小学生にもわかる『万葉集』


はじめに

『万葉集』の歌が詠まれた時代から1200年以上が経ちました。1200年以上も前に詠まれた歌の意味が今でもわかるというのは不思議だと思いませんか。
これは『万葉集』に限らず、古典全般に言えることでしょうが、自分たちは昔の人の感情を言葉で理解しています。しかし多くの言葉は今とは異なる言葉です。意味のわからない言葉を理解するために今まで様々な方法で研究されてきました。ただ本当に昔の人の思いは今の自分たちが理解しているのと同じかどうかはわかりません。基本的には喜怒哀楽の感情は1200年経っても変化しないものだという前提に立っていますが、研究は様々な模索をしています。

『万葉集』は平安時代以来、多くの研究がなされてきました。基本的には和歌を作るために古い歌の作り方や言葉の使い方を学ぶという視点で研究されてきました。またそもそも日本文化とは何か、その源流をどのように考えたらいいのかということを目標にされてきました。現代の研究でもこの2点にしぼられると思います。

しかし現代になるほど、研究は一般の人にとっては難解なものになり、研究はどのように社会的に理解されているのかがわからなくなります。理系の研究だとそれを応用して便利な製品がいろいろと作られます。そして人々はそれを動かしている難しい基本原理を知らなくても使っています。従って理系分野の研究の多くは自ずから社会に広まっていると言えます。しかし文系分野の多くは何かが製品になって人々が使うということはありません。
人々は物事を理解するのには研究そのものを見ないと意味がわかりません。しかし研究者以外の人がありのままの研究成果を理解するということはかなり難しいことです。『万葉集』研究も例外ではありません。

そこで現代の研究を踏まえて『万葉集』の代表的な歌を取り出して、その内容を出来るだけ平易にわかりやすく解説してみました。これがよくわかれば、どんな注釈書や解説を見ても理解出来るでしょう。そして同時に我々が知りたい日本文化の源流が見えてくるに違いありません。


万葉歌の舞台

 はるか昔、祖先の祭りや自然の神々を祭っていた頃、人々は祭りの時に歌を唱っていました。それらの歌はやがて大和(奈良)の王のもとに集められ、王たちの祭りや宴の時に歌われました。
 最初は民謡のようなみんなで歌う歌でしたが、次第に専門の人たちが王の宴の時に歌うようになり、個人も折りにふれて歌うようになりました。
日本を支配し朝廷と呼ばれる組織を形作った大和の王は天皇と称するようになり、その宮廷の行事にも歌が唱われました。

 一方、朝鮮半島経由で中国から入った文字は、当初は役所の文章を作る時に中国語(漢文)で表記して用いられていましたが、日本語を漢字で表す方法が工夫され、歌も文字で表すことが出来るようになりました。
 また文字を学びながら、同時に中国の文化も知り、歌が文字で表記出来るようになったことに伴って、中国の詩文をまねながら、より細かい気持ちを文字で示すことが出来るようになりました。

 この変化によって、最初は集団で歌うものであった歌は、個人的なやりとりや季節や自然の文物を個人が歌うようになり、文学的な表現も発達しました。
 また、記録に残るようになり、それまで詠まれた歌を歌集という形で残そうということになりました。それが『万葉集』です。

『万葉集』の概要

・成立
 詳しくは不明ですが、奈良時代終わり(8世紀終わり)から平安時代初め頃、今と同じ形となったと推定されています。複数回にわたって編纂されたらしい。

・編纂者
 やはり詳しくは不明ですが、奈良時代の大伴家持が有力です。

・収載歌
 全20巻。4516首。長歌、短歌、旋頭歌体などの歌形式があります。
    明治になって歌に番号が付されました(国歌大観たいかん 番号と言います)。
    作者は天皇、中下級貴族とその娘、東国の農民知識層、防人、作者未詳まで様々です。
    雑歌ぞうか (宮廷中心)、相聞歌そうもんか (恋歌)、挽歌ばんか (哀悼歌)、譬喩歌などに分類されて載せられています。また旅中の気持ちを読んだ歌(羈旅歌きりょか )も多く残されています。

・収載歌の作られた時代
  仁徳天皇の皇后磐の姫から天平宝字3年(759)正月まで。
  ただし実質的には、舒明天皇の時代(629)からとなります。

・詠まれた場所
  飛鳥や奈良のキが中心ですが、行幸ぎようこう のあった吉野、難波(大阪)、紀州(和歌山)や多くの役人が赴任した太宰府(福岡)、大伴家持が国司(長官)となったこともあり越中(富山)などで多く詠まれています。また名古屋より以東の場所での歌(東歌)も集められています。
 律令制度の確立とともに歌は地方に散らばっています。従って北は福島から南は鹿児島まで広範囲にわたっています。

・表記
  平仮名成立前であるので、漢字(万葉仮名)で書かれています。題詞だいし 左注さちゅう は漢文(中国語)です
  平安時代の村上天皇の時(951)に平仮名で読み仮名が付されますが、現在に至るまで読み方がわからない歌もあります。

・歌の内容
 集団歌謡から個人詠へと変化しています。中国文学の影響もあります。
「宮廷での歌」「恋歌」「人生」「自然」「死の悲しみ」「旅情」など様々な内容があります。ただし、歌人や歌の詠まれた状況などは説明のない歌が多く、不明な点も多くあります。

