大伴家持「安積皇子挽歌」

 奈良時代も最盛期の天平十六年に大伴家持は、次のような二種類の挽歌を作る。いわゆる「安積皇子挽歌」である。少し長くなるが引用する。

  十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首
かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも 我が大君 皇子の命 万代に 見したまはまし 大日本 久迩の都は うち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さ走り いや日異に 栄ゆる時に およづれの たはこととかも 白栲に 舎人よそひて 和束山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ 臥いまろび ひづち泣けども 為むすべもなし(巻三・四七五)
  反歌
我が大君天知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束杣山(同・四七六)
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が大君かも(同・三七七)
 右三首二月三日作歌

かけまくも あやに畏し 我が大君 皇子の命の もののふの 八十伴の男を 召し集へ 率ひたまひ 朝狩に 鹿猪踏み起し 夕狩に 鶉雉踏み立て 大御馬の 口抑へとめ 御心を 見し明らめし 活道山 木立の茂に 咲く花も うつろひにけり 世間は かくのみならし ますらをの 心振り起し 剣太刀 腰に取り佩き 梓弓 靫取り負ひて 天地と いや遠長に 万代に かくしもがもと 頼めりし 皇子の御門の 五月蝿なす 騒く舎人は 白栲に 衣取り着て 常なりし 笑ひ振舞ひ いや日異に 変らふ見れば 悲しきろかも(同・四七八)
  反歌
はしきかも皇子の命のあり通ひ見しし活道の道は荒れにけり(同・四七九)
大伴の名に負ふ靫帯びて万代に頼みし心いづくか寄せむ(同・四八〇)
右三首三月廿四日作歌


 一首目の長歌は、、恐れ多い我が皇子がご覧になるはずであった久迩の都は、春になると山は花が咲きたわみ、川には鮎が泳ぎまわり、このようにますます栄える時に皇子は亡くなってしまった。喪服を着た舎人は泣き騒ぐが天上へ行かれたのでどうしようもないの意。
 反歌は、まさか我が皇子が天上へ行かれるとは思っていなかったのでいいかげんに見ていた和束山であったと歌い、山いっぱい咲いている花が散ってしまうような我が大君だと嘆く。
 二首目の長歌は、大勢の朝廷の人たちを率いて狩りをされ、御心を晴らされていた活道山の茂っていた木立の花も散ってしまった。世の中はこのようなものなのだ。何時までも皇子にお仕えしようと思っていた舎人は日を追うごとに変わっていくのを見ると悲しいことだとその嘆きを歌い上げる。
その反歌も皇子のいつもご覧になっておられた活道の道は荒れたことだという嘆きを歌い、大伴の伴造意識で仕えようと頼みにしていた気持ちはどこへ寄せればいいのだろうかと空しさを訴えるものである。

 和束山には現在安積皇子和束山陵があり、活道と同じく、この当時都とされていた恭仁(『万葉集』では「久迩」と表記)京の地名である。
 安積皇子とは、聖武天皇と第二夫人縣犬養広刀自の間の皇子である。安積皇子の「死」については、不可解な事実が『続日本紀』に記されている。天平十六年閏一月十二日、聖武天皇は恭仁京から難波京に行幸する。その途次、桜井頓宮より安積皇子は脚の病によって恭仁京に戻る。そして翌十三日薨去。十十七歳であった。この安積皇子の死をめぐっては、突然であるために藤原氏による暗殺説が出ている。聖武天皇をめぐる政治情勢に藤原氏と皇族中心勢力との間に深い確執があったという見方からである。
 この確執は奈良時代の初めまで溯るものである。これより三十年ほど溯る奈良遷都の折は元明天皇の治世下、藤原不比等が強力な勢力を誇っていた。不比等は皇太子首皇子(後の聖武天皇)の妃として我が娘である光明子を送り込む。しかし不比等亡き後は元正天皇のもとで皇族である長屋王が政治の第一人者となる。そうした中で聖武即位後、長屋王謀反事件が起こる。これは、光明子の最初の皇子がわづか一歳で亡くなった理由が王の呪詛であるとして、藤原氏が王を自尽に追い込んだものである。
 そして天平と改元され、不比等の子の四人の兄弟が政治勢力を持つが、天平九年に疱瘡の流行で相次いで亡くなり、橘諸兄政権となる。橘諸兄はもと葛城王と称していた王族出身であった。このことに危機感を持った藤原仲麻呂が光明皇后と協力関係を結び、台閣の首班であった橘諸兄の対抗勢力として台頭してくる。
 そうした中で、光明皇后の娘である阿倍内親王(後の孝謙天皇)の将来を保証するために皇位継承の不安材料となる安積皇子を藤原仲麻呂が暗殺したと言うのである。
しかし、これには異論も出されている。それは阿倍内親王が皇女だからである。たとえ即位するにしても、その後の皇位継承者がいないというのがその主な理由である。従って藤原氏としても阿倍内親王の次の皇位継承者として安積皇子に期待を寄せていただろうという考え方である。橘諸兄と光明皇后を中心とする藤原勢力との間は天平頃はまだそれほどの確執はなかったであろうという見方もその背景にはある。
 しかし、天平十二年の大宰府での藤原広嗣の反乱と同時に行われた聖武天皇の東国行幸において、奈良に戻らず、恭仁京を皇都としたり、紫香楽において大仏建立の発願を行ったり、また難波行幸を行い、ついには遷都の詔勅を発するなど、天平十二年から十七年までの遷都をめぐる混乱は藤原氏と橘諸兄の間の政治的対立から起因したものであると見られており、安積皇子はその狭間で死を迎えたことは事実である。
 家持の安積皇子挽歌作歌をめぐっては、作成動機や背景がわかっていない。人麻呂の殯宮挽歌の雰囲気を出しているこの挽歌が人麻呂の挽歌のように実質的に皇子の葬儀において詠まれたかどうかも不明である。仏教的葬儀に変化している奈良時代においては唱誦の場は失われていると考えられるからである。実際に一首目の詠まれた二月三日と三月二十四日は、法事の時と見るのが自然である。
 また家持は当時は内舎人という職掌にいる。これは天皇に近侍して警護と身の回りの世話をする役目のもので、上級貴族の子弟が自ら進んでなるもの(自身出身)で宮廷の見習いを兼ねている無位の職であった。役職上の立場であるという見方からすると安積皇子付きの内舎人であったかという見方もあるが、生前の親交から個人的に悲しみの歌を詠んだ傾向が強い。彼は同年四月には独りで奈良古都にいたことが作歌から知られているので私的に追悼の意を示したものとも思われる。
 歌は、皇子に仕える彼独自の「ますらを意識(大伴古来の精神である伴造意識)」と万物のはかなさを嘆き、無常を感じる「移ろひ」の諦念が強く表れているものである。そしてこの二つの要素は、終生彼の歌の主題ともなるものであった。