「伝承のうたびと ー磐姫皇后―」
相聞
難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇
磐姫皇后思天皇御作歌四首
君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(巻二・八五)
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを(巻二・八六)
ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに(巻二・八七)
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ(巻二・八八)
或本歌曰
居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも(巻二・八九)
右一首古歌集中出
古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時歌曰
君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ此云山多豆者是今造木者也 (巻二・九〇)
右一首の歌は、古事記と類歌林と説く所同じからず。歌主も亦異なれり。因りて日本紀を檢ずるに曰く、難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇皇后に語らひて八田皇女を納(めし)入れて妃と為さむとす。時に皇后聴(き)かず。爰に天皇歌ひて以って皇后に乞ふ云々。紀伊國に遊行(いでま)して熊野の岬に到りまし、其の處の御綱葉を取りて還る。是に天皇皇后の在(いま)さざることを伺ひて、八田皇女を娶りて宮中に納(めし)いる。時に皇后、難波の濟に到りて、天皇八田皇女と合(まぐは)ふことを聞きて大いに恨む云々。
亦た曰く、遠飛鳥宮に御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子、木梨軽皇子を太子と為す。容姿(すがた)佳麗(きらきら)しく、見る者自ら感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女も亦た艶妙(かほよし)也云々。遂に竊に通(あ)ひ乃ち悒懐(いきどほり)少しく息みぬ。
廿四年夏六月、御羮汁凝りて以て氷と作る。天皇異びて其の所由を卜す。卜する者曰く、内乱有り。盖し親々(はらから)相ひ奸(たは)けたるか云々。仍ち太娘皇女を伊豫に移すと云へるは、今案ずるに二代二時此の歌を見ず。
少々長くなったが、巻二相聞部冒頭におかれている仁徳天皇皇后磐之姫の歌とされているものである。もちろん伝承歌ではあるが、短歌体であるので歌そのものの成立は比較的新しいと考えられる。作者が磐姫皇后に仮託され相聞歌の代表として伝わってきたものである。
歌の意味は、一首目は、あなたが出かけられてから日数が長くなった。迎えに行こうか。それともこのまま待っているしかないのか。という愛する者を思う心の葛藤を示したおの。二首目は、こんなにもあなたを待っていずに、いっそのこと高い山の磐根を枕として死んだほうがましだという非常に激しい心情を読んだものになっている。そして三首目はいやいや、このままあなたを待とう。たとえ我が黒髪が年をとって白髪になったとしてもという落ち着いた気持ちを表したもの。四首目は秋の田の稲穂の上にかかっている朝霞が日が高くなるといずれともなく消えて行くが、自分の恋情はどこへ持って行ったらよいのかというどうしようもない吐息を歌ったものとなる。ただし三首目には異伝があり、このまま夜を明かしてあなたを待とう。我が黒髪に夜の霜が降ったとしてもと歌っており、一夜を明かしてでも恋人を待つ気持ちを歌ったものとなっている。
そして、四首目は『古事記』の歌謡としても登場しており、それだと「山を尋ねる」のではなく、山たづ(造木)の葉のように迎えに行こうか。それとも待っていようかという解釈になる。山たづ(造木)とは現在の合歓の木のことであり、葉が合わさっているからとも、神迎えの神木として用いられるから「迎え」にかかるとも言われている。
この四首は起承転結構造を持った巧みに構成されたものである。従ってそれぞれ成因の異なる歌を磐之姫歌として集められたものであろう。
ここで左柱は磐之姫についての説明を前半で行っており、後半は四首目と同じ歌謡が出ている允恭天皇の時代の軽太子と衣通大娘の伝承を紹介している。磐姫皇后は、四世紀頃に実在したとされる仁徳天皇の皇后であり、葛城氏の出身である。左柱と同様の伝承は『日本書紀』や『古事記』に記載されている。
左柱の意味は、『古事記』と同様であり、磐姫が熊野まで祭りのための草木(御綱柏)を採りに行って宮中が留守の間、仁徳天皇は八田皇女と結婚しようとした。帰りがけに知った磐姫はひどく恨んだ。と言っている。『古事記』ではその後、山城の国の筒木の宮に入り、天皇の迎えを拒否してそのまま死んでしまったとある。史実としては、葛城氏の衰退を示していると言われているが、伝承としては非常に厳しい磐姫の嫉妬の様子が描かれたものである。
また、允恭天皇の時の事件は、同母兄妹で恋愛は禁忌であった軽太子と衣通大娘の姦淫事件であり、明るみに出て、伊予に流罪になった時のことを示している。『古事記』に掲載されている歌謡はいずれも橿原の軽地方の歌垣歌であると考えられ、挿入されたものである。万葉集歌とは同根と見られる。これも史実としては允恭天皇の後継者争いの事変であるととらえられるが、同母兄妹の悲恋物語として描かれている。
相聞歌の代表として磐姫皇后が作者に仮託された理由は、記紀の伝承にあるとおり激しい嫉妬の持ち主であるということから来ている。古代において嫉妬とは愛憎の裏返しであると見られていたからである。またこの歌群は、『玉台新詠』などにみられる閨怨詩の影響を受けているとも見ることが出来、当時の恋愛歌の主題ともなっていたものであろう。
また磐姫皇后が巻二冒頭の重要な位置を占めるに至った理由に、光明子立后との関係があるように思われる。光明子は周知のように聖武天皇の皇后として有名であるが、藤原氏の政略として当初聖武天皇即位前から嫁していたものの、聖武即位に当たって、時の首班である長屋王から皇族ではないという理由から、立后の反対を受けていた。そこでわずか一歳で逝去した光明氏の長男基王の早逝理由が長屋王の呪詛であると藤原氏は嫌疑を掛けて自尽に追い込む。この長屋王の変と呼ばれる事件の半年後に光明子は立后する。立后に当たっての宣命には以下のような一文がある。
かにかくに年の六年(むとせ)を試み賜ひ使ひ賜ひて此の皇后(おほきさき)の位を授け賜ふ。然るも朕(わ)が時のみには有らず。難波高津宮御宇大鷦鷯天皇、葛城曾豆比古が女子(むすめ)、伊波乃比賣命皇后(おほきさき)と御相坐(みあひま)して、食す國天の下の政を治め賜ひ行ひ賜ひけり。今めづらかに新しき政には有らず。本ゆり行ひ來し迹事(あとごと)そと詔りたまふ勅(おほみこと)を聞きたまへと宣る。(『続日本紀』天平元年八月二十四日 光明子立后の宣命)
光明子を六年間試み使ってみて、落ち度もなかったので皇后の位を授ける。そもそも人臣で皇后であった前例として磐姫皇后の例があるので、初めてのことではない。という意味である。
光明立后の前例として磐姫皇后の例が引かれている。先ほども述べているように磐姫皇后も葛城氏の出身であるので、歴代皇后の中で唯一、皇族以外の皇后であった。ちょうど、 その頃に万葉集の原資料が形成されてきた時期と重なっている。従って磐姫皇后を広く強調し、周知する意味で、巻二冒頭という重要な位置に置いたのではないかと思われる。