歌の鑑賞と解説

以下、特徴のある歌を時代順に見て行きます。
歌は「原文」「訓読現代表記文」「口語訳」の順に記載します。
原文にはひらがなルビを振りました。ルビは旧仮名遣いです。

満たされない恋
相聞
難波なには  高津宮たかつのみやに 御宇あめのしたしろしめす 天皇代すめらみことのみよ  大鷦鷯天皇おほさざきのすめらみこと  謚曰仁徳天皇おくりなをにんとくてんのうといふ
磐姫皇后いはのひめのおほきさき 思天皇すめらみことををおもひて  御作歌つくりませるみうた  四首よんしゅ

君之行きみがゆき  氣長成奴けながくなりぬ  山多都祢 やまたづね  迎加将行むかへかいかむ  待尓可将待まちにかまたむ
君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(巻2・85)
あなたが出かけられてから日数が長くなった。山を尋ねて迎えに行こうか。それともひたすら待っていようか。

如此許かくばかり  戀乍不有者こひつつあらずは  高山之たかやまの  磐根四巻手いはねしまきて  死奈麻死物呼しなましものを
かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを(巻2・86)
このようにばかり恋い思ってはいずに高い山の磐根を枕として死んだ方がましだ

在管裳ありつつも  君乎者将待きみをばまたむ  打靡うちなびく  吾黒髪尓わがくろかみに   霜乃置萬代日しものおくまでに
ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに(巻2・87)
このままこうしてあなたを待とう。うち靡く自分の黒髪に霜が置くまで

秋田之あきのたの  穂上尓霧相ほのへにきらふ  朝霞あさかすみ   何時邊乃方二いづへのかたに  我戀将息わがこひやまむ
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ(巻2・88)
秋の田の稲穂の上に霧がかかる朝霞ではないが、どの方に自分は恋いやめばいいのだろう

5世紀の中頃、難波(大阪)にキを置いた仁徳天皇の皇后磐の姫の歌とされるものです。
一番上の「相聞」というのは、巻2の歌の種類を示したものであり「部立て」と言います。多くは恋愛歌です。2行目は歌の時代。「表題」と呼んでいます。そして3行目は歌の作者や詠んだ目的を言ったもので、「題詞」と言います(『古今集』以降は「言葉書き」と言います)。ここでの題詞はこの4首全体の説明です。

そして、歌本文。原文(実際に『万葉集』に書かれている本文)、訓読(漢字、仮名で現代表記にしたもの)、口語訳です。訓読と口語訳は現代の我々が解釈して付け足したものです。
この4首には左注と呼ばれる説明が付いていますが省略します。
題詞、原文、左注には読み方としてルビを旧仮名遣いで付けました。原文の訓は確定しているわけではなく、諸説ある箇所もあります。

仁徳天皇や磐の姫皇后は奈良時代に編纂された『古事記』や『日本書紀』に名前が出ていて、実際にいた人と考えられています。また難波宮は発掘調査で建物跡や遺物が出土していて、歴史的にも実際にあったキです。
ただ、この時代には漢字は朝鮮半島経由で伝わってきて用いられていたと考えられていますが、日本語を漢字で表すという方法はまだ出来ていません。ですから口で伝わってきたか、もっと後の時代に作られたという疑いもあります。

歌内容そのものは、天皇が長く旅されて会えないことから、皇后が強い恋情を持って慕っている気持ちを表現したものであると解釈され、現代の我々にも共感出来るものです。
仁徳天皇が旅に出たということを『古事記』の記述から見ると、磐姫の激しい嫉妬によって追い出された黒姫くろひめを慕って、出身地の吉備(岡山)にまで行くという話があります。もちろん伝承であるのでそのまま信じることは出来ませんが、当時の人は、この話と関連して見ていたのかも知れません。

いなくなった天皇を慕う磐の姫皇后は、激しい葛藤の中にいます。「山尋ね」は何故「山」なのかわかりませんが、天皇は山の向こうへ行かれたので、そこをたどってという意味にも解釈出来ます。
待ち続けているよりは、死んだ方がましだと言います。これも何故「高い山の岩」なのかわかりませんが、激しい恋情が出ています。
ただ思い返して、たとえ白髪の老婆になったとしても待ち続けようと言います。現代的に考えると恐い。しかしそれだけ強い恋情を汲み取ることが出来ます。
しかし人間の感情はそんなに割り切れるものではありません。静かな心になろうとしても泉の水のようにわき出てくるのが恋情です。だから朝の霞が昼になるとどこへともなく消えていくように、自分の恋情はどこへ消えたらいいのだろうかという嘆きで結ばれます。

この4首は中国の漢詩の起承転結のように並んでいます。だから磐の姫がそのように詠んだというよりは、磐の姫のイメージで後の人が作って、このように並べたと考える方がいいでしょう。

春の恋
雜歌
泊瀬はつせ  朝倉宮あさくらのみやに 御宇あめのしたしろしめす  天皇代すめらみことのみよ  大泊瀬おほはつせ  稚武わかたけの  天皇すめらみこと
天皇すめらみことの 御製歌 つくりませるみうた

