7 文字の到来
古事記によると仁徳天皇の時代に現在の韓国である百済から王仁という博士が論語と千字文を持って来たのが我が国に文字が入ってきた最初だということになります。実際に四世紀頃に日本列島に朝鮮半島経由で中国の文字が入って来たのでしょう。
この頃の人は中国の文字を和語に当てるということで和語を表記する工夫を考えました。そして音訓混用表記という世界でも類を見ない表記法を作り出しました。
上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於きて即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞心に逮ばず、全く音を以ちて連ねたるは、事の趣更に長し。是を以ちて今、或は一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録しぬ。即ち、辞理の見えかたきは、注を以ちて明らかにし、意況の解り易きは、更に注せず。亦姓に於きて日下を玖沙訶と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯と謂ふ、此くの如き類は、本の随に改めず。
太安麻呂も古事記序文で表記の難しさを説いています。昔の人が考えた文字と和語の対応は次のように分類されます。
中国の漢字音をそのまま用いる |
音仮名 |
波(は)、与(よ)とかいわゆる万葉仮名 |
漢字の意味に和語を当てる |
訓仮名 |
言(こと)、津(つ)など |
漢字の熟語に和語を当てる |
訓熟語 |
海若(わたつみ)、大和(やまと)など |
漢字に習熟してくると戯れに和語を当てる |
戯訓 |
十六(しし)など |
言うまでもなく、万葉仮名の一部は平安時代になり大胆な草書体で用いられ、やがて平かなへと発展していきます。そうした文字の到来は、日本語の表記ばかりでなく、文学に根底から変化をもたらしました。それまでは口誦であったものが文字表記による伝達が可能になったからです。神話や呪文のように共同体のものとしてあった詞章が、個人による創作が可能となったのです。記紀歌謡のような歌も個人の作る歌へと変化してきました。
しかし、一方で漢字ばかりで書かれた万葉集の歌や古事記は読むのに苦労します。例えば、
垂乳根之母我養蚕乃眉隠馬聲蜂音石花蜘■荒鹿異母二不相而
(万葉集 巻12・2991)
の歌は、以下のように訓みます。
たらちねの,ははがかふこの,まよごもり,いぶせくもあるか,いもにあはずして
蜘■の字は、コンピュータにないので出ませんが、虫偏に厨という字です。古来戯訓と呼ばれているもので、文字による歌のやりとりでなければあり得ない表記です。鎌倉時代の古本説話集という本には、この訓の苦労話が書かれています。
平安時代に源順という人がこの歌をどう読んでいいか悩んでいた。ある日のこと、いつものように考えながら都大路を歩いていると馬とぶつかった。今ならば交通事故で救急車ものですが、当時のこと。イインと馬が鳴いた。そこで順はハットして「馬聲」とは「い」と読むのだと頭に電灯がともった。後は芋蔓式。蜂の音だから「ぶ」、石花は「せ」という貝の一種のこと。そして「くも」で、ここは「いぶせくもあるか」と読むんだということがわかった。
本当のようなウソの話です。
春楊葛山發雲立座妹念 (万葉集 巻11・2453)
この歌をすらすらと読める人は、文学がわかる人と一緒に世界二周旅行にご招待します。これで「はるやなぎ,かづらきやまに,たつくもの,たちてもゐても,いもをしぞおもふ」と読みます。これを最初に読んだ人はエライ。
このように今となっては何と読むんだというものになってしまっていますが、昔の人がいかに苦労して日本語を外来の漢字に当てたかがうかがわれますね。
伊祢都氣波 可加流安我手乎 許余比毛可 等能乃和久胡我 等里弖奈氣可武 (万葉集 巻14・3459)
これはもう一人で読めますね。いわゆる万葉仮名表記になっているものです。
もちろんその背後にある思想も深く影響しています。中国の文学書や歴史書、思想書などは、文字を習得する手段ばかりでなく、内容も理解し把握されてきます。それによって創作も中国の方法が入り込んできます。古代の和歌が集められた万葉集は、中国六朝時代の魏の文帝によって編纂された「文選」の詩文の影響が強く表れています。
梅の花咲きたる園の青柳は蘰にすべくなりにけらずや 少貳粟田大夫 (巻5・817)
天平二年正月、九州太宰府の長官であった大伴旅人は、配下の人たちを招いて梅の下で春の宴を催しました。梅花の宴と呼んでいるのがそれです。この歌はその中の一つです。梅というのは当時にあっては中国から渡ってきたばかりの珍しい花でした。まだ紅梅はなく、白梅だったと考えられています。梅の白い花が咲き誇っている庭園で柳の青い新葉が茂りはじめている。カヅラにして頭につけることが出来るようになったでしょうね。という意味の歌で、春のうららかな日差しの中で、梅や柳といった中国的な植物に囲まれて杯を傾けている万葉人の様子がうかがわれます。
天の海に月の舟浮け桂楫懸けて漕ぐ見ゆ月人壮士 (巻10・2223)
天の海に月の船を浮かべて桂の楫を懸けて漕ぐのが見えるよ。月の人の男よ。と歌っているもので壮大な気分にさせられますが、月の舟や桂の楫は中国の詩書にも見えるものです。
月舟霧渚に移り、楓楫霞浜に泛かぶ。台上流耀澄み、酒中去輪沈む。 (懐風藻 15)
月の舟は天の川の霧の渚に動いて行き、楓の船楫は霞のかかった浜辺に浮かんでいる。
この宴の高楼には澄みきった月の光が流れるようであり、酒杯の中には動いていく月が沈んで見える
という詩を作ったのは、懐風藻に残されている文武天皇です。万葉時代になると中国の文雅に遊ぶ中で、詩歌を作るということがされてきています。