貧窮問答歌

風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る
天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道 (巻五・八九二)


 貧者と窮者の問答になっている。前段は貧者を描いたものであり、後段は窮者を描いたものである。当時の庶民の窮乏を描く社会派の歌として紹介されることが多いが、文学作品として創作されたものという視点から読まなければならない。「堅塩」「糟湯酒」「麻衾」など一見困窮者の質素な衣食物のように見えながら、実はこれらは庶民には手に入らない高価なものである。「堅塩」は、現在でも伊勢神宮の御?殿で作られているように粗製塩をおむすび型に固めたもので、当時は朝廷の饗応に用いられたものである。また「糟湯酒」は暖を取るために飲まれるものであり、貴族も飲んでいたらしい。「麻衾」は正倉院の写経生に下賜されたと記録にもあるもので高価なものである。憶良は貧者の演出として用いているのであろうが、実態の認識に限界がある。
そして「しかとあらぬ ひげ」は栄養が足りず手入れも行き届かない貧粗な髭を描いているように見えるが、髭は身分あるものの象徴であり、或いは憶良自身の自画像であるとも考えられる。
 また陰惨な雨雪の「寒」と「飢」の描き方は、初唐の詩人である王梵や孟子に同様な情景があり、そこには儒教的な「仁」から見た苦悩があるので、中国文学に習った演出であると言える。
 このようにみると、貴族としての憶良にとって「貧」を描くには限界があり、実態を知らない憶良の文学的「貧」が描かれている。しかし貴族の体感する「苦」とは「愛別離苦」のような精神的な苦であり、庶民のような物質的欠乏による「苦」はない。そうした点で憶良の描く庶民の「苦」は、一歩進んだものと言える。
それに対する窮者の答えは、理不尽さを天に訴えるところから始まる。窮者の世界は徹底的に困窮のどん底にある姿である。人間として生まれたにもかかわらず人間以下の生活を強いられると説く。
 両者の描き方に共通しているのは、「衣」「食」「住」の比較であり、困窮の姿に相違はないが、その中で相違するものが一点だけある。それは両者の心の持ち方である。貧者は「我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ」と言っているのに対して、窮者は「父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て」と言っている。これを儒教的視点で見ると、貧者は孝養を尽くすべき父母に対しても稼ぎのないことを理由に自分より下位に置き、自分だけ飢えや寒さをしのいでいることを示しているのに対して、窮者は飢えや寒さを家族と共有し、父母を孝養を尽くすべきものとして上位に置いている。このことは極貧の窮乏状態にあっても、貧者の心のまづしさを示し、窮者は儒教道徳を守っていることを示していることを描いている。窮者のこのような描き方は、どのような状況の中でも仁孝を忘れない者が君子であるという論語の指摘に従った姿を示そうとしていると言える。
 このことは左注に「謹上」とあることと関係していよう。「謹上」とは誰に謹上したのかは不明であるが、貧者の心のまづしさと窮者の親に対する孝養の姿を対比させることによって、「徳治」という為政者のイデオロギーによる庶民の秩序の存在を保証しようとしたところにこの歌の目的があると言える。
 このように見ると、単に憶良は庶民の窮乏の在り方を為政者に訴えるという目的でこの歌を詠んだというよりは、困窮のどん底にあっても人間的な道徳を忘れない人々の存在を示すことによって、為政者に徳政の実効性を知らしめようとした文学的創作がこの歌であると結論付けることが出来る。