籠毛與こもよ 美籠母乳みこもち  布久思毛與ふくしもよ 美夫君志持みふくしもち   此岳尓このをかに  菜採須兒なつますこ  家吉閑名いへきかな  告紗根 のらさね  虚見津そらみつ  山跡乃國者やまとのくには  押奈戸手おしなへて  吾許曽居われこそをれ  師吉名倍手しきなへて  吾己曽座われこそませ  我許背齒われこそは  告目のらめ   家呼毛名雄母いへをもなをも
籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
籠はまあ、よいお籠を持って、掘串もまあ、よい掘串を持って、この丘で菜草をお摘みになっているお嬢さん。家を尋ねましょう。おっしゃってくださいよ。この大和の国は総じて自分こそいます。広く見て私こそがいらっしゃいます。(あなたがおっしゃらないのならば)自分こそは言いましょう。家をも名をも。

題詞にある天皇は雄略ゆうりゃく天皇です。この天皇も5世紀後半に実在した大王で、中国の史書にも載せられています。キは長谷朝倉という場所で、奈良県中部の三輪山の南東部あたりと考えられています。

歌は天皇が山菜摘みをしている娘さんに声をかけている歌で、求婚している様子です。編纂当時は儒教的な「君臣くんしん和楽わらく」思想で、身分の上下なく気持ちが通じ合い、平和な世の中を讃め称えた歌として解釈されていましたし、その平和な讃美の内容が『万葉集』開巻の第一番目にふさわしいとして最初に置かれたのでしょうが、もちろんたとえ古代であったとしても、そのような単純な世の中ではありません。

歌の内容から見て、この当時どこの村でも行われていた春の野遊びの歌だったのでしょう。春になると若い男女が野山に出て、共に食べたり飲んだりして、男女が仲良く談笑するという風習がありました。歌の中に出てくる「大和」という地名は、今の奈良県天理市の大和神社あたりの村だと考えられています。「大和」はやがて奈良県全体をいうようになり、遂には日本を指し示す地名へとなって行きます。

そのことで作者が雄略天皇とされ、或いは雄略天皇の行ったこととして何かの折に芝居にされた時の歌となっていったのでしょう。このことも『万葉集』の最初を飾るにふさわしい歌となっていったと考えられます。

あわれな死
挽歌
上宮聖徳皇子じゃうぐうしょうとこのみこ 出遊竹原井之時たけはらいにいでませるとき  見龍田山死人たつたやまのしにんをみて 悲傷御作歌一首 かなしびてつくりませるみうたいっしゅ  小墾田宮御宇天皇代おはりだのみやにあめのしたしろしめるすめらみことのみよ  墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也おはりだのみやにあめのしたしらしめすとはとよみけかしきやひめのすめらみことなり  諱額田謚推古いみなはぬかだおくりなはすいこ


家有者 いへにあらば 妹之手将纒いもがたまかむ  草枕くさまくら   客尓臥有たびにこやせる  此旅人このたびとあはれ
家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ(巻3・415)
家にいるならば妹が手で抱くのであろうのに。草枕の旅に臥しているこの旅人があわれである

作者は有名な聖徳太子。竹原井という場所に行った時に、竜田山の所で道端に横たわっている死人を見て悲しんで作った歌とあります。表題の「挽歌」というのは葬送の時の歌を示し、故人を讃える歌ですが、やがては哀悼的な内容となって行きます。
竹原井というのは、現在の大阪府柏原市高井田あたり。聖徳太子は現在の斑鳩の里の法隆寺に家がありましたので、そこから現在の国道25号線を行ったのでしょう。途中竜田山を通ります。
今だと警察沙汰になりますが、当時は行き倒れの人というのはけっこうあったようです。
疫病もありましたし、事故もあります。また食べ物もなくなり餓死ということもあります。『日本霊異記』という平安時代初めに編纂された書物の中にも、聖徳太子が道中死人を見たので着ていた衣を掛けたところ、それは仏だっという話もあります。聖徳太子の憐れみ深い立派な人柄を示している話として伝わっています。

この歌もそういった聖徳太子の人柄を表したものとして受け取ることが出来ます。しかし一方で行き倒れの死人を見た場合、その荒ぶる魂を当時の人は相当恐れました。自分達にも禍がふりかかってくるかも知れないのです。そこで丁重に葬ったり、同情の歌を寄せました。一般に「行路死人歌」と呼ばれるものであり、『万葉集』にも他に数首あります。
いずれも、死人の故郷の家人のことを思い、死人に同情する内容です。この歌も同じ内容を持っています。これを「鎮魂」とも言います。荒ぶる悪霊とならないように死人の魂を鎮めるのです。従ってこの歌も誰かが作ったのを聖徳太子の歌として伝承されたものとして受け取れます。

春の祈り
高市岡本宮たけちおかもとのみやに 御宇あめのしたしろしめす  天皇代すめらみことのみよ   息長足日廣額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみこと
天皇すめらみこと 登香具山かぐやまにのぼりたまひて  望國之時くにみしたまひしとき御製歌つくりませるみうた

