせよということだった。ところが業半ばにしてスクナヒコナは常世の国に戻ってしまった。大国主が嘆いていると、海上照らしてやってくる神がいた。彼が言うのに自分をよく祀れば、国作りは必ず成就するだろう。

 

  というのが主な筋ですが、「我は海の子」の歌詞の2番に

 

  生まれて潮に湯浴みにして  波を隠りの歌と聴き

  千里寄せ来る海の気を  吸いてわらべとなりにけり

 

  歌えますか。この中の「千里寄せ来る海の気」と共通性を持っています。もっとも「我は海の子」は文部省唱歌であり、時代は異なりますが、海の彼方の常世の国から我々に幸福をもたらす魂がやってくるという基本的考えはどこか感じとることが出来るでしょう。

  沖縄の信仰では死者はニライカナイという海の彼方にある祖先のいる国に行き、お盆の時などに戻ってくるという考えがあります。これも海の彼方からやってくる幸御魂(さきみたま)、奇御魂(くしみたま)と仏教のお盆が混ざり合ったものとも考えられます。

 

川の上流  桃源郷  不思議な力のある別世界  古事記、遠野物語

     不思議な霊力  古事記 黄泉国訪問  実用として薬

若返る   変若水   若返り伝承

子ども   小さ子譚  不思議な力を持っている  一寸法師、かぐや姫

行く    旅をする(貴種流離)→ 旅をするものは、神の資格(概念)

     災いをもたらす邪悪なもの

 

  このように見てくると、それぞれの昔の話に登場してくる物には共通点があり、それがその時代の共通認識としてあったことを取り出すことが出来ます。逆に言えば、一見違った話でも、共通性を見出したときに、古代の考え方の一端を探ることが出来るということです。

 


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