山常庭やまとには  村山有等むらやまあれど  取與呂布とりよろふ   天乃香具山あまのかぐやま  騰立のぼりたち   國見乎為者 くにみをすれば 國原波くにはらは  煙立龍けぶりたちたつ   海原波うなはらは  加萬目立多都かまめたつたつ  國曽うましくにそ  蜻嶋あきつしま  八間跡能國者やまとのくには
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は(巻2・2)
大和には多くの山々があるが、とりわけ美しく形が取り備わっている天の香具山に登り立って国見をすると、国原には煙が立ち登っている。海原には鴎が飛びまわっている。立派な国であるぞ。蜻蛉島の大和の国は。

舒明天皇が香具山に登って国見をした時の歌とあります。高市岡本宮とは現在の明日香村岡の地にあった宮。最近舒明天皇の皇后皇極天皇の板蓋宮と同じ場所であることがわかりました。香具山は少し北にある丘のような山。聖なる山として祭りも行われていました。

国見は、春になってその土地を治めている豪族が小高い山に登って土地を讃め称え、秋の豊作を願う行事です。従ってこの歌は聖なる山に登って土地を讃め、秋の豊作を願う歌ということになります。
香具山から見える国土は生気に満ちているというその活動を讃めます。しかし香具山からは海は見えません。当時麓にあった埴安池を海に見立てたもので、内陸まで飛んで来るゆりかもめのことを海にちなんでカマメと言ったと言われて来ましたが、最近では国と海の対比から幻視だと言われています。国見歌は他にもあり、見えない物も歌われるという理屈です。
この「見れば〜」という表現形式は国見歌形式と呼ばれ、やがて実景を描写する叙景歌へと発展して行きます。

夕暮れのさびしさ
秋雜歌
崗本天皇おかもとのすめらみことの  御製歌つくりませるみうた  一首いっしゅ

暮去者ゆふされば  小倉乃山尓をぐらのやまに  鳴鹿者なくしかは   今夜波不鳴こよひはなかず  寐宿家良思母いねにけらしも
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも(巻8・1511)
夕方になると小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かない寝たらしいなあ

鹿の鳴き声は今夜は聞こえないことで寝たらしいと推察しています。鹿は雄鹿が相手を求めて鳴きます。その鳴き声はかなり遠くまで響きます。今は誰か相手が出来たので静かになりました。
作者の「崗本天皇」とは宮殿が「崗本宮」にあった天皇で、舒明天皇かその皇后で夫の薨後即位した皇極女帝なのかわかりません。
夫亡き後一人になった皇極女帝が鹿をうらやんでいると考えると、女帝の可能性が高いでしょう。

しかしこの歌は巻9・1664にもあります(重出歌という)。こちらは作者は雄略天皇となっていて、「鳴く鹿」が「伏す鹿」となり言葉も代わっています。伝承されているうちに代わったのでしょう。

なお、『日本書紀』仁徳天皇の記事に「兎我野の鹿」の話があります。夜になると宮殿近くで鳴いていた鹿の鳴き声を天皇は聞いていましたが、ある夜から急に鳴かなくなりました。しばらくして家来が狩猟で採った鹿を献上したことから、天皇はこの鹿が毎晩鳴いていた鹿なのだと思い、その家来を遠くに追いやってしまいました。
この伝承はいつ出来たものなのかわかりませんが、鹿の鳴き声を風情のあるものとして聞くようになってからの頃でしょう。


旅の苦しみ
挽歌
後岡本宮のちのおかもとのみやに  御宇あめのしたしろしめす  天皇代すめらみことのみよ    天豊財あめのとよたから  重日いかしひ  足姫たらしひめの   天皇すめらみこと   譲位後くらゐゆづりてのち  即後岡本宮すなはちのちのおかもとのみや 
有間皇子ありまのみこ  自傷みづからいたみて   結松枝歌まつがえをむすぶうた  二首にしゅ

磐白乃いはしろの  濱松之枝乎はままつがえを  引結ひきむすび   真幸有者まさきくあらば  亦還見武またかへりみむ
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(巻2・141)
磐白の浜松の枝を引き結んで、無事であったならばまた帰って来て見よう。

家有者いへにあらば  笥尓盛飯乎けにもるいひを  草枕くさまくら   旅尓之有者たびにしあれば  椎之葉尓盛しひのはにもる
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻2・142)
家にいると立派な器に盛る飯を草枕の旅であるので椎の葉に盛ることだ

有間皇子は孝徳天皇の子。叔父の中大兄皇子から皇位に就くことを警戒されて、謀反の罪で、当時斉明天皇や中大兄皇子が行幸していた和歌山まで連れられて、処刑されました。この歌はその時のもとして理解されています。

磐白とは和歌山の地名。枝を引き結ぶというのはどのようにしたのかはわかりませんが、旅の安全を祈るための当時の風習だったのでしょう。実際にはこの場所に戻って、もう少し行った藤代の坂で処刑されていますが、「また帰りみよう」という所に有間皇子の苛酷な運命にあわれさを感じます。
また二首目は、旅の途中の質素な食事の様子を描いたもので、やはり同情をかう歌となっています。ただこの歌は飯を盛るのは、旅の無事を願って道の神に手向けをするためだという解釈もあります。

号令
後岡本宮のちのおかもとのみやに  御宇あめのしたしろしめす  天皇代すめらみことのみよ    天豊財あめのとよたから  重日いかしひ  足姫たらしひめの   天皇すめらみこと     即位後岡本宮くらゐにつきてのちのおかもとのみや 
額田王歌ぬかだのおほきみのうた

熟田津尓にぎたづに  船乗世武登ふなのりせむと  月待者つきまてば  潮毛可奈比沼しほもかなひぬ  今者許藝乞菜いまはこぎいでな
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(巻1・8)
熟田津に船に乗ろうとするのに月を待っていると潮もちょうどよくなった。今は漕ぎ出そうよ。

7世紀の半ば、隣国朝鮮半島の百済が隣の新羅に攻められて王が連れ去られるという事変が起きました。百済は日本に救援を求めてきました。そこで皇太子であった中大兄皇子は母である斉明天皇を伴って九州福岡県の朝倉に行き、百済に救援軍を出しました。
この歌はその途中、愛媛県の道後温泉の地に立ち寄った時の歌です。
戦いに行く時の出発の号令をかけた歌と理解されてきていますが、戦勝祈願の祭りをしていた時の歌と見るほうがいいでしょう。ここでは省きましたが、左注には斉明天皇の歌とされていて、額田王は代作したと考えられています。

行楽
天皇すめらみこと  遊猟蒲生野時がまふのにみかりしたまひしとき  額田王作歌ぬかだのおほきみのつくるうた

茜草指あかねさす  武良前野逝むらさきのゆき  標野行しめのゆき   野守者不見哉のもりはみずや 君之袖布流きみがそでふる
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20)
あかねっす紫草の野を行き、立ち入り禁止の野を行き、野の見張りは見ないでしょうか。あなたが袖を振るのを

皇太子ひつぎのみこ  答御歌こたへまつるみうた  明日香宮あすかのみやに  御宇あめのしたしろしめす  天皇すめらみことのみよ   謚曰天武天皇おくりなをてんむてんのうといふ

紫草能むらさきの  尓保敝類妹乎 にほへるいもを   尓苦久有者にくくあらば  人嬬故尓ひとづまゆゑに  吾戀目八方われこひめやも
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも(巻1・21)
紫のように照り輝いている妹がいやだと思うのならば人妻だからと言って自分は恋い思うということがあろうか

滋賀県の大津にキを置いた天智天皇は、宮廷をあげて蒲生野に薬狩りに行きました。ここに掲げてはいませんが、左注には五月五日の薬狩りとあります。蒲生野は現在の近江八幡市から少し南に行った所。歩いたら半日ほどかかります。もちろん宿泊しています。

額田王はこの頃の一流の女性歌人です。前代の斉明女帝頃から宮廷での歌を詠んでいます。「あかねさす」は赤みかかったという意味で紫の枕詞。紫野は紫草が生えている野であり、紫草は紫色の染料となる草。紫色の衣は高貴な人しか着れない衣であり一般の人は禁止されていました。従って紫草の生えている野は一般の人が立ち入ることが出来ない野で、番人がいました。標野とは印のしてある野のことで立ち入り禁止の野。野守は野の番人です。
その番人に護られている野を作者額田王が行くのか、「君」が行くのかはわかりませんが、番人のいる前で、「君が袖を振るのです」。袖を振るというのは求婚する意味です。従って私に求婚するあなたは野の番人に見とがめられますよという意味になります。

答えるのは次の歌の作者である大海人皇子です。この皇子は関係はよくわかりませんが、額田王との間に十市皇女が生まれています。
ですからかつての恋人だったのでしょう。
額田王は、これも関係はよくわかりませんが、今は天智天皇の宮廷にいます。ですから、私に求婚するのは天智天皇が見ていますよという意味になります。

そこでその大海人皇子が答えます。
わかりづらい表現ですが、「人妻」という言葉が中心です。あなたが好きだからたとえ今は他人の妻(天智天皇の妻)だったとしても恋い思うのです。
と答えます。

天智天皇と大海人皇子は兄弟ですが、天智天皇が亡くなった後、大海人皇子は反乱を起こし、後継者の大友皇子を滅ぼします。いわゆる壬申の乱です。またこの二人は仲が悪かったと『日本書紀』は伝えています。
だから、この2首は額田王を中に置いた天智天皇と大海人皇子の三角関係の歌だったと人々は理解しました。

しかし、これらの歌は恋歌(相聞)ではなく、宮廷行事の歌(雑歌)に分類されていることもあり、実際は狩りの後の宴会の歌だったのではないかという考えが提出されました。
「君」は、この狩りに参加したすべての官人達。その官人達が狩りの合間に薬草取りをしている宮廷女官に思いを寄せているのを天智天皇が見とがめますよという歌だと言うのです。そして官人達を代表して大海人皇子が答えた。宴席の人々は拍手喝采をして楽しんだという理解です。
真相はわかりませんが、後世の人々も万葉のロマンとして受け止めています。

空しい恋い心
額田王ぬかだのおほきみ  思近江天皇あふみのすめらみことをしのひて  作歌一首つくるうたいちしゅ

君待登きみまつと  吾戀居者わがこひをれば   我屋戸之わがやどの  簾動之すだれうごかし  秋風吹あきのはぜふく
君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹(巻4・488)
あなたを待つとして私が恋い思っていると我が家の簾を動かして秋の風が吹いて来る

鏡王女かがみひめのおほきみ  作歌一首つくるうたいちしゅ

風乎太尓かぜをだに  戀流波乏之こふるはともし  風小谷かぜをだに   将来登時待者こむとしまたば  何香将嘆なにかなげかむ
風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ(巻4・489)
風だけでも恋い思うのはうらやましい。風だけでも来るのを待つならば何を嘆くことがあろうか

何となくさびしさが漂うのと同時に静かな歌です。「待つ」という構図は、男が通ってくるのを待つという当時の恋愛形態の基本です。
秋の一日、額田王が天皇の訪れを待っている。部屋の御簾がそよっと動いたので、天皇が来たかと思ったら風だった。近江天皇とは近江大津宮にキを置いた天智天皇のこと。ひたすら待つ思いが綴られています。
「秋の風」というのも寂寥感のあるものに輪をかけています。

ここに鏡王女が歌を返す。風だけでも来ればいい。私は風さえも来ないというさびしさを訴えています。鏡王女は額田王の姉だとも言われています。天智天皇の夫人の一人。まったく訪れのないことを描く。
しかしここで疑問があります。額田王は天智天皇の妻かどうか不明です。それに中国の漢詩の一部と似ています。「清風帷簾を動かし、晨月幽房を照らす」という張華という人の「情詩」の一つ。『文選』や『玉台新詠』という5世紀頃の詩集に見えています。この詩も深夜にため息をついて夫の帰りを待ちわびる夫人の気持ちを描いたものです。おそらく額田王はこの詩を踏まえて詠んだのでしょう。

題詞には「近江天皇を思う」とありますが、後の編纂者が付けたものとも考えられます。また題詞の書き方も1首づつ独立した書き方になっています。同じ場で詠まれたものならば「〇〇二首」として、左注に作者名を書くという書式が取られます。ですから編纂者がこの配列にしたものと考えられます。
従って天智天皇を中心とした詩歌の会などで中国的な夫を慕う歌を主題として唱われたものという考えもされています。
またこの歌は、巻8にも重出しています(巻8・1609、1610)ので、当時の人々の間では有名だったのでしょう。

大君讃美
壬申年之乱じんしんのらん  平定以後歌へいていののちの  二首にしゅ

皇者おほきみは  神尓之座者かみにしませば  赤駒之あかごまの  腹婆布田為乎はらばふたゐを  京師跡奈之都みやことなしつ
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(巻19・6260)
大君は神でいらしゃるので、赤駒が腹までつかって足をとられるような泥田を都としたことだ

大王者おほきみは  神尓之座者かみにしませば  水鳥乃みずとりの   須太久水奴麻乎すだくみぬまを  皇都常成通みやことなしつ   作者未詳さくしゃつまびらかならず
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ 作者未詳(巻19・6261)
大君は神でいらっしゃるので水鳥の多く集まる水沼を都となされたことだ

壬申の乱とは、天智天皇亡き後、子の大友皇子と天智の弟大海人皇子が皇位継承をめぐって争った古代最大の内乱です。大友皇子が破れ、大海人皇子は飛鳥で皇位に就きました。天武天皇です。天武天皇は初めて「天皇」の称号を用い、先祖を天照大神とする『古事記』の原型となる神話をまとめました。

大君は神であると讃える歌です。元気な馬が腹まで水につかる泥田を立派なキとした。水鳥が多く集まる沼をキとしたと言って、それは神業であるとして讃えます。
天武天皇の宮は飛鳥清御原宮。舒明天皇、皇極天皇の宮と同地で、遺跡が残されています。その北側の平地は東西南北に道路が作られていたことが発掘で知られています。

初夏のすがすがしさ
藤原宮ふじはらのみやに  御宇あめのしたしろしめす  天皇代すめらみことのみよ  高天原たかまのはら  廣野姫ひろのひめの  天皇すめらみこと   元年はじめのとし  丁亥ひのとゐ  十一年とおあまりひとつとし   譲位軽太子くらゐをかるのひつぎのみこにゆづりて  尊号そんごうを  曰太上天皇おほきすめらみことといふ
天皇すめらみことの  御製歌つくりませるみうた

春過而はるすぎて  夏来良之なつきたるらし  白妙能しろたへの  衣乾有ころもほしたり  天之香来山あまのかぐやま
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(巻1・28)
春過ぎて夏が来たらしい。白妙の衣が干してある。天の香具山よ。

百人一首にも出てくる有名な歌です。香具山は明日香の北の方にある小高い丘のような山。春を象徴する山であり、聖なる山として見られていた時期があります。
だからこの衣は夏になる時の祭りの時に着る白衣であり、それが干してあるというのは、祭りが近くなり、春の山にも夏がやって来たらしいという思いを表したという意味になります。初夏のすがすがしさを感じさせる歌です。

持統天皇は天武天皇の皇后。女帝です。明日香の少し北に初めてキを造りました。藤原京です。中国の長安のキを真似ましたが、書物だけで造ったので内裏がキの真ん中にあるなど、ちょっと変わっていました。

離宮讃美
幸于吉野宮之時よしののみやにいでましいとき  柿本朝臣人麻呂かきのもとのあそみひとまろ   作歌つくるうた  )反歌はんか

雖見飽奴みれどあかぬ  吉野乃河之よしののかはの  常滑乃とこなめの   絶事無久たゆることなく  復還見牟またかへりみむ
見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む
見ても見飽きることのない吉野の川が水に洗われて岩がすべすべしていることが常であるように常に絶えることなくまたここへ来て見よう

持統天皇は吉野に36回も行きました。天武天皇追懐のためだとか、吉野川の聖水を採って五穀豊穣を願うためだとか理由はいろいろと推定されています。離宮は現在の宮滝にありました。遺構も発掘されています。
柿本人麻呂はこうした行幸や皇子の葬式などに多くの歌を作りました。宮廷歌人と呼ばれています。実態は不明です。皇子の身のまわりの世話をする舎人だったとか、歌を唱ったり詠んだりする役所にいたとかいろいろと言われています。

この歌は前に長歌があり、それに付いているものです。長歌は吉野宮を讃美したもの。この歌も同じです。「見れど飽かぬ」は讃美したもの。何度も戻ってきて見ようというのは、宮が永遠に続くことを希望したものです。

皇子の交代
((軽皇子かるのみこ  宿于安騎野時あきのにやどりしとき   柿本朝臣人麻呂かきのもとのひとまろ  作歌つくるうた ) 短歌たんか

ひむかしの  野炎のにかぎろひの  立所見而たつみえて   反見為者かへりみすれば  月西渡つきかたぶきぬ
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(巻1・48)
東の野に陽炎が立つのが見えて、振り返り見ると月が傾いている

軽皇子は今は亡き草壁皇子の子。持統天皇にとっては直接の孫に当たります。この歌はその軽皇子が宇陀郡の安騎野に狩りに行って一夜を過ごした時の長歌に付いているものです。
長歌は軽皇子の父草壁皇子もかつて同じ場所で狩りをして、お伴の者はみんな草壁皇子のことを思い出しているというものであり、次にこの歌を含む4首になります。
この4首は「短歌」という題詞になっていて、長歌に普通用いられる「反歌」とはなっていません。ここからこの歌は長歌の内容をさらに付け加えて行ったものであるという意味であることがわかります。

この歌は一見、東には太陽が立ち上る様子を見て、振り返って西を見ると月が沈もうとしている夜明けの風景を言ったものに見えますが、実は太陽は軽皇子自身であり、月は父草壁皇子を指している譬喩であるととらえられます。

持統天皇が大勢いる天武天皇の皇子たちの中から、自分の子である草壁皇子を即位させようと思っていたのですが、天武天皇が亡くなった直後に亡くなってしまいました。そこで直系の軽皇子を皇位に付けようと考えたのですが、まだ幼児。そこで大勢いる皇子たちを退けて、自分が皇位に就き、軽皇子の成長を待とうとしました。それが持統天皇でです。

この歌はその交代劇を表しています。柿本人麻呂は草壁皇子亡き後、軽皇子が正統的な皇位継承者であると歌います。それはまさに持統天皇の希望そのものでした。
その後、軽皇子は持統天皇の後を継ぎ即位します。文武天皇です。

追憶
柿本朝臣人麻呂歌かきのもとのひとまろのうた  一首いちしゅ

淡海乃海あふみのうみ  夕浪千鳥ゆふなみちどり   汝鳴者ながなけば  情毛思努尓こころもしのに   古所念いにしへおもほゆ
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(巻3・266)
近江の海の夕波に浮かぶ千鳥よ。お前が泣くと心もしおれるばかりに昔のことが思われる

「近江の海」とは琵琶湖のこと。かつてここには天智天皇が定めた大津宮がありましたが、壬申の乱で焼失し滅んでしまいました。
今は夕方迫る波間で千鳥が鳴いているばかりです。
その風景を眺めていると、かつて栄えていた大津宮を思い出して心もしおれてしまうばかりだと言うのです。
まさに「国破れて山河有り」の世界です。人麻呂は大津宮で青春時代を送ったのでしょう。その栄華盛衰を思い、嘆いているのです。

さすらいの旅
柿本朝臣人麻呂かきのもとのひとまろ  従近江國あふみのくにより   上来時のぼりまうくるときみ   至宇治河邊うぢのかはべにいたりて  作歌一首つくるうたいちしゅ

物乃部能もののふの  八十氏河乃やそうぢがわの   阿白木尓あじろぎに  不知代經浪乃いさよふなみの   去邊白不母ゆくへしらずも
もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(巻3・264)
もののふの八十宇治川の網代木に漂っている波の行き先がわからないことだ

「もののふ」は武器を携えている兵士。大勢いるという意味で「八十」にかかる枕詞。
そして「八十」は大勢の氏がいるという意味で「氏」にかかる枕詞。 「網代木」は魚を捕るために竹などで編んである網。水を漉くようにして川に設ける。
滋賀県から飛鳥に戻るには、坂本から逢坂を超えて、山科から南下します。そして宇治川を渡るのが一般的です。ここで人麻呂は宇治川の激しい流れを見たのでしょう。川水が網代木を通る時に少し滞って下に流れていく。その波がどこへ行くのかわからない。「波の」を「波のように」と解すると、自分の旅がこれから先どうなるかわからないという漂泊感ただよう人麻呂の気持ちを出したものとなります。

人生の無常
就所ところにつきて  發思おもひをほっす

巻向之 まきむくの  山邊響而 やまべとよみて  徃水之ゆくみづの     三名沫如みなわのごとし  世人吾等者よのひとわれは 
巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは(巻7・1269)
巻向の山辺を響かせて流れていく水の泡のようなものだ。この世の人である自分は

右二首みぎにしゅ  柿本朝臣人麻呂之かきのもとのひとまろの   歌集出かしゅうよりいづ

「就所發思」はある所にこだわって思ったことを歌にするという意味で、この歌はその中の一つです。
「巻向の山」は大和平野の東南の三輪山の奥の山。ここから流れてくる川は別の歌に「巻向川」として登場します。

泡は水の流れのままに出来てはまた消えます。この世の人間は泡と同じように時や物の動きのままに流されていき、運命に支配されています。自分もこの世の人であるので運命に抵抗出来ないはかないものと言います。
世とは、元来命や齡という意味でもあり、または仏教的に浮き世を意味します。ここは仏教的な諦観(諦めの気持ち)とも受け取れます。 前の歌の「行く方知らずも」と共通した思いであるとも言えます。

『人麻呂歌集』には「巻向」を舞台とした歌が多く残されています。『人麻呂歌集』は遅くとも奈良時代の初めに編纂された人麻呂を中心とする歌集のことで、現在残っていませんが、『万葉集』には多く取り入れられています。「巻向」には人麻呂の仕える皇子の離宮があったからだとか、人麻呂の妻がいたからだとか言われています。妻だとすると亡くなった悲しみを表したものだという考えもあります。

自らの死
柿本朝臣人麻呂かきのもとのひとまろ  在石見國いはみのくににありて   臨死時しにのぞみしとき  自傷みづからいたみて   作歌つくるうた  一首いちしゅ

鴨山之かもやまの  磐根之巻有いはねしまける  吾乎鴨われをかも   不知等妹之しらにといもが  待乍将有まちつつあるらむ
鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(巻2・223)
鴨山の磐根を枕として寝ている自分を知らないで妹は今頃自分を待ち続けているのだろうか。

柿本朝臣人麻呂かきのもとのあそみひとまろ  死時しにしとき   妻依羅娘子つまよさみのいらつこ  作歌二首つくるうたにしゅ

且今日々々々けふけふと  吾待君者わがまつきみは   石水之いしかはの  貝尓かひに    一云あるにいふ  谷尓たにに  交而まじりて  有登不言八方<ありといはずやも
今日今日と我が待つ君は石川の峽に 一云 谷に交りてありといはずやも(巻2・224)
今日お帰りか。今日お帰りかとひたすら自分が待つあなたは石川の貝に交じっているというではありませんか。

直相者ただのあひは  相不勝あひかつましじ  石川尓いしかはに  雲立渡礼くもたちわたれ  見乍将偲みつつしのはむ
直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ巻2・225)
この世でお会いすることはもう難しいでしょう。せめて石川に雲よ立ち渡ってくれ。それを見ながら偲ぼう。

柿本人麻呂の臨終の時とされる歌です。その後に妻の歌が続いています。題詞に「石見」とあるので現在の島根県西部。そこで鴨山は島根県の山中にあって、人麻呂は行旅中に病気にかかって死んだとされてきました。
しか人麻呂は鴨山の磐を枕として死ぬと言っているのに対して、妻の歌は石川の峡谷と言っていて、死んだとする場所が違います。
しかも人麻呂歌は家郷で待つ妻のことを言います。これは前にあった聖徳太子の行路死人歌と同じ歌い方です。

そこで本当に人麻呂は島根県の鴨山という場所で死んだのかという疑問が出て来ました。この背後には今は失われた話があって、その話は宮廷で作られた架空の話ではないかというのです。人麻呂は石見国の役人として赴任したことがあり、キに帰る時に妻と別れを悲しむ歌を別に作っています。人麻呂は島根県で歌を作ったという印象が強く宮廷の人たちに残り、そこで人麻呂は自らの死を題にした歌を作った。依羅娘子も宮廷の女官かなにかであって、妻の立場で作ったというのです。そして、人麻呂は文武天皇の時代には姿を消します。
ただこの考えも明確な証拠があってのことではありません。最後まで謎に包まれている人麻呂ですが、死の悲しみと残された妻の悲しみはよく伝わる歌となっています。

豊かな自然
(高市連黒人たけちのむらじくろひと  覊旅歌八首きりょかはちしゅ

礒前いそのさき  榜手廻行者こぎたみゆけば   近江海 あふみのうみ  八十之湊尓 やそのみなとに   鵠佐波二鳴たづさはになく    未詳いまだつまびらかならず
磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く  未詳(巻3・0273)
磯の先を漕ぎ廻って行くと近江の海の多くの水門に鶴がたくさん鳴いている

高市黒人は持統天皇時代の宮廷歌人と考えられている人。詳しくはわかりません。「連」は姓(かばね)。氏族の社会的地位を表します。
覊旅というのは「旅」。この歌は琵琶湖を船で旅をしている風景です。今は限られた地域にしか来ない鶴ですが、この歌を見ると当時は全国的に飛来していたことがわかります。鶴がたくさん鳴いている豊かな自然が彷彿としてきます。
未詳という細注は、次の2首と同じ時の歌詠かどうかはわからないという意味です。

(以下作